第四章 言志録(ロ、陽明学を共に学ぶ)

道義を尽くして死しても、それは有形の身の壊滅ではあっても、太虚の深蔵する道義の気そのものゝ、天下に於ける、永久の亡滅とはなる筈がない道理であると、したのであろう。

人は歴史の中で、悠遠の過去に死滅した義人の言行を、今日に読む事によって、全く以って自らにして、その義気に感じて、それに応ずるのではないか。

「道を尽くして、死する処に道はない」とする見方は、道徳をその実践主体に於いて、極限まで行じ詰めてゆく事によって、人心の生死を調節して、絶対の「天命」の霊覚の境地に悟入し得る。

人間銘々は、歴史と社会の中で、限定されて占める一定の身分位置に即して、「その道」(=道徳)を尽くす事によって、その歴史の常莄的現実界から、超出する契機を掴む事が出来るというのが、高逸の道義の学の結論である。

寧ろ、聖人を学んで未だ至らなくても、一善を以って名を成す事のないのが、士君子の立志の説である。寧ろ、一善を成して名を成して、聖人を学んで未だ至らない者は、士君子の反躬の義である。

若し、その達する所(=聖人)を学ばなかったら、(それは)幾んど一朝の達であって、その道には由る処がない。

此れを京師に適く者に譬えるに(長安=京師に向かって)脚を起こす事が、其の儘長安の道である。必ずしも長安に到らなくとも、方にこれ長安である。

堯舜とならない時は、則ち桀紂に為る。中間には更に一髪の容るべき混処はない。堯舜の心は則ち吾人の心である。この心を同じくし、此の覚を同じくするのである。

吾も亦、その同じき者を覚るのみ。凡夫にして地を聖域に立てれば、一時にして(聖域に)遠くとも、千秋にあって故を同じくするのである。

心は、凡聖の合である。然し、終に真妄の殊が無い訳にはゆかない時は、則ち真を存すると亡うとを、弁するのみである。

存する時は則ち聖であり、亡う時は則ち狂である。それ故に(自分は)念に克てば聖と作り、妄念は狂と作ると曰う。

聖は天を希い、賢は聖を希う。

覚らない時には問い、問うて覚らない時には思い、思うて覚らない時には弁じ、弁じて覚らない時には行う。

意、根よりして信源を査考し、身上に体認し、家庭に検点し、國と天下に印証して推広する。

學は須らく、孔子の學を学ばねばならない。

今は、心を以って念と為すが、(しかし念は)心の余気である。余気なる者は動気である。(それは)動いて天より遠ざかる。

それ故に、念は起こり念は滅して、その心の病を為し、又意の病を為し、知の病を為し、物の病を為す。

それ故に、念には善悪がありて、物は即ちこれが与に善悪を為すが、(しかし)知にはもと善悪は無いのである。

念には昏明が有って、知は即ちこれが爲に昏明を為すが、(しかし)知にはもと昆明はないのである。

念には真妄が有って、意は即ちこれが与に真妄を為すが、意はもと真妄は無いのである。念には起滅が有って、心は即ちこれが与に起滅を為すが、本源にはもと起滅は無いのである。

念には、起滅が有って、心は即ちこれが与に起滅を為すが、本源にはもと起滅は無いのである。それ故に聖人は念を化して、心に還り静を主とするを要る。

徳は、愛するを仁と曰い、宜しきを義と曰い、知るを智と曰い、守を信と曰う。

善不善の幾中は、感応なる者に於いて、只過不及の差がある。そして念慮に乗る時は、則ち悪と謂う。然れども、過ぎて念慮を已めずにこれに乗ると、亦大悪を為さない事は殆どないのである。

君子が幾を知るのは、端は感応の上に在って、控持して力を得る。念慮の悪の如きは、君子は早く己にこれを絶っている。

幽暗の中、細微の事は跡が又、形れないと云っても幾は己に動いて、人は知らなくとも己一人は、これを知れば、天下の事でこれよりも過ぎて、著見明顕なるものは無い。

それだから君子は、既に常に戒懼して、これに於いて尤も謹みを加える。人欲を将に萌そうとするに遏めて、それを隠微の中に滋長して、道を遠く離れるのに、至らしめない所以である。

剛善には、怒中の喜びがあり、柔善には、喜中の怒りがある。

程子は、水を以って性に喩えて、その初めは皆清いが、その後漸く流れて、濁に至ると(謂う)―――(然し)生じて濁る時は濁り、生じて清い時は則ち清いのであって、水はもと清くあるのではなく、制を質に受けるが故に濁るのである。

余は謂うに、水は心であり、清い者はその性である。時有って濁っても清い事を離れない相近い者である。その終に濁りに錮するのは、則ち習の罪である。

明道が、仁体の識得から即物的な、神悟というような「高明」の境地に、恍然として帰するに対して、蕺山は、その仁体を吾が心性の体と見た。

その体の、自然必然的の発動は、現実の人倫庶物の世界に進出して、そこで当に義礼の道徳を独りとして、創造すべしと為すのである。

陽明が、軍中に在って一面購読し、一面軍務に応酬して、繊毫も乱れなかった。此の時動静は、これ一にして是れニである。

蕺山が、多くの先儒の諸説を見る場合、いつもその先儒がどのような、古昔の聖賢の前言を特に選び出して、己の為学の根本的な拠り所とするか、という一点に、最も重い学的関心を傾ける。

世人はよく、上等の資質の人は陸子の学に従い、下等の資質の人は學に従うがよい、と見る見方に対して、蕺山は、「然らず」となして反って「上等の資質にして、然る後に朱子を学んで、その胸中に本領がある事が出来る。そうすれば零砕の工夫や、条分縷析も亦礙げない。

誠は思わずして得る。良知は慮らずして得る。良知は一の誠である。致知はこれを誠にするものである。これが文成の秘旨である。

誠意の一関は、その至善に止まるの極則である。

大学の道は誠意のみである。誠意の功は慎独のみである。意なるものは、至善の帰宿する地である。―――

(若し、朱子のように)意なる者は、「心の発する所」であるという時曰う時は、則ち誰か(これを)存する所と為そうか。」

動いて微かなる時は、則ち動いて動く事がない。動いて動く事がないことは、静かにして静かである事がない所以である。これが心体主宰の妙である。それ故にこれを名付けて意という。

知行には自ら次第が有る。知は先であって行は即ちこれに従うが(知と行との)間には、催すべきものがない。それ故に(知と行と)一つであると言う。

(ところが)後儒は覚を以って、性をいう事を喜んで一覚せば余事はなく、即知即行であると謂うが、その要は無知に帰するのである。

知が既に立たなければ、一も亦言い難い。噫々これは天下を棄て禅である。

後人に為りて、無善無悪の四字を将って播弄し、天花は乱墜一頓著して禅乗に入る。平日のいわゆる良知は、即ち天理。

良知は、即ち至善等の処に於いては全然抹殺する。これではどうして、後世の感を起こさない事が出来ようか。

陽明の不幸にして竜渓のある事は、猶象山の不幸にして、慈湖のあるがようである。(今人には)道に四無の説有りて、良知の字に於いて、完く没交渉にして、その師門の教法を壊るも、如何んとも術がない。

意を誠にするとは、先ず意を起滅する「念」から切り離す事。次に対境との好意的関係の中に入って、意の主体的な純粋性(=「意の良」)を実施する事である。と了解される。

蕺山は、その記録の中で屡々「陽明先生」とか「陽明子」という表し方をして、陽明その人への尊敬の情を、表明すると解せられる事も注目を惹く。

この意味で彼の儒学は、その根本心術に於いて、周子を通過した上での新陽明学という、基調をもつとも解しうるであろう。

彼は、陽明学の根本性格と見られる主意主義の立場を、周子に帰る事によって、王門の流弊から洗條し、以って、その純粋無雑の方向に発展させたと見られなくもない。

但し、彼は陽明とは全く異なる異常な時代状況を生き、そこで、家國の覆滅に直面しながらも、自ら主体的に儒学したのである。

陽明学には、見られない儒学上の一つの新奇な立場を、彼の所謂「慎独」→誠意の学として、形成自覚する事によって確立した。

在する時は則ち聖であり、亡う時は則ち狂である。それ故に克念は聖を作し、妄念は狂を作す。

(人心)の危なるものは、微において危であり、(道心)の微なるものは、危において微であって、この両物は一体である。

人心は、只是れ一団の霊明であるが、而も、過ちに於いて暗きを受けない訳にはゆかない。その明処は是れ心であるが、(その)暗処は是れ過ちである。

(しかし)明中に暗があり、暗中に明がある。明中の暗は、即ち是れ過ちであり、暗中の暗は、是れ改める事である。

只、常任の心は忽ち明かにして、忽ち暗く展転出没しして、終に環明を得る事が出来ない。明依の体に帰らなければ(その明が)薄蝕する事をどうして疑おうか。(それ故に)君子は則ち暗中の明を以って、箇の致曲の工夫を用うる。

性には不善が無いが、心は則ち以って善を為し、不善を為す事が出来る。(しかし)心には亦本不善は無いが、習には則ち善が有り不善がある。

人心が念の好悪に支配されて、貧財好色として動く時、人心は天性との結び目をかえって解体するだけでなく、反って、性種そのものを「断滅」する事によって、最早本来の人間ではなくなってしまう。

善が有り悪が有る者は、心の動であり。善を好み悪を悪む者は、意の静であり。善を知り悪を知る者は、良知であり。善が有って悪の無い者は、物の則である。

凡そ仁と義とは、皆天理の名象であるから、即ち、名象を以って天理と為す事は出来ない。謂うにそれは自家に属しないからである。

試みに問え、学ぶ者は何処か、これ自家の一路であるかと、(こうして)己に切に反観推究し、至隠至極処に到って、方に着落する事がなければならない。

此の中には一切の名象は無く、亦并せて窺うべき声臭もなく、只これ水箇の玄これ黙のみである。(然し)これ玄これ黙といっても、宝に一物として体しないものはない。その中に所謂天を備える、それ故に理を天理という。

誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。

君子の學は、天下に先んじてこれを國に本づけ、國に先んじてこれを家に本づけ、(家と)身も亦これを己に属せしめるのである。

又、(その己は)自身してこれを心に本づけ、これを意に本づけ、これを知に本づけ、本づけて(最早)推求す可きものも無く、揣控す可べきものも無いが、それは己の為にするのである。

(ところで、知に本づけるとしてのその知は)隠にして且つ微である。この隠微の地を名付けて独と曰う。それでは、その(独は)何者であるか(それは)本一物も無くして、この中には物物具わる。

これは、至善統会する所である。致知は格物に在るが、(格物とは)これ(=独)に格るのみである。(こうして)独なる者は物の本であって、慎独なる者は格物の始事である。

(しかし)君子の学を為すのは、能く身に蔵して動かないとか、口を杜ざして言わないとか、天下の耳目を絶って、与かり交わらないとか謂うのではない。

終日言うてその言う所以の者は、人を得て聞かずして、自ら聞くのみである。終日動いてその動く所以の者は、人は得て見ずして、自ら見るのである。

(このように)自ら聞き自ら見るものが、自ら知る者である。吾はこれを自ら求めて、この心を常に止まって、安静安慮ならしめる。

(この心=自知する者を)得る事が、慎の至りである。慎独なる者は、人はこれを誠意の功と為して、即ち格致の功である事を知らないのである。「大学」の道は、一言を以って蔽えば慎独と曰うのみである。

「大学」の道は誠意のみである。誠意の功は慎独のみである。意なる者は至善の帰宿する地である。其の物と為って弐わない故に独と曰う。

其の物と為って、弐わずして物を生ずる事は測られない。所謂、物に本末があるのである。格物致知は総じて誠意の為に設ける。亦、総じて慎独の為に設けるのである。

道とは、本一物の言う可きものがない。若し、一物の言う可きものが有れば、すぐさまこれ礙腐(=胸)のものである。学には本一事の著す可きものがない。

僅かに、一事の著す可きもの有れば、すぐさまこれを賊心の事である。仁を学ぶと曰うが如きは、すぐさま仁ではない。静を学ぶはすぐさま静ではない。

只、誠敬の一門があって頗る破綻が無い。然し乍ら誠敬を認定して、執着して化しない時は、則ち、その事が不誠不敬と為る事も、亦巳に多いのである。抑々道は、即ち、其の人のみである。学ぶとは、其の心の如きのみである。

哀公問う、弟子孰が学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回なる者在り、学を好む怒りを遷さず、過ちを弐旅せず、不幸短命にして死せり。今や則ち亡し、未だ学を好む者を聞かざる也。

伊尹の志した所を志し、顔子の学んだ所を学べば、過ぎる時は則ち聖となり。及ぶ時は則ち聖となり、及ばない時も則ち亦命名を失わない。

学ぶ者が、誠に病根を抜去しようと欲せば、只、此の心に主をあらしめるばかりである。一元の生意を周流させて息まない時は、則ち偏至の気は自然に消融す。

其の所感に随ってこれを順応し、凡そ人心の所有は総じて、これ天理の流行である。このようである時は、則ち一病が除かれると百病も除かれる。

貧財の心を除却する事は、其の儘、好色の心を徐却する。貧財の好色の心を徐却する事は、其の儘。賊人害物の心を徐却する。

其の心を除いて、而も事に自らこれに随う事は、即ち(これを)頓徐しないことであるが、己に(其の心には)日に消え日に減ずる勢力が有る。

蕺山の道徳観は、既に立ち入って検討したように、その道徳の内面的本質的な生命を「大学」の「誠意」に求めた上で、この誠意に動機付けられる道徳の目標、志向を天下の現実の人倫庶物の世界に、「中庸」の所謂「中和」を実現する事に求めると、解せられる。

身に反みて誠あらば、樂これより大なるは無し。怒を強めて行う、仁を求むる、これより近きは無し。

君臣の義は、本情を以って決する。情を舎てゝ義を言うのは、義ではないのである。

身は天地万物の中に在って、我の私する事を得るものではなく、心は天地万物の外に在って、一腰の能く囿るものではない。

蕺山の、此の上達の究竟地には、儒学という一つの独特な学問が、最後に於いて創造的開示する所の、一つの全くユニークな一種の悟りの世界を、後代の吾々に告示するものではなかろうか。

