第四章 言志録(イ、陽明学を共に学ぶ)

これは本(天下と吾が身の一つのところ)を知るからである。この故に先後する所をするのが真知である。いわゆる識仁、いわゆる明善、いわゆる知性がこの真知である。

それで、知を致して格物に干わらない時は「物を開き務めを成す」に足らない。此処が聖学と二氏との同異を由りて弁ずる所である。故に、格物して而る後に知行合一することが、聖学の全功である。

私欲をその「発根の処」から「破除」するという事が、一体、人間にとって可能であると見るのであるか?疑わしいと云えば、これ程疑わしい事は無いのではないか。

寧ろ人間は、その天に享けた生の活機に着眼して、物に触れて人の為し得る道徳的な怵愓や是非の作用を、その作用の純粋さに於いて、徹底的に作用させて見てはどうであるか。

そして、その内的作用体験の告知する所を、鋭深に意識する時人々は誰でも、その自意識の中で天機活発に、即ち深大なる内的生命の躍動に、触れるのではないか。

そして、今やその内的生命力の躍動が、天然自然に自己の欲根を「潔浄」成らしめる。と、体験し得るのだはないか。

古来学は、一言を以って蔽うても、その入路の仕方は、一言で決定し得るものでなく、又そう決定すべきでもない。

真に、己の為にする聖学は、人それぞれに於いて、個性的唯一的なものにならなければ偽物となる。

文成曰く、独は即ち所謂良知である。慎独は、その良知を致す所以である。戒心恐懼は、その独を慎む所以である。

近来学を講ずるに、多くは意興って戒懼の功において、全く力を著けない。(戒懼というと)すぐさま、自然の本体を妨礙するとしてしまう。

それ故に、精神は淫泛して、全く帰根立命の処が無い。時たま戒懼の功を用いる者は、只、事為を点検したり、念慮を照管するだけであって、不覩不聞(良知)の上に従って微に入らない。

人間の志向の対象には、「富貴」と「功名」と「道徳」の三つがある。学ぶ者は自己について、その学問の志向が、何れに在るかを先ず以って、弁ぜねばならない。

そして、人は富貴に志す時は、功名を語るに足らずとなし、功名に志す時は、道徳を顧みないが、しかし、富貴が道によらない時は、墦間に酔飽して妻妾を泣かす。

功名が、道徳から出ない時は、一匡の巧妙でも童子すら恥と称する。こうして学ぶ者は、何よりも道徳への志向に専一となるべしとなして「道を以って志と為すは、乃ち第一等の学術である」とし、詩文を学ぶのもこの学の内容と成り得るとする。

仁は人である。之が、聖門の提出して人を做す正脈である。(それで)人は人を做す事を要する。便ち、仁を以って己が任と為さねばならない。

(こうして)天を頂き地を履んで、三才の極を立てる事が出来る。そうでなければ、惻隠羞悪の心が無くなって禽獣に近づく。
心中の紛擾は、只将迎の類である。もし、能く時々に艮在の工夫に照顧して、臨深履薄のようであったならば、困思雑慮自ら容れる事が出来ないであろう。

(この事は)路を行く時に因って、この病を悟得する。即ちもしも回顧して、過去の路を看たり、及び、仰いで未来の路を面控するとすれば、却下にすぐさま錯跌する事を免れないであろう。

規矩の学と云っても、単に規矩を知的にそのものとして、立てる事を主とするのではなく、何処までも行為の立場で、その規矩を踰えないという、実践的事態に学的関心を傾注する。

孟子の人性善という見方は、性の本体を直指したものであって、これを信受すれば、人は必ずや「安心立命」する事が出来る筈である。

若し、人には過悪があるとして、期してこれを信受せずに、そこから、体をかわして逃げるとすれば、それは、只自ら欺くものに外ならない。

良知の明らかである事は、これを鏡に譬えて然りである。(それは)廓然として清明であって、万象は畢く照らされ、初めから不足の患がない。(たゞ)患える所は(人が)まだ能く明らかにしないばかりである。

如何にして人間は、その良知の清明を霊覚し、識得する事が出来るとするか。それは、即ち人々銘々の本質的完具する良知を、自己の心術の中で「明らかにする」功夫をする事である。

良知の清明を「意必」で障蔽すると気づいたら、すぐさまその障蔽を掃除して、「心術の微」に至るまで「潔浄」ならしめよ。これが「常照の体」を「完うする」所以である。

聖門の要旨は、只敬を以って己を修めるにある。敬なるものは良知の精明にして、塵俗を雑得ない事である。

戒心恐懼して、常に明らかである時は、則ち門を出て賓のようであり、事を承けて祭るようである。それ故に、千乗の國を導くには、啓事を以って綱領とする。

信なるものは、敬にして息まないという事である。敬の外に復た信というものはない。用を節し人を愛し民を使うのに、時を以ってする事などは、即ち、敬が政に流行するものである。

先儒が、政を為すに及ばないと謂うようでは、修己と百姓を安んずる事とゝを分けて、二つとする事である。

果して能く、敬字の面目を実見する時は、則ちこれが性分であり、即ちこれが礼文である。又どうして内に偏したり、外に偏するという患があろうか。

若し、性分をと礼文を岐けて二つとする時は、則ち既に敬を識らないのである。それでは何を以って聖学の中正を語ろうか。

礼の本義は、真体(天命の性)を流出させる処にあって、礼の形の枝葉末節に、拘泥するのではない。

千変万化は、只自家の好悪の上にあって理会する。噫々己を修めるのに敬を以てして(始めて)百性を安んじる事が出来る。戒心恐懼して以って、位育する事が出来る。

四端を拡充して以って、四海を保つ事が出来る。(これが)抑々、守約博施の道ではなかろうか。

上来の一切の功夫は、その功夫する主体の短に入る時、それは己の気質を変化し、更に究極的には、そこから脱化して、正に「帰恨立命」する事である。

学は、良知に循う事を尊ぶ。而して動静を両忘して、然る後に得ると為す。

人心は常に知であって、知の一事一静は感応でないものはない。雑念が作らずに間静で虚融なる者は知の静である。

これは静境に感じて(知の)静の応ずるのである。思慮が変化し、紛紜交錯する者は、知の動である。これは動境に感じて(知の)動の応ずるのである。

先師は謂う「知はこれは独知ある」と。致知とは、その独知を欺かない事である。―――格物とは視聴、喜怒哀楽の諸事に就いて、その独知を慎んでこれを格し、その本然の則に循って、自らその知を慊する事である。

