第一章 言志録(イ)

是非事をやるには、草莽でなければ人物なし、錦衣飽食美婦を擁し愛児を弄するが世禄の士の事業尊攘所ではなし。

一念静浄なれば、すなわち身は火抗の中に在りと雖もまた以って堪然たり。

欲を除くは外物の上にあらず、一念の微上にあり。

一念をば克復せば、すなわち天空海潤の気象なり。
  
学は自反するのみ、切に物と対をなすべからず、百般の病痛みな此処に生ず、それ物と対せざればすなわち、物なし物なければ、すなわち我なく物我混同してその感応の際ただ一箇の已むを得ざる心を盡すのみ。
                                            
怒りを懲らし欲を窒ぎ善に還り過ちを改む、此れ人生の第一義也。将に之を以って志を立つべき也。

修中自然に悟る之我が道の真悟也、もし修を外にして悟りを求むれば猖狂に流るるゆえん也。

克治の功夫によってのみ儒教の理想である、万物一体の仁が実現できるのであるが、真の克治は克治の念を捨てた所にある。
                 
意、誠なれば意なく、心、正ければ心なし。

天地、人物彼我の対立を絶したところにこそ、心理合一の絶対境、孔子の所謂「心の欲するところに従って矩を越えざる」儒教的自由が実現できる。

幾多の艱難辛苦を踏み越えて得られるものこそ、本当の己である。

偉大な事業も極悪非道なふるまいも、一念隠微の上に成り立っている。

事変には正しく対応する事が大切だ、正しく対応するには心が常に平静でなければならぬ、心が常静である為には神知をみにつけねばならぬ。

「廓念太公」心がからっとして、なんのわだかまりもなく少しのかたよりもない人物に。

学問をする者の第一の務めはもちろん心の問題にある、しかし見聞や思慮を退けたいという者があればそれは聖を退け知を捨てる事になる。思慮を退けようとして心の乱れを恐れる者があればそれは坐禅入定する他はあるまい、曇りのない鏡がここにあった場合万物は全てそれに映るが、それは鏡の常態である。鏡に物が映らないようにさせるのは難しい、人の心は万物に対応しない訳にはいかない。心に思慮させまいとする事は難しいものだ。

学ぶ者は内外ともに慎ましやかにすべきだが、窮屈にしてはならない窮屈にすると長続きがしない。

心が敬ならば四体は自然に収斂するし、特別に意を用いずとも四体は自然に伸び伸びする。

心が落ち着いている人は口の聞き方が重々しくゆったりしているし、心の定まらぬ人は口の聞き方が軽々しくせかせかしている。

心は澄んだ時が少なく乱れた時が何時も多い、澄んだ時には目も耳もはっきりし、手や足は無理に抑えずとも自然に慎ましくなる。心の乱れた時は反対だ、それは何故だろうか、心の用い方がまだ不十分で、ムラッ気が多く落ち着いた心が少ないからである。世間的な心が消えず誠実な心が完成していないからである。

戯言は何かと害あるばかりでなく、志も気に押し流される。戯言を慎むことも気を養う一つの道である。

正しい筋道と私欲は常に争っている、盛衰の割合を見て君子小人の区別を立てるだけである。筋道の得る分量が次第に殖えて来ると私欲が消散して次第に薄くなるのが自然に分る、私欲が消えた場合その人物は偉大な賢人である。

心に恥じる所がなければ、心身共にゆったりする。

軽薄な心を矯正し、怠惰な心を警戒する。

学問する者は、空元気の除去が第一だ「なごみの心は徳の基礎」。

君子は穏やかな内にも毅然たるものを持っているが、人から態度が強すぎるなどと批評されない為、態度を過度に穏やかにするような事をしない。

凡そ父母や客のあしらいに就いては出来るだけ物を整え財産の有無など考えるな、しかし親を養うに当たっては自分の努力や苦労を親に気付かせない事が肝要。養う事の難しさを親が見たら親の心は不安になろう。

怠りと恥かしがりの弊害が消えれば道理は延びるし、消えなければ弊害が常にいる事になる。

心がこせこせしていると何事も出来ない、昔気骨ある人は命を懸けて事を行ったが、それは必ずしも道を得た者でなかった。しかし、気概のない者にはそれができない、まして我々は道理がハッキリしているのだからどうして事を行なわないでいられよう。

人は心配事に遭った場合、何はさて置きそれを処理する事を十分に考え、落ち着いてそれに対処すべきである。人によっては事に遭うと絶えず気にかけて、容易に処理しようとはしないが、結局何の役に立つのだろうか?処理できず投げ出せば道を無視し、命を無視する事になる。

君子は物事を考える時、位を離れた考え方をしない。位とは現状に於ける本分である、全ての事柄にはそれぞれ位置づけがあって、その位置を得た時はそこに止まって安定する。(それと逆に)行くべきなのにぐずぐずして居たり、或いは過度になったり、或いは不足したりするのは、全て自分の位から外れる事になる。況して本分を越えたり拠るべからざるものに拠ったりするのは猶更だ。

「万物は皆我に備はる、身に返りて誠ならば楽しみこれに大なるは無し。」

貧賤に安じる事を口にする人は多いが、その実(富貴を求めても)行詰って力が出ず才能が劣って計画できないだけの事だ。もし少しでも動きがが取れたら恐らく貧賤に安じてはいまい、義理が利欲より楽しいと心から覚るべきで、そうなってこそ(貧賤に安じることが)出来るのだ。

世の中の事の中でひどく気になるのは、人の嘲笑を恐れる事である。車馬を持たず、粗末なものを喰い、粗末なものを着、貧賤な暮らしをすると誰しも人に嘲笑される事を恐れる。彼等には生くべき時は生き、死すべき時は死し、今日の高禄も明日には棄て、明日には飢えても心に掛けず、唯道のある所に従って行く、と謂った事が分からない。

朋友の関係も同じだ、我が身を修め心に偽り無き形で相手に応接せよ、こちらに親しむかどうかは向こうの問題だ。言葉を飾り顔色を良くし、ハイハイ言う事を聞いて人が自分に親しんで呉れるのを求めてはならない。近隣や親戚にしても(世間の)人々にしても同じことだ。これが三駆の際に前禽を失う事なのである。

後世では庶子から公卿まで至るまで毎日のように出世に心を向け、農工商は毎日のように金銭に心を向ける(このように)多くの人々の心はあちらこちらと利に走り、天下は乱れた姿になる。それにどうして(世の人心を)一つに出来ようぞ。乱れないようにと望んでも難しかろう。

職務上の仕事は、ずるく逃げてはならない。

よく些細な事から十分に精を出すのは、中々難しい。

貧困に処してこそ、修養も益がある。

学者の実践の工夫は、至難至危から試練すべきである。

好色好貨等の私欲を逐追求し、必ず病根を抜き去り、永久に復帰させないようにする事、そして僅かでも私念が崩動したら即時克服し、あたかも釘を斬り鉄を截つように断断乎として力を用うべき事。

心は、人の一身の主である、樹の根の如く、果実の蔕のごとく、最も先に心を壌るべからず、心に若し天理を存して道が存するならば、即ち事を行なえば全て好事であり、君子とはこのような人である。心に若し仁欲を存し私意を持つならば、好事を行なわんとしても、結局締め括りがなく外面を繕い人に好かれんとしても、人に看破される。

凡そ人たるものは、心地あり、心地よければ是良士、心地悪ければ是凶類也、たとえば樹果の如く心は蔕なり、もし蔕は壌れば果は必ず落つ。

爾等父母子師弟新民の旧悪を念ってその善をともにせざることをなかれ、彼の一念にして善なれば、即ち善也。自ら良民たるをたのんでその身を修めざることなかれ、爾の一念にして悪なれば即ち悪人なり、人の善悪は一念の間に係る。

猪をおとなしくするには、牙を制するよりは去勢せよ。

先王の世では、道に従って天下を治めたものだが、後世は法によって天下を持つだけの事だ。

物を包み込む度量で果敢に行なう。

心が正しくなってこそ天下の大事は、それに依って治める事が出来る。

さっぱりすれば欲心は起こらず、調和すれば苛立ちが無くなる。(聖王の心が)落着いて調和の取れているのは、徳の立派な姿であり、世人が成化を受けて調和するのはこの上もなく治まった形である。これを(聖王の)道が天地配合するというのであって、古き時代の音楽の極致である。

周公は至って公正で私心を持たず道に従って進退し、心が利欲で覆われていない。身を修めるには慎ましやかで自分を抑制する心を持ち続け、誠を持ち続けるには広々とした心で神経質にならないようにする。その為危険な目に会っても聖人の徳を失なわなかった。詩教にこうある「位も徳も外には出さず赤靴が落ち着いている。」

ものを言う時には遠慮にボソボソ言わないで、如何なる場合もはっきり言え。

ものを言おうとしてはっきりしない、といった話がその時出た「口を開いてものを言うべきならば、相手の首が欲しい場合でも、それとはっきり言うべきでその言葉を聞く時、明確だという風でなければならない。」

人は大きい事物に対しては全力を投げ掛けるが、小さい事物には力を抜きがちである。その為に失敗する事もある。又大小の差はあっても事柄にしては同じなので、誠意を以って当るべきである。

重大な任務に当ろうとする時は、真面目でなくてはならない。「篤実ならば力量が深く、考え方が緻密なので大事に任じる事が出来る。」

人は仕事の多いのを嫌がるし、人によってはそれで心を暗くする。仕事は多くとも全て人がすべき事柄である。人のすべき事柄は人にさせなくて一体何にさせようとするのだろう。

感情に激して命を捨てるは容易だが、ゆったりした気持ちで道に従うのは難しい。

若い人達の色々な趣味は全て志を奪い取ってしまう。書道となると儒者のする事に最も近い、然しそれのみを好むならばやはり志を失うことになろう。書家と謂った人々など真に立派な人物に違いない、しかし書の上手な者が道を知っていた事等あってあっただろうか?平生の精力が専らそこに用いられるなら、それは時間の空費になるばかりでなく道の上でも妨げになる点が出よう。

吾人の良知を致して事を行なえば、凡そ天下の事に於いて皆心その宜しきを得て、自ら省に少しも愧怍する事無く、快然の時は浩然大綱の勇気生じ来って万事に流行って、少しも恐懼ことなく、もしくは大国もしくは天下の政事に預かると雖も、少しも動転することなし。

志士仁人は、生をを求めて仁を害することなし。身を殺して仁を成すこと有り。

雑念妄想を相手としないで、只良知を致すことに心を向けよ。

吞舟不遊支流(どんしゅうのうおは、しりゅうにあそばず)古典史記に、船を呑込む程の大魚は小さな川で泳いだりしない。此の意味は、大成すべき人物はつまらぬ処で道草を喰ってはいけない。

人生の大病は、只是一の傲の字也。(人の一生の最大病根は、傲<おごる>の一字に尽きる)=悪、(尊大)(傲慢)。

人の性格が強すぎると和合の道を失い、孤独に成らざるを得ない。強い性格はなるべく抑えるべきだ。

昔の人は、必ず40歳になってから仕えるようにさせたが、そこで始めて本人の志が決まる。その間、衣食を求めるだけならば無害だが、財貨と地位の誘惑は最も人に害がある。
                                             
人君が身の危険や滅亡を招く道は、一つでは無いが、快楽によるものが多い。

もし利を得ることに急で、私心に覆われ、自分の得を求めて人に損をかけるなら、人もこちらに懸命に争おう。故にこちらの利を増してくれようとする者はなくなり、こちらを攻撃して利を奪う者が出て来よう。
           
人が頑強に片隅に止まり、世間誰一人仲良くして呉れる者がいなかったら、その人は動きが取れず不安な心になり、胸を焼かれる思いであろう、どうして心がゆったりする道理があろう。

洪水を治めるには、天下の大仕事である。この上なく公正な心を具え、自分を捨てて人に従い、天下の意見を十分に尽くさせうる人物でないと成功できない。お上の命令に背き、同輩の心を踏みにじる人間に、どうして出来る事があろうか。鯀は九年かかっても成功しなかったが、その仕事ぶりは他の人が敵うものではなかった。且つ仕事に目鼻がつきかけたので、自負心がいよいよ強くなり、勝手な事をして同輩を踏みにじる事が、益々酷くなった。そこで一般の意見が隔絶し人心が離れてしまった。つまり彼の悪い所が益々ハッキリして結局は成功出来なかったのである。

人は欲がある時、心の強さがない。心が強ければ欲に屈しない。

広く天下に通じる事柄であっても、私心を抱いて行うならば、それは私事になる。「道の外には物がなく、物の外には道がない。つまり、この世界には何処へ行っても道でないものはない。」

人が過つ場合は、それぞれ自分の性格に似たところでする。君主は常に人情の厚い点で失敗し、小人は人情の薄い点で失敗する。又、君主は愛情の点で過つし、小人は残忍な点で過つ。

人は外物・衣服・飲食物・住居で身を養う場合、一事一事について立派さを求めるが、自分に一つしかない大切な身と心については立派さを求めない。外面の物の立派さが得られたとしても、自分の身と心の方が既に悪くなっている事に気づかないのである。

人は特性として天理を心に備えているのだが、しばしば人欲に覆われて、その力を十分に発揮できない。

徳の小さい人間や、度量の小さい人間はこれを小として、軽蔑してはならない。彼等の性格は元々悪でない。

人が天から受けた性に従っていく、性は心にあるので心の問題がそこに出てくるし、世のすべての物にも天理が具わっていて、人はそれに従って行かなければならない。心の内外の問題が常に眼前に展開し、それを処理していく、そこに儒教の儒の教えがある。

人は、只我儘に自分自身の上で、考えるものだから道理を見るにしても、それを小さく見てしまう。身体の束縛を解き、全て万物の中から、周到に見るなら大いに快活に開ける。

性格に刺々しさが無く、理屈ばった事は何も言わず、修養を重ねていけば立派な人間になる。

心は広々してるが、それを押さえるものがあって、だらしなくならない。

周茂は胸中がさらりとしていて、のどかな風や晴れた月に似ている。政治方面では、注意がよく行き届いており厳格であり、思いやりがあって、道理を尽すのに努力した。

伊川先生は、明道先生の行状記を書かれたが、それにこう述べてある。
「先生は、生まれつき優れていた上に、心の養いに筋を通した。その為、心は精錬した金のように純粋であり、良質の玉のように温潤である。そしてゆとりの中にも、きちんとした点が有り、和やかであってもそれに流されない。真心は金石を貫く程であり、孝悌の心は神に通じる程である。」

先生の様子を見ると、人に接するときは、春の日の温かさに似ているし、言葉を聞くと人の心に入るときは、時にかなった雨が大地に潤すのに似ている。胸中はからりとして、奥底まで見通せる。学識の深さを計ろうとすれば、広々として果てしない大海のようであるし、徳を究めようとすればいくら美しい言葉でも、まず形容するに不十分である。

先生は身を修めるについて、心は敬から離れないようにし、実践には思いやりを用いた。人の善行が身に付くとそれが自分から出たように思い、自分の嫌な事は人に行なわず、広々した所にいて大道を行なう。言う事は具体的だし行動に乱れがない。

曲がった怪しげな説が先を争って起こり、人々の耳や目を塗りつぶし、天下を汚濁の中に引き摺り込んだ、才知に優れた人でも見聞になずみ、自分を失ったまま生涯を過ごして、自らその誤りを悟らない。それは全て正しい道の雑草であり、聖学の入り口に立ち塞がるものである。それを押し退けてこそ道に入れる。

先生が人を教える場合、知を致す事から止まるを知る事に至るまで、意を誠にする事から天下を平治するに至るまで、灑掃応対から理を窮め性を尽くす事に至るまで、きちんと順序を立てた。そして世間の学生達が近い所を捨て、遠い所に心を走らせ、低い所に居ながら高い所を望み、その為に軽々しく自分を過大評価して、結局はよい結果の無い状態にあるのを憂えた。

先生が人に接する場合、その人の是非は弁えるが、その人を退ける事をしない。先生の心の動きは相手に十分通じた、それで人を教える時、その人は楽な気持ちで従ってくるし、人を怒ってもその人は怨まない。賢愚・善悪の別なく先生は全て相手の心を摑んでしまう。

狡い者も真心を先生に示すし、粗暴で高慢な者も先生を尊敬する。遠くにいて先生の風格を耳にする者は、心底から感服するし、近くにいて先生の徳を目の当りする者は、すっかり惚れ込んでしまう。つまらぬ人間が先生と向きが違う為に利害を考え、その為先生は時には排斥させる事があったにしても、排斥した人間が公務を離れて先生の私生活を見る時(それが立派だったので)先生を君子にしない者はいなかった。

先生が政治を行なう時、人を悪を罰するのに寛大な心を以ってし、繁雑な事の処理にも心にゆとりがあった法令が繁多な時に、他の人と一緒に法文に照らして責任を逃れるような事はしなかった。人々は全て障害の心配をするが、先生は余裕を見せて処理するし、人々が難しいと心配する事も、先生はさっさとやって除けた。

先生少くして大志あり、而して深純浩博にして涯癸の見るべきなし。これに親しむ者は、痴愚賢否となく皆覚えずして敬愛慰釋す。

慌しい時にも、声や顔色を変えなかった。監察官が争って厳しい調査をする時、先生に対する彼等の扱いは、概ね寛大であったし彼等が何かをしようとする時、先生を頼りにしたものだ。
「明道先生は坐っている時、土製の人形のようであるが、人に応接する時は全く和気の固まりである。」

明道に接した者は、柔らかい雰囲気に包まれるし、伊川の場合は厳しさが感じられる。明道の学問が包拙的であるのに対し、伊川のそれは思考的である。

明道先生は、徳が十分に具わり、和やかな気が全身に溢れていなさる。心は伸びゝとして思いやりがあり、いつもにこにこされていた。私は30年も先生のお側にいたが、怒った様子は見た事がない。

「漁然心釈」さらりと心が溶ける、心に凝滞がなくなる。

唯一の境地に到達された状態は、異端が一時に立上っても、それを変えられないし、聖人がもう一度出て来てもそれを変えない。先生は十分に修養なされたので、和気が充実して声や姿に現われていた。しかし達人から見ると崇高の御様子で侮れない。何か事に会うと余裕を以って行い、落着いてあくせくしない。しかし真心や親切心は持ち続けられた。

先生は気質が強く徳が立派で容貌は厳しい。しかし、人との交際では久しくなるにつれて日々に親しさが増した。

学に志せば、富貴・貧賤・患難のため心を動かされず、異端邪説のために搖奪せられず、これ工夫を下すなり。三十に至り然る後能く立つ、既に立つ。

此の心もし正ならば、福ならざるはなく。此の心もし邪ならば、禍らざなるはなし。

その容、脩然たり、その気弔然たり、その心淵然にしてしかも素也。(物事に捉われない様)(落着いて平然としている様)(奥深くて静かな有様)(現在の状況に応じて行く)

自信・決意・勇気・精力などで、心を一杯にして置けば恐怖などのいる余地はない。
とにかく武士という者は、しょげかえってくたびれた様子をしているのは駄目なので、勇猛突進し、全てのものに勝ち捲る様な気持ちでなかったら、役に立ちはしない。

正気でいては大仕事を達成する事は出来ない。気違いに成って死に狂いするまでである。

大変な困難に出会っても、気を転倒させないと謂う位ではまだまだ未熟な段階である。大きな変事に出会った時は、大いに喜び勇んで突き進むべきである。これは一つの超えた所である。

大切な場所へ出る時は、耳朶に唾をつけ深呼吸して、在り合せの品を突き倒しながら出掛ける事だ。これは秘伝と言えよう。又、上気した時耳に唾をつければ、忽ち元へ戻るものである。

万事だらだらしたものは、十に七つは悪い事だ。武士は物事全て手っ取り早くやる必要がある。心持が狼狽えている時は思案も中々決まりが付かないものだ、こだわりなく爽やかに凛とした気持ちになって居れば、七呼吸の間に判断が付くものだ。落着いて吹っ切れた気持ちなって思案するのである。

徳が備えた人は、胸中にゆったりした所があって、何事によらず忙しそうな様子が見えない。小人物は静かな処がなく、人とも争いがいつも付きものである廻る。

大事業をするには、僅かな欠点など気にしないものだ。

一念一念と積もり重なって行って、詰まりそれが一生と成るのである。

侍ともあろう者は、出世競争のまっただ中、利害打算の渦巻く地獄の中にさえ飛び込んで、主君の役に立つべきである。

先生の学問は融貫して温故知新であって、青浜大海の如くであり、心に根差して言に現われ、おのずと然るべき時に出されて、窮める事が出来ない。自然で飽きられず文があってしかも条理がある。それでは誰も無駄だとする訳にはいかない。先生のこの書物は、過去にもなく将来にもなく、後に学者が現われても二度とこのような書を著わす事は出来ないであろう。又先生は少壮から老年まで和柔一筋で、大同して無我、新奇な面白い行動もない。

心学は必ずしも陽明学の独占するものではないが、既成の道徳体系に順応するのが真の人間たる道でなく、むしろ所与の道徳体系をみずからの心(良知)に於いて根本的に検討し直し、客体確立の第一要件たる事を、教えるに最も明確な指針を与えるものは、陽明学であろう。
しかし、近渓の心火は単なる読書によって、直ちに鎮静しえるほど微弱なものではなかったし、陽明の良知の説にしても、単に安易な結論に満足すべきを教えるものではなかった。
燃える心火を外部から消すのではなく、火そのものの自己調節として覚悟しない限り、火は何かの事象に触発されれば、いつでも燃え始めるであろう、それでは不安の絶える時はない。心火を制するのでなくして、心火を人間の本具する心力の自ずからバイタリティーとして掌握してこそ、始めて心は活きた安住を得られるのである。

その日ぐらしの事務処理で満足し、国策の貧困、人民の窮乏など眼中になく、ひたすら栄進の機会を待つに過ぎない官僚が、行き着く先に充満していたのである。

天下の道路には、大小の石ころがごろゝしているし、天下の河川には縦横に難所がある。だが巧みに車を推すものが車輪をぶっ飛ばせば、石ころも邪魔にならぬし、巧みに舟を操るものが竿さばきを上手くやれば、難所も障碍にはならなぬ。雑念とか忿怒とかいうものは、みな前日は後日の事を説いているのだ。工夫の緊要は、目前を論じさえすればいいのだ。車も推しもしないで豫め道の険しいのを心配したり、舟を動かしもしなで、前以って難所のあるのを恐れるのは、路が吾人を苦しめるのではなく、吾人が自分で苦しんでいるのではないか。

心斉の理想は、仕える時は帝王の師となり、民間に居る時には天下万世の師となる事にある。孔子の生き方にその理想を見るのであって、伊伊伝説のように単に賢臣として、君主に仕える事を求めない。

心を功名富貴を軽んずる事に置くものは、その流弊父を無し君を無するに交わる。心を功名富貴を重んずる事に置く者は、その流弊父と君を弐するに至る。

善は固より性なり、悪は性にあらざるなり気質なり。その気質を変ずれば即ち性善なり、清みたるは固より水なり、濁りたるは水にあらざるなり、泥砂なりその泥砂を去れば、すなわち水清めり。

本体即工夫の論、人間はつらつたる生機を発現すること言葉ではなく、黙して本体に直入すること、一切の世事に執着せぬこと、要するに人間の本来の姿を直覚せよ。

中行の聖人に到らぬ我々は、むしろ狂者、狷者の道を選びそこから中行に達すべきであり、世間に媚びて形だけ円満な行動をとる郷愿を、最も避くべしとする。

中庸を得た人(中行)でなければ、進取的で大きな志を持つ狂者か、片意地なほど固く義を守る狷者がよい。

表面は徳のある人に見え、内実は八方美人の俗物である、郷愿(愿は善、村で良い人と言われる人物)は徳を損なうものだ。

聖人の学は窮屈で堅苦しいものではない。道学者のような真似をしないがよい。

狂者、狷者、郷愿のうち、郷愿は最も憎むべく、避くべきものであることは、いうまでもないが、龍渓は、狷者よりも狂者を好んでいる。琴をかき鳴らして先輩の言に無頓着であった、曾點の有様は将に狂者の風であった。規格外れた所から出発して、狷者のように規格を厳しく守り、固くなることなく、大きく伸びて行くのが狂者であり、龍渓は所謂狭い倫理的な正しさを超えて、道や良知の中に身を委ねて、常に大らかな心を持するという、いわば宗教的な心情に到達していた、と考えてよい。

大人は、天地と徳を同じくするから、天の意志に先立って行なっても天に違背しないし、天の意志を知って行えば、天の時運に適合している。先天的に与えられた、本体たる良知(心体)を涵養すれば、後天的な流行である意欲は、自ずから正しくなる。

目は精を以て用ひ、口鼻は気を以て用ふるも、ただ耳は神を以て用ふ。目に開閉あり、口に吐納あり、鼻に呼吸あるも、ただ耳は出入りなし。仏家これを円通観と云い、順境あひ対す孔子は、五十にして天命を知り、よく太虚と體を同じくし、方によく虚を以って世に応ず。声の入る所に随ひ、これを聴くに耳を以てせずして、これを聴くに神を以てし、更に好醜簡擇なし、故にこれを耳順と云ふ。此等の處、更に技法なし、ただ是終始志を一にし、渣滓を消盡し、前塵あるなくして、自ずからよく神の用は方なく自ずからよく順逆を忘る。

千古の聖学は、ただ一の知の字これ盡せり。知はこれ天地万物を貫徹するの霊気なり、吾人は日間欲念慌惚し、或は捁亡するに至り、夜間雑気紛擾し、或は昏沈するに至れば、便ちこれ晝夜に通ずる能はず、便ち天地とあひ似ず、便ち萬物とあひ渉らざるなり。時時良知を致し朝に乾し夕に惕し、欲念の擾すところ昏気の乗ずるところとならずして、貞明息まざれば、方にこれ「晝夜の道に通じて知る」なり。

晝夜に通じて自ずからよく天地万物に通じ、自ずからよく範囲曲成すこれを存する、これを神を存すと云ひ、これを見るこれを易を見ると云ふ。故に「神は方なくして易は體なく」これを「天地の道を彌綸す」と云ひ。これを「窮理盡性以て命に至る」と云ふ。かくの如くにして方にこれ晝夜に通ずるの実学にして、徒に理道を談説するのみにあらざるなり。

「先師軍中に在ること四十日、未だかって睡らずとこれありや」と先生曰く「しかりこれはもとこれ聖学なり、故人は息ありて睡なし」故に曰く「晦に向ひ入りて燕息す」と世人は終日擾々として、全く微天の渣滓に頼り厚味もて培養して、方に一日の用にたらし、夜間は全く一覚熟睡に頼りて、方によく休息す。この一覚熟睡陽光盡きて、陰濁の陥するところとなり、死人の如くと一般なるを知らざるなり。もし燕息の法を知れば、晦に向ふ時に當ては耳に聞ゆるなく、目に見ゆるなく、口に吐納なく、鼻に呼吸なく、手足に動静なく、心に私累なく、一點の元神と先天の精気とあひ依りあひ息ひ、爐中の種火の如くあひ似たり、これを後天の昏気の養ふところに比せば、いずくんぞただに什百なるのみならんや。これを晝夜の道に通じて知ると謂う。

物事を処理するのに、隅々まであまり細かく調べることはよくない。

今の世人、これを浅くしては聲色臭味をなし、これを進みては富貴利達をなし、これを進みては文章技芸をなす。又、一般の人あり都て理合せずして却って学問を談ず。われ総て一言を以てこれを断じて曰く、勝心なり、と。

堅物で融通のきかないのは、誠実でも小人物なのである。

善く学ぶ者は、関所と渡場のごとし。みだりに人の過を放つべからず。

天下にもし着実の師友なければ、おのおの己が見に執するにあらずんば、便ちこれ情を恣にし欲を縦にするなり。

介甫は人品清高一切の勢利他を撼るも動かされず、ただこれ学を知らず、所以に己れに執すること、いよゝ堅く天下を害すること尤も大なり。

道は玄酒の如し、天下の至味ここに存す。滋味あれば便ちこれ欲す。人は淡きを好まず、却ってただ鬧熱の心なり。

算穏の人は好し、しかれども又無病病を生ず、勇往の人は好し、しかれども又一概し去り了る。しかれども勇往を欲するの人やゝ好し、算穏の人は救ひ難き者あり。

算穏の人は狷に似たり、勇往の人は狂に似たり、算穏の人は過ち少なく、みづから以てこの身を安頓すべし謂へり、未だ嘗て必ず聖とならん人との志あらず、須らく他を激動すべくして始めて肯て心を発せん。しからざれば郷黨おのずから好しとする者と成るのみ。救ひ難きゆえんなり。勇往の人は過ち多しといへども、却って聖とならんとの志あり、もし肯て念に克ち慎みて修めば、便ち中行に幾かるべし。孔子は狂を思ひ、已むを得ずして次いで狷に及ぶも又、この意なり。

良知は学んだり考えたりして、得られるもではなくて、本来人間の心に備わったものである。

古人は精神、閒用せず、做ざればすなわち已むも、一たび做せば便ち徒然ならず、所以に事を做し得て成る。須らく一切蕩滌して一些をも、留むる莫かるべくして方に得ん。

精神凝聚せざれば、即ち事を成す能はず、今精神を凝聚せんと欲せば、更に功法なし。只一切の閒に精神を浪費する事を将て、徹底して些子を留むるならしむるのみ、悉く全體完復するは此処にあり、機に触れて応ぜば事成らざるなし、此れを「薄博淵泉にて時に此れを出だす」と謂ふ、故に曰く「心の精神、此れを聖と謂う」と。

今人は、概ね快活を以て学となし、快活は辛苦の中より来たるを知らず、根基始め実にして始めて虚見に渉らず古にいふ「一番寒さの骨に徹する事あらずんば、爭で梅花の鼻を撲つの香を得んや」と。此の言以て道を喩るべし、僅かに厭ふの心あれば便ち是学を廃する也。

良知は色々考えたり、殊更作為的にするのではない。

良知は本来明らかなものであり、この良知を、そういうものだと悟った瞬間にもうその良知は、そのまま発現されている訳で、修業の結果として良知があきらかに成ったり、その発現が正しく成ったりするのではない。

人、大志あるを要す常人は聲色富貴の閒に汨汲し、良心善性都て蒙弊せられ了る如何ぞ便ち有志を解せんや、須らく先づ知識あるべして始めて得ん。

志を立てる事を第一とし、それはあらゆる世俗的なものから離れて、生々たる真の生命力に根本を置く。

世俗的生活にあくせくする事よりも、広い江湖で自由に振舞う(世俗から離れて、真の心の自由な世界に暮らす事)の方が良い。

志には富貴、巧名、道徳の三種があるが、淡薄な道徳に志して、浮華な功名富貴を捨てる事が大切だ。なき

嘗て静中に於いて内照し、恍惚変幻し言わんと欲して、その言う所以を忘るるに似たり。形軀は水晶の如く己を忘れ物を忘れ天を忘れ地を忘れ、空虚と同體し即ち真まいの境象なり。

日閒神思清明なれば、夜間夢も又安静也、日閒神思昏迷倦なれば、夜間夢も又労壕す晝を知れば即ち夜を知る。

今人、都て静坐を説くもその実静坐の行持甚だ難し、昏沈にあらずんば即ち散乱す、念、着する処あれば即ち方所に落つ、もし着する処なければ即ち頑空を成す、この中須らく機竅あるべし。執せず蕩せず無中より有を生じ、有にしてと滞らず、無にして空ならず、玄珠の象なきが如くにして方に此れ天然の消息也。

「息」(呼吸)を調えて心気を鎮静安定させる事が、極めて重要な修養法となっている。「息」の方法には四種の相がある。
静坐の時息遣いに音を立てるのが「風相」、音はないがスムーズにいかず、つかえるのが「喘相」、音もなくつかえる事もないが、細くないのが「気相」、音もところになくつかえもせず、荒くなく細く長くあるかなきかに続き精神が穏やかで、心喜ばしいのが「息相」、である。
そして前三相は、不調相、仮息、最後の「息・相」、のみが調相であり「真息」である。
静坐を習する時はこの調息が入門であり修養上の権法だという。調息は数息と異なって無意であり、心を虚無に任せ不沈不乱になる。息が調うと心が安定し、心が安定すれば息は益々調うという相互依存の関係があり、それによって天地の造化停育と一つに成る。
この「息」は儒・仏・老荘の三教の根本を規範付けるもので、儒の燕息・仏の反息・老の踵息が造化の玄枢である。
いい
男子は、天地四方を以て志と為す、堆堆として家に在りてこの生を了るべきにあらず。

人の身体で、不動の部分が「背」心を不動の所に留めて置くと、その身体の動きにも動かされず、人の居る庭に行っても人が目に入ってこない。

本体は動静によって変化しない、動静は時によって観られる心の表面の変化に過ぎない。

良馬は鞭影を見るのみで走る、同様に良く学ぶ者は
師の実際の鞭を受けずとも、その鞭の影を見て自ら悟る。

古より聖賢は、豪傑の人を須ちて做す、然れども豪傑にして聖賢ならざる者も又これあるべし、或は気魄に任せて承當し或は知解によりて領会し、或は名義により恃みて以て清修となし或は玄詮をかりて負ひて以て超悟なし、或は末学の卑陋をやしみ侈然として自ら以て高しとなし或は菖見の通融を誇り、充然として自ら以て足れりと成す。種々の技量ここに一あれば、みな道を障ぐの因となるに足る、これ豪傑の病なり。

熱さを苦にして逃げるより、苦にする心を去るならば、直ぐに涼しくなるだろう。貧乏退治は容易くないが、貧を苦にする心を去れば忽ち楽になるだろう。

王陽明が説く、腹が減ったら飯を食い疲れたらグッスリ眠れ――と。自然に随う所即ち道なりの意だ。

詩の妙旨を説いては「眼前の景致、口頭の語」――と。至極の高趣は平凡に在り、作為ある者は真実に遠く、無心の者却って道に近しの意だ。

人間とかく執着さえなければ、俗界そのまゝ仙郷となり、忽ち欲が起きたなら楽境変じて苦海と成るのだ。

筏に乗ったら捨てるがよい、心が仏と悟ったら仏探しはもういらぬ。立派な駿馬に乗りながら駿馬を探すはうつけ者。

暑苦しい世間の中にも、冷ややかな心の目を覚まして、じっと客観するゆとりさえあれば、余程苦しみを除く事ができる。落ちぶれ果てたどん底でも、何ものかに向って烈々と燃えるものが常にあれば、そこにはえも云えぬ趣きが生じる。

般若の真空とは空っぽの意でない、形に執着するのも迷いなら、形を無視してしまうのも迷い。仏様よあなたの思召しは如何ですか?先ず試みに拙者修行のところをお聞き下さい。
俗人の欲に従うのも苦なら、出家の欲を絶つのも苦、拙者は欲に従わず、欲を絶たず、淡として常に楽しむのみ。

迷いと云い悩みと云うは、物の上にあらずして、只、自らの心にあり、三畳敷の住居でも欲と心配を捨てたなら、どんな御殿に住むよりも心の内は極楽じゃ。

物を支配して生きる者は得しても喜ばず、損しても悔まず至る処悠々闊歩して、少しもこだわる処がない。対象に支配されて生きている者は、これと全く反対で、調子がよければ喜び、悪ければ悔み、和束の事でいつも泣いたり笑ったりする。

道心の定まらぬ中は、みだりに世に出るな、むしろ欲しいものを見ても心を乱さず、静かに吾が天真を守るがよい、既に心が定まって大丈夫の域に達したら、世の中に出て交わるがよい。そして――欲しいものを見ても決して乱れないようにし、心の円満な働きを養うのだ。

自分の心が寂かになれば、環境も従って寂かになるのだ。ところが心の方はそのまゝで、環境だけを変えようとするのは、形から影を除こうとするに等しい。自心が清浄になれば、必ず周囲もそれに従うのだが、いきなり周囲との関係を絶って、心だけきれいにしようとするのは、生臭を集めて置いて、蠅や蚊を防ごうとするようなものだ。

世の人は栄名利得に心を捉われ、やゝもすれば塵世苦海などと云う、嗚呼彼等は知らず、雲白く、山青く、川行き、石立ち、花迎え、鳥笑い、谷は答え、木こりは歌う。世は塵にあらず、苦海にもあらず、彼等自らその心を苦にするのみなるを。

世界をきっちり理解するためには、環境の如何に関わりなく、己が精神より始めるべきである。

凡境における工夫を、いくら積んでも聖境には到り得ない。

聡明頓悟、聞見測識は、みな本體の障なり。

真の頓悟は、多年の苦行のはてに得られるものであって、皮相な知識見解によって得られるものではない。

学をなす要は一の誠に尽きる、そしてその工夫は主敬である。敬であれば誠、誠であれば天である。陽明の良知の説に従えば、禅に流れない者は少ないであろう。余は近頃この小庵で静坐したが、胸中には全く何事もない。その広大さは天地と同じである。思うに本来人間は無事である。何か事があるとすれば、それは全て人欲である。もしこの無事の処を、実践に移すならば、人にして天である。餓死は小事で節を失う事が大事である。今にして余は餓渇のために、心を害してはならぬといった、孟子の教えが、よく理解できた。これがよく明らかになれば、道に背かないであろう。

當に此の心を捉われないで、のびのびさせて置けば天理が自然に得られて、欲が自然に消滅する。

人となる道は「人譜」に尽されているから、これを家訓として守ればよい。我が胸中には万斛の涙がある。一半を両親に灑ぎ一半を君主に灑ぐ。

吾人の世に処するや各々その持分に安ず、現在士たらば即ち将に士の位に素して行なうべし、又、位を出ずるの想いを萌すべからず。尋常と縁に随ひ分を盡して、心に異相なきなり。

二曲によれば儒学は元来明体適用の学であった。それを学ぶ立場も又、明体適用でなければならない、特に記誦の学や詞章の学はいけない。つまり書物(当然絡書)を読んで文字面の解釈に終始したり、内容を鵜呑みにして、丸暗記したりする。
又そういうふうにして、単に博識である事を良しとする、或はそれらを良しとする、或はそれらを材料にして美しい文句で飾った詩文を作る事に専念する。学問は駄目なのであってそういうのを俗学という。かといって心の徳を養う事ばかりを考えて、博く知識を求めないのは空疎無用というべきで経世の役に立たず、そういう学者を腐儒という。
学問は先ず人まねでなく、自ら悟り納得しなければならない。所謂自得の学である、だから書物に書いてある事を自分自身の問題として、それを取扱いみなすべき事を実践しなければならない。

婦人は見短にして道を学ぶに堪えずと謂ふ、誠にしからんや、誠にしからんや、それ婦人は間域を出でず、而して男子はすなわち桑弧蓬矢以て四方を射るなれば、見に長短あるは言を待たざるなり、ただ所謂短見をは見るところ閨閣の間を出でざるを謂い、遠見とは即ち昭曠の原を探察するなり。

如今の人ごときは、一日官なければ即ち弟子離れ、一日財なければ即ち弟子散ず、心悦びて誠に服するはそれ誰ぞや。心悦びて誠に服するの人無きに非ず、以て人をして心悦び、誠に服さしむべきの師なきなり、もし果してこれあらば我願わくばこれが為に死せん。
我に龍湖に囘るを勤むることなかれ。

薄弱の時に除去しないと除く事が出来なくなる、禍を防ぐには微細な時に於いてすべきをいう。

明中の暗は即ちこれ過、暗中の明は即ちこれ改むるなり、君子の心は暗なりと雖もまた明也。然らば即ち学ぶ者心を虚にし、志を遜にし、時に務めて言を察し、色を観、以て吾の知る処の逮ばざるを捕く。

君子はその賭ざる処に武憤し、その聞かざる処に恐懼す、これ慎獨の説也。慎獨の実切は喜怒哀懼愛悪欲の七情に即して為さなければならぬ。

利を除けば義、功名富貴を除けば道。

学は以て己の為にす、己は以て内に又、己在り。唯この方寸の中に主と成り得るものは、これ所謂慎己なり。必ずや敬を主とするか、敬の一字は自ずから此れ千聖相傳の心法なり。聖門に至っては、唯これ箇の慎獨のみ。

釈氏の学は心を本とす、吾が儒の学も又、心を本とす。但吾が儒は心よりしてこれを意と知とに推す。その工夫の実地は却って格物にあり、心と天と通ずる所以なり。釈氏は心を言へばすなはち学を言ひ、合下に意を遺却す、意なければ即ち知なし、知なければ、即ち物なし、その所謂心も又、只これ虚空圓寂の心にして、吾が儒の物を盡す心と同じからず。

仁を学べば即ち仁にあらず、義を学べば即ち義にあらず、中を学べば即ち中にあらず、静を学べば即ち静にあらず、ただ誠敬の一門あれば頗る破綻なし。

心に物類なければ即ちこれ道なり、更にこの外において道を求むれば妄にして、見は妄見とに、思は妄思となる。見と思と即ち興に消融し去るあれば、即ちこれは善学なり、君子の学は廓然にして大公物来りて順応す。

天下国家の本は身にあり、身の本は心にあり、心の本は意にあり、意なるものは至善の止まるところなり。而るに工夫は即ち格致より始まる。

即ち「不勇者」は、何でもかんでも気随気まゝが第一で、朝寝昼寝を好んで学問は大きらひ。武芸をやっても何一つものにならず、ものにならないくせに芸自慢の利口ぶりばかりして、女狂いや贅沢な食事の為には、幾らでも金を使ひ、大事な書類も質に入るし、公の金で交際費となれば、平気で使い散らし、義理で出す金は一文も出さず、またその上、身体は壊しがちで大喰ひ大酒の上に、色情にふけってばかりいるので、自分の寿命にヤスリをかけるごとくなって、全て忍耐や苦労やつらい事が出来なくなるような、肉体的条件になってしまうから、従って柔弱未練の心は増々つのる、これを不勇者と謂う。

吾日来小菴に静坐す、胸中すべて一事なく浩然にして天地と流れを同じくし、精神の困憊を覚えず、蓋し本来原一事なし、凡そ事あるは皆人欲なり、もしその事なきところを行なへば、即ち人にして天也。

学なるものは、太要只これ慎独のみ、慎独は即ちこれ中和を致すなり、中和を致せば即ち天地位し萬物育す。これはこれ仁者天地萬物を以て一體となすの寛落の虚にして、これ懸空の識想ならざるなり、近世一輩の学ぶ者は肯へて心を内に用ふるも、又多く懸空の識想を犯し道理を以て鏡花水月とし看て以て絶悟となす。その弊は支離して外に向ふものと等し、今は但時に未発の中を養う、これ喫緊の工夫なり。

総て慎獨の説に得るなきが故なり、それ道は一のみ、学も又一のみ。大学の道は慎獨のみ、中庸の道は慎獨のみ、論孟六経の道は慎獨のみ。慎獨にして天下の能事畢る。

王陽明曰く、「聞見知に非ず、良知を知となす。踐履は行に非ず、知良知を行となす。」

人の性は本善なるも、自ずから気質に蔽はれ、物欲に陥りてしかる後に不善あり、然れども本善あるものは、原より未だかって民滅ぼせず、故に聖人は多方に誨へ廸き、その性の初に反さしむるのみ。心の邪なき正とし、意の偽なきを誠となし、知の迷はざるを致となし、物の障らざるを格となす。

意を有して善をなさば、善と雖もまた粗なり、堯瞬の事業は一點の浮雲太虚を過ぐるのみ、実に種々の善、天下に在るありと謂はば不可なり。吉人の善をなすは、この有せざる善、意なきの善をなすのみ。

「廓念太公」……「廓念として大公、物来って順応す」
心が純粋無雑で公明正大である事。

聖人の聖人たる所以は、その心の天理にもっぱらにして、人欲の私なきを以てなり。聖人を学ぶ者は、この心の天理に純にして、人欲なきを期すれば即ち必ず人欲を去りて天理を存す。善念の存する時は即ちこれ天理なり、志を立つとは常にこの善念を立つるのみ。

人の口は、味に対してみな同じ味を美味い、と感じてそれを好む。耳と音、目と色の場合も同様である。心だけ誰もがみな「然り」と認めるものがない、という訳にはいかない。それが義とか理というものだ。

高忠憲の「旅店の悟り」というのは忠憲三十三歳の時、左遷されて掲陽(広東省)赴任する途中、ある日旅館で読書中、程明道の語を見て突然悟りを開き、重荷が一挙に地上に落ちた如く雑念が消え、又、雷光が一閃して体が透き通った如く、宇宙と融合できた感じを抱いたという。

性は吾自ら性とするなり、徳は吾自ら得るなり、吾これを固有するなり、曷ぞ新たにするを言はん、新たにするとは、その故に復するの謂ひなり、例えば日の天にあるが如く夕にして沈み、朝にして昇り、光の體は増さず損ぜず今、昨に異なることなし、故に能く常に新たなり。もし本體の外において、増化して以て新となす処あらんと欲せば、これを新を喜び異を好む者の仕業にして、聖人の所謂新にあらず。

世の中の治まらない原因は、要するに唯その文のみが盛んで、実が衰え人々が勝手に各自の意見を出して、唯新奇のみを誇り、一般大衆の目を眩ませて、名誉をあげようとし、徒に天下の耳目を塗り防いで、世の中の風潮をそこへ向けるようにして争い務め、只表面上だけの文詞の修飾に力を注ぎ、それで以て世の中に知られるように、という事だけを求め、又かつて世の中を質朴にして純粋にかえすべき遣り方のある事を、知らせないようにした処にある。

真の学問をする為の読書の方法は、必ず心の本体の上に於いて工夫を用いて、努力しなければならない。凡そどんなものでも理解し得ない事、実行できない事は、実際に必ず自分の心の中に体察するようにすれば、すぐに通ずる事が出来るのである。

後世の儒者は、ただ聖人の低い段階だけを学び、而もその得た浅近の名だけを、さらに細かく分裂して、真正のものを失い、さらに又、流派を生じて古典の暗記暗誦や、作詞作文の学となり、功利や字義解釈の訓詁の学となって、聖人の道から見れば此等も又、遂には皆、所謂異端の学びとなるのを免れなかった。

近来学問するものは、外部の知識を追求することのみ努力して、我内面的なものを修得する事を忘れている。そのために知識は博くなるが、肝腎肝要なところが欠けている。又外部のみ力を尽くして内部を忘れ、徒に知識ばかり博くて、肝要な処が欠けている。

故人の言辞を広く暗記暗誦する事が、古を好む事だと考えたり、雑多な見聞煩瑣な暗誦華美な文章などと汲々として、休みなく唯知識という名声利達への道具を、外に向って求めるという事が、後世の学問となっている。

彼らの博聞多識は、胸中に溜まっているだけで、心を養う事が出来ないから、食あたりの病気をしているのと変らない。従って学問は心に得るものでなければならない。

あやまちや失敗をしないですませるが、年をとってからは即ち、精神力が衰えて来るので、最後には必ず倒れてしまうのである。譬えてみると、根のない樹木を水際に移植するようなもので、暫くの間は新鮮で宜しいが、やがて長くたつとやせ細って萎れてしまうのである。

自然というものは法則の支配する世界である。その法則を究明して変える世界を易えてゆくのが、人間の使命であり権威である。

人間は官界などに志して、出世街道の学問をするよりは、謙虚に人間の道を修めて、安心立命して世を終るのが、一番良い道である。

植物でもあまり花を咲かせ過ぎたり、実を成らせ過ぎると木が弱くなって、その次の時季にはすっかり駄目になる。本当に木を長持ちさせて、立派な花をつけさせ、実を成らせようと思えば、所謂決果果決をやらぬといけない。間引かぬといけない。

世界は、資本主義陣営と共産主義陣営との二つに分かれて、事毎に相対立しておる。共産主義の方では何とかして資本主義を打倒して、人類に階級も搾取も何もない、平和で幸福な世界を齎せるのだ、と呼号しておる。なるほど掲げるところは立派である。けれどもその結果はどういうことになったか、共産主義の諸国は言うに及ばず、各国の共産党内部に於てさえ、恐るべき粛清と称する圧迫・強圧・殺戮が行われ、あらゆる見るに忍びず、言うに忍びざる罪悪の限りを尽くして、しかも尚今日になってみると、事実は資本主義、自由主義諸国の後ろを辛うじて追っかけておる、というような状態である。
又、一方自由主義の諸国はどうであろうか、人類の発展と幸福の為に造った文明は、確かに大衆を向上させ、大衆社会は大変な繁栄をした。しかし今日になってみると、大衆はただ自己のその日の平和・安逸・享楽を貪って、人間の大事な道徳だの使命だのというものについては、全く堕落するばかりである。それについて世界の指導的権威として、その繁栄を誇ってきたヨーロッパの諸国は、今や著しく凋落してきた。何れを見てもそこに欲しいものは、真に偉大な民族の否、人類の指導者である。

天地の為に心を立て、生民の為に道を立て、住聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。

人間は順境にいると、どうしても安易に流れる、真剣になれない。これは戦争中みな経験した事です。例えば北京だの上海だのといった、都会地におる時は、皆ふざけた雑誌や小説など読んでおるが、いざ戦場に臨むとそういうつまらぬ物は読めなくなる。論語だとか、般若心経だとか、或は親父や先生の心を込めた教訓だとか謂うものでなければ修まらない。
昔から有名な武将はみな戦乱の巷、陣営の中に在って暇を見つけては、真剣に読書しております。
つまり人間は、真剣になると初めて本当のものが出てくる、厳粛なものが出てくる。太平無事になると、大事なものを失って享楽的になり、ふざけた生活をするようになる。その為に益々世の中が駄目になる。そして酷い目に遇って初めて、今更のように本当のものを求めるようになる。

誠の人間というものは、彼の義務が要請する時と、場合に於てのみ、世の舞台に出なければならぬが、それ以外は退いて家庭に還り、少数の友人と交り、尊い書籍に学んで、なるべく人知れず生きるべきである。

鼠を愛おしんで常に飯を残してやり、蛾を憐れんで灯を点けない。

要するに人間は、常に慈しみの心、慈悲、仁心を養わなければならない。キリスト教でいえば愛であり、仏教でいえば慈悲である。人間は物の命が無視され、犠牲にされるのを悲しく思う。その物を愛すれば愛する程悲しい、愛する事がなくては、悲しむ事がなくては、儒教も仏教もない。だから平生に於て絶えず、物の命を愛おしんで慈悲行を積んで置けば、やがて天地人間を通ずる法に叶う、これが立命の大事な条件である。

凡そ吉凶の兆しというものは、先づ心中に兆してそれから段々に身体に現れ動いて来るものである、だから真実の心の厚い者程常に福を得、薄い者ほど常に禍に近づく事になる。

思うに古の聖賢といっても我と同じく人間である。それにも拘らず彼は何が故に万世師と仰がれ、我は何が故に瓦の如く裂け割れて滅茶苦茶になるのか。色声香味触法の六塵煩悩といった浮世の欲情にふけり染まって、秘かに道ならぬ行いをする。
しかも人が知らないと思って、平気な顔で少しも愧づる処がない。そうして一日一禽獣になり下りながら、自らは少しも気づかない。世間にこれぐらい見苦しい大きな恥はない。
「恥づる心ほど人間に大事なものはない。」

極悪重人が一念発起懺悔すると、人一倍立派な人間になる。

唯一心に善を為せばよいのである。正念が時々刻々に間断無く相続できれば、自ら邪念の起ってくる筈はない。丁度太陽が空に昇るにつれて、妖怪が潜み消えるようなものである。此れが純粋にする真実の秘訣である。

過悪は心に由って作り、又心に由って改めるものである。丁度毒樹を絶やす時のように、直ちにその根を絶てばよいのである。
何も一々枝を切ったり、葉を摘んだりする必要はない。これと同様に上根の者は、先づ自分の心を治める。そうすれば直ちに心が清浄になる。心が清浄であれば、僅かに邪悪が動いても気がつく。気がつけば邪悪は消えてしまう。

我々は凡俗のの輩である。過悪は針鼠のようにたくさんあるにも拘らず、往時を顧みてその過ちが有るので、気が付かないようである。これは心が粗くて眼が曇っておるからである。

心を余り堅く守る事だけを考えると、却って間違いを生ずる。一つの型だけを求めて執着してはならない。

学者の聖人を学は是人欲を去りて、天理を存するに過ぎ去るのみ。

前後の事はあれこれ考えない事である。虚心坦懐にして置けば雑念妄想一切無し。

思いを未だ来ぬ事や、過ぎ去った事に求めても、現在は現在であり何の益にもならない。

自然の流れのまゝに悠々と流れる。

物事に当るに当たっては色々と構えない事である。そのエネルギーをより良い方向に力を入れるだけである。

良知の修行は短い期間に出来るものではなく、多年の努力が必要である。

一心に懺悔して日夜怠らず一週間経ち、二週間経ちやがて一ヶ月・二ヶ月・三ヶ月もすれば必ず貢献がある。或は心が安らかに広々になるのを覚え、或は智慧がにわかに開けるのを覚える。或は雑沓の中に処して、触る所、思う処みな通ずる。
或は恨みや讐に思っていた者に出遭っても怒りを変じて喜びとなし、或は黒い物を吐き出す夢を見たり、或は夢に古の聖人、賢人に遇って教えられたり、或は夢に虚空を飛び歩き、或は仏前を飾る旗や天蓋等いろ勝れた事物を夢に見るものである。

ただ個々の事物について、理を求める事だけを教えるのは、根のない学問で、それは根のない木を水辺に移植するようなものである。

生命を重んずることのみ考えて、道義を重んじない人間は、禽獣に等しい。死ぬべき時で死ぬのが仁を通す事になる。

生死を超越する事が、真の学問に必要である。

大人物になるには先ず心の修業が根本である。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2020-08-15 18:45:10

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