第四章 言志録(ハ、陽明学を共に学ぶ)

朱子は、本心の徳を明にして、之を吾身に実現するを以て、為学の目的とせるも、門学のの功によりて物理を究明し、心知を開発するにあらざれば、其目的をたっする能わず。

之を、大学の言に因りていへば、格物致知の功によらざれば、誠意 正心 修身に達する能はず。本心の徳を明にして、之を実現するは終極の目的なるも、此目的を達する為には、必ずや門学の功によりて、其知を究めざるべからず。

其動を門学の上に置けり。されば朱子は決して門学にのみ心を用ゐて、本心を閉脚せるにあらず。門学に道るは、本心の明に達する為の過程にして、門学に道らずしては本心の明に達する能はずとして、其処に其主張を置きしなり。

象山は、孟子の此語を借りて、人たる者は必ず本心あり、之を失ふことなく常に其心の命ずる所に従って行動すれば、自ら道に合致するものなるを説きしなり。

然かも真に心を保持し、本心の命ずる所に従って行動する事は、資質聰明の人ならでは可能ならず、一般の人に在りては其本心とする所のものは、真の本心にあらずして人心なり。

若し、偏に人心の動く所に従はば、過罪に陥らざる少し。されば一般の人に在りては、必ず講学の功によりて、先づ其本心を明にせざるべからず。是れ学問の必要ある所以なり。

朱子の格物説は、徳性の知のみならず、自然界の知をも兼該せるものにして、真に天地万物の理を包括して、余す所なく其意義極めて広凡なり。

之を、現代の学術上より見るも其説には、精神科学の外に、自然科学をも包含せるものにし学て、学術解説として其正當を得たるものと信ず。

然も、其意義広汎なるだけ身心修養の上より見れば、少しく漠然として適切ならざる所あり。其結果知的探求に偏して、心的体験を忽せにするの弊に陥り易き所なきに非ず。

一方、陽明の挌知説は致知の知を主として、徳性の知にのみ限りて之を解釈し、心の不正を正して、心の良知を事物の上に致すべとせるものにて、身心修養より上より之を見れば、適切にして要領を得たるを覚ゆる。

之を学術上より見れば、其意義狭狭隘隘にして全からず。心的修養に偏して、知的探求を忽せにするの弊に陥り易し。

王陽明の主張に至りては、初めより、全然自然界の知を除外せるものにして、従って初めより狭隘固陋の弊あり。省察努力の功によりて、其弊を救ひ得べきにあらず。

依って、思想界に於ける勢力影響の上より見れば、陸王の学は朱学の大なるに及ばず、只、陸王学の出現に依りて、近世支那思想界に一種清新なる気味を加へた。

そして、思想界の活躍を招来すると同時に、甚大なる影響を及ぼし、朱学と相待ちて、世道人心人心の上に大いに寄與する所ありたるは、支那思想史上特に刮目して看守すべき所とす。

陸学は、所謂心学にして、一切利欲の念を去りて吾が心を存し、徳性を尊んで問学の末に趨らざるを以て、其学の本領とせり。

陽明の所謂心即理とは、人心即天理の義にて、天地萬物の理は、皆悉く人心に具材せざるなく、秋毫も外救を借らずとなり。

是れ、孟子の萬物皆備於我の意に外ならず。陽明は、人の稟生以前は理を中心として、之を解釈し、人の稟生以後は心を中心として、之を解釈せんとした。

朱子が、主力を為学の功夫たる挌知の上に置けるに対し、陽明は、陸象山の如く主力を為学の目的たる誠意の上に置ける。さりとて、陽明は挌知を軽んじたるにあらず。

陽明は、真理を力求する事三十年にして、始めて其真理に確信する所のものを得て、釋然自得するに至りしなり。

怵的惻隠の心起こるは、是れ本と虚霊なる吾心の良知が、其機に触れて自然に感發するもので、其間一点購求の功を須つ事無し。

されば、朱子学にて天理は事々物々に在りとし、事々物々につきて、豫眼其理を窮極遷都する事の其誤れるを説き、之と同時に人聖人に在らざるよりは其心蔽はるゝ所あり。

良知も、其處虚霊の用を全うする能はず、是に於いてか格物致知の功を要すし。而して、其格物致知の功は慎独に在り。

換言すれば、功夫を一念の微處に用ふるに在り。是れ中和を致して、良知の用を全うする所以なり。

心は意の本なり。源清ければ流亦清き理によりて、其の説を立てたるものにて、要は正心を以て先天の学とし、誠意を以て後天の学とす。

心上に根を立て、心巳に正しければ意自然に誠なり。是れ先天の学は、後天を統ぶるものなりとし、学門の立脚地を正心の上に置きしなり。

即ち、意とは本心自然の發用にて、本来善ならざるなし。只、本心を離れて之を起こすにより妄となる。而して、千罪萬悪是より生ず。

意を起さずには、欲を未萌に防ぐに外ならずと也。又本心自然の発動に由る所の意は、是れ良知の妙用にして起るといふべからず。

凡そ、学に貴ぶ所は得悟に在り、得悟に就きては師門に三種の教法あり、解悟 證悟 徹悟是也。知解よりして得るものを解悟といひ、静座によりて得るものを證悟といひ、人事の練習によりて得るものを徹悟といふ。