良知は、知覚や意を離れては作用しない。人心の日常的発用に即して良知を致す。

学者は、只意念に従って認取して善悪を混淆し、淫に浸って真を失う事を免れない。誠に知るという事は、所謂、良知にしてこれを致して、自ら欺く事が無い。

そして、自慊を求める時は、則ち、真妄公私は昭々として昧くはない。どうして意見を誤認するに至って、意に任せて適く所があろうか。

道徳的に生きる事を離れては、人間完成の道はない。又宗教の世界に一覚入すれば、一段とそその道徳はその光を増す。――――

朱子学と比較する場合に、陽明学及びその門下の諸派の学に、一様に通じて目に立つ事は、その理論的構成と道徳の体系的展開に於いて、著しく後退するという事である。

儒学の伝統に対する、烈しい否定的・批判的運動を今日究明する為には、明末の東林学と特に明朝の滅亡に逢会した、劉蕺山の儒学に触れる必要がある。

そして、その時代の非常事態的状況の中で、儒学する学者の生き方との関連に於いて、一度そのぎりぎりの処まで、見定めて置く必要があろうと考える。

整菴は、王陽明と全く同時代を生き、且陽明の講筵にも列し、又陽明の門下欧南野と良知説に関し、突っ込んだ思想的交渉も見られた。

自らは、朱子学の根本命題である、性即理の説を堅持し、推進すると同時に、朱子学に対しても、その理気二元論を批判した。

遂に、気一元論の立場を選び取る事は、陽明学との思想的交渉を通過した上で、一つの新しい、当然起こるべくして起った、一つの思想的傾向であると解せられる。

初めは禅学に熱中して、一時は恍然として悟って、「天下の理」は此処に尽きるのである、と見たのである。

其の後、儒教の経典を熟読し、玩味して実地に就いて体認する事によって、禅学の所謂、悟るという事は「心の虚霊の妙」であって、「性の理」ではない事を始めて知った。

そして、其の後数十年に亘る「研磨・体認」を積むことによって、晩年に入り遂に「心性の真」見得し、且つ、信ずるに至ったのである。

因みに、彼の主著「困知記」は、五十一歳の頃から描き始めて、没年の八十三歳まで書き続けられた、彼のライフワークであったと見られる。

彼は五十八歳、父の死に遭ってから致仕して、没年に至るまで思索と著述に専念したと云われるから、彼の「困知記」は誠に三十年に亘る、彼の苦心惨憺たる「研磨体認」の結晶物であると見て好かろう。

尚、「困知己」の困知は「中庸」に見る。或いは、生まれ乍らにして之を知り、或いは、学んで之を知り、或いは、困しんで之を知る。

其の、之を知るに及んでは一なり云々における、「困しんで之を知る」に一句に由来すると、見てよかろう。

蓋し朱子も亦、李延平に師事する24、5歳頃までは、禅学に傾倒していたが、延平によって「聖賢の言語を看よ」と教えられてからは、「聖人の書」耽読玩味にするに至った。

そして、遂に「聖賢の言語の漸々に味有るものを覚って、今や回頭して釈氏の説をみると、破綻罅漏が百出した」と叙するのである。

整菴の儒学は、一応常人のいはゆる、困知勉行の立場を前提として、そこからその道徳的工夫論を、上達の方向に展開する事を持って、その根本内容とする。

そして、その全内容を理一分殊説によって基礎付けて、最後に「心性の真」の見得に至るを以って、結ぶと見たのである。

象山は又曾て、致思とか格物や窮理という事を云うが、それは聖門の訓えに背く事が無いとは云えないのである。

(成程)その言は是であると云っても、その指す所は、格物というようなものではない。(一体)致知とは、この物に格りてこの知を致す事である。

窮理とは、この理を窮める事である。(そして)思う時はこの者を得るのである。然るに(象山)では、一語によってこれを証すれば、凡そ所謂この者は、皆心を指して云うのである。

(しかし)聖経の所謂格物窮理は、果して心を指すであろうか、―――こうして彼の明心の説は、これを聖賢の本旨に求めると、意に乖戻して合わないのである。

聖賢の千言万語は、只人が巳芳の心を約して、反復して身に入れて来て、自ら能く向上を尋ね去り、下学して上達せしめようと欲するのである。

象山の心即理の見方に就いて、彼がどうしても納得し得ない決定的な理由は、例えば惻隠の心を操存さえすれば、「理は自ずから明らか」となる。

つまり理は、「思わずして得る」と見る事になるか、然し、「抑々思わずして得るのは、聖人分上の事であって」吾々「学ぶ者」の及ぶどころではない、と見る事にあると解される。

象山は、頻りに心の「霊覚」を挙揚するが、それは思わずして得る様な「妙」を説くのであって、是は学ぶ者を迷わせる禅学であり、「象山の誤りは正に此処にある」と、するのが整菴の為す、象山の論難の決定的な根拠にある。

尚、彼は象山の高弟楊茲湖の説に対して、別の箇所で立ち入って、鋭い批判論難を加える。即ち茲湖が象山の有名な「宇宙内の事は、即ち己の分内の事―――

己の分内の事は、即ち宇宙内の事」。という根本思想を継いで、「天なる者は、吾が性中の象
。地なる者は、吾が性中の形である」。

「天に在りて象を成し、地に在りて形を成すは、皆、我の為す処である」となす考え方に対して、彼はこれを以って「唯我独尊」を説く禅学と難ず。

且、「藐焉たる数尺の軀にして、乃ち造化を私して、己が物と為そうと欲するするのである。何ぞ己の寮を知らない事か」というのである。

人間としての力量の有限の自覚、これが、彼の儒学の形式の土台になっていると見られる。尚、禅学の批判は後で改めて触れる。

此処では、宇宙内で「藐焉たる数尺の軀」を一面に於いて持つ人間、「学ぶ者」の立場にもっとリアルに身を入れよ、という着眼が大いに注目されるのである。

こうして整菴の儒学は、陸子の学を禅学と決めて、その霊学の立場を排斥し、学ぶ者の為の学ぶ者の学、即ち「向上」を目指して「下学に上達する」道を、その根本内容とする学であると解せられる。

従って彼の儒学は、最早聖人に至るとしての「聖学」ではない。「聖人分上の事」というような吾々の及び得ない事柄は、学問の対象とはならない、という考え方であると解せられて注目される。

自分は思う、常人の心も亦、時あって寂であるが、只、茫として主宰がなく、大本の立たない所がある。常人の心も亦、時として感じない事はない。

只、物に応じて誤る事が多く、達道の行なわれない所がある。これが善悪雑出して常に危い所以である。

「上天の載は、無声無臭であり、その体は則ちこれを易と謂い、その理は則ちこれを道と謂いい、その用は則ちこれを神と謂う。その人に命ずるは則ちこれを性と謂う」と。

只、これだけの数字(易道神性)を持ってきて剔発してくるが、その趣旨は極めて明白である。学ぶ者がもしも此処のところを領悟する事がなかったら、身を終るまで多説に混乱してしまっては、一に帰する時期がないであろう事を恐れるのである。