人間の感情は、いつの時でもその最深部に於いて、自己の内なる暗処や、更に広く人生の無常や悲惨から、超出を求めて止まない。

こういう事を、原則的に認めるとすれば、正にこの感情の深まりを透して、その求める超越的世界を観じて悟るという事も、亦可能である事を認めねばならない。

瞋は、是れ心中の火功徳の林を焼く。菩薩の道を行はんと欲せば、忍辱して眞心を護せよ。

見性せずんば、佛道を成ずる事大に難き。

凡そ道徳ある君子は、自分の悪を責めて、他人の悪を攻めない様にするが好い。又善行佳言異行が自分にありとも、決して他人に向って、伐り自慢をしてはならん。我が事業に従ふには、決して他人の指図に従ふ様な事では駄目です。

賢にして財多ければ、則ち其の志を捐す。愚にして財多ければ、則ちその過を益す。

扨て、世の中には、事の多き事を好む人が多くあるものじゃ。広く色々の學問を為し、諸學の知見を學ぶが、其れは皆枝葉の學問じゃ。

只、一念清浄明心を悟了せば、皎々赫々たる佛知見を、發成就する事を得ん。

人生はしばらくの事、偶々楽しみを得れば、その時を失わず楽しむべし。徒に名利の爲に人と爭論して、啾ゝ喞ゝと口喧しく呟きて、心を煩悶哀戚する事勿れとなり。

諸君が、若しも極貧に陥る様な事があろうとも、必ず家屋を売却する事御堪忍なされ。又其の内に少々でも富裕になりたならば、直ちに田地を買い込んで置きなされ。

兎に角世の中は何事にても、腔が空で走り廻る事が出来ませんよ。又高枕安眠する事勿れ。心が惰弱に流れるからサ。心は高尚賢固成るべし。

人妄りに老死を厭て、不老長生の法術を求むるの徒労妄行なる。

大丈夫とは、天下の廣居に居し、天下の正位に立て、天下の大道を行ひ、志を得ては民と之に由り、志を得ざれば獨り其の道を行ふ。

富貴も淫がすこと能わず、貧賤も移すこと能わず、威武も屈すること能わず、之を大丈夫と謂ふ。

扨て、天に向かって愧ぢず、地に向って愧ぢざる大丈夫。佛道の行事を作して、必ず奔鹵なる行事を作すこと勿れ。

勁く勤め進み行て、精進堅固なる事鉄の如く、石の如き精心を挺でゝ奮励すべし、而して邪路に入らず。直ちに真正の菩提道に進取すべし。

必ず、邪道には行くべからず。若し誤て邪道に行かば、特に枉げて辛苦せねばならん。妄りに成佛作祖を求むるを必要とせず。直ちに自己の心王の主人公に向て、識取悟了すべし。

本来、本法性はそのままなれども、唯だ善因善果、悪因悪果の法応に依りて、六道に生死するのみ。故に、諸君よ速やかに無間黒暗の世界は、畢竟是れ何物ぞと大悟大覺して、時々に勤めて拂拭して、心性の実鏡をして黒暗昏々ならしむる事勿れ。

諸君若し、見性悟道の境界に到らば、劔樹な山も、钁湯爐炭も、一喝して喝散し、一吹きに吹滅せんのみ。

口に誦して心に行ずれば、即ち是れ經を轉ずるなり。口に誦して心に行ざれば、即ち是れ經に轉ぜらるゝなり。又曰く、心に迷へば、法蓮に轉ずるなり。心悟れば法華を轉ず。

名聞利養は是れ外物なり。皮肉骨筋も亦是れ外物なり。唯だ本来の眞面目のみ、是れ我が家内の無価の賓球なる。

世人は、珍賓を重んず。我は刹那の静を貴ぶ。金多く人の心を乱る。静は眞如の静を見る。性空にして、法も亦空なり。十八行蹤を絶して、但向心無碍なり。何を超へん神通せざる事を。

佛は覺なり、法は静なり、僧は和なり、和は以って筝を無みするなり。静は以って無みするなり。覺は迷を無みするなり。

夫れ巳に無迷無散無争なれば、一切衆生みな是れ得追と叫ぶも可なり。衆生を庋せんと欲するに、無生無しと云うも亦可なり。

王子の一代は、通じて薫陶感化の歴史なり。單に門人子弟のみならず、其の謦咳接する處、其の衣袂の触るゝ處、苟も感化薫陶の事蹟ならざるはなし。

王子は、門人を指導し薫化するに、多く登遊山水の間に於いてせり。山河の風光に対し、大自然霊趣を味わひつゝ天地の至道を瞑想する。

誠に是れ人間至快の事、思想道念の涵養に於いて、蓋し是れに過ぐるの良法はあらず。

王學は、実に四言教の上に立ち、有善有悪の意の発動の上より、為善去悪の修養を積け、知善知悪の良知を発達向上せしめ、斯くて、無善無悪の本体上に進入するを要則とす。

実踐躬行が其眼目、涵養省克治力行其要訣。努力より悟道、相対より絶対、卑きより高きへ、日常事為の間より天地化育の大道に進む。灑掃應対是れ、精義神に入るの道なりと説く。真に厳々正々の実学なり、人格学なり。

王子の倫理観は、実に考の一語の上に立てるなり。

一たび手に唾して立たば、百萬の巨賊立うに平定し。一投足四百州を風動するの英雄も、父を想い母を想ふては、いじらしくも可憐なる嬰児の如く然り。

孝道を措いて、人間何の教あらんや。堯舜の道も詮ずる孝の一語に帰す。孝はまことに萬德の基、百行の源なり。

陽明学、日本に入りて此に三百年。開祖たる中江藤樹を初め、その門人熊沢蕃山を経て、歴代偉人逸材を輩出し、世道人心の権威を成したるもの真に多大。

而して、明治維新に対する、精神的動力を成し、維新の事業をして、最も美的、詩的倫理的に幾多豪傑漢の一代をして、精氣絇爛の観あらしめたるもの、王学の威力功價は此に至って、尋常の道学を以て、律すべからずものあり。

朱子学は、幕府の御用学とし、其栄耀盛大に伴ふ國家的実績なく、頻に、迂儒腐儒閑骨頭を輩出し、死文死語の閑遊戯を以て、一生を戯弄化せる者多く、殆ど見るべきの経世の的活動なる者あらず。

是に反し王学は、幕府の迫害を受け、大苦節に鬪ひ乍ら、迫害苦節の間に其天品を錬磨し、三冬霜を経るに随って、愈々凛烈の気象を発揮するに至れり。

而して、学究道学以外直に、國家の活問題に直當し。常に経世治國の経綸を、忘れざる處實に、斯学の特色である。

明治維新當年に至ては、所謂志士功臣と稱するものは、概ね王学の人乃至王学系統の人ならざるはなく、西郷南洲、高杉東行、吉田松陰、佐久間象山、橋本景岳、横井小楠、鍋島閑叟、山田方谷、河合継之助、等挙げ来る當年の彬々桓々は概ね王学の人にあらざるはあらず。