38.9度の熱が出ているため休養します。宜しく願い上げます。

ご無音に打ち過ぎ済みませんでした。
お陰様で容体が快方に向いつゝありますので、再開致します。
今後共ご高覧戴ければ幸いです。

解悟と證悟とは、未だ悟の至れるものにあらず。徹悟こそ其至れるものにて正法眼蔵なり。

陽明は、多くの学徒が徒に其心を動乱せしむたるを見て、初は黙坐澄心を以て学者に教へ、黙坐澄心の功夫によりて、天理を体認せしめんとせり。

然るに、其結果学者多く静を喜みて動を悪み、漸く禅定に陥らんとするの弊あるを認めしかば、此弊を矯正せんが為此に致良知の説を唱へたり。

所謂、物とは物有本末の物にて、吾身と天下國家と是なり。而して吾身は本にして、天下國家は末なり。吾身正しければ、天下國家は自ら正しく、吾身正しからざれば、天下國家亦正しからず。

故に、天下國家の正と不正とは、吾身の正と不正とに随って、定まる事を知りて、先づ、吾身を正しくして、天下國家の準則とし、之をも正しからむを、之を挌といふ。

王陽明の学門が、何故に我國傳來後も朱子学と拮抗する能はざりしか、其原因を察するに二あり。

其一つは、両者の学風に於いて、主として内面的主観的功夫にのみ偏たる陽明の学風は、内外両面より、即ち主観 客観両面より功夫を用ゐたる朱子の学風の完全なるに如かざること是なり。

即ち、朱子の学風は内外より換言すれば、主観 客観より広く其心知を開發し、之を実行に資せんとするものである。

為学の功夫としては、其完きを得たるものと云ふべきも、陽明の学風は、独り内心のみを偏主し、主観的功夫のみを重んずる処有り。

そして、客観的功夫を棄てゝ顧みず、これ為学の功夫としては、一方に偏したるものにて、斯くては完全に心知を開發して事に臨み、正當に之を観察し 判断し 處理し得るを保すべからず。

斯くて陽明の学風は、其心のみを主とする点に於て、易簡直截の長所を有するも、其知狭溢にして、為学の功夫としては完からず。

朱子の学風は、内外両面より致知の功夫を用いるより、煩瑣渉短所はあるも、其知の博淵にして為学は、功夫にしては其完きを得たり。

是れ学問の本体より見て、陽明学の偏内的学風は、到底朱子学の内外兼学の学風に及ばず。随って、意に朱子学とは対抗的地位を有する能はず。

第二は、陽明学の我國への傳來は、遥に朱子学に遅れたること是なり。然かも朱子学の堂々たる官学に対して、陽明学は一個の私学に過ぎず、随って其流行の度に於て、到底朱子学の盛んに及ばず。

朱子学の弊は、知的研究に没頭して自ら学究的となり、実行に疏なるを免れず。然るに陽明学は、心を首とし致良知を信條として、邁進するを以て主義とす。

されば、行に偏して知に疏なるを免れざるも、事に臨て其良知の指示する所により、之を敢行して顧みざるを長所とす。

されば、朱子学のみを以てしては、我國の学術界は一種清新なる気味を注入せられ、一段の活気を呈することゝなれり。

西郷南洲は、佐藤一斉の言志録につき、之が抄本を作りて自ら修養の資とせるが、又その自著に南洲遺訓一巻有り。之によりて見ると其心を修むる所は、陽明学から来れるが如し。

而も南洲は、其の人と為り至誠一巻秋豪の私意を挟まず。名利の外に起出せる大人物にて、一意天下を以て会とせる豪傑の士也。

幕末維新の際に於ける、政治界と思想界との関係を見るに、概して朱子学者は其大義名分論により、寧ろ、王政維新気運を醞醸開発する方面に力を致し、陽明学者は、其致良知の主義により、王政維新の大業の実現に力を致せる事となるが如し。

日本に於ける陽明学者は、単に、陽明学のみを守りて足れりせるにあらずして、必ず之を我國固有の神道と結合せんと力めたり。

維新後、一向に西洋文明に心酔せるより、一時我朝野を挙げて外尊内卑に陥り、一切の我國固有の精神文明を棄て、一に彼の物質文明を追はんせる事ありし結果に、之が為め爾来我國民の心裡に、大なる缺陥を生ずるに至り。

外来の新奇なる思想に対し、自主的に選択取捨を加ふるを能はず。一に之に追随する者を生じ、其極我國の思想界を攪乱し、少からざる困難なる状態を惹起するに至れり。

然りと雖も、我國の國体の尊厳と卓越せる精神文明とは、依然として厳在し今昔に異たらず。されば、現在の混乱せる思想界の状態も、自然我國民の覚醒と同化力に依りて遠からず。

其安定を得るに至るを期待すべく、又識者の努力依りてかゝる時期の、一日も早く到来せん事を翹望して已まない。

中江藤樹;心事元是一也故に事善にして、心善ならざる者は未だ是あらず。心善にして事善ならざる者も亦、未だ是あらず。

狂者が世故を軽蔑し、且盡く人情に合わざるは未だ、精微中庸の道に入らざるが故なり。又郷原の孝弟 忠信 廉潔 無欲の如きは、盡く世の媚び許容を求むるの穢膓よりあらはるゝ所なり。

君子は、太極を立て外を願わず。天下に於て適無く莫無し。是を以て死生窮達 貧富貴賎 得失禍福 皆寒暑風雨の序を為すが如し。故に君子は唯良知を致すのみ。

大学の要は誠意にあり。誠意に功は格物致知にあり。

正真の学;伏犠氏ををしへはじめのたまう、儒道 天道の神理にかなふ私をすて、義をもっぱらとし、自慢の心のなきようにたしなむを工夫のまなことす。

親には孝行を尽し、主君に忠節をいたし、兄弟の間は悌惠をきはめ、友だちのまじはりは、いつはりなくたのもしく、五典を第一のつとめとする。

贋の学;博学のほまれを専らにし、まされる人をねたみ、おのれが名を高くせんとのみ。高滿の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすらに紀誦 詞章の芸ばかりをつとめとする。

訓話を学び、其のあとをよくわきまへ、その心をよくとりもちひて、わが心の師範となし、意を誠にし、心をただしくすれば、聖賢の心すなはちわが心となる。

我心すなはち、聖賢の心にたがわず、心聖賢の心にたがわざれば、言行すなはち、聖賢時中の言行にそむかず、かやうにまなぶを正真の学門と云うなり。

其心潔く、行跡を正しくする思案工夫のある人は、書物を読まずして、一文不通なりとも学問する人なり。

身を修する思案工夫なき人は、書物を夜晝手を離さず読むと言うとも、学問する人にあらず。大昔、文字なき代には書物なきによって、只聖人の言行を手本として、学問をつとめたり。

況して、末代聖賢のましまさぬ時に、鏡とさだむる聖径賢傳をすてゝ講ぜず、くらく迷ひたる心まかせにて、学問したるがよきなどいへるは、燈をすてゝ暗室に物をたづぬるが如し。

聖賢四書五経の心をかがみとして、我心を正しくするは、始終心の上の学なれば心学とも言うなり。

我身は、父母にうけ 父母の身は天地にうけ 天地は太虚にうけたるものなれば、本来わが身は、太虚神明の分身の変化となる。

身を以て、道をおこなふ本は明徳にあり。明徳を明らかにする本は、良知を鏡として独を
慎むにあり。

儒道が孝徳であり 道心であり 明徳であり 宇宙唯一の実在であり 萬物の根本原理であり、天地人三才を一貫する治徳要道であることは、道は外に非ずして性に率ふことである。

先、自満の浮気名利の欲心をすて、間想雑慮の妄をのぞき、明徳の心源をすまし、全孝の心法を受用するを根本第一とす。

さて、世間に交わる禮儀作法は、其國其處の風俗を本とし、何事も圭角なく目にたたぬ様に取り成し、如何にも作法恭しく謙徳を守る事が肝要なり。

かりそめにも、人にまさらんとあらそう魔心なく、孝悌忠信の道を根に入れてつとめ行ひ、親には孝行をつくし、君につかへては忠節をはげますこと。

よりおや 位高き人 年老いたる人 得高き人などをよくうやまひ、友だちにたのもしく義理をたて、兄弟の間には友恭をおこなひ、妻子には義慈をほどこすべし。かくのごとくおこなふを、儒道をおこなふとは云ふ也。

釈尊、十九にして天子の位を棄て山に入り、三十成道の後人間本文の生理を営まず、或時は乞食し 人倫を外にし 人事を厭ひ棄て、種々の権敎方便説を説きて、愚民を誑誘召されたる事。

皆是れ、無欲 無為 自然 清浄の位を極上と定め、元氣の霊覚に任せたる豪髪の差より起りたる、無欲の妄行の誤り也。

格物とは、心の事を正す事である。即ち不善を去り善にかへす事である。物を正すとは、其心をの物を正すなり。其意の物を正すなり。其の知のものを正すなり。

孝徳の感通を、てぢかくなづけいへば、愛敬の二字につづまれり。愛はねんごろにしたしむ意なり。敬は上をうやまひ下をかろしめあなどらざるの義なり。

格物とは、心の事を正すのである。即ち、不善を去り善にかへすことである。物を正すとは其心の物を正すなり。其意の物を正すなり。その知のものを正すなり。

孝徳の感通をてぢかくなづけいへば、愛敬の二字につづまれり。愛はねんごろにしたしむ意なり。敬は上をうやまひ下をかろしのあなどらざるの義なり。

わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、天地は太虚にうけるものなれば、本来わが身は太虚神明の分身変化なるゆえに、太虚神明の本躰をあきらかにして、失はざるを身をたっとぶと云うなり。

身をたると云ふは、我身は元来父母に受けたるものなれば、わが身を父母の身と思ひ定めて、かりそめにも不義無道行はず、父母の身を我身と思ひ定めて、いかにも大切に愛敬して、物我のへだてなき大通一貫の身をたつる也。

わたくしは、我身をわが物と思ふよりおこれり、孝はその私をやぶりすつる主人公なる故に、孝徳の本然をさとり得ざるときは、博学多才なりとも真実の儒者にあらず。まして愚不肖は禽獣にちかき人なるべし。

大根本の思を忘れて、父母をば愛敬せずして、枝葉の小さき思を報いんと、他人を愛敬するを不孝といひ悖徳という。悖徳の人は、たとひ才能人にすぐれたりとも真実の人にあらず。必ず終には神明の罰に当るもの也。

父母ふぎあらば、何となく父母の感悟のある様に諫むべし。感悟なきときは、是非利害をあきらかに語り述べて諫むべし。

もし、父母よろこばずしていかりを成さば、別して色をよろこばしめ、孝を起こし敬を起こしておやのいかりにさからふべからず。かくのごとくいくたびもいさめ、或は、親のあひくちの友をたのみて、いさむべし。

俗儒は、儒道の書物をよみ 訓話を覚え 記誦詞章をもっぱらとし、耳に聞き 口に説くばかりにして 徳をしり 道を行なわざるもの也。

墨家は、儒道の至公博愛をの仁を学びそこなひて、本末先後の序をみだるもの也。楊氏は、為己慎独の密を学びそこなひて、一貫の眞を失ふもの也。老氏仏氏は、無方無躰の神易をみて、中和の骨髄を失ふもの也。

記誦詞章の学門とは、四書五経、その他諸子百家の書を残らず読み覚え、文を書き詩を作り口耳飾り、利祿のもとめをのみして、心の驕慢いとふかきを云ふ。

正真の学門とは、先づ明徳をあきらかにするを志の根本と定め、四書五経の心を師とし、應事接物の境界を礪石となす。

明徳の寶珠をみがき、五等の孝行五倫のみちの至業をよく行ひ、太和を保合して利貞なれば、時に逢うてもちひらるゝときは、ひとりその身をよくし、性を盡し命にいたりて孔孟の教化をなす。

世間の武功ある人を見るに、大概この沈勇おはし。みかけはおかみのやうに、たけくいかつにして、抜群に臆病なる人あり。

根本の侍の品上中下の三段あり。明徳十分にあきらかに、名利私欲のわづらひなく、仁義の大要ありて、文武兼ね備わりたるを上とす。

十分に明徳はあきらかならねども、財寶利欲の迷ひなく、功名節義を身にかへて守りぬるを中とす。表向きばかり義理だてをして、心には財寶利欲立身のみむさぼりぬるを下とす。

才も功も徳を根本とし、得は中和を以て大本とす。才も徳も義理にかなはねば、真実の才功にあらず。

惣持て、天地万物皆精は少なく、粗は多きことわりにて、人のかたちにて見るに、眼はかたちの精なれば只二つあり、毛髪はかたちの粗なればその数多し。

その物のうちにして、精なるものは、その物のかなめとなり主となり。粗は精に従うものなり。しかるによって人間の精を受けたる聖賢君子は、愚痴不肖のの主君として、愚不肖を治めて教へ給う。

粗を受けたる愚不肖は、聖賢君子の臣下として、聖賢の下知に従ふ。天命の本然なり。

聖賢の如くに、知恵の明らかならざるを愚痴とす。聖賢の如くに才能の達せざるを不肖とす。愚痴不肖といへども良知良能あり。その良知良能を失はざれば、愚痴不肖も善人の徒なり。

愚痴不肖を、そのまゝ悪人と云ふべきことわりなし。才あるものも才なきも知ある知なきも、形気邪欲におぼれ、本心の良知を失ふものを、おしなべて悪人とは云ふなれば、たとひ才智芸能すぐれをりとも、邪欲深くして良知暗きは悪人也。

それ学問は、心のけがれを清め身の行ひをよくするを本実とす。文字なき大むかしには基より、讀むべき書物なければ只、聖人の言行を手本として学問せしなり。

其心、いさぎよく行跡を正しくする思案工夫ある人は、物の本を読まずして一文不通なりとも学門する人なり。その心をあきらかにし、身を治むる思案工夫なき人は、四書五経をよるひる手を放さず、読むと云うとも学問する人にあらず。

人一たびして之を能くすれば、己之を百たびす。人十たびして之を能くすれば、己之を千たびす。果して此の道を能くすれば、悪と雖も必ず明かに柔と雖も必ず強なり。

仁道をよく学びて仁者の位に至りぬれば、人欲きよく尽きて天理流行し。なにほどすさまじき妖魔 虎狼などにあひても、常の人の狗猫などに逢ひたるごとくに、心におどろき恐るゝ事いさゝかなし。

もとより、百萬人の敵にあひ、剣の中或は猛火の内へとび入るとても、平生の心もちにて少しも違ふことなく、毛頭おどろきおそるゝ心なく、十分無理のけなげあり。

魔境におち入るとは、或は贋の学問にふけり、或は学問せざれども、暗處に魔を来たしぬれば、自満の心根かたくなり、枝葉しげりて異風になる。

人をば生ける虫とも思わず、天下に吾を超すべきものなどと、人を許さぬ高満をはなにあて、親おやがたの愚痴をさげしみおかしくおもう。

主君をそしり朋友をあざけりて、孝悌忠信の生道をさまたげ、悪魔と通じ悪魔と作法をあげするを、魔境におち入ると云ふなり。生まれつき利根無欲けなげる人、此病多し。

にせの学問する人に、世間の交わりをむづかしがり、困居を好み或は心気やみなどの如く、引きこもりなどするものあるは、高満の魔心深きゆゑに本来非もなき世間を非にみる。

親のする事も、兄弟のする事も、主君のあてがひも、朋友のなすわざも、皆わけもなき妄作なりと、得心することによって、右を見るも左を見るも、皆おのれが心にかなはぬ事ばかりなる故に、世間の交わりをいとひ、一人居ることを好むと知るべし。

立身の心がけ、商人の利心のごとく、貪り汚く義理をまぼらざる心にては、何の用に中立ちがたかるべし。

心いさぎよく、身をさまりて冥利の欲心なく、其境遇の勢やむことをえずして、主君をかへて奉公するは古来正しき士道なり。

又、その心けがれて身おさまらず、立身の欲心をのみ宗として何のすじ道もなく、事勢のやむことを得ざるにもあらで、主君をかぞへて貪りまはるは士道にあらず。

明徳仁義は、われ人の本心の異名也。此本心はいのちの根なれば、いきとしいける人間に明徳仁義の心なきは一人もなし。

親を愛するは仁なり、君に忠節を尽くすは義なり。この忠孝の心をあきらかにして正しく行ふを、明徳をあきらかにし仁義を行ふといふ。これを学ぶを心学と云う也。

聖人は日のごとし、狂者は星のごとし、ひるは日の光つよきによって、、星ありといえどもその光見えず。夜に入って日光てらしたまわねば、星の光あきらかなり。

目にて物を見るに、高きところより下を見おろすことは、見易くして分明なり。ひきゝ処より上を見上ぐることは、見えがたく分明ならざるものなり。

心にて心を観察するもかくのごとし。聖賢の心より狂者狷者朕心にて、聖賢の心を伺ひ見るは、谷にとぼせるたいまつにて、峯を見ることにならず。

しかる故に故に、真儒の心学の外の学問にては、中々わきまへ知ることなるべからず。唯真儒の心学をよく切磋琢磨して、大覚明悟の位に至りぬれば、荘子 釈迦 達磨などの心を観察すること、白盡に黒白をわかつごとくなるべし。

夫れ、人間は迷悟の二つにきはまれり。迷うときは凡夫なり、悟るときは聖賢君子菩薩なり。その迷と悟は一心にあり。

人欲深く無明の霊あって、心月の光かすかにしてやみの夜のごとくなるを、迷の心と云う也。学問修業の功つもりて人、欲きよくつきて無明の雲はれ、心月の霊光あきらかにてらすを悟りの心と云う。

佛者は、元気の霊気をさとりて至極と思、元神の霊覚をさとらず。唯、無欲無為自然を心法として、元気の霊覚に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり。

儒者は、理を窮性を盡して命に至るを心法とすれば、無欲清浄 無為自然 無礙のことは云におよばず、専元神の霊覚に率ふ故に、其心精妙にして、その行跡中正なり。

儒門の学者の力行する道は、峯までよく通しぬる定たる道を登るがごとし、平常不易の道なるが故に、是を天真と云なり。

佛家の学者の修業する道は、山八分に守れとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登るべき道なき所を、木かやを分けて登るがごとし。嶮迵にして道なく人間の通らざる所なる故に、これを妄行と云うなり。

真実の儒道をおこなふ工夫には、先自満の名利の欲心をすて、間思雑慮の妄をのぞき、明徳の心源をすまし、全孝の心法を受用するを根本第一とす。

天道の神理にそむくを欲とし妄とす、天道の神理にかなふを無欲とし無妄とす。神理にかなひぬれば、天子の位にのぼるも、財宝をたくはふるも、位をすつるも、位にのぼるも、財宝を蓄ふるも、皆欲なり妄なり。

間思雑慮とは、さしたる悪念にあらざれ共、思ひて益なくわけもなき事をくり返し~思出て、天真のわずらひとなるを間思と云ふなり。

応事接物の際、至善のある所を分別思慮する時に工夫専一ならず。他の念をとりまぜおこりて、感通のさはりとなるを雑慮と云ふなり。

その親を愛せずして、他人を愛する者之れを悖徳と云ふ。其の親を敬せずして、他人を敬する者之れ悖徳と云ふ。

良知とは、赤子孩提の時よりその親を愛敬する、最初一念を根本として、善悪の分別是非を真実に辯じる徳性のの知を云ふ。この良知は霊明なれば、いかなる愚痴不肖の凡夫心にも明にあるものなり。

軍陣戦場にて、武勇をはげみさきがけをして、軍功をなすときは、庇を被ふり討死するが孝行なり。若武勇をはげます軍功をたてざるときは、縦臆病の悪名を受けずとも、不幸なり。

三輪執斎:人心誠実の生意感發して、指之所のものこれを志と云う。学はこれを成すの道なり。

四言教:この四言の教えは、陽明王文成公の始て門に入人に授けたまひたる定法にて、人々受用すべき心法の大規矩也。

其の本は、大学の身を修る工夫にして、古聖人の天に継てその道を直に人に示給ひし、嫡々相承の道統の要文、人皆學学て堯舜となるべき大典也。

これを外にして、道をたつるを異端といふ。是を似せて効をとる覇術と云う。これにそむくを悪と云、これを知らざるを愚といふ。

故に、およそ聖人の道を学ぶと思ふ人は、必ず斉戒沐して敬んで是を受け、起居動性間断無く、これを服膺すべきところ也。

「無ㇾ善無ㇾ悪心之體」心は聲も臭みもなし。故に善悪の名付べきなし。これは心は體にして至善を成すもの也。人々力を用て至るべき所の目當也。

「有ㇾ善無ㇾ悪意之動」心一たび本體よりうごけば善となり。形気より動けば悪となる。うごくによりて善悪はわかるゝ也。是人々力をもちふるの場、学問の肝要なり。

「知ㇾ善知ㇾ悪是良知」悪念おこるといへども、本體の良知は未だ嘗て亡びず。此故に善悪をしらずといふ事なし。

良とは、こしらへたる事なく、直にすら~と出る事也。其おもひはからざれども、自然にしるものを良知といふ。是人々力を用ふるの規矩なり。

「爲ㇾ善去ㇾ悪是格物」意の在るところを物と云。天下の事々物々は皆此意在り。その意の善をなし其意悪を去るを格ㇾ物と云。人々力を用ふるの実効也。

凡天下の理は、心にそなはりて意にうごき、良知にてしり其物を格す。故に致知格物は誠意の工夫也。格物のはじめに先志を立て是を格すべし。

夫誠意の工夫は仁也、致知の工夫は知なり、格物の工夫は勇なり。此の三ツの工夫によりて三徳成就し、本心の正しきにかへる。その行の所以のものは一つの志也。志は心のさしゆくところ人の誠なり。其初志を立つること勇猛ならずんば、事々能その終を遂ること得んや。

それ学問は、悪人をまぬかれて善人とならむと欲するが爲ならずや。善人の至極は堯舜にも進むべし。悪人の至極は桀紂にも陥るべし。

其の境は一念の間に在り。善人にならむと願はば善をなすべし。悪人を免れんならば悪を去るべし。悪を去るを不正をただすと云ふ。

善をなすを正しきにかへると云、不正をを去て正にかへる、これが物を格す云・それ身に顕はるゝ善悪は、みな心よりでれば、先づ一念のおこる所いかむを察すべし。故に自反眞独の功をたつといふ。

天下の事々物々の理を外に窮たりとも、わが心のおこる所誠ならずば、窮得て却って害あるべし。天下の事々物々ことごとく知得たりとも、吾心しらずば亦害あるべし。

然れば、格すといふも、わが意の在るところをの物をただす事、致といふも、吾が意に於いて致すこと也。

善は、性命にかへても、必ず是をなさむ。悪は、骨を粉にすとも、必ず是を去らんとおもひ入て、三四分の善を務めてこれをなす。

三四分悪をつとめて、是を去ほどの力あれば、、一二分の善は骨をらずして成、一二分の悪は始より生ずるべからず。

唯真の聖学は、悪人の善人となるといふは、耳目のよくなるにもあらず。手足のよくなるにもあらず。只、此の心のよくなる事也。

上は人君より、下は士庶人に此外乞食にいたるまでみな人也。上は聖人より下は凡人此外異端邪類まで皆人也。人の真の人になる道を堯舜といふ。

さて、よく自反して我心見るに及びては、心元来一也といへども別れて二つとなる。一つは道心也。是天より受けたる性のまゝの良心也。その明をさして良知と云。

今一つは人心也、是はこの肉体より出たる所の気なり。その気のまゝ動くを人欲といふ。其の知慮千萬といへども、此二つより外はなし。

平生自反して、この二つのものをよくわきまへ、其人心の欲を去って、かの道心の性にするを性精一と云。

志を立得定る時は、世上一切の利害名聞得喪の類は、誠に浮雲の大空たわたるを見るがごとくにて、心動かざるにいたるべし。是をわが本心をたつると云。

人心は、生ものなればうごかぬといふ事なし。善にうごかざれば悪にうごくもの也。
古人の、悲哀の死を悲しむにあらず別をかなしむ也。こゝに行べき義理ありて、奥州へ行くあらば、父兄ともにすゝめてしむべし。しかれども旅立ちの朝は、必ず泪をもよほすべし。

これ、その奥州へ行を歎くにあらずしばしの別を惜むなり。死生は天地の理なり。何ぞ死をおしまんや。只一生の別をかなしむなり。

後世其身正しくて、下不ㇾ従は柔にて御座候、下従は強正なる者御座候、ともに其中を不ㇾ得候。従正は亡びおそく強正ははやく候。

勇不勇は、生付くにて候へども、強弱は習いにて候。

当世の譽れは後世のそしりとなり、今のそしりは後世のほまれとなる事、昔よりためしおほし。只道徳ばかり替なきものなる故に、忠臣 孝子 義士等の名は、いつも朽せず候。

愚痴の人に道理を説聞せ候は、瞽を集めて文章の見物を並べ、聾をよせて管弦の聲をなすが如し、といへりいひても聞知べからず。先日の前のことを以て申べし。

聖人と平人と性命の理に於いて、異なることなしいへども、其分量の大小各別なる所あり。たとへば山の井の水と河海との分量の如し。

水かわりなしといへども、其量ひろきが故に、大魚小魚をたくはへ、船をやり風波をおこし、天下の不通をわたす。

其妙あげてかぞへがたし、常人の心は此一間の空中のごとし。霊人の心は太虚の空中の如し、其空中にかはりなけれども、此一間はともし火まちて用を達す。

天地の空中には、日月星辰かゝり風雷雲雨をおこし、寒暑畫夜をなし、神物のおこる事言語にのべがたし。

大躰にしたがうものを大人とすれば、文学して道徳をたすくるものは君子の儒なり。小躰にしたがうものを小人とすれば、文学して産業とするものは小人の儒なり。

たとひ格法の学者、心志殊勝なる者ありて、行範とする事善あり共、人情に委しからでは遂られまじ候。

水はうるほふ所に流れ、火はかわく所につく如く、善人の門には吉事あつまり、悪人の家には凶事あつまるものなり。

義なきの無欲をば畜生欲といひ、義なき律義をば畜生りちぎと云。

気を主とするものは、比ときにあたってみな乱べし。理を主とするものは、其理を知て惑わず。

日本は邊土なれども、太陽の出給ふ國にして、人の気質尤霊なり。天竺のように輪廻の変をなすものはなし。霊たる故に欲もうすく、仁にも有が故なり。

心は常の心なり、春夏秋冬則我心なり。心の中に此身生出たるは、太虚の青天にうき雲の一むら出たるが如し。死するは其霊の切ゆるが如し。

身死すれば、此形に付たる情欲の心はなくなるなり。気は今も天地とひとつなり。天にかへるまでもなく、今よりひとつなり。形は今も地上にあり、死すれば土中にうづみて、土とひとつにになる道理なり。

佛氏の慈悲といふは、乞食に物をとらせるなどする事、人をあはれむ事をこしらへて慈悲とす。これを以菩薩の修行となす。

それ仁は、天地の物を生育し給ふ根本の生理なり。人に有ては心の徳たり、無欲無我にして万物を以て一身体とす。

其物をあはれみ施しすくふことは、無心自然の用なり。こしらへてすることなし。天竺の者は禽獣に近し。

佛氏は、其日暮しに物を蓄ずをしまざるを無欲として、無欲を事にこしらへたるものなり。又これ理を知らで氣のみとれり。

人道の無欲は大に異なり、只義ある事を知て利を知らず、其義に従って私心なきを無欲とす。とるべき義あればとり、あたふべき義あればあたふ。蓄べき義あればたくはへ、施すべき義あれば施す。只心の義にしたがふを無欲とし、利によるを欲とす。


我慢がたきのものは禪に入り、情こはき者は日蓮に入、愚痴なる者は一向宗となり、禍福の心ありみこ~しき者は天台真言とすると。

人も才知あらはれ過ぎたるよりは、内にたくはへて徳を養ひ、時に用るこそよく侍れば、金銀も世中多すぎたるよりは、國土の精となりて、山中にふくにたるよりよく侍らん。

剛毅の人道を学ぶときは、其勇力を用て物欲にひかれず、利害に屈せず、朴訥の人 素朴遅鈍生付にもとづく時は、外にはせずして己がためにす。故に仁に近し。

風躰は商に居て、商を行ひぬれ共、心は市井のそまりなく、義理のたのもしき所あありて、人を助すくふの仁心ありといはば、まことに奇特なるべし。

聖人の学は平地のごとし、異端の学は山のごとし。山高しといへども平地には及ぶべからず。山にして嶮岨を行くことは目をおどろかし、平地にして大道行くことは人おどろく事なし。

朱子の弊は、文に広過ぎたるつひえあり。学者理学に近くして心法遠し。書はたとへば雪中の兎の足跡也、兎は心なり。聖経聖傳は皆我心の註なり。兎を得て後足あとは用なし。心を得て後書は用なし。

善を為す者は子孫栄え、悪を為す者は子孫亡ぶ。

真の吾は、形色聲臭なし。

学を好み道を行うの志は、かくし芸のごとし。

君子は、勢を得て強なる時も、仁愛不ㇾ失勢失弱なる時も、心の剛不ㇾ失只時と共に
ひそまるのみ。小人は、勢を得て強なる時は不仁なり、勢を弱なるときは、つとめへつらへり。

敬は、百邪に勝つと云共、常に敬を心とする時は、心気かたよりて、空々如たるの本真にあらざるがごとし。

慎独も似たり、凡夫より聖人に至るの真志実学は、只眞独の工夫にあり。夫敬は心の徳なり、萬物皆敬有て身を全する事を得たり。

敬なきときは身をやぶる。故に見聞の及所にては、君子小人共に敬あり。見聞の及ㇾ所に於て、自欺ものを小人といひ、独を慎むものを君子といふ。

慎独は、敬の至れる者か、眞独といふも、人の見聞せざる處とのみ見る時は、心のたよる所あり。只己ひとり知所を慎ときは、心よる所なくしてもるゝ事なし。

必独知を慎の志、天を以て立の主意定る時は、常は心なしといへども、事に當っては必慎み生ず。

仁者は、天地我心中にあり、萬物己に備れり。故に幽明死生へだてなし。富貴貧賤好悪なし。安楽患難したがひて行ひ、至公にして私心なく、至明にして私照なし。

浩々の気、天地の間にふさがり、靜なる時は虚にして明かなり。動ときは直にして裡に當る。知に至りて無事なる處を行ふ。其の気象を見るに篤恭にして天下平か也。

佛学流多しといへども、天台と禪にすぐれたり。天台は高妙なり、佛学のくはしききこと禪にまされり。

しかれども心に惑あり、禪は学あるけれども、ちかく心法に本付て要を得たり。惑なきが如くなれども、実はまどへり。

佛の学は死を畏るゝよれり、故に是を云てやまず。禪悟れりといへども死を畏るゝより悟を求ム。聖学の徒死生を晝夜とす。常なれば畏るべき所なし。故に死をいはず。

小躰にしたがふものを小人とするなれば、学問を名利のためにする者を小人の儒と云。大躰にしたがふ者を君子と云なれば、学問して性命に至り。産業は別に在て学にかゝはる者を君子の儒と云也。

心有と云は、実は利のために学びながら、色をはげしく言をたくみにして、己が非をかざらむがために、正道をあかさず君子の儒をまぎらはすもの也。

今の佛氏の説は、人の良知良能を亡し、天真の神明をくらまして頑愚とす。故にいにしえへの愚は直なり。今の愚は偽のみ。

心有徒云は、利のために学びながら、色をはげしく言をたくみにして、己が非をかざらむがために正道をあかさず、君子の儒をまぎわらすもの也。

軍陣に多用る物は米なり、飢饉の年金銀は食とならず、金銀をいだきてうゑ死したる者多し。

世中風俗のあしきをば、何として直したるがよく候や、云、先善事をする事を教て後、禁戒を備うべし。天理を存してこそ人欲忙ぶべけれ。

天理を存する事教へずして、人欲を去れにばかりいましめたるにては、誰を主として人欲を去侍らんや。政道も善事の所作あらば、戒なくともあしき事はうすく成侍らん。

愚人は、其神の照覧ある事なきことのわきまへなければ、ひたすらにおそるゝに照覧なきことにて罰なきに油断しそめて、次第に神を慢りおろそかに成りて行ば、私心よりおこる邪曲において、神の照覧ある事にもなれて誓言誓紙すれば、必ず罰に當る也。

王陽明修養より:今人は、過失あれば自棄に甘んず、是れ其病根也。凡そ過を改め善に従ふは、是れ天地を許す所、要は唯究極の處、如何様なる人物と成り了りしやを看んのみ。

聖賢別に真楽の在る有りと雖も、常人亦之れ無きに非ず。但し常人は自己を知らず、却て自から許多の憂苦を求め自から迷離す。憂苦迷離の裏に在るも、唯一念開明せば大道砥の如く樂地に通ぜん。

近時工夫如何曰く汝輩唯光景を説く。是れ工夫に非ず。

大学は、大人物を成すの学也。人して天地萬物一體の仁を、體せしむる敎ゆる也。

感あらば應あり、凡そ動あらば有らば皆感を為す。感あらば應じて應ずる所亦感をなし、感ずる所復た感有り。故に不息不休、感通の理は道を知る者黙して観る、黙して識る。

濂渓 明道は儒門の秀才。朱晦庵は一個講師のみ。

人の悪を此の世に行ふや、其事は鉄板に記され、善をを行ふや鉄板に刻され、以て未来の法廷に備へうる。

悪人の道は、必ず降て自ら卑ふし。賢人の言は則ち引て自から高くす。

夫れ、喜 怒 哀 楽 愛 悪 欲 凡そ此七情は、人心素と之れ有ること猶ほ霧雨風雲の天空に出没するが如し。

何ぞ必しも勉強して、其の發動することを抑ゆることを是為さんや。然れども其發動にして其度を過ぐれば、則ち七情の調和破れ、天地流行の自然に非ざる也。

道は天地有形の外に通じ思は風雲變態の中に入る。

四書五經も我心の註釋なり。斯心にして正しければ經も書も既に用無きこと。猶ほ魚を得れば網を用ゆる所なきが如し。何ぞ徒に経書を註解し、理を心外に求むるを要せん哉。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2017-03-18 03:19:14

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