彼は、朱子と同じように、上達の境地を強く志向する。上達して知が最高の段階に達すると、別段に敢えて努めて存養の功夫に意を用いなくとも、積年に亘る存養の効験に拠って、従容として涵泳する中に在って、しかも「生意」は湧然として生ずると見る。

整菴曰く「一仏氏は心に見る事はあっても、性に見る事がないから、知覚を以って性と為すのである。ところで今、(「伝習録」に於いて)「吾が心の良知は即ち天理である」と言うのも、亦これは知覚を以って性と為すのである」と。

南野曰く:「知覚と良知とは、名は同じでも実は異なる。凡そ見る事を知り、聴く事を知り、言う事を知り、動く事を知るのは、皆知覚であるが、併し必ずしもこれらは皆善ではない。

(これに対して)良知なる者は、惻隠を知り、羞悪を知り、恭敬を知り、是非を知る。(この知は)所謂、本然の善である。」

「本年の善は、知を以って体と為す。知を離れて、別に体がある事は出来ない。蓋し、天性の真は明覚であって、自然に感に随って通じ、自ら条理があるからである。

それだから、此れを良知と謂うのである。理も亦此れを天と謂う。天理とは、良知の条理であって、良知は天理の霊明である。(こうして)知覚は此れを(良知と)言うに足らないのである。」

整菴は、陽明学との関係から見ると、性即理の根本思想を固執する此の一点に於いて、正に朱子学の系譜を継ぐと見てよいであろう。

併し、以上で立ち入って見る様に、気一元論の立場をとって、理を端的に気の理と見る事に依って、前述のように、朱子学を不徹底な理気二元論であると、鋭く批判する。

それで、気に力点を置いて、理も気の理の外にはないと見る処に、張横渠の気の哲学からの、強い影響を認めねばならない。

こうして、大雑把にいうと、整菴の儒学はより多く朱子に即し乍、朱子と張子とを一つの仕方で、綜合する立場をとると見られる。

此処で、一つの仕方と謂うのは、性即理としての体を用の体と見て、体から用の方向に綜合の道を開くという事である。

この意味で整菴は、新朱子学的な儒学を立てた、と見られると考えられる。ところでこの場合、前述の、程明道の万物一体の仁の識得という事が、右の綜合の目標となると解せられる。

それで、この目標の処で陽明学に接近するとも見られるが、併し、この一体の仁説の解釈と受容仕方については、陽明の良知説に対する、彼の前述の容易に同調しない批判に微して、著しい相違を認めねばならない。

天地の間には、只一個の感応があるのみで、更に又どんな事があろうか。天地の間に盁ちる者は、只万物だけである。

人は固より、その万物の中の一物に過ぎない。乾道変化して各々性命を正す。(それ故に)人は尚物のようであり、我は尚物のようである。

(従って)その理は、二つとはあり得ない。然しながら(その万物に於いて)形質が既に具わる時は、その分は殊ならない訳にはゆかない。

(そして)その分は殊なるが故に、各々はその身を私する。(しかし)理は一つであるから、皆我に備わる。

感応の際に、その自然に任せて、これを道と為せば、その猖狂妄行に至らない者は稀である。

彼は人間の道徳を、仁の行為的実現としての、義に見るという事である。少しく云うと即ち、程明道の所謂万物一体の仁を、社会的な人倫庶物に関る行為的の事の上に、その時々の乱す事の出来ない所、当然の則との一致において、自ら体認的に実現するところに、凡そ人間の道徳が成り立つとする。

道徳はいつの時代でも、自ら行うべきものであるに違いないから、彼の道徳の基礎付け論は、必然的に実践に関る工夫論へと、展開してゆかねば済まない。

人生れて静なるは、天の性であり、物に感じて動くは、性の欲である。

常人の心も亦、時あって寂であるが、只茫として主宰がなく、大本の立たない所がある。常人の心も亦、時として感じない事がない。

只、物に応じて誤る事が多く、達道の行なわれない所がある。これが善悪雑出して常に危い所以である。

道心は性である。人心は情である。(しかし)心は一つである。而も両言するのは、動静を分かち、体用を別つのである。

凡そ、静を以って動を制する時は、則ち吉である。動いて復に迷う時は、則ち凶である。「惟れ精」とは、その幾を審らかにする所以である。

「惟れ一」とは、その誠を存する所以である。「允に厥の中を執る」とは(孔子のいわゆる)「心の欲する所に従って、矩を踰えず」ということである。(しかしこれは)聖神の能事である。

人欲を無にするとか、人欲そのものを起こらない様にする事は、元々出来ない事を為そうとするので、天に由来する所以然理、つまり自然の理に反すると見る。

こうして、人欲や喜怒哀楽等の情は、「去る」事が出来ないからこそ、又去ろうとすべきでもない。

孔子が人に教えるには、存心養生の事でないことはない。然し(孔子は)未だこれを明言しなかったが、孟子はこれを明言したのである。

抑々、心は人の神明であり、性は人の生理である。(そして)理の在る所をを性と謂う。(心と性とは)混じて、一つ為す事は出来ない。――――

孟子曰く「君子の性とする所の仁義礼智は、心に存す」と。これが心性の弁である。二者は、相離れずして実に相混する事が出来ない。

精の又精にして、乃ちその真を見(二現)する。その或いは心を認めて以って性と為すは豪厘を差うて千里を誤るものである。

釈氏が「明心見性」の立場であるに対して、儒は「尽心知性」の立場であるとし、かっこの二つは、「相似て実は同じくない」とするから、この「知性」の知を非常に重く見る。

もしも、孟子の所謂性善としての本来的の性を、つまり、体としての性を知る事が出来るとするならば、それは、心性という具体的な一物に就いて、心と性とを部分して、心と異なる性の有り様を見る。

そう謂う仕方手順を取る事によって、始めて可能であるというのである。そうすると同じ論証で、心を知って存養する事は、具体的な心性の一物に就いて、心と性とを部分して、性と異なる心の有り様を、ありのままに見る事によって、始めて可能であるという考え方になるであろう。