而して、明治維新なるものが、大義名分の爆発にして、絶大なる道徳的事業なるを想はば、其の根元の動力を成したる、王学の威力功價亦意にして、大ならすとせんや。

世道人心して凛冽の力を成し、國民道徳の活泉となり、延やて治國経綸の事項に、大関系を有する王学の如きは類多からず。

是、実に斯学の活学実学にして、活人生活人格の活鍛錬を旨とし、活動と実行とを生命とする特風に出づ。

王学に於いては、知識も学問も博覧多聞も、道徳的道念の一資料に過ぎず、読書研究多見多聞の事、唯我が良知一念の、開發の努力に過ぎざるのみ。

此学に於いては、知と徳と学と道と皆一如して一體なり。純乎一元双を以て、人天萬有を縦横活殺し去らんとするが王学なり。而して、其一元的白双は、只聖人てふ一題目の獲得に外ならず。

最後に心すべきは、王学は厳正なる実学なること是なり。実践躬行は、王学の肉たり骨たるなり。如何に明見卓識博学古今を広うすと雖も実徳の是を失はずんば、何らの価値なく意義なし。

後世の学者は、好事無益の言多し。古の学者は、以て心を養ひ以て事を為し。今の学者は、以て心を病ましめて事を破る。

朱子は、学究的経験的機能的にして、知と徳とを二道分かちて進まんとす。象山は、直覚的演繹的にして、一気心即理と喝破す。

王子は、徒に陸子の遺風を追ふて満足するものにあらず。陸子は心即理を説きつゝ心の一点に執着し、甚だしく主観の病に陥れる観あり。

王子は、心理内外動静体用の一如一体を説き、至正太公廓然無碍の妙諦を力説し、思想内容に於いて、儼たる一新見地を建設せり。

正心和心其の作用を分かつも、固と一心の發動に外ならず、心に二心あるにあらず。悪心は只基本を失へるものゝみ、心に正不正の二元ありと観るは、由々しき謬見なりと。

心の本體にして、人生の第一義たる良知は、起滅生散の世界を超滅し、如何なる時、如何なる場合と雖も、永恒不変に実在す。

吾人が、身倫理の根本を盡し、人生の第一義を完成し、進んで天地一体の大妙境に入らんとするには、正に、良知の力に待たざるべからず。

良知は、絶対感に於いては、天地の本体其物なるも、倫理観に於いては、實に人と天地との合一融合を、遂ぐべき中心楔子たるなり。

人間の主宰即ち心なり。心の本体は良知なり。良知即ち天理なり。天理は、人天一切の法則を司る。人天絶対の合一境に入らんには、良知の聖門を通ぜずんば達も得ず。良知を措いて天道に入るべき途は他にあらず。

良知は、正しく物質と精神とを兼合帰一せる、超越性を具ふ。

王学は、実践倫理を主旨とし、活ける人格的修養を以て眼目となす。而して其修養の要訣は、曰く、格物致知の一語に在り。格物致知の語に至って王学は最早、理論学空想学にあらず。

王子は、道徳的意志及び行動に就いて、其の不正を正しうするを以て格物と解せり、而して致知とは、我が良知を致すの謂にして、良知は即ち、心の本体道徳的霊性なるを以て、人間天賦の道徳的霊性を発現し、体得するを以て致知の要義と解せり。

一事一件 一学一動 一言一行、日常一切の行為言動に対し、能く、道徳的反省陶冶を経て、此に格物致知の真境に入るを得、誠意 正心 修身と言ふも、畢竟、格物修養の除行に外ならず。

王子の王学は、聖人と成るの活學なり。純として純なる道徳学・人格学なり。而して、其修養の第一路を格物致知と謂ふ。格物致知とは人間の迷執を一掃し、不倫不善を匡革し本来の面目に帰るの謂なり。

事上磨錬とは、日常事為の間に工夫を凝らすの謂にして、日々の活動、奮闘 成敗浮沈 得失栄辱、皆我が道念鍛練の道場にあらざるはなし。人生は健闘の戦場にして、社会は人格陶冶の道場也。

王学の要義は、動静一体・内外一如に在るを以て静に處して、所謂静を喜び動を厭ふに至ては、是れ、修養の真義を失せるものなり。

知行合一は、王学倫理の眼目にして大旗幟なり。王子が経子百家の間に卓立し、其学の長へに不朽の権威を成した。

特に、日本に入るに及んで、幾多の英霊漢豪傑男子を産出したるもの、実に此の知行合一といふ大動力の賜物たらずんばあらず。

朱子派の遺風は、所謂、訓詁記章の弊を彌やが上に増長し、註釋の末に走り、穿鑿の技の没し、迂儒腐儒滔々類を成し、人間の眼目杳として、影を没するに至れり。

王子は、幸福を云々する如きは、私念私欲の甚しきものとし、冒頭第一に排斥せり。廓念太公・至正太中と言ふが、王学の霊血である。

只、天理たる良知の至純の聲に聽くを以て生命とし、一豪人意を挟み目的を立てるは、是れ天理に悖り、至誠の道に反すと説けり。

良知の本体は、固と自ら知行合一にして、本体の心を失はずんば、人は総て知行合一たるものなり。

人と天と宇宙と萬物と萬有悉く、一理の動に依って生々活々する。

天理は、動くものにあらず。動くは、雑念私欲のため蔽はれしなり。本体たる天理何ぞ嘗て雑念に依って動揺せんや。天理長しへに定静なり寂然不動なり。

廓然として、変移する處あらず。斯く天理は寂然定静、而して天理に依って、活くるものは一豪私念雜慮なし。

王学の第一特色は、其純一元論なるに在り、倫理的に於ては知行合一、宗教的に於ては天人合一、宇宙的には万物一体。而して、是を貫くに心則理の鉄網を以てす。心の本体良知なり、理とは良知の謂なり。良知は正に、人生第一義にして、宇宙の本体なり。

人間の要諦は、只、良知を開明するに在り。良知を開明せば、随って知識も発達す。學問とは、知識の開発の謂にあらずして、良知の開発を謂ふなり。

一念良知の光明を顕揚し、道徳霊性を涵養する處、此に一切の人生的意義、人間的価値が備わる。良知は日輪の如し。此一大發光体の輝くあって、宇宙の萬象皆生々気に盁ち、活動向上の妙用を遂ぐ。

良知は明月の如し、天地の闇夜を照らし、皎々玲瓏 天地真善美の妙体を現ず。此大霊体たる良知を困却し、専ら知識記章の味に趨る。

人間の本末を顛倒する以て、此に一切人間界の醜的現象起り、爭閲筮奪遂に禽獣の境に堕落す。知識は人生に於て、第二義 枝葉の末枝なり。

王子の教えを説くに、直頭此神秘を以てせず、専ら日常卑近の行為の上より、卑きより高きへの修養を勤奨す。

此日常卑近の修養は、即ち、上天実在の神秘に入るの関門にして、神秘も実在も第一源も、要する處、日常自為の悟了に外ならずと、説けるのみ。

4~5日 旅に出ますので、宜しく願い上げます。

格物致知は、王学の大眼目先ず己れを修するを要務とし、眼前は一言一行、当面の一念一意の上に渾身の工夫を注ぎ、悪を掃ひ邪を斥け、心天の玲明を保つが根本の要訣。

事に因はるゝこと、動静に囚はるゝこと、私念に陥ること、固我執着に陥ること、是れ王学の大禁物なり。天理を体現し、良知を体現し、機に触れる事に随って、活殺縦横 自在無碍の活動力を揮ふが、王学の真訣なり。

王子は其の半面、詩人として一箇の異彩を放てるが如く、生まれて極めて多情多感の人著しく、神経質の傾向を有す。

其三十有余年間、煩悶苦悶の経歴を反復せるが如き。志望常に動揺し、野心功名心燃ゆるが如く、文に志 武に志、頻りに轉輾動乱せるが如き。

主として、其神経過敏多情多感の致す所にして、正に神経質人物の標本と見るを得べし。されば、其精神的境涯も脱落沈静の態を得るまでは、頗る苦悶健闘経たる者の如し。

其沈静も、自らなる沈静にあらず。泰然不動の態を保ちつゝある間にも、心度動もすれば動乱を免れざるが如く、覚ゆる点少なからず。真に廓燃脱落の大静定に体達したるは、五十歳以後と見ば過ちなかるべし。

晩年の王子は、真に天自らなる活眼目を体現せり。無量光明の大聖者たる本風光を体現せり。一呼一吸 一言一語、造化天然の妙用に適ひ、心の欲する處に随って、自在縦横自ら矩を踰えざる無碍力を体得せり。

堅忍克闘の意力 萬死不屈の気力、乾坤を圧倒して、平々如たる絶大の活力、是れ学聖徒聖面目以外更に、壮々烈々の英雄的風采を発揮したる所以とす。

陽明学を一層明瞭にする為には、西洋哲学を併せ論ずるの必要がある。又、哲学宗教を論ずるには、藝術の知識を被る必要がある。

真の哲學者は、死の問題を研究すべきである。「ソクラテス」

得失栄辱の問題は、実に人を悩ますものである。されど、死の問題に比すれば物の数ではない。死ぬるという事になれば、得失栄辱を顧みる暇がない。

古より聖人賢者は、大抵炎厄に逢うてゐる。聖賢は如何にしてこの苦難を超脱したか、罹る苦難の時、聖人であるからとて、物質上の特別の思想が在ったのではない。

天上からも 地底からも、金銭や食物が出現したのではない。蓋し、聖人は我が本姓の光に依って、この難患を超脱したのである。

心を盡す者は、性を知る。性を知る者は、則ち天を知る。

聖人に道は、如何に廣博偉大であっても、自己の本姓の中より流れ出たものである。それ故、我が本姓を尋ねれば、其処から聖人の道が壐現する。

然るに、我が本姓を尋ぬる事を差し置いて、外面に向って道を尋ねた事は、過去の誤謬であった。聖人の所謂格物致知とは、朱子の説くが如く、天地間一切事物の道理を極める事でない。

我が本姓を尋ね、良知の光に依って、死生の間に處する事であると。此処に於いて大いに格物致知の旨を悟ったのである。

道には、一定した方角形體はない。然るに道を認むる人の心の中に、勝手に方角形體を付けて、是こそ真の道であると執着するから、其処に誤りを生ずる。

王守仁は、三十七歳の徹悟以前は、全く此の世は五濁悪世であった。それが道を悟って見れば、此の世は光明を以て満たされてゐる。

されば、此の世が光明か暗黒かとの爭論は抑も末の話で、根本問題は、自己の心が開けたか開けないかが大切である。

此処になれば、唯心論といふ事が甚だ肝要になるので、此の唯心論の意味が解らず、何事も客観主義になって、客観に光明あり暗黒あり暗黒あり、客観に幸福あり不幸あり、客観に美あり不美あり、客観に淨あり不浄ありと執着するか、道を発見する事が頗る困難になる。

「自己の身體を見得れば、時として處として、是れ道ならざるは無し」「道を見んと欲せば、先づ、自己の本性上より體得せよ」。

陽明が憂國の精神已み難く、政治上にについて諫疏を上った事が原因で、官を奪はれ 妻子に別れ 貴州の龍場駅に流され、毒蟲痔病と共にゐるに至って、無念骨髄に徹するものがある。

初めは、得失栄辱で心を悩ましたが、苦悩に極、死の問題が心を悩ますに至っては、最早、得失栄辱はどうでも宜い、只、死の恐怖を征服したいのみである。

古今の聖賢の大悟と謂えば、余程広大無辺の物のやうにあるが、推し詰めて見れば握飯一個にある。古の聖人はまさかの時は、握飯一個がなくなればなくても宜い、といふ腹が決まった。

人生に苦しむ者は、往々にして病となり、或は、自ら死を求むるに至る。然し、死ぬる積もりで道を学べば、必ず光明に出逢ふ事が出来る。

陽明先生の文章は、何の修飾もなく、只、自己の心境を打ち出したもので、それが千萬人を動かすものがある。

世間では、腹を立てゝはいけないと言ふが、莭に中らぬ腹の立て方がいけないので、發して莭中るならば、怒りも愚癡も皆結構である。莭に中るものは皆悉く善である。

苦しいといふのは、只妄念の上で、自分で作って苦しむので、実體はないのである。上

上根の人に道をもって、下根の者に当て嵌めても、其れはいけない。故に法と言うものは、其の人の機根に従って説くべきである。古人の語に「禅宗はは自力の真宗、真宗は他力の禅宗」。

致知とは、良知を致すと云うことで、朱子の言うが如く、一切萬物の知識を得ることではない。良知とは徳性の智慧で、事物の知識ではない。

佛教に、愛論と見論といふ語がある。愛論とは、貧よく慾についての執着で、普通一般の人は、この愛論の為に苦しめられる。

金が欲しいが、それを得られぬで苦しむ。損をしてはならぬが、損をした事に執着して悩むのである。見論とは意見といふ事で、智慧のある人は、智慧がある為に種々の意見が起って、其の為に悩まされる。

修養に従事する人々は、四十五十にして尚煩悩に苦しめらるゝとて、決して落胆してはならぬ。臨終の一念の夕まで、修養を致さねばならぬ。

真実大悟の處は、言語にて顕されず。知識にても知られず、只これ、冷暖自知の直接経験の境地である。

人間一生涯の中には、誠に容易ならぬ苦しい事がある。その苦しい瀬戸を乗り切るのは、余程の修養力が必要である。

世の中で、最上の力ある人は、何者であるかと云うと、「辱を忍ぶ者最も多し」と、釈尊が答へたと云う。

忍辱の根本は智慧である。此の智慧は徳性の智慧で、自然科学や数学の智慧ではない。

西洋哲学を学べば、道徳 宗教 藝術などの問題が、明瞭に解決してある。併し、自己の一身を顧みれば、常に煩悩にほだされてゐる。哲学上では、此の煩悩を肯定してくれる学説が無いから、実に苦しい。

藝術は、現実と理想とを合わせたものと、定義する事が出来る。芸術は虚偽と真実との調和である。

朱子学は、知識の学門で、陽明学は、創作の学門である。

陽明学は、心学であり道徳学であって、又生命の創作である。そして又宗教である。宗教とはその定義は難しいが、安心立命を得るものであれば、それは宗教である。

道は、不可視の世界である。真実と云ふものは、語られないものである。それ故、苦しんで自ら體験するより以外に、真実を知る術はない。

一切の事を、予め講究して置くは不可能の事である。只聖人は、平生に心を錬磨してある。それ故、機に臨んで変化窮まらず。
人間には、執着といふものがあって、過ぎ去った事をも心の中に留めてゐる。この執着が残ってゐる間は、次の事が出現しても、それを有りのまゝに写して、適宜の處置をする事は出来ぬ。

過ぎ去った事に執着が残って、腹が立ち愚痴を言っている間は、心の中に何ものが映って来ても、正確な影を映す事は出来ぬ。

客観主義である間は、安心を得られぬ。客観主義を離れ、内心の満足を得る事が、中和を致すと云う事である。

受け身の戦争は、子々孫々までするものではない。攻撃戦は、自分の選ぶ處を討つ、という便利がある。

陽明学を学ぶ者は、何時でも修養であり學問である。即ち、煩悩が心の中に跋扈して居らないか、胸中に正しからざる思念がないかを自省して、正しからざるものを正す事が、陽明学の大切な所である。それは、骨の折れる事ではあるが、最も面白いものである。

菩提の質糧は煩悩である。

哲人は、真理を求める為に修道の生活に入り、常人は、苦悩を解脱せん為に求道生活に入る。

奥深い道理よりも、自分の現在當面してゐる問題から、修養を始めよ。

人間にとっては、大病とか苦悩といふ事が甚だ大切である。苦悩に逢へば平生の心の用い方の拙であった事が解り、初めて真剣の修養問題になるのである。

梅花は、高潔なものであるが、雪がなかったならば、花の精神が振ひ立たない。又雪があっても梅花がなかったならば、俗になってしまふ。

梅とは、菩提とか道とかに譬へ、雪は煩悩に擬へて見る事が出来る。菩提とか智慧とかいふものは、煩悩とか苦悩があって、始めてその光を放つものである。

そこに、生々した魂が輝き出るのである。只煩悩や苦悩だけあって、菩提や道がなかったとしたなら、人は全く俗物に化する。

我々は、私欲私心に克たねばならぬ。克てば正道に復して精神が中和を得る。その境地が即ち仁である。一旦人の履み行ふべき道を誤っても、己に克って中道に復れば仁の徳になる。

人生種々の不幸は、一言すれば不調和より来る。人若し心中の不調和あらば憤怒となり、愚痴となり、爭論となり、痴病となる。

そして、この不調和を除くものは哲学の智慧なり。一たびこの智慧を発見せば、心中百千の不調和を除去し、音楽的生命を生ずべし、と。

されど、人心に不調和を生ぜしむるもの種々あり。その最も大なるものは死生の問題なり。人一たび怖畏を懐かんか。心中常に動乱して、調和の生命を喪失す。

陽明三十七歳にして、龍場の適處に在りし時、利害 得喪 栄辱すべての難関を通過し、これを忘るゝを得たれども、死生の一念に至りて、これを通過するを得ず。苦悩怖畏の頂上に達したりと言ふ。

道徳は、差別有限の上に立ち、宗教は、絶対無限の上に存立す。無限に入るが故に罪悪消滅す。罪悪滅するが故に解脱す。

解脱は、宗教の目的なり。科学的見地に往する人の宗教に入り難きは、因果観念に制約せらるゝが故なり。人若し因果の束縛を離るゝ得ば、超然として無限光明の世界に入り得べし。

古来、大聖人と仰がれたる孔子の行為も推し詰めてみれば、只自然の道理に循い、當然の人情に合するに過ぎないので、一言にして云えば、中和を得た人と云える。

佛教の中で、煩悩を滅する事が必要であると、考へた人もあった。さうすれば人間が小型になるのである。然るに大乗の人は、煩悩と菩提とは変らぬ。煩悩を整理して中和を得しむれば、それが即ち菩提である。と、言ふのである。

乱れ髪に櫛を入るれば、綺麗な髪になり、乱れているからと言って、根こそぎに髪を斬り去れば、綺麗な髪は無くなって仕舞う。欲心を一つも無いようにするならば、枯木寒巖の無活動の人物になる。

淡窓先生は、五十歳以前は人生の事、見ること聞く事、全てが矛盾衝突で、怒りの心を制するに苦しんだ。然るに五十歳以後に至って、人生の事を深く観察すれば、人生には無理はない。凡ては、よく調和していると悟った。

それから、怒りや不平も解けて天命を楽しむ事になった。自分の心が調和を得た時に、客観の世界も調和を得る。

人間で、一番困る問題は何かと問へば、それは名利と云う事である。一生涯人の悩まされるものはこの名利である。

併し、実があれば隠そうとしてもかくされず、名が次第に顕れて来る。併し、これが我々の悟り切れない所で、実さへあれば名が出ると信じていても、それを待つ間が余りにも永いので、名の顕れるまで待ちきれないのである。

名が顕れるまでの間に於いて、着てゆかねばならない、食うてゆかねばならない。又妻子をも養ってゆかねばんらないのである。だから、花火の如くパッと名が上がって、人に持て囃されたいと焦るが、それが中々思ふようにゆかぬ。其処が人生の悲劇である。

実を務めたといふ人は、何時か実力を顕はして来る。実を務めない人は、或る程度まで行けば、行き詰まってしまう。

五十になっても道を聞かない人は、其の後に道を聞いて発憤しても、何程の事業も出来ぬから、そんな人は畏るに足らぬ。

悔悟して改むるは上等の人物。悔悟の念だけ懐いて、済まぬ~と言うて暮す人は、真の悔悟ではない。悔悟し過ぎて自ら死を求むる人は、小人物である。

一度も過たぬと言ふは、左程困難ではないが、一度味を覚えた過失は、これを制する事は容易ではない、故に過ちを再びしない方が難しい。

自己の道心に訴へて、一番気持ちの良いもの、宜しいと思ふもの、これが義である。

一心さへ統一してしまえば、師匠の前に出た時、ニッコリとして、顔色が輝いて来る。

芸術の源泉は、理想的実在の世界に或る。これを知り得るは、芸術的天才の仕事である。

吾人の真生命は、不断の流行であるから、新生活へと進み行く人は、生命の流れに順ずるから、身心爽快にして、創造的進化を成し遂げて行く。

もうこれで良いと進行を停止する人は、生命の流れに背いて、水の流れを堰き止めるから、生命の硬化を生じ、精神は物質に変ずる。

男子は、常に口を締めておらねばならぬ。心がうはの空ならば、口が開いて来るものであり、心がしまれば、口が自然にしまる。

佛教の真理を学ぶと、次第に我心の理を尋ねる事になる。聖人の道を学ぶと、結局我心の理を尋ねる事になる。

絶対を知らぬ者は救われぬ、絶対が調和だといふ事が解れば、不平や怨言は言へない。現在の境遇が苦しい、妻は病む 子供は無理を言ふ 経済には追われる。それは已むを得ずして起った事である。

過去の因縁である、致し方ないのである。然し、明日以後は奮励でなければならい。現実には不足は言わず、明日は奮励となれば、宗教の世界に入ったのである。

人情は不運不幸を憎む。併し、其処が修養を要する處で、天下の大業を成し遂げた人は、最初は概ね不幸せであった。

故に、我々の身上に貧乏が起る、人に軽蔑せられる、病気になる、人に誤解せられるといふ間に、本當に發奮努力する心も生じる。

哲学者は、哲学の終る處即ち宗教となり。道徳は、その窮まる處が即ち宗教である。

自分は、小さい仕事をやっているといふ間は、仕事が小さいと共に自分も小さい。仕事は小さくても、この事が、国家の大事業であるとの信念に立つ事が大切である。

武士は戦場に臨めば、討死をするものと覚悟を決めてゐる。故に、戦ひの前夜もよく眠り、平日の気分で戦場に臨むが、世間の人は勝つか負けるか、死ぬるか生くるかと心配して、種々の計らいを交へるから、前夜から眠られぬ。

戦わぬ先に、心身共に疲れ切って仕舞う。それでは、翌日敵に逢うて元気よく槍を合わせる事が出来ぬ。

真偽の問題は学問上に於いて起こり、善悪の問題は道徳上に於いて起こり、美醜の問題は芸術上に於いて起こる。

朱子は偉いが、朱子に反対しなければならないのは、格物の問題である。天下一切の事物の理を知るといふは、絶対に出来ぬことである。

人間には個性があって、農業 工業 音楽 絵畫自分の適する事を学んで、それで生活するが宜しい。併し、萬人皆学ばなければならないのは、良知の学である。

人心には、記憶 想像 理性の三能力がある。歴史は記憶の学、詩は想像の学、哲学は理性の学である。

哲学を知らぬ人は、災難に遭うた時に人を尤める。哲学を学びつゝある人は、不仕合せ時自分を尤める。哲学に熱し切ってしまえば、自他ともに尤むる所なし。

王学の真訣は、渾身の功夫を致して、邪悪の一念を掃蕩し、天理を体現し、昭明霊覚なる良知を活現し、機に触れ事に随って、活殺自在の活動力を発揮し、実践躬行のを宗旨とする厳正なる修身学、人格学たる所にある。

陽明は、自己の学説を実生活に具現して、思想即人格 学説即生活の一如に達観し、終生堅忍克闘の意力と万死不屈の気力とを以って、錬成された崇高なる彼の道徳的品性は、巍然として卓立し、万世に異彩を放っている。

此の四言の教えは、陽明王文成公 始めて門に入る人に授けたまひたる定法にて、人々受容すべき心法の大規也。

大学の身を修むる工夫にして、古聖人の天に継で、其の道を直ぐに人に示し給ひし。嫡々相承の道統の要文、人皆嘗て尭舜となるべき大典也。

是を外にして、道を立つるを異端と云ふ。是を似せて効をとるを覇術と云ふ。是に背くを悪と云ふ。是を知らざるを愚と云ふ。

故に、凡そ聖人の道を学ばんと思ふ人は、必ず斎戒沐浴して、敬て是を受け起居動静無間断、これを服膺すべきところ也。

我、王文成公の御教に従って、堯舜の道に入むと思ふ人は、此、四言の第一句を初入門の誓約と心得、斎戒沐浴して之を受け、其善を為し其惡を去り、堯舜の徒となるに当りては、身命を捨るは本望なりと心得て、自其本心に誓ふべし。

於茲、丈夫に性根を据えて志を立得定る時は、世上一切の利害 名聞 得喪の類は、誠に浮雲の大空を渡るを見るが如くにて、心の動かざるに至るべし。

是を、本心を立つると云ふ。我本心は即天心なり。何ぞ天に継の道にあらずと言はむ。故に此の学に入よりはや、忽ち善人と成るの証拠明白也。

是、堯舜道統の正伝にして、孔孟の学派なる事何の疑ひあらずや、能々尊信敬受仕奉るべき也。

心は、声も臭いも無し、故に善悪の名付くべきなし。これ心は体にて至善をなすものなり。人々力を用ひて至るべき目当て也。

学ぶもの、格物の段に於て覚悟を定めて、善は生命にかへて成さん。悪は骨を粉にするも、去らんと十分に思ひ入りたる以上は、十の内七八迄は進むべし。

然れども、其知れる所必ず良知より出づるにあらざれば、其善なりと思ふ事に悪なる事ありて、其悪なりと思ふ事に悪ならざるものあるべし。

夫れ良知は 心の光なり。善悪を照らすこと白日の黒白を分かつが如し。然れども気質の備へによりて、様々の違ひあること免れず。

其の、様々の違ひとは一也といへども、剛柔善悪の下地の気質によりて、照らすところ一様ならず。良知は、本体のまゝにして、人為にわたらざるもの也。

意の在るところを物と云ふ。天下の事々物々は皆この意あり。其の意の善を為し、其の意の悪を去るを格物と云ふ。

それ学問は、悪人を免れて善人とならむと欲するが為らずや。善人の至極は堯舜にも進むべし。悪人の至極は桀紂にも陥るべし。

其の界は一念の間に在り、善人にならむ願はば善を為すべし。悪人を免れんとならば、悪を去るべし。悪を去を不正を正すと云。善をなす正しきにかへると云。不正を去て正にかへる、これを物を格す云。

無心の心と申すは本心と同じ事にて、固より定まりたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身に広がりて全体に行渡るを無心と申す也。

どっこにも置かぬ心也。石か気のやうにではなく、留まる所なき無心と申す也。留まれば心に物があり、留まる所なければ心に何も無し。心に何もなきを無心の心と申し、又無心無念とも申候。

心即理 性即理、心即理にして、理自体は善無く悪無く、理に従って動く時始めて善、理に従わずして動く時悪。而して心の本体は、即ち性は無善無悪なり。

今の学者は、孔孟を宗びて釈・老・楊・墨を擯賤する事を知っていると謂うけれども、記誦 詞章 功利 訓話の四家に耽り。

釈 老 楊 墨さえも学求する仁義性命も無視して、精神的修錬欠くを以て、此の点実に
釈 老 楊 墨の徒に及ばないと概観す。

苟も仁義生命を求め、記誦 詞章 訓話を外にるあらば、釈 老 楊 墨の偏に陥り、上下一貫の妙旨に及ばないけれども、我は尚、賢なるものであろうと論じておる。

儒仏共に、養心を説くけれども、儒の養心は世間的にして、倫常事物離卻せず。明明徳・親民を高唱し、天則の自然に順応す。

これに対し仏・老の養心は、明明徳を説くも倫事物遠離し、親民 治国を無視し、心ば幻想と為して空寂虚静を成らしめるのみである。

陽明は、資性洒脱豪放にして、少年期から特に洒脱的な禅機性を現し、沈思 瞑想 静座 澄心的行修を成す事が常であった。

壮年期に及んで、彼の禅機は益々圓熟俊鋭の域に達し、性格と思想とは多分に禅的なものとなるに至った。

子程子の曰く、大学は孔子の遺書にして、初学徳に入るの門なリ。今に於いて、古人の学を為る次第を見る事の出来るのは、凡て篇の在するに頼るのである。而して論孟は之に次ぐ可きものである。学者は是に由って学んだならば、則ち違いはないのである。

かくの如き時代に在りては、如何に徳行を重んずるとも、其の徳をして真に実現せしむる事は出来ない。而して、凡そ吾人の行為は、各自の悟了せる所に従って為さねばならぬ。

各自の判断力を使用しないで、徒に、傳統的習慣に盲従する事は、未だ真の徳行と云う事は出来ぬ。知らずしてなすのは、假令中る事があっても偶々中ったばかりである。

徳行の根拠は、知識にあるのである。故に徳を行わんとするには先ず、徳の何たるかを知らねばならぬ。

而も、かくの如き時代に在っては、真の知識の標準の定まっていない以上、徳の何たるかをも知る事が出来ない。

彼の、高遠な理想のみを高唱して以て、実行の如何を顧みない空想家、或は瞑想家に反省を促した者は、此の知行合一説である。

或は恰も、餓餽のやうに唯利欲のみを追求して、少しく人生の高尚なる本心を忘却せる者に、覚醒を与えた者も此の知行合一説である。

言は知である。事は行である。言も事も共に「こと」と訓む。依って合一する。

文は知である。履は行である。文も履も「ふみ」と訓む。依って合一する。

外に願ふ百の思案を打ち捨てゝ、良知の外に利も徳もなし。

良知は、心的方面にして 致は行的方面である。而し、此の心的方面は単なる心ではなくて、宇宙の心である 万物の精神である。如く、遂に全宇宙の根本原理、或は実在の概念まで到達したのである。

良知の命令に従って行動すれば、行動後には自身に快楽を感ずるが、これに反して行動すれば、苦痛を感ずる。

至善止まりぬれば、、苦しみの海の水ひてたのしみの國。

降ると見ば積らぬ先に拂へ、ただ風ある松に雪折れはなし。

吾々の心中には、箇の聖人が宿っている。即ち良知である。その根本に於いて、即ち宇宙の本体たる良知より、分離されたものとして同じものである。

而して、吾々は唯心中に良知の存在する事ばかりを、知る事を目的とすべきものではない。必ず、心中の良知と宇宙本体の良知の合する所が、自から何等かの形式となって、表現せられねばならない。

聖人  自然のまゝにして労せずして良知を発現せしむ  生地安行
賢人  勉強して良知を発現せしむ           学知李行
凡人  困学して良知を発現せしむ           困知利行
愚人  自ら蔽眛して良知を発現せしむるを肯ぜざる者  困不学者

聖人の良知は 青天白日の如し
賢人の良知は 白雲聚散の如し
凡人の良知は 雨天の如し
悪人の良知は 暗夜の如し

陽明の致良知は、暗夜を転じて雨天となし、雨天を転じて雲日と為し、雲日を転じて遂に白日と為すのと同称である。実に致良知は、「發輝良心之光明」を意味するのみである。

良知は道である 神である。致すとは、萬物の霊たる人の致す事である。かくして始めて神に光があり、又道が輝くに至るのである。

心の本体は、則ち昭明霊覚である 寂然不動である 廓然太公である 未発の中である。何を以てか、善悪の比較対象すべきものが、あるかないかである。

則ち所謂、粋然として至善なるもので、之を亦、超越的善の状態と謂ふ事が出来る。故に之を無善無悪と云ふのである。然し乍ら、意は本体を以て発動する事がある。

過不及を以て発動する事もある。本体を以て発動するものを善となし、過不及を以て発動するものを悪となすのである。故に、意に就いては、不善不悪と云うのである。

斯くて、心の本体は昭明霊覚であるからして、誰か本体の善を為し、誰が過不及の悪を為すか。吾が心の霊は自ら之を知っている。

これは、良知に外ならないのである。而して、行為につきて善を知る時は、則ち之を為し悪を知る時は、則ち之を去るのである。之が格物であって、良知の指揮の下に於ける、知行合一を意味するのである。

真に、学説をして学説とするものは、教育として如何に卓越した学説があっても、若し之をして、普及傳達せしめる教育がなかったならば、此の学説は死んだものと云っても宜しい。

教がなければ、道も修する事が出来ず。道がなければ、性に率ふる事も出来ず。性がなければ、天も命ずる事がないのである。

実に天命をして、天命たらしむるものも、性をして性たらしむるものも、道をして道たらしむるものも教育である。

人生は努力主義である。努力を離れて如何にして吾人は、一歩にても進歩発展して云ふ事が出来ない。

王学は厳正なる実学である。実践躬行は、王学の肉であり血であり骨である。如何に明見卓識博学古今を曠うすると云っても、実学が之に伴はなかったならば、何等の価値もなく意義もない。

王学を研究して、実践体得を忘れるのは、是れ王学の大賊である。

抑々、王陽明の学は陸象山に基き、陸象山の学は近く程明道の学風に依りて、啓発せられたる如きも、象山自身は遠く孟子に基くと稱す。

王学にて云えば、心の良知を以て心の本体とし、統ては良知の作用に外ならずとし、此の本体を存して、之を自々物々に致す事に力を用ふる在り。

随って陸王学は、朱子学にて主張する所の、即物窮理といふ如き煩瑣な方法を取らず、一に其の心を信じ、其の心を主とし、其の心を命ずる所に従って、行動をするを旨とする。

修養法としては、極めて易簡直截なるに在り。修養法としては、誠に棄て難き長所なるも、之を一方より観察すれば、其處に爭うべあからざる缺陥あり。

即ち、陸王学は偏に心を重んずる結果、知を軽んずる事となり、物理の研究を忽せにして、一に心の作用に任せんとするより、知界侠溢にて 独断自ら用ふる弊に陥り易い。

随って、事に臨みて其監察と判断とを、誤る事なしといふべからず。然りと雖、陸王学の特色は、篤く其心を信じ命ずる所に従って、邁進せんとする聲固なる精神は、自ら人をして勇敢ならしめ 果断ならしめ、事に臨みて逡巡起趄せず、勇往せしめずんば已まず。

陸王の教は、人の独立的精神を鼓舞いし、人をして所謂困難をも意とせず、其信ずる所に向って、勇往せしめずんば已まざるもの也。

されば、現代生存競争の益熾烈なるにつれて、青年の意気漸く銷枕せんとし、世途の風波愈険悪なるにつれて、青年の気風漸く薄志弱行に陥らんとす。

此の時に当たり、陸王二子の教えの如きは、此の時弊を匡救して、国民の元気を作興し、これをして、不屈不撓の精神気魂を、養成せしむるものなくんば非ず。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2016-11-19 06:43:28

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード