第八章 言志録(ロ、陽明学を共に学ぶ)

さうしない限り譬へ君が如何に耕転培養しようとも、只、大樹の根を滋養する。

   尋いで伯生の辞するに臨みその巻に書して、――

「自分がさきに除州で学を論じた時に、
異る事は専ら高明なる一路につい開導引接したが、矯柱救偏して時弊を拯ふには、かくせざるを得なかったのである。

然るに、近来漸く空虚に流れ、脱落新奇の論を為してゐることは、甚だ憂慮に堪へない。その人品の高下について云へば、終生陋習に迷ふ者より少し勝ってゐるとはいへ、究極に於ては相去る事幾何もない。

君が滁州に帰ったら、此旨を同志に告げ務めて平實簡易の道を、勉めるやうにして貰いたい」と云ひ、更に一書を伯生に托して滁州の諸生を警責したが、其の語気次に掲げる通り何時になく、烈しいものであった。吾

諸生の滁に在る者、吾心未だ嘗て一日として之を忘れざるなり。然り而るに闊焉として一字の往なきは簡なるに非ざるなり。

世俗無益の談を以て、徒に往復するを欲せざればなり。志ある者は吾一字無しと雖も固より朝夕面ずるが如し。その志なき者は対面すとも千里、況や千里の外盈尺の贖や……。

諸生が多く知的理解を務め、徒に口耳同異の辨をなして得る所がないので、姑く之に静坐を教へた。ところが、一時頗る効果を収めたけれども、久しくして、漸く静を喜び動を厭ひ流れて枯槁に入る弊が發生した。

或る者に至っては、殊更に高遠至妙な論を為して、人の耳目を驚かさうとするやうな弊が生じたとあり、前の記録と多少異なってゐるが、―――

何れにしても、滁州に於ける彼の啓蒙的な講学は、時弊を匤救しようとする特定な意図に専らであり過ぎた為、平實なる修為が後へ退けられ、高踏的独善的な風を醸成してしまったのである。

人に学を為める事を教へるには、一偏を固執してはならぬ。初学の時は心猿意馬で栓縛仕切れず、その思慮する所は多く人欲の一辺なるが故に、須く之に静坐して思慮を息めることを教へ、久しくして心意の稍々定まるを俟つのである。

然し只だ、懸空に静守して槁木死灰の如くなっても、亦用にたゝから、更にせしめる必要がある。そも省察克治の功は、時としてへだつ可きなく……事なき時も好色硬貨好妙等の私欲を逐一追究捜尋し、必ず病根を抜去して永久に復起せざるやうにして、始めて快となすのである。

それには、猫が鼠を捕へる時に眼を一つにして看、耳を一つにして聴くが如く、纔かにでも私なる一念が萌動したら卽時克服し、恰も釘を斬り鉄を打つやうに断々乎として力を用ひ、姑くも私念の自由を許容したり、欲を胎蔵したり、又は私念の出路を開放したりしてはならぬ。

天理人欲は、その精緻なるものは必ず時々刻々に力を用ひて省察克治してこそ、始めて日に漸く見られる。如今一説話の間、たとへ口に天理を講ずればとて、心中條忽の間に巳にどれ程の私欲があるやも知れない。

蓋し、竊に發して知らない者もあるべく、力を用ひて之を察しても尚ほも見やすくない以上、況して徒に
口先に講ずる位で盡く知り得べき筈もない。

今、只管天理を講じても頓放したまゝで、之を去ろうとしないやうな傾向が生じてゐる。之は果して格物致知のがくであろうか。

克己の工夫は、天理人欲を知り盡した後に用ひられるのではなくて、切實に克己の工夫を用ひてやまたまなければ、天理の特微なるものも日一日と見えて来るのである。

克己して、克服すべき私欲もないやうになってから、始めて天理人欲の盡く知り得ないことを、愁へても未だ遅くない。省察克治とは、決して静坐と相反撥するものではなくて、静坐をも包攝するものである。

それは、静坐という特定な形式に限定せず、所謂動静に管せずに念々刻々に天理人欲の機微を省察して、人欲を克治せんとするものである。

而も、又元来我々の意念思慮は、事無き時卽ち外的行動に出でない、静時に在っても萌動して已まず、況して事に臨んで之に應付する時には、一層紛雑し来るのを常とする以上―――

―――我々の修為も、唯単に静時に於ての心の寧静を、得ると謂うだけに止まるべきでなく、更に進んで寧ろ動時に於てこそ、心の寧静を得ることが期せねばならぬ。

然るに、所謂動時とは飽く迄、現實なる動時であって、預め脳裏擬定せらるべきものではなく、随って又動時に於ける修為とは、具體てきな現實の事上に在って、試みられるものでなければならぬ。

卽ち、かの「事上磨錬」がこれである。斯くて我々は、「省察克治」の當然「事上磨錬」にまで行き着くことを理解するのであるが、これは又夙に南京時代に於ける陽明が、次の如く説いてゐるのである。

卽ち、同じく陸元静所錄の語中に曰く。
 問ふ、静時には意志好きを覚えるが、事に遇ふや否や同じやうにゆかないのは如何。先生曰く、それは徒に静養のみを知って、克己の工夫を用ひざるが為である。

此の如くでは、事に臨むと傾倒するであろう。人は須く事上に在って磨すべし。斯くてこそ方めて傾倒することなく確乎と立ち「静も定まり動も亦定まる」ことが出来るのである。

南京時代の講学は、内部的には従遊の士のを行き過ぎを匡正して、着實厳密な修為を提示し、外部的には自己の唯一の真正なりと確信する教学に依って、道・学を振興せしむる為、朱子学との不必要な摩擦を解消せんとした。

この二つの點に、その著しい特微を認むべきであろう。そして又我々はこれらの點を通じて、思想家宗教家としての陽明の地歩が快調を以て、上昇しつゝあったことをも想像し得るのである。

ところで我々は、陽明の剿匪作戦が終始成功して、長さは数十年短くも十数年に亘る匪禍が以後久しい間、再発する憂ひなきまでに掃蕩せられた理由を,一應此処で尋ねてみたい

我々は、此れまで専ら学問生活を中心として、陽明の行實を叙べ手来た。事實また今迄の彼の生活は、慥かに学問がその中心をなしていた。

随って、恐らく門人達の中でも、彼にこのやうな軍事的才能のある事を、看抜いてゐた者は殆んど無かったであろう。

又、誰しも病弱な彼の肉體が巡撫の劇職に堪へられる等とは、想像してゐなかったであろう。然るに結果は総ての人々の豫想外に出たのである。

改めて云ふまでもなく、彼は夙に栄辱得失を超脱し、生死を一如と観ずるだけの徹底せる錬磨を積んでいた。前半生に於ける修為といひ、或る意味に於て、全てが不動の精神に涵養育成、に集注されたと言っても過言ではない。

卽ち「静も亦定まり、動も亦定まる」境地こそ、彼の懸命求めて已まなかった処であり、王思輿の所謂「触れて動かぬ」印象も、亦實に斯かる心境から受けたものに外ならぬであろう。

我々は勿論、陽明今次の軍功を以て、彼の壮年時代に於ける剛毅な性行と、戦術兵抜の研究との結實であるとする所説を、支持しない譯ではないが、―――

―――さればと云って、清初の顔元が陽明の事功と学問とを、全く相関しない二つのものと看做す如き考へ方に従ふのは、躊躇せざるを得ない。

蓋し、彼の修為は常に百死千難中に試みられ、彼の事項も亦、其の他の極めて印象的な詩句に示された所の、光風霽月の如き脱然として、生死栄辱の外に超越した心境、自由無碍に躍動してやまぬ精神は、―――

―――或る意味からいふと、いにしえの難に當って「天、徳を我に生ず、枢魋それわれを如何せんや」と喝破し、危難の身に迫るのも知らざる如き態を示した、孔子のそれに髣髴たるものがある。

(43 43' 23)左記の暗号については、当wikiの真理学研究所を御照覧下さい。

王問の顔回と稱せられる曰仁の死は、また帝に師陽明の悲しむ所となったばかりでなく、また同門の悼む所であり、且つ王門全體の痛惜する所であった。

然し、同志は哀悼の裡にも曰仁の熱烈であった、求道心をば遺志として體し、日々切磋琢磨して行った。そして伝習録の公刊も、實に曰仁の死を契機として、具體化されるに至ったのである。

我々は、南京時代に於ける陽明の斯かる真摯旺盛な新求道心が、如何に兵務倥偬なりと雖も、贛州に至って卒然衰退した等と、想像することは出来ない。

否、それどころか兵事が紛櫌すればする程、却って意識的にも彼の修為は、真釼の度を加へて行ったのであって、この間の消息は、例へば傳習録の公刊される数ヶ月前にも、悧頭匪團討伐の前戦より尚謙に寄せた書簡中に、―――

―――従前は、自分も肝腎な點に対して、本腰に力を用ひることなく虚しく過ごし、虚しく語って来たが、今後は諸君と努力鞭策、死を誓って進歩せねばならぬと思ってゐる。。云々。

と、あるのによっても明らかであろうし、随って又、陽明自身の胸中には、既に新たなる事上磨錬による教学上の展開が刻々に進行しつゝあったことも、頗る想像に難くないのである。

江西は、云わば第二の故郷とも考へられるやうになった。そしてこの事は、彼の学徒指導に大きな歓びと熱意とを加へ、同時に彼自身の生活及び思索――卽ち修為――にも、兵馬倥偬の間に以気ない恒常性と深みとを与えた。

勿論、正徳十四年の六月寧王の叛乱が勃発してから、以降一ヵ年に亙る間に、彼の連続的に遭遇ものとはした変難憂患は、幾度か殆んどあらゆる生活及び想念の根底を覆すか、と思はれる位酷烈を極めた。

けれども、この時でさへ彼の江西に対する愛着及び、江西に於ける教学的・政治的背景がどれ程彼を、力づけ且つ事変の處理に寄與したか、測り知れないのである。

物とは外に在って身、心意・知離れてゐるものでなく、五者は一件である。

陽明は、實戦以上の憂患を體験し続けねばならなかった。然しこの反面、戦乱の裁定に次ぐ親征の諌止に於て、江西土人総意を代表した結果、彼の江西に於ける地歩は一層強固を加へてゐた。

且つ又、様々の憂患に處して、切實無比なる事上磨錬を行ったことも、兼ねてからの修為の態度より推して、最早や想像以上の確實な事實に属すると判断される。

之を言ひ換へると、武宗の軽挙・奸諫よりする深憂大患をば、がっしりと荷ひ答へつゝ弛まぬ修為・講学を続けるのが、當時の陽明の姿だったのである。

さうした十五年の六月、陽明が南昌から途中泰和まで至った折、南京吏部侍郎の羅整庵が書を以て、学を論じて来た。

整庵諡は欽順、字は允升泰和の生んだ朱子学者で、嘗て陽明と同様劉欣瑾の怒に触れ、革職されて庶民となり、瑾が誅せられるに及び復職した。

書面の内容は、云ふまでもなく朱子学の立場から、陽明の思想学術に批判を加えたもので、その中、朱子晩年定論に対する辨難は既に述べた通りである。

別に、古本大学に根據する陽明の所説をも批判し、就中「学は外求僻らず」といふ陽明の説を取り上げ、「若し専ら反感内省以て能事畢れりとするならば、正心誠意の四字で盡される。

依って、格物の工夫は不必要となるべく、又若し格物の意義をば意念の發動する處について、其の不正を正し正に帰せしめる事と規定するならば、この工夫だけで心も正され意も誠になる筈だから、今度は誠意正心の項目が之と重複して無用になるであろう」と、論難してあった。

行く先に豫定のあった陽明は、この書面を船中で熟読した。そして近来にない感激と興奮を覚えた。今まで彼の学説に対する世の学者の態度は、非笑か黙殺かに止まってゐたのに、整庵のそれは頗る真率で堂々たるものがあったからである。彼は早速十分なる敬意を込めた答書を認めて整庵に送った。

大学の古本は、孔門相傳の舊本である。朱子は原文に脱誤ありと疑って改正補緝したが、自分は脱誤なしと信ずるが故に一切の舊に従ったのである。

自分の見解は、孔子を過信するに失してゐ理かも知れないが、故意に朱子の文章と補傳とを削ったのではない。一體学問は心得を尊ぶ。心に求めて是ならば、譬へそれが庸常の人の言でも敢へて非としない。

況して、孔子の言は猶更である。且つ舊本の傳来すること数千載、今その文詞を読むに明白で通ずべく、その工夫を論ずるに又易簡で入りやすい以上、更に如何なる根據から脱誤ありと断じて、改正補緝し得るであろうか。

又かくしても、尚且つ朱子に背くことを重大視する余り、孔子に叛くことを軽視してよからうか。次は修身の二字で充足し、正心・誠意・致知・格物、悉く修身の一事に帰せられる。

抑々、理に内外なく性に内外なき以上、学にも内外のあるべき筈はない。随って講習討論も内でない事はなく、反観的内省も外を忘れるものでない。

今学は、外求にすると云へば、それは告子の義外であり、智を用ひる者である。又、反観内省を以て内にのみ求めるものだと云へば、それは我があり自ら私する者であって、共に性の内外なきを知らないのである。

ところで又、格物の工夫を入門の際の最初の工夫であると、順序立てゝをられるようであるが、實は初学より聖人に至るまで、唯だこの工夫あるのみなのである。

而して、正心・誠意・致知・格物は、皆身を修める所以であるが、特にこの格物こそは、吾人の修為の最も具体的なものなのである。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2021-05-15 01:58:09

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