吾が儒は、寂感を以って心を言う。然るに、仏氏は寂感を以って性を為す。これがその、甚だしく異なる処であるとするのである。

彼(=仏氏)は、性が至精の理である事を知らずして、所謂、神なる者を以ってこれに当てる。それ故に応用に方がない。

亦(彼は)、円通の妙を識るといっても、高下に準ずる所がなく、軽重に権る所がないから、卒に冥行妄作に帰するばかりである。

朱子が嘗て、「神」を形而下なる者」となし、且「神は乃ち精英である」と云った事は、今日でも確乎不易の言である。

所謂、天下の至神なる者は、固より思う事に待つ事はない。然し乍ら、その一々が節に中ろうと欲するには、思うのでなければ出来ない。

研幾の工夫は、正に此処にある。それ故に「大学」の教えには、巳に「止るを知る」とあるとは云っても、定まる事ありて必ず慮って、後に能くこれ(知止)を得るのである。

自分の、社会的な位分に即して、己の内なる意念の事を厳しく正すという、道徳的な工夫を積み重ねて行っても、それは只自己として良知的・良心的に生きると、自ら思い込むだけである。

そのような、良知としての知に就いては、天地万物と我との理的連関が、見落とされてしまう。

こうして、天下万物の即物的・分殊的な理を、度外に置いてしまっては、人倫庶物を相手にして、治国平天下の実を挙げる事が出来ない。況して、況や天地の化育を賛けようもない。

元々陽明学では、誠意を致知に先行させて意を誠にすれば、すぐさま知を致し得るとするが、「知に致らない所がある」場合に、意を誠ならしめようようとしても、それは常人には出来ない事である。と、断ずる。

そして、そう断定する理由を、常人の心が「有我の私に蔽われる」からであると、リアリスティックにに見た上で、さて人心を、その私欲の蔽塞から開放させる唯一の道は、事物の理を明知する以外にはないとする。

彼の工夫論は、これを全体として見ると、心と理との合致を通して、物と心との「一致の妙」を、掴む事を目指すものであるとしてよい。

存養は、学ぶ者の終身の事である。但し知が既に至ると、又至らない時とでは、(その)意味は、迫然として同じではない。

知がまだ至らない時は、存養に十分意を用いるのでなければ、安排把捉する事が出来ない。(従って)静定は難しと為して、往々久しくして厭き易いものである。

(これに対して)知が既に至る時は、存養には著力を須いなくとも、従容函泳の中で、生意は油然としてきて、自ら過む事の出来ない者がある。その味は深長である。

学ぶ者は、未発の中に於いて、誠に体認工夫して、その直下に、真に一物の吾が目にあるように、灼見する事があれば、此処に始めて、これを性を知ると謂う事が出来る。

彼の目指す所は、南野のように「天性の真」を、端的に独知するという事ではない。彼が把捉しようと目指す所は、「心に根差す」ような「君子の性」なのである。つまり「心の有する所の性」であって、彼の苦心は此処にあると推察される。

良知という用は、体としての天性の真ではなく、従って、良知に依って天性の真を知る事は出来ない、と見る筈である。

彼は、良知を南野の解する道徳知と見る場合には、その道徳知は必然的に、見聞言動の知覚と一つに結び付く、と考えるからである。

天人物我を通貫して、一つと為す所以は、只この理のみであって、(それは恰も)一線が万殊を貫くようである。

それ故に、己の性を尽くす事は、そのまゝ能く人物の性を尽くし、こうして化育を賛けて、天地に参る事が出来る。

東林の儒学は、軈て遠からずして明王朝潰滅に導くような、当時の内治外交の深刻な危機に直面した時代状況と、更には、王門末流の齎した人倫破壊の思想的潮流とを深憂した。

朱子学の通路として、孔孟の学の正統を改めて顕揚する事によって、危殆に瀕した祖国の命運を、挽回せんと熱望して形成されたという事実が、予め充分注目されねばなるまい。

程子が、人に教えて静坐をさせるのは、初めて手を下す事である。然し乍ら静坐は最も困難である。心に所在が有る時は滞るし、所在が無い時は浮くからである。

李延平が、所謂喜怒哀楽未発の気象を看るのは、将に心に所在有ると無いとの間に当って、その処を得たものである。

循々として、已まずに久しく哀楽が紛然として(心)突叉しても亦このようである。総じて一個の未発の気象には、渾(然)として、内外寂感の別がない。手を下す処はすぐさま究竟の処である。

識仁説は曰う。仁は、渾然として物と体を同じくすると。只、この一語にて既に尽きる。どうして義礼智信は、皆、仁であると云うのであるか。

処で、世の自ら仁を識ったと為すと、号する者を見るに及ぶとどうであるか。往々にして、務めて円融活發し為していると云う。

而して、外は流俗に媚び、内はその私を済し、甚だしきは廉恥を蔑棄し、縄墨を決裂し、回互閃爍して己を誑かし、人をも誑かすに至る。

こうして、曾て義・礼・智・信の何ものたるかをも省みずして猶、偃然として自ら命じて仁と曰う様である。自分はかくて観て然る後に、程子の意の遠きを知るのである。

吾が儒は、理を以って性と為し、釈子は覚を以って性と為す。性は即ち理である。かく言うのは、気質の性は、性為る事を認める事が出来ないからである。之は皆喫緊人の為の語である。

読書や講論を通して、工夫の幅を広く開拓し乍ら、その求める所は、念慮の微に入りて工夫を収斂する事である。

そう云う所は、情に任せる事を性に率うと為し、俗に堕ちて非を襲る事を中庸と為し、閹然として、世に媚びる事を万物一体と為す。

尋を枉げて尺を直くする事を、其の身を捨てゝ天下を済うと為し、難に臨みて苟安する事を、聖人には死地がないと為し、頑純にして恥ずる事の無い事を、不動心と為すのである。

抑々、古から聖人は人を教えるに善を為し、悪を去らしめるのである。善を為す事はその固有を為す事である。

悪を去る事は、その本無を去る事である。本体はこのようであり、工夫もこのようであって、その致は一つのみである。

性善説の回復、彼が最も熱心にその学に於いて、強調して止まなかった要点は、孟子の所謂、性善説を遙か二千年余の後代に、改めて回復し挙揚する事であった。

固より、宋明時代を通して、凡そ儒学者として、この性善説を継いで説かなかった者は、恐らく無かったと云っても好かろう。

然し涇陽の場合は又、そこに自ら特殊な意味があったようである。即ち彼は当時の時代思潮を支配すると見られた、王門派の現成良知であった。

その、左派の亜流の軽薄な主張と、逸脱せる実践とを通して、時代の健全な社会道義を攪乱する、事実を目撃した。

此処に、家国の傾覆するに至る、前兆を予感するに及んで、正に学術・思想のの立場から、この衰頽を防ぐ所以の積極的拠り所を、万人に普遍的な天命の性の善である事を、銘々において、自ら識得するところに求めたと解せられる。

彼は、遠い過去において、孔子の教えを忠実に祖述した孟子が、性は善なりと主張し、以って、儒学における人性論の伝統を築いたが故に、後代の儒者として自分も亦、性善説を継ぐと云うだけの意味では、決してないであろう。

寧ろ、当時の頽廃した時代を、緊急に思想的に思想的に校正するには、此の簡明な性善説に新たなる光を当て、且その識得に傾注されたと、見られる事を予め注意せねばならない。彼の学問の仕方は既述のように、いつも体認自得の方法を駆使する事にあるからである。

心は活物である、そして、道心と人心とは此処で弁せられる。道心には主があるが、人心には主がない。主があって活く時は、その活くや天下の至神である。主がなくして活く時は、その活くや天下の至険である。

凡そ、悪なるものは「吾が性の本無」であり、善なるものは「吾が性の有」である。善を為す事は、その固有を為す事であり、悪を去る事は、その本無を去る事である。

己の心に主を見失う時は、対境に触発されて、何時何処へ走作していって、造悪するのか分らない。この意味で常人は、何時もこの本無の深遠に臨んでいると、せねばならないであろう。

さればこそ、人の動こうとするに当っては、薄氷を踏むがように戦戦兢兢として、戒慎せねば済まされない。

予が、平居無事なれば、一切の行坐臥は常人も亦、聖人と同じであると謂うのは、只その大概を言うだけである。そうある所以を究めると却って同じくない。

思うに、此れ等に於いて処する事は、聖人にあっては全て、一団の天理の中からして流れるのであって、これは真心と為すものである。

常人にあっては、所謂日に用いて知らない者であって、これは習心と云うものである。(こうして)当下の習心を指して、当下の真心と混ずる事は、毫釐にして千里となる事を、免れないのである。

人は抑々、一個の真であるのでなければならない。是非の心は人には皆あるが、只真でないが故に、すぐさま夾帯(=滞)する事がある。

是非は、甚だ明らかであっても通じて去らず、合して来ないような時節のある事を怕れる。これが、含糊少問する事を要する所以である。

普遍的な性善を吾が性において、真に認得すれば対境との関係に於いて下す、一々の是非の作用は、現下に必ずやそのまゝ真(真理・真実)を外れない。

宋の道学は、功名富貴の外に在るが、今の道学は功名富貴の中に在る。節義の外に在る時は、その拠る所は愈々巧みである。

功名富貴の中に在る時は、その就く事は愈々下りて、惑いがない訳にはゆかない。これを学ぶ事は、世の為に逅じる。

肉眼を以って観ると、通身は皆肉であるが、道眼を以って観ると、通身は皆道であるからである。象山が常に、目は自ら明、耳は自ら聡のみを言うのも、亦この意である。

「舟中に蓐席を設け、規程を厳立して以って、半日は静坐し、半日は読書する」。

彼(高景逸)は、主静澄心の工夫を通して益々深く、程明道の所謂内外両志の上達の境地を志向してゆくと見られる。

そしてこの場合彼は「夜を舎てず衣を解かず、倦む事が極すると睡り、睡りて覚めると復を坐す」といった自修を反覆して、只管その体認自得に徹してゆく。

程子の謂う天理も、陽明の主張する「良知も」も、「総じて中庸の二字に若かずと為すのである。

晩年の時期、黄宗義の景逸伝によると、彼は「その後涵養は愈々粋となり、工夫は愈々密となって」遂に自ら「心は太虚の如くであって、もと生死はない」と、至ったと叙する。

「先生(景逸)の心は、道と一つである。その道を尽くして生き、その道を尽して死する。これを生なく死なしと謂うのである。仏氏の所謂、死無しと謂うのではない。

理を明らかにするのは、心を明らかにする所以である。心を明らかにするのは、出でて治める所以である。(それ故に)性を養って大義を討ねなければならない。

もし、そうで無かったならば、反って不幸を以って大孝を為し、不忠を以って大忠と為し、こうして黒白を混肴し、賢奸を倒置してその害を貽す事は、どうして極まろうか。

彼の儒学は、結局以上の於いて、真修真悟の学として形成された、体認自得の学問的態度を、一段と純実に徹底させる事。

更には、現実政治上の深刻な党争と、挫折を体験した事とも関連して、そこには巠陽と異なる思想傾向も見られる筈であった。

己の、不善の動を克服し得ようが為に、敢えてその動の反対の方向に身構えて、「静を主とする」という工夫の立場を選び取ったと解せられる。

そして、今や景逸が己の「理欲の交戦」を深刻に体験する状況の中で、「天理を体認する」強く求める場合、朱子に従って、人欲は天理を隠蔽すると実感する。

その、天理の体認の調停の中に、この人欲の克服に関る主静の工夫を不可欠として、重く導入する事は極めて当然であり、又自然であったと思われる。おは

大極なる者は、理の至極の処である。その人心に在って、湛然として無欲なるは、即ちその体である。先儒は「心は即ち大極である」云う。

この語は、善く(理)会せねばならない。無欲の心は乃ち真心である。真心であって、此処に大極である。もしも、その無形、無方、無際のみを見るならば、そのような見には、所見があってすぐさま妄である。

理の静かなる者は、理は明らかであって欲は浄く、胸中は廓念として事無く静かである。気の静かなる者は、定まる事は久しく、気は澄んで、心と気は交合して静かである。

理が明らかである時は、則ち、気は自ら静かであり、気が静かであれば、理も亦明らかである。両者は交資互益して、こうして理と気はもと二つでない。それ故に黙坐澄心して、天理を存する事は、延平門下の至教と成すのである。

亀山門下の相伝は、静坐中に喜怒哀楽未発前は、どういう気象を作すかを見る事である。思う時は則ち、発したのである。(この法は)初学者為に引いて、これを致す善誘なのである。

学ぶ者は、理気と心性に於いて、須らく、分断して明白である事を要する。延平は黙坐澄心し、すぐさま心気を明らかにして天理を体認し、そのまゝ理性を明らかにする。

朱子は、延平に師事する事によって、始めて禅学から儒学にはっきりと転向したと見られるが、間もなく延平から離れて、その黙坐の工夫を窮理と並進させる「居敬」に変容して吸収して行く。

静坐の法は、一の安排をも用いない。只平々常々黙然として、静坐するばかりである。この平常の二字は、容易に見過してはならない。

即ち(それは)性体である。それは清浄であって、一物をも容れないから平常というのである。人が生まれて静かである以上はこのようであり、未発という事もこのようである。

乃ち(それは)天理の自然である。人は各々にあって自ら(これを)体貼し出さねばならない。(そのときに)方に自得である。

(ところで)静中の妄念は、強除する事は出来ないが、(しかし性の)真体が既に顕れると、妄念は自ら息むものである。

(同様に又)昏気も亦強除する事は出来ないが、(しかし)妄念が既に浄くなると、昏気は自ら清くなるものである。

(こうして)ただ本性を体認せば、原来の本色は、かの湛然に還るばかりである。―――(然しこの本色に向って)僅かに一念でも添え著けると、すぐさま本色を失う。

(こうして)静に由って動いても、亦平年常々で湛然として、動き去るばかりである。―――(要するに)静中に力を得れば、方に動中に真に力を得るし、動中に力を得れば、方に静中に真に力を得るのである。

所謂、敬なる者はこれである。所謂、仁なる者はこれである。所謂、誠なる者はこれである。そして、これが復性の道なのである。

凡そ、人の所謂心なるものは念のみである。人心は、日夜繋縛せられて念上にある。それ故本体は顕れない。一切を放下して心と念とを放せば、すぐさま性を見る事が出来る。

(しかし)これを放下する念も亦念であるから、如何にして、心と念とを離す事が出来るのであろうか。雑念を放退する事は只一念、所謂主一である。習うて久しくして自ら当に一旦悠然となる事が出来る。

恐らく彼は、人欲の私の克服し難い事を先ず、予め体験的に知悉したが故に、外なる形を厳粛に整える事によってのみ、身心の内なるものを直くする事が出来ると考えた。

人心は、適くなかろうとしても出来ない。それに窮理して、その本体を識らねばならない。明道の学者は先ず、仁を識らねばならない。

そして、仁体を識得するには、誠敬を以って、これを存するのみである、という所以である。それ故に、居敬と窮理とは只一事なのである。

「中」は、即ち吾の身心がこれである。「庸」は即ち吾の日用がこれである。しかし、身心はどうして「中」と為すか只、「心身が)潔々浄々となって、廓然大公である。

(時に「中」である、それで是の身心がそのまゝ「中」ではなく、能く廓然として物が無くなった時に、即ち(そのような)身心が、始めて「中」である。

(次に)日用ではどうして、これを「庸」と謂うか。只平素常々、物が来たって(これに)順応する(時に「庸」である)。

それで、是の日用がそのままゝ「庸」ではなく、能く事に順って情が無くなった時に、即ち(そのような)日用が始めて「庸」である。這裏に到って一絲掛けない。これは、極至の処であって、上面には更に去処がないのである。

格物という事は、事に随って精察する事である。物格という事は、一を以ってこれを貫く事である。

善は即ち生々の易である。善があって後に性がある。学ぶ者は、善に明らかとならないが故に、性を知らないのである。

吾は、善を以って性と為し。彼は(陽明)は善を以って性と為し、彼は(陽明)は善を以って念を為す。善は一のみこれを一にして一元であり、これを万にして万行である。

格物の功は一つではないが、その要は本を知るに帰する。(ところで)修身知る事を本と為すのである。これを(修身)本とすれば天下には余事はない。

というのは、格来し格去して知得すると、世間には総じて身外の理はなく、又総じて修外の功はないからである。

その本を正せば万事は理であって、更に外に向かって一念をも著しない。このようであって、自然に天理に純らとなって、一豪の人欲の私もないから、どうして至然に止まらない事があろうか。

性善を道う者は、無声無臭を以って善の体と為す。陽明は、無善無悪を以って心の体と為す。一は、善を以って即ち性であり、一は、善を以って意と為すのである。

それ故に(陽明)曰く「善有り悪有るは意の動である」と―――善を以って意と為すのはよくない。曰く善を明らかにするのである。

陽明先生は、朱子の格物に於いて、まだ、その藩に渉らないものゝようである。その故、良知は乃ち明徳を明らかにするのである。

そうであるのに格物に本かずして、遂に明徳を認めて無善無悪としてしまう。(然し)格物に由りて(明徳に)入る者は、その学は、その明を実にするのである。

(そうすれば)即心即性である。(そうでなくして)格物に由らずして、(明徳に)入る者は、その学はその明徳を虚にするのである。

(そうすると)心は性ではない。(しかし)心性にはどうして二つあろうか。こうして従って入る所のものは、豪釐の弁があるのである。

余は、文成(陽明)の学を観て、蓋し従って得る所があったのである。―――(然し)その格致の旨は、まだ一度も(文政からは)これを求めない。

そして(また)先儒の言に於いても亦、一度も(文成からは)その言の意を得ないのである。

(なるほど彼は)竜場に謫せらられるに及んで、万理孤遊深山夷境にあって、静專澄黙して、その功は尋常に倍したのである。

それ故に、(彼の)胸中は益々洒々として、一旦恍然として悟る事があった。それでその旧学が、益々精しくなったのであるが、(然し)致知に於いて悟る事があったのではない。

特に文成は、二氏(周氏と程伯子)に拠らずして、必ずとも儒宗の位を奪おうと欲する。それ故に、その(自ら)得る所に依って、致知を拍合し、又格物と糚上し、極めて工力を費やして左籠し、右罩し、顚倒重複、定眼一覰するも破綻百出したのである。

二先生(象山、陽明)の学問は、倶に致知に従って聖学に入る。(然し)須らく格物に従って、致知に入らねばならない。

格物のところにないものは、虚霊知覚であって、妙であるとはいっても。天理の精微に察しない。(然し)どうして知に二つあろうか、只致さない知が有るのである。豪釐の差はこゝにある。

良致を談ずる者は、致知は格物にない。それ故に、虚礼霊の用は多く情識と為りて、天則の自然ではなく、至然を去る事が多い。

吾が輩の格物は、至然に格るのである。善を以って宗と為して、知を以って宗としないのである。それ故に、致知は格物に在る。(この)一語によって儒と善は判れる。

陽明のように、意念の不正を正すいうような格物では、性の至善に至らないから、格物の本義ではないと斬る。

吾が心にとって最も重要な事は、その「妄を払除して物の道理をよく明察し、且その明察の至る処で、理は吾が心であると悟る事である。

凡そ(聖学ではない)人の学は、これを「外に務めて内に遺れる」曰うと謂い(又)これを「玩物喪志」と曰うと謂うのは、その反ってこれを理に求めないからである。

これを理に求めれば、どうして内と外の言うべきものがあろうか、心に在るの理と物に在る理とは一つである。このことは猶、器が日光を受けるがようである。

彼に在っても此にあっても、日は則ち一つであって、これを析卦て二つと為すことはできない。どうして待ちて、これを合わせて初めて一となろうか。

姚江の弊は、始めは聞見を掃いて只、心を明らかにするのみであるが、究めて心に任せて学を排する。こうして詩書礼楽は軽くなり、士には実悟することが鮮い。

(又)始めは空念を以って、善悪を掃くのみであるが、極めて空に任せて行を廃する。こうして、名節忠義は軽くなり士には実修する事が鮮い。

要するに、王門には「実修」がないから、更に「実修」がなく「実悟」がないから、「実修」を欠く事に陥る事がある。

学問は、性を知るにあるのみである。性を知るものは善に明らかである。孟子は性善を道うて、どうして言は、必ず堯舜を称するのであろうか。

性には象が無く、善には象がない。堯舜を象する者は、性善を称する者である。若し、如是如是と曰うて、言上に会する者は浅く、象上に会する者は深い。

この象は、心に在るその正を得る時は心を識取し、その正を得るのは、心中無事の時である。

凡そ、人として聖人に至るべきものは、たゞ慎独にある。独りなる者は本然の天明である。人の知らない所であって、己の独知する所である。

今の悟りとなす者は、或いは、心を摂して忽ち心境の開明を見たり。或いは、気を専らにして忽ち気機の宣揚を得たりして、これを悟りと為す。

(然してこれは)吾が聖人の明善誠身の考えを挙げて、一掃してこれを無にしようと欲するのである。

(こうして)隄防を決して自恣し、是非を滅ぼして、安心して生死を終る事が出来ると謂う。(これでは)嗚呼禽獣に率うに至る外はあるまい。

学問は別法がない、只古の聖賢の成法に依って、倣し去って体貼し得て、身に来たらせるばかりである。この聖賢の言行といっても、それは即ち我の言行である。学問は空談を貴ばずして、実行を貴ぶのである。

凡そ、人の所謂心なる者は念のみ。人心は、日夜緊縛せられて念上に在る。それ故に本体は現れない。一切を放念して心と念とを離せば、すぐさま性を見る事が出来る。

人には、只一点の明察がある。これが禽獣と異なる処である。―――この明察は人々が具足して知るが、物化に誘われて後に、全て変じて私智小慧を作す。

(こうして)世情と俗見に在って、全く人倫庶物に向って来て、察しない所以である。然し乍ら、一度その私智小慧を転頭すれば、又すべて真明真察を作す。この一転も亦人のみがこれを能くして、禽獣は能くしないのである。

何を以って、心は仁に基くと謂うか(抑々)仁なる者は(「易」の所謂)生々の謂である。天は只これ一個の生である。それ故に仁は即ち天である。

(ところが)天は人身に在って心と為る。それ故に本心を仁と為す。その不仁なる者は、心が私に蔽われたものであって、その本然ではないのである。

我が身中の、惻隠の心を工夫を尽して、宇宙大に拡充し得た時に、始めて天地の心は我が身に顕現し、充塞したと自得される。

聖人の喜怒は、物に在って己にはない。

道は無声無臭である。道を体する者は言行のみである。既に(性体)を得た後は、須らく放開せねばならない。

蓋し、性体は広大あるから、それを得る事の有る者は自ら能く放開する。そうでなくして還って又、これを守るだけでは、これを得た事にならない。(但し)放開に意があるのではない。

迷わずに、平常の実践道徳の「躬行」に徹底する事。其処にこそ敢えて「悟」言わなくとも既に、真悟の実証があると見るのであろう。

修めて悟らない者は、末に徇うて本に迷う。悟って澈らない者は、物を認めて則を為す事を知らない。

修を欲する者は、正に須らくこれを本体に求め、悟を欲する者は、正に須らくこれを工夫に求めねばならない。本体が無ければ工夫も無く、工夫がなければ本体も無いのである。

真に、性体を見得し悟ると謂う事は、自ら性体と成って、人倫庶物の現実の世界の中に、実践的に発し動く事である。

今日の、吾々の置かれた時代状況が、人間の道徳というものを兎角敬遠し、軽視する風潮の存する事を否認し得ないと見る時、翻って宋明時代の中国の学者が、約六百年の長きに亘って、一貫して、熱情的に又真摯に道徳の学を研究し宣揚して来た。

正にこの一事は、時代と民族の相違を超えて、鮮烈にして深刻なる感銘を、与えずには置かないであろう。

特に景逸の場合は、所謂、中華の誇り高い幾千年来の自分の家國が、宋代先儒の曽て経験しなかったような、将に崩壊し頽滅せんとする、危機に差し掛かった。

此の、非常時局の状況の中で、却って、敢えて宋代学の伝統を継いで、道徳の学に異常な情熱を傾注して、その学の深思と宣揚に力の限りを尽くしたと見る時、只主観的に鮮烈な感銘を受けると云う以上に、寧ろ畏敬と惨澹の念をさえ禁じ得ないであろう。

得に景逸の場合は、所謂中華の誇り高い幾千年来の自分の家國が。宋代先儒の曽って経験しなかったような将に、崩壊し頽滅せんとするの危機に差し掛かった。

こういった、非常時局の情況の中で、却って敢えて宋学の伝統を継いで、道徳の学に異常な情熱を傾注したのである。

その学の深思と宣揚に、力の限りを尽くしたと見る時、又主観的に鮮烈な感銘を受けると云う以上に、寧ろ、畏敬と讃嘆の念をさえ禁じ得ないであろう。

人心に湛然として一物も無い時は、乃ちこれが仁義礼智である。善を為すという事は乃ちこれ、仁義礼智の事である。

本隊が、明らかにならない事を患えない、只工夫が密とならない事を患える。理一の処に処に合わない事を患えない、只分殊の処に差う事のある事を患えている。心す做処に十分酸澀すれば、方に得処に能く十分通透する。

夫子は仁を言うと、恭寛信敏恵と曰うのである。(これによって)仁はすべて事上に在り。事を離れて仁はない事を見る事が出来る。

聖人は、一にその自然の理に循う。義を為す所以である。仏氏は、果報の説を以って人を懾れさせる。利と為す所以である。

余は即ち、「大学」の格知を以って「中庸」に則して、善を明らかにするのである。それ故に学ぶ者をして志を弁じ、業を定め利の一源を絶つ。

己の為にすると、人の為にするとの界を分割し、義利是非の極を精究し、透頂徹底して窮穴博巣せしめるのである。

「性を成す」とは、己のリアルな「気質の性」を、真修の久熟によって完成して、本来的の「天地の性を我が身上に於いて、体認する事である。

天地の間は、渾然たる一気のみである。張子の所謂虚空即気はこれである。(しかし)この至虚至霊には条が有り理がある。

(ところで)その至虚至霊の人に在るを以って、即ち心とと為すその条あり理が有って、人に在るを以って、即ち性と為す。

これを(=気)澄ますときは即ち清くすぐさま理と為す。これを淆すときは則ち濁り、そのまま欲と為す。

理を、これ存せば中に主となり、欲にこれ梏られると外に亡う。(それでは)如何にして能くこれを(=気)澄ますか、清をして一ならしめることであって、これが天道自然の養夜気ということである。一(ならしめる)とは、人道当然の養操存ということである。

気の精霊を心と為し、心の充塞を気と為す。(しかし)二つがあるのではない。心が正しければ則ち気は清らかであり、気が清らかであれば、則ち心は正しい。

(これも)亦二つ有るのではない。養気の工夫は持志にある。その志を持すれば、すぐさま物に梏せられない。これが終日常息する事である。

息とは、息を止める事である。万念の営々は一斉に息を止めて、胸中は絲毫にも著しない、之を息と謂う。今の人が呼吸を以って息と為す事は誤っている。

張子が、太虚そのものに、気の絶対の清を帰属させるに対して、景逸は、人身の濁気を反観的自主的に澄化するとしての、人心の精霊の妙用を重視した。

この、澄化の作用を行じる事に依って、自らの気の転機を掴んで、太虚に帰入するという見方をとる。

吾が皮毛骨髄よりして、六合に及ぶまで、内外は皆天である。然らば則ち、或は一善念を動かすと、天は必ずこれを知り、一不善念を動かすと、天は必ずこれを知る。

―――凡そ感応なる者は、形と影の様にそうなる。一善が感じると善は応じてこれに随う。一不善が感じると不善は応じてこれに随う。(これは)自ら感じて自ら応ずるのである。

進む事が一層又一層なれば、見は天然停々当々の処に到る。方にこれが天則である。これが理を窮めるという謂である。

抑々、人にして聖人に至る事の出来る者は、只慎獨にある。独りなる者は本然の天明である。人の知らない所であって、己の独知する所である。

これは即ち、その是非を為す事を知り、即ち非と為す事を知る。想うに由って得るのではなく、慮るに由って知るのでもない。

即ちこれは天であり、即ちこれは地であり、即ちこれは鬼神である。我も無く人も無く、今も無く古も無い。一々この本色に依る。即ちそのまゝこれが明である。

人身が壊滅して、最早知覚が生起しない場合は、如何なる世の事にも就く事は、出来ない筈である。

道義を貫き撤する為には、時あっては有形の死を怕れない、という意志そのものに、執着する事をも拒否せねばならない。

何時までもなく涇陽はと景逸は、先ず歴史的の見ると、祖國の衰運が漸くその亡滅に差し掛かろうとする、非常時的な状況の下で、正に士大夫の社会的位置を占めていた。

伝統的な、修己治人の学としての儒学に、従事したのであるが、この異常な時代状況の体験が、実はその儒学の立て方と内容を、次のように決定的に方向づけて、傾斜させたと見られる。

即ち、その儒学は時代に触発されて、儒学に伝統的な性善説の回復と宣揚に、異常な情熱を傾注し、それに立脚して、著しく道義の学という性格を持った。

更に、進んでそれを治人の領域に具体化して、所謂清議を固執し、終に「世を敵とする」までに義と利の弁析を厳しくして、是々非々を貫徹しようとするに至ったと見られる。

吾々は、此処に歴史の中で東林党の真髄をを見るであろう。しかし、同時に吾々はそのような儒学の根本的意図の中には、儒学という学問を宣揚する事によって、将に傾覆に頻する祖国の命運を挽回しようとして止まなかった。

そういう、非凡な熱願が波打っている事を、看取せねばならないであろう。これに対して或いは、論者あってそのような儒者では、歴史の中の国家の運命などは、遂に救い得ないではないか、事実として救い得なかったではないか、と云うかも知れない。

併し、時局の深刻さと重大さが、倍局する正にその時点に於いて、それ故にこそ却って深い所で、人間の道着は当に何としても尊重さるべきである。

そう謂う考え方そのものは、その歴史の中で、明白な挫折の事実を越えて、傾聴に値すると為し得るであろう。

元々、一つの時代に生きて動く道徳は、一面その内容に於いて、歴史的・社会的にに限定されて、把握される事はない。

併し他面それは、その道徳の実践主体に於いて、高く歴史を越えるものに、繫がらないと思われる。こうして生きた道徳というものを、歴史的に超歴史的両面のいわば「妙合」に於いて、一全体として見て行く時、東林学の歴史的特性→傾斜の中にも、今日深くまなぶべきものがある。

時代を救正する為にこそ、儒学を正にその生命に於いて、回復しようと欲する場合には、先ず以ってその儒学者その人が、その儒学の真生命を自ら「真悟」せねば叶わない筈である。

今や、この時局閉塞の下で、同胞愛を積極的に広範囲に亘って、行き届いて実現する事などは、思いもよらない所到底治者個人のないし、その一集団の意の儘に処置し得ない所であったに相違いないと見られる。

そうすると、残された漸く只一つの、取るべくして取り得る実践的態度は、退いて義と利を截然として、明弁して蔓延する世情の軽佻浮薄と、滔々たる俗史の偏見不正とを、容赦なく厳しく正す事の外にはなかったであろうと、推察される。

学は、必ず悟らなねばならない。悟って後に方に痛癢を知るばかりである。痛癢を知って後に直ちに事々を放過する事は出来ない。

性の善体を、生々の仁と悟ってみると、人(=民)を見て、只人々の痛癢を知るばかりであって、どうして民の生活に関わりを持って、日々の仁義の事を「放過」し得ようか。

彼は彼に、同時代を生きる民の烈しい痛癢を、鋭く感知するが故にこそ、その痛癢の社会的原因に注目した。

儒学者の自己に於いて、可能として選ぶ時代救正の道を、只管その社会道義強調宣揚に、求めたのではなかろうか、と推察される。

云うならば、民の辛苦を強く共感するが故に、世道の不正を就中「黒白を混淆し賢奸を倒置する」当時の治者の俗見を正すとしての道義の主張は、一段と厳しさと、時に又烈しさを加えた、と解せられるであろう。

先ず道義というものを、彼はその体認の方法によって、己の身中に生動する、天に由来する生気に即して、身に切近に感知すると思われる。

彼は道義に就いて、単に抽象的に思念するのではなく、端的にこれを我が身上に感知し体認する。

又、道義の気は只の生類の氣と違って、人心にのみ生動する精霊の気とみて、その気を根源的な由来へと、反観して見る事によって正にその気は、宇宙一元の気の絶対根源と見られる太虚から、発動し流失する。

宇宙の一気そのものに、亡滅がないと信じる限り、この最も精霊なる道義の氣そのものにも、宇宙からの、壊滅散亡起こり得ないと信じたのであろう。

それで道義を尽くして死しても、それは有形の身の壊滅ではあっても、

(43 43' 23)

  • 最終更新:2016-06-06 04:00:54

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード