第六章 言志録(ロ、陽明学を共に学ぶ)

吟借生死を達観するの一事は、学者の要務たり。若し、生死の理に明かならずんば、大事に臨みて狐疑するの醜を免れず、而して特に王学に於て要とする所なり。

吉村秋陽、天資警敏・風格沈毅、佐藤一斎に従ての学を開き、是より研鑽愈精しく、而して終に以て自ら信ずる所ありき。

然れども常に弟子を教ふには、大率ね朱子章句集集註に従ひ、諄々講説必ず其蘊底を竭くす。の書に至りては、学者の篤信懇請にあらざれば、則ち敢て妄りに講ぜず。

以為へらく学問の要は、人欲を去り天理を存するのみ。苟くも此處同じければ、則ち門に入り手を下す。或いは異なりと雖も、而も其の同じと為すを失はず。

学者能く其力の及ぶ所を量り、擇で而して之に従て可なりと。又謂へらく姚江の学は、猶利刀の如し。善く之を用ひざれば、則ち手を傷けざるも希なりと。

余嘗て謂ふ、余平生自ら警する者三あり、一には訓詁の陋に落ちず。二には門戸の見を立てず。三には知解の精を頼まざるまこと是なりと。

叉嘗て工夫を論じて三説あり。曰く動の上に静を求む、曰く動静合一、曰く手を下すは静よりし、居平専ら実踐を務め、敢て最高の説を為さざること是なりと。

其の己を持するや堅苦刻萬、而も心に城府以て自修の要とす。晩にして温藉容あり。其の疾に罹るや静養和黙。

而も神氣耗せず、人と接するに及では、言語平日に異なる事なし。嘗て言て曰く、一息尚ほ存すれば学已むべあからず。白来間中氣象郤て好を覚ゆるのみと。

又、門弟子に謂て曰く、忿を懲らし欲を塞ぎ、善に返り過をを改め、以て内に省みて危からざるに至る。是れ、吾学の功を用ふるの始終なり。今殆ど庶幾らんか、汝其れ講を勉めやと。

山田方谷;王子の学は誠意を以て主と為す。良知を致すは、即ち誠意中の事のみ。然れども、必ず格物を以て之に配す。

蓋し、良知を致すに非れば、以て誠意の本體を見るなし。格物に非れば、以て誠意の工夫を成すなし。二者並び進みて、后に意誠なり。

今足下の言は、致良知に専らにして、格物に及ばず。乃ち寧ろ王氏の学と異ならんや。方谷謂へらくへ、王学の精髄は誠意に在り、致良知は、元と誠意中の事のみと。

又、縷々格物の功を称す。是れ方谷が根本主義は、致良知と格物を並修して、誠意を達せんとするにあり。

陽明子が四句決に於て、良知と格物を列挙するを見れば、方谷の説も亦頗る取るべきものあり。世の口を良知に藉りて、虚説を務むる輩は、切に猛省すべきなり。

方谷人と為り、廣顙豊偉豪邁にして知略あり。深く陽明学に造詣し、事功を以て第一義と為す。

方谷、雅懷あり。雪花風月に会へば、早晨深夜職務の際と雖も、必ず同好の門を叩き、吟酌以て楽しむ。尤も梅花を愛し盧を環りて培植す。

其花の佳時に及べば、公事と雖も謝してまた出でず。方谷後進を誘掖することを倦まず。家塾時に百餘人に至る。郷人之を信ずること神の如く。

秋義大顱方面:眉秀で眼凸で爛々して電の如し。或は怒れば眥裂け、人仰ぎ看る能わず。天資英敏明決、一見して人の肺肝を踊らす。

姦偽を排しては、貧貴を避けず、忠良を愛しては卑賤を遺さず。自信尤も強く、死生を顧みず、毀誉を問わず、事は必成を期して、錯置は縝密たり。

克く艱楚に耐へ言論爽快、能く是非を弁じて一座屈服す。平生李忠定、王陽明の文を講ず。

王学に貴ぶ所は、知行合一にあり。胸中萬巻の書を蔵すと雖も、只是れ書庫のみ。何ぞ尊ぶに足らんや。王陽明曰く、未だ行わざるの知は、真の知と為すに足らずと。

学門事項 並進分一するは、陽明学の主脳とする所。河井秋義一藩の総督と為る、設令其遠大の抱負を果たす能はざりしと雖も、事業赫々巳に銘して金石に在り。

亦以て王学者たるに、恥ぢざるべし。秋義、李忠定公を慕ふて能く之に彷彿たるものあり。王文成公を学びて、叉文武兼ぬ。

唯だ、時騒乱に際して、去就を知るに苦しむ。秋義赤心以て村民を護り、献身以て王事に勤む。精忠至誠巌霜烈の如し。

秋義毎に語り曰く、大丈夫當に虎狼と為りて人を食ふか。牛羊と為りて人に喰はるゝかの決心なかるべからずと。

又曰く、大丈夫常に地下百尺の所に埋まりたる心地を存せざれば、以て事を為すに足らず、と。亦以て其の豪邁不羈の気象を総見すべきなり。

奥宮慥斎の学説は、晩年に至りて少しく変化あり。謂へらく学は宇宙の真理を究め、且つ人の人たる所以を学ぶべきものなれば、程 朱 陸王と門戸を標榜して、互いに宗旨を立つ可きに非ずと。

其の所見は、最も潤大にして和漢古今、神儒佛耶を打て一團と為すべしといふに在り。而して慥斎は、王学者中専ら王竜溪の説を喜びたり。是れ其性質の高朗聡敏なりしに因りてなるべし。

尾崎忠治 愚明と号す。舊土佐の藩士、資性忠孝・風骨清秀・真個模範的大人なり。幼にして奥宮慥斎の門に入り、大に得るところあり。

王学の要―――夫れ王学の要は実行に在り。故に之を学ぶと云ふは、恐らくは當らざらん。寧ろ之を行ふの適切なるに如かざる也。

一誠―――百千の術数は遂に一誠に如かず。術に當るは術を以てして、更に極まる所なく、出ると愈々繁にして、迷ふと愈々深くなる。

人間の真価為に索盡に帰せんとするは、今日の現状なりと、ビスマーク・グラッドストーレ等の能く偉大なるを得し所以のものは、脳裡只だ一誠ありしが為のみ。

翁、叉常に人に謂って曰ふ「男兒六尺、國家と関するなくんば学者も何の用があらんや」と。

中尾捨吉:高知の人。資性質直にして尤も気節を重んず。言動風骨、究然古武士の如し。夙に陽明良知の学を奉し、又深く大塩中斎の遺風を欽慕す。

兆民居士は、土佐の人。嘗て奥宮慥斎の門に入りて、良知の学を承け稍得る所あり。又兼で禅学を窺ふ居士が、気品自ら俗塵を蝉脱するものあるが如し。

其言動宛然大悟、徹底するものあるに似たるは、蓋し斯学に得る所尠少間らざるべし。嘗て陽明学を評して曰く、陽明学は良知の学、知行合一を尊び事功を以て第一義となす。

所謂活用の学なり。然れども陽明学是れ畢竟れ禅学に外ならず。王陽明は不世出の偉人文武の功赫々、支那の学者に在りては固より有数の人なり。

夫れ、支那の國たる孔孟の教義盛んにして、後世儒者多くは章句儀式に拘泥して、緊要たる事功を努めず。

茲に於て、王陽明が之が救済の策を施し、先ず禅学の名を避けて、禅学を儒教に同化して世に伝播したり。

故に、其骨格は禅学にして、其庄粧飾は儒学なりと謂ふべし。又陽明学は、徹頭徹尾主観的なものにして、良知を主とすれば、強いて科学を以て解釈すれば、、肝賢の意味を害するに至るべし。

余は、禅学を好む者なれども、禅学に入る者は、往々厭世的傾向を生じ、山林巌穴に遁れ、括淡無為 香を焚き花を弄するの風に陥り、頓に進取の気象を失うふ。

是れ、元と禅学の極意にあらず。、禅学は所謂動中の工夫と云うは、山中森林に隠遁して思惟するよりは、寧ろ新橋柳橋の酒宴遊興の席に在って工夫するを良しとす。

上は、大臣より下は門番に至るまで、其他紳商肆丁各々其職業を努めつゝ、充分に工夫を凝らすことをえるなり。

然れども、是は大悟徹底したる者の為し得べき所にして、其の未だの地に達せざる以前は、輙く山林静居の傾くを常とす。

是れ、禅学の罪にあらずして、未だ達せざる者の罪なれども、是れ所謂弊なり。故に禅学は、進取発達を肝要とするの青年には、動もすれば妨害を為すべし。

此処に至れば、同じく禅学なれども、陽明学は事功を専らにして、活気に富めるが故に、進取力の盛んなる青年には、最も適當な学門なりと信ず。

川尻賓岑は、奥宮慥斎の門に出づ、温藉深厚頗る其下学に篴かし、身は市井に在りと雖も心は乃ち万物外に超然たり。

平生、親に事つりて孝、友に交わりて信、其の講壇に上がるに當っては比喩縦横、快弁流るゝ如く聴者を心服首肯せしむ。

東沢瀉:専ら心を王学に潜め、遂に能く其の霊機に触る。先輩諸士の輔仁の益少なからずと雖も、多くは之を自修に得たり。

既にして業成るや、藩に帰りて仕途に上り、余暇を以て子弟を薫陶す。維新前事に概する所あり。門人を糾合して必死組を起こす。

後の精義隊即ち是なり。卒する時六十、沢瀉人と為り巌毅快爽にして、能く人を御す。一世の智勇を推倒し、千古の心胸を開拓するの風采ありき。

春日潜菴:廿七歳に及びて、始めて王陽明文禄を読み、大いに啓発する所あり。喟然として曰く、人と為りて當に是に至りて止むべし。

学を為さば、當に是に至りて止むべしと。是より篤く余姚を信じ沈潜反復し、其源に遡り其流を究め、道徳氣節事業一として、良知の工夫に出でざるはなし。

資性俊邁峭直、容貌魁梧音吐鐘の如く、眼光爛々人を射る。身を持するに厳正、閨門の間儼として朝廷の如し。

門人潜菴を評して曰く、本邦陽明学を以て聞こえる者は、中江藤樹は道徳を以てし、熊澤蕃山は識見事業を以てし、三輪執斎は学問文章を以てし、而して先生は則蓋し集大成者也と。

潜菴は、王学者として知行合一を遂げしは、其事蹟と言論に微して明らかなり。而して其特得の見は本體即工夫、工夫即本體と云ふに在り。

凡そ、王学者の主要とする所は、天人合一・死生一貫・天空海潤の気象等なり。此等の観念は皆良知を致すの工夫より来るものなり。

生死一貫の理に大悟徹底すれば、則ち、心境の霊明、萬物来たり映して妍媸判然たらん。栄辱 利害 貴賎 貧富、毫も我を擾乱する事能はず。

此に至て、天人合一の徳を全ふし、常に天空海潤の気象を保つを得べし。王学者が活發々地に天地に斡旋するは、一に之に因るなり。吾人が王学に得んと欲するも亦、此の精神修養の一法なり。

春日潜菴の西郷南洲翁への手紙――――

爾来音門を奉らず、貴國の士、時に此の地に往来する者動履佳勝、確然の操往跡に変はる無きを云ふ欽慕羨企す。

向きに執事、國事を議して合わず、身を奉じて勇退す。未だ其委曲を詳らかにせずと雖も、世人嘆惜して置かず。

執事に在りては、即ち進むべく退くべく、進退綽々然として余裕あり。独り惜しむ所は其れ世道を奈何せん。

僕竊かに謂へらく、方今士風の振はざるは、此時甚しきはなし。廉退譲は衰退して地を掃ひ、士の捎々才幹ある者は、意を栄利に専らにし、汲々然として商賈の業を習ひ、靦として其耻を知らざるなり.

風俗人心,、日に以て陥溺して返へるを知らず。夫れ亦何を以て士人の業を講ずるを知らんや。夫れ士人の業は、上は主を尊び下は民を安ずるのみ。

尊主安民は、乃ち其の大綱なり。而して、数目条件は筆端の悉すべきにあらず。然り而して、士風を振起するに非ざれば則ち不可なり。

士風を、振起するは学に非れば、則ち亦不可なり。夫れ学とは詞章訓詁の謂に非るや、固よりなり。故に、堅苦の志刻厲の操ありて、而して命世の俊に非れば、則ち能ふとなし。

嗟乎、士風の振はざるも亦た宜なるかな。執事は豪傑の士、平生聲色財利に淡して、之に加ふるに艱難困苦練磨の功を経る。

既に尋常非ず、其の天下士風の衰を興起振作する、甚だ難きに非ざるなり。執事に非ざれば則ち誰にか望まん。

西郷隆盛、少壮より王学を学び、又友人子弟を勤めて王学を修めしむ。蓋し、其の実学にして且つ心術涵養に力あるを以てならん。

南洲翁天資の雄傑、古今に絶し、心術の涵養亦既に尋常にあらず。而も其の聲色貨財に淡く、心事磊々落々たりしは、涵養の功尠少ならざるべし。

翁が、平素愛読せし書は、多く王学者の遺書なりしは、松井茂久氏の遺稿を見て、これを知るべし。

南洲遺訓:萬民の上に住する者、己を慎み 品行を正くし 驕奢を戒め 節倹を勉め 職事に勤労して人民の標準となり、下民其勤を気の毒に思うようにならでは、政令ば行われ難し。

己れに克つ事々物々れ、時に臨みて克つ様にては、克ち得られるなり。兼て気象を以て克ち居ること也。

学に志す者、規模を宏大にせずんば有るべからず。去りとて、唯此に水にのみ偏倚すれば、或は身を修するに疎に成り行く故。

終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れよ、人に容れられては済まぬものと思へ。

道に志す者は、偉業を貴ばぬ者也。司馬温公は、閏中に語り言も、人に対して言ふ事無し。と申されたり。

独を愼無の学、推て知るべし。人の意表に出て、一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒むべし。

節義廉恥を失て、國を維持するの道決して有らず、西洋國同然なり。上に立つ者、下に臨て利を争ひ義をわするゝ時は、下皆な之に倣う。

人心忽ち財利に走り,卑吝の情日々長し、節義廉恥の志操を失ひ、父子兄弟の間も錢財を争ひ、頒視するに至る也。

南洲翁が王学を喜び、深く王学者の遺書を愛読したる事は、上文に微して知るべし。翁又太」春日潜菴の人と為りと、其純乎たる王学者を慕っていた。

弟小兵衛及び門下十数名を遣わして潜菴に就かしめ、且つ事上の時に際し、村田新八を使わして、時事要領十二條を諮問せしめ、多く其儀を採りしといふ。



謹みて新年の
御祝詞を申し上げます

平成三十一年 元旦
稲島寅蔵



頭山満は、福岡の人にして玄洋社の首領たり。特に西郷南洲翁を欽慕し、又王学を喜ぶ。其容貌偉大なる、其氣膽の豪壮なるやく宛然南洲翁の如しと。

副島伯は彼を称して、西郷以来の友を獲たりと云えりと。亦以て其人物を想見すべきなり。目下東都に寓スす。

王学は、簡易直截なり 単刀直入なり 孤俊峭抜なり 頓悟の教なり。一旦忽焉として其霊機に触れんか。一躍して其闊奥に達する事決して難からず。

噫、入ること易くして入り得ざることなきは、其れ陽明良知の学か、世の青年同志焉ぞ奮起して、一たび之を試みざるや。

高瀬武次郎著「王陽明評傳」より;――――――――――

惟ふに陽明先生は、所謂大苦大楽の人にあらざるか。身を文臣より起こして葢世の偉動を建て、烝々たる英名永く千秋を照らす。

真に是れ、百世の上に奪って百世の下、人をして感奮興起せしむるものと謂つべし。先生の終世辛苦に遭逢したるの行蹟は、即ち吾人が藉て以て心胆を練磨し、気象を策振するの亀鑑なり。

凡そ、聡明敏活にして能く幾微を洞察し、又た能く妙計を案出する者は是れ智の人なり。天真惻怛にして人類の不幸に感憤し、國家の悲運に慷慨する者は是れ情の人なり。

豪健勇猛にして大節に臨みて動かず。大敵に當りて懼れざる者は是れ意の人なり。智の人は惑わざるの得ありと雖も時に冷刻に失するにを免れず。

情の人は、接する者をして欽慕悦服せしむるの長所ありと雖も、時に慷慨激越に馳するを免れず。

意の人は、事に臨て泰然自若利ありと雖も、時に弱者を圧制するの弊あるを免れず。庸常の人は大抵三者の一に偏長するに止まる者の如し。

若し、能く其の二者に兼達せんか、必ずや傑士として命世の偉業を成すを得ん。況や能く此の三者を調和的に発達する者に於ておや。

先生の傳記の人を感奮せしむるや、極めて大なるものあり。惰氣を生ぜし時之を読まば勇気を生ずべく。

邪念の起こりし時之を読まば、正義の念に帰るべく。胸中沈鬱せし時之を読まば、灑然洗ふが如く。士気浮靡なりし時之を読まば、着実と為るべく。

退嬰心の起こりし時之を読まば、進取の心生ずべく。姑息心の浮びし時之を読まば、活動心を生ずべく。厭世の念の起こりし時之を読まば、楽天の念に帰るべく。

人生不安の起こりし時之を読まば、人生の穏健を悟るべく、怨恨嫉妬の生ぜし時之を読まば、恰も雪片を把りて洪爐に投ずるが如く。

浮栄虚誉の念起こりし時之を読まば、忽焉として枯澹高潔に帰らん。玄遠空虚に陥らんとする時之を読まば、活用実学に帰らん。

支離散漫に流れんとする時之を読まば、簡易直截に帰らん。蓋し先生の一生は極めて多変にして又多趣なるものなり。

余は、好んで古今人物の傳記を繙読すれども、未だ曾て先生の傳記の如く、是れ不文を顧みず、敢て其の詳傳を論述せし所以なり。読者乞ふ文辞の拙劣を責めず。言外に於て先生の流風余韻に接せられるべし。

湛若水、王陽明の墓誌銘;「文成公は龍山、太宗伯公華に出づ其の遥々たる遠歯を晋の高士王義之光禄大夫王覧に推す。

其れ之に本づくる所あるなり。夫れ水土の積むこと厚ければ、其の物を生ずるや。必ず蕃しと以あるなり」と。

抑々、陽明先生の父祖の行状は、今之を審にするを得ずと雖も、其の知り得べき些少の事蹟は、即ち利欲に澹泊にしてあり。

輙もすれば山林巌窟に入らんとして、而も聡敏果決能く事理を弁折し、義氣憤概能く公道に晝瘁するの風是なり.

遠く之を王義之に見るも、近く之を王綱、秘湖漁隠、遁石翁、摠里子、竹軒公、龍山公に見るも、略々先生一生の向ふ所を支持し得るが如し。

特に、祖父母岑氏及び父龍山公の訓育は、先生の方向を定むるむは、与かりて力ありたるを見るべし。

先生が、遂に厭世家と為らずして、能く進取活動の人と為り、実用活学の祖と為りしは、全く下記の三種の原因に依らん。

一、家庭の忠孝的訓育の深厚なりしこと。
二、文武に兼達し、時局に必須の人物たりしこと。
三、豪健明敏にして、事理を見るに明かなりしこと。

先生の家庭教育は、極めて善良にして、先生の性行を薫陶すること甚だ多し。特に忠孝の二道は、其の最も意を用ひし所なり。

而して、先生が厭世の人と為らざりしは、主として忠君孝親の念に依れり。先生の気象豪健にして、沈思幽静のみに甘んずること能はざると。

智力明敏にして、佛者の非を洞察して人生の真意義を知るに、明らかなりしこと是なり。

先生幼時の学歴及び言動は、一箇年少気鋭の青年、其の言動の無邪氣にして、豪放なる其の嗜好の推移にして異常なる。

到底、凡庸の生涯を逐くべき人に有らざるを推定し得べし。加之、先生の家庭は累世の遺風として高潔を尚とび倫常を重んせり。

先生が、言行の多く孝親忠君の根本より出て来れるが如きは、明かに訓育の力に由れるを見るなり。

既に、卓越する資性を以て、完全なる家庭の薫陶に成長す。美ならさらんと欲するも、豈に得べけんや。乞ふ之を先生の一生に微せん。

王陽明先生、年十七歳より三十四歳に至る。十有八年間の言動なり。此間に於ける先生は鋭気余りありて、思慮未だ熟せざる者の如し。

見る所を試み、聞く所を学び、接する所に感じ、触るゝ所に動き、百万転展して自己の志望を確定するに煩悶せり。

或は、宋儒格物の学を為して、科挙場衷の人と為り、或は神仙養生の術を学て、陽明動中の人と為り、或は六韜三略の奥義を究めて、攘夷の作を立てる。

或は、國家経綸の熱情を披歴して、辺務八事を健言し、或は饒舌諧謔を制して、謹厳寡黙と為り。

或は、詞章記誦を去って、聖学実踐に志し、或は世を離れ遠く去らんと欲して、一片孝心親の念に繋がる。

先生此の時、若し孝親一縷の念なかりせば、世外の人と為り了れるや久し。是れ変動中の最大変動なりしならん。

王陽明先生の一生は、、変化に継ぐ変化を以てしたれども、未だ此の十有八年間如く甚だしきはあらず。故に之を題して志望動揺時代と為せり。

先生、平日諧謼豪放を好み、人を慶應接するに、極めて磊落簡易を以てす。一日之を悔い遂に厳然端座して言語を省く。

平素、灑落饒舌饒舌なる者が、俄然謹厳沈黙の人と為りたれば、傍人知友未だ信ぜず。先生色を正うしてう曰く、吾山往時に放逸す今や過を知れり。

蘧伯玉は、行年五十にして四十九の非を知れりと云ふ。何ぞ其れ晩きやと。自後四子も亦を漸く容儀を謹むに至れり。先生の襟度極めて潤大にして、灑々落々たるの風は、終身殆ど変れることなかりき。

王陽明先生は、一生片時も修学は廃せずと雖も、其修る所一ならずして、或は道家に入り、或は佛氏に入る。

而して、儒教は先生が曾て離れんと欲して、離るゝこと能はざりし所なれども、字義訓詁の末学の如きは、固より願はざる所なり。

従来の経歴より推測する時は、所謂儒佛道の三教を打って、一段と為せるが如き思想を懐くに至るべきこと自然の勢なりとす。

然れども、先生は幾くもなくして、仙釈二氏の非なる事を悟るに到りたり。、蓋し二氏を修るの結果は、其の豫期と相反せしを以てなり。

此に至て、先生の方針定まるに似たり。従来三十余年の星霜は、実に種々の変遷に遭遇しつゝ経過したれども、皆な自己が嗜好の変化のみなれば、未だ以て充分に先生の心力を窺うに足らざるなり。

或は任侠に溺れ、或は騎射に溺れ、又は詞章にに溺れ、又は神仙に溺れ、若くは佛氏に溺れ、若くは遠く遁れて山林に入らんとしたる事あり。

自己が、方向を一定するに来るしみと雖も、、極めて平穏にして多くは成功に次ぐに成功を以てしたれば、心中必ずや愉快を感ずること少なからざりしならん。

其の世路の剣難に遭遭し、行路の難苦に手指を染めしは、実に今後二十余年間に在りてす。先生の一生五十有七年間長らずとせず。

其間の変遷も、亦た多からずとせざれども、如何なる境遇に投ずるも裕如晏如として、之に處し之を楽しんで遂に美果を結びし。

王陽明先生が、衆人に超絶するの資性ありに由らん。抑々先生の資性は、所謂多血質と謂はんよりは、寧ろ神経質と謂うべし。

然れども、世間普通の神経質の如く、憂慮憤慨に過ぎて、為に自己が守るべき本分を失するが如きの弊なし。

卻て、灑々落々能く諧謔し能く談笑して、衆を容るの襟度ありしは、毎に先生の行為に於て見る所なり。

忙中は困明あり、苦中に楽天地ある。是れ以て、度量の超凡と為すに足るべし。其の聰明叡敏なるや、如何なる難事に逢着するも之を為して、力に応ずることを得る。

如何なる難関に遭遇するも、之に當りて遂成するべかざるはまし。故に少壮より百事に接触して、其の才幹を試みんとしたるなり。

或は國家の國事に関し、或は一身の事に係わりて、能く察し能く處して、未だ曾て蹉跌あることなかりき。

且つ、その意志力も頗る剛健にして、百難を冒して撓まざる概あり。蓋し陽明先生の資性非凡なると、従来諸般の経験を積み来たる。

能く、事物の表裏深浅の程度を測り、内外の刺激に応じて、自己の心力を注用するの節度を悟り得たるに由れり。

今後に於ける陽明先生は、殆ど純然たる聖学の徒にして、敢て或は迷溺の失あることなし。既往三十余年間は素養の時代であった。

其の能力を実験するは、実に将来二十余年間に在りとす。請ふ此より先生活動の状態を看せしめよ。

龍場大悟;聖賢が学に於て美果を結ぶは、只だ此の良知の二字を取り用ふればなり。所謂格物とは、此を挌するなり。所謂良知とは此を致すなり。

思はずして得るとは何を得るか、勉めずして中るとは何に中るか、総べて此の良知を出でざるのみ。唯だ其の良知たるや得る事は思いに由らず。

若し、徳性の知を舎てゝ見聞の知を遂はば、縦命ひ想ひ得るも亦た水を支流に取って、終に未だ江海に達せざるが如し。

是れ、一事一物の知に過ぎずして大本根源の知に非ず。之を変化に試みるに終に窒礙にあり。必ず孔子の心の欲する所に従ふて矩を踰得ざるが如くして、方さに是れ良知の全作用を得たるなり。

故に、入るとして自得せざるなし。是の如くんば又何んぞ窮通栄辱死生の見あって、以て其の間に参はるを得んやと。

是こに於て初て知る、聖人の道は吾が性中に自ら具備す。吾が前日、理を、心外の事物に求めしは大に誤れりと。

乃ち、黙記せる五経の句を以て、自ら其の旨を證する脗合せざるなし。因て五経臆説を著わす。蓋し先生が主唱する所の心即理の説は、即ち聖人の道は吾が性にて自ら足れり。

先の理を事物に求めしは、大に誤れりと云へる一語自にして盡せり。猶ほ詳言すれば自己の心性を全うして之を根拠標準と為し、外界の事物に理を求むべからず、と云ふに在り。

故に先生は格物は視聴言動思の五事を正うするに在りと解し致知は人間固有の良知を致す解せり、格物致知の解釈は朱子と大に異る所にして先生特得の見と為す先生の斯の悟道は実に陽明学の曙光と謂うべく是利日一日進捗して遂に斯学を大成するに至れり。

先生曰く、知行は本と自ら合一なり、分って両事と為すべからず。譬へば某人、孝を知り、悌を知り称するが若きは、必ず是れ己に孝悌の事を行ひ終って方さに能く知るを許す。

又、痛を知るか若きは必然已に自ら痛み終れるなり、寒を知るは必然已に自ら寒之終れるなり、是の行的主意を知り是の知的工夫を行ふ。

古人は唯だ世人を貿々然として曖昧に行ひ去るがため故に先づ一個の知を説く所以なり是れ知行を割してこと為すにあらず、若し行ふ能はず人は、猶ほ是れ知らざるなり…と。

龍場謫居の二年間は辛苦艱難甞め盡くして始て廓然悟る所あり。己に得失呆辱の境を超脱し、又在遂に生死の理に貫徹して人事を盡くして天命を俟つの奥旨に達し、唯だ自己の心性を是れ頼むべく外物の頼むに足らざるを悟れり。

先生が精神の修養玆に至りて既に熟し泰然自若、如何する難事に遭遇するも動くことあることなし。廓然太公にして物来て順応し、明鏡止水の如く寂然不動、鑑空衝平にして動靜語默を撤して良知の霊明を存せざるはなし。

俚諺に艱難三女を玉にすと言ふもの寔に先生に於てが文を見る。先生の学徳は片時も進歩せざるなきも未だ謫居両年の如く若大の進歩を為せるは非ず顧ふに此れより以前三十余年間の素養比機に会ふて一度に効果を結びたるならん。

虎穴に入らずんば遂に虎子を得ず、死地に陥らずんば遂に生死の味を知らざるべし、先生が此の間に閲歴せし、辛芳艱難は到底常人の堪ふる能はざる所、故に先生が経験収得せし所も亦た頗る歎称すべきものあり。

且つ又た此間に於て先生が示せし所の熱誠、節義、耐忍、智略、決断、修養、安心立命、寛怒等を熟察せば必ずや得る所あるべし。

先生の如き閲歴を再演するは勿論不可能に属すれども吾人各自の進路孰れか之を試みるに適せざらん。須らく先生の行迹に拘泥せずに専ら其の精神を取るべし。

抑々陽明先生の講学は一目片時も發することなけれども、或は自己修養を主とする時期あり、或は門人教育に従事するの時期あり、或は征討に従事して講授に専一する能はざるの時期ありて其間判然區割を為すものなきにあらず。

格物は是れ誠意の功夫、明善は是れ誠身の功夫、窮理は是れ盡性の功夫、問学を道ふは是れ徳性を尊ぶの功夫博文は是れ約禮の功夫、惟れ精は是れ惟一の功夫。

禁絶問ふ静坐中に思慮紛雑するも強いて之を禁絶すること能はずと、先生曰く紛雑せる思慮も亦強ひて之を禁絶することを得ず。

只だ思慮萠動の處に就て省察克治せよ。天理精明なるに至りて後に、各事に付する所の意志は自ら精専にして紛雑の念なし。

蓋し、孟源は正座に依て、雑念の煩類を除去せんと欲せしならん。、而して、先生の論示は動静一貫の功夫にして、、始めて能く至善に止まる事を得ると曰ふに在り。

抑々、思慮の萌動するは吾人の常態なれば、何ぞ之を禁絶制止するの必要あらん。唯だ之をして天理に合わせしむべきのみ、静坐の功夫も時には益無きに非ざれども、専ら之に依らば或は枯禅に陥らん。

善を為すの人は、独り其の宗族親戚の者之を愛し、朋友郷党を之を敬するのみに非ず。鬼神と雖も亦た陰かに之を相く。

惡を為すの人は、独り其の宗族親戚の者之を怨むのみに非ず。鬼神と雖も亦た陰かに之をつみす。故に善を積むの家には必ず余慶あり。不善を積むの家には必ず余殃あり。

人の善を為すを見ては、我必ず之を愛す。我能く善を為すば、人豈に我を愛せざる者あらんや。人の不善を為すを見ては我必ず之を悪む。

我苟も不善を為さば、人豈に我を悪まざらんや。故に兇人の不善を為して身を隕し家を亡ぼすに至りて、悟らざる者は其の自ら反省すること能はざるに由る。

今人一言の怒に忍びず、或は少しの利を爭ふて遂に訟を相構ふ。夫れ我れ彼に勝つことを求めんと欲せば、則ち彼も亦た我に克つことを求めんと欲す。

先生の学説漸く世に弘まり、武功も亦た弦に成れり。武功は直接に学説に影響せずと雖も、赫々たる勲労は又た能く先生の勢威を高かめ、一言一行をして自ら世に重きを為すもの少なからず。

是れ、武功の間接に文教宣揚を助くる所以なり。況や此間に於て苦辛経営せし所は、皆な其の平素の修養に基けるものなるおや。

且つ発明せし所の十家牕法員、隊伍法、保甲法の如きは皆な一時の計に出でて、能く後世の法と為れるものなり。

王陽明先生、曾て三教の同異を論じて曰く、仙家は虚に説き到る、我が聖人も豈に虚の上に於て一豪の実を加へんや。

佛家は無に説き到る、我が聖人も豈に能く無の上に於て一豪の有を加へんや。但だ、仙家の虚を説くは恬澹養生の主旨より来り。

佛家の無を説くは、生死苦海を出離するの主旨より漸く進んで、空寂の本體上に來るも、仙佛二氏は共に未だ些子の故意を加ふるを免れず。

我が良知の虚は、便ち是天の太虚、良知の無は便ち是れ太虚の無形なり。日月風雷山川民物等凡そ象貌形色あるは、皆な太虚無形中に在りて発用流行す。

未だ曾て天の障礙とならず。聖人の行動は只だ其の良知の発揚に順ふのみ。天地萬物の理は皆我に在り。

仙佛二氏は此れ理を知らず、故に未だ可ならざる所あるなりと以て、先生が三教に就きての意見を知るべし。

他人の学は情を飾り、節を抗げ之を外に矯む。王陽明先生の学は、精神極致之を心に得る者なりと。

心が養を得れば、則ち氣自ら柔らく、心は元氣の由て出る所なり。書に曰く「詩は「志を言ふ」と。志は即ち是れ楽の本なり。

又曰く「歌は言を永くす」と、歌は即ち是れ律を制するの元なり。永言古聲は論弁は倶に歌に本づく、歌は心に本づく。故に心なるものは中和の極なりと。

本篇に述ぶる所は、先生五十歳より五十六歳に至る、約六十年間に於ける門人強化、講学上の論弁及び、陽明先生の動静なり。

陽明先生、既に諸種の艱難を関歷して、心膽思想と共に殆ど鍛練の極度に達せり。故に読者若し、此間の遺教を熟読精思せば、必ず得る得る所多からん。

近来致良知の三字は、真に聖門の正法眼蔵(主眼骨子)なる事を信じ獲たり。往年吾れ尚未だ盡さざるを疑ひしも、今國家多事より以来、只此の良知は具見する事なし。

之を舟を操るに譬ふれば、舵を得れば平瀾淺瀬も意の如くならざるはなく、顛風逆浪に過ふと雖も、舵柄手に在れば没溺の患を免かるゝが如きを悟れり。

又た曰く学問の頭脳は、良知発見に至って充分落着す。良知は学者究意の話頭なり。良知は直に之を天地に建てゝ悖らずらず。

之を鬼神に質して疑いなし、之を山王に照らして謬らず、百世聖人を待て惑わす。此の良知の三文字は真に是れ箇の千古聖々相傳の秘に這裏に見致る。

依て、百世聖人を待て惑わす。蓋し良知、即ち良心は吾人百行の標準にして、具足せざる事なきを信認徹底するなり。

朱子学は註釋完備し、一搬の試験及び教科書に用ひられたひれば、官吏登庸試験に應ぜんとする者廣く之を購読し、其勢力遥かに陸学の上に在り。

陸氏歿後、二百八十年にして王陽明出で、朱子学の弊習を目撃し、陸学の実践に適切にして、而も振るはざるをは慨き大に陸学を鼓吹し、遂に能く簡易直截なる一派を大成して、所謂 陽明学を成せるなり。

是より先き倫彦式(字は以訓)は、中に過ぎりて学を先生に問ひしがひ、是時に到り弟以諒を遺はし、書を以て問て曰く(一)学に静根なし、(二)、物に感じて動き易し、(三)事を處置して後悔多し、之を如何すべきや。

先生曰く、「汝は三言の病もの亦互に相連関す、唯だ、唯だ学を以て別に精根を求むるが故に、物に感じて其の動き易きを懼る。

物に感じて其の動き易きを懼るゝが故に、事を處して後悔多し。心は動静なきき者きなり、故に君子の其の静を学ぶや、常に覚めて未だ曾て無らざるなり。

故に、常に百事に感じて而も常に寂然たり。心は一なるのみ、静は其の體なり。而して復た別に静根を求むるは、是れ其の體を撓めて其の用を動かす者なり。

而して、其の動き易きを懼るゝは、是れ其の用を廃するなり。故に静を求むるの心は即ち動なり、動を悪むの心は静に非るなり。

是れ動も亦動き、静も亦た動き、送迎起伏して無窮に相迎ふと。故に正理に循ふ之を静と謂ひに、邪欲に従ふ之を動と謂ふなり…と。此等の説梢深遠に亘れども、熟読玩味せば益を得る事少なからざるべし。

狂者の志は、遠く聖人と為るに存す。一切の紛囂俗染は挙げて以て其の心を累はすに足らず。真に鳳凰の千仭に翔けるの意あり。

一たび精修猛進せば、即ち聖人と為るべし。唯精修猛進せざるが故に事情に迂潤にして、行も常に志に及ばず。

唯だ其れに及ばず、故に心底尚保未だ真正を失はずして、庶幾くば與もに進んで裁正すべし。

狂者と為りて、専ら自己の主義を発揚して憚る所なければ、世人と衝突することも亦た多く随て、批評を受くることも倍々繁からん.

陽明先生が、自ら狂者を以て任じ、世の非毀を意に介せざるは、是れ又た人品に於て一層の進歩を見るべし。

凡そ社会に立て活動する者は、必ず多少の敵を有せざるはなし。或は敵に愈々多きは、其の人物の愈々偉大なるを證するものと謂つべからん。

足下同志を引接し、孜々として怠らずと甚だ善し。但し、議論は須らく謙虚簡明を佳とすべし。若し自ら處すること任に過ぎて詞章重復せば、郤って恐くは益なくして損あらんと。

蘀尚謙が学を問ふに復書して曰く、自ら処するに罪疾は只だ軽傲の二字に縁ると謂へるは、力を用ふるの懇切なるを知るに足る。

但だ、を知る者は即ち是れ」良知なり。此の良知を致して軽傲を除くは即ち是れ格物なり。致良知の三字を究め得ば、千古人品の高下真偽一斉に看破して豪髪も揜蔵を容さず。

仙佛二氏の用は皆我の用なり。吾が性を盡し命に至るの中に即きて、此身を完全に養ふ之を仙と謂ひ、吾が性を盡し命に至るの中に即きて、世の煩累な染まざる之を佛と謂ふ。

但だ後世のだ儒者は聖学の全體を見ず、聖学と仙佛二氏とを二と為して見るのみ。聖人は天地萬物と體を同くす。

儒佛老は皆な吾の用なりとする。是れ之を大道と謂ひ、二氏は自ら其身を私にす、是れ之を小道と謂ふと、是れ即ち陽明先生の三教達観なり。

鏡の未だ開かざりしときは、垢を蔵くすを得べきも、今や鏡は開けて明らかなり。一塵の落るも自ら脚を留めことなければ難し。此れ正に聖境に入るの機なり。之を勉めやよと。

夫れ心の本體は即ち天理なり。天理の霊覚は所謂良知なり。君子戒慎恐懼の功夫は、時として或は間断あることなければ則ち天理なり。

天理は常に存して、其の昭明霊覚のの本體自ら蔽ふ所なく、自ら擾る所なく自ら餒ゆる所なく、動容周旋して禮に中り心の欲する所に従ふて矩を踰えず。

斯れ、乃ち所謂真のなり。是の灑落は天理の常存に生じ、天理の常存は戒慎恐懼の間断なきに生ず。孰れか敬畏の心は、反へて灑落の累と為す謂ふやと。奥妙精微の解真に味ふべし。

良知の外に知なし、故に致良知は是れ聖門に人を教ふるの第一義なり。今専ら之を見聞の末に求むと云ふときは、落て第二義に在り。

若しその良知を致すを、之を見聞に求むと云ふときは、語彙の間末ゼニと為るを免れず。此れ専ら之を見聞の末に求むる者とは、精々同じからずと雖もその未だ精一の旨を得ずとは為すは一なりと。

天下に信ぜられんよりは、真に一人に信ぜられんに若かず。道は固より自在 学も亦た自在。

夫れ人は天地の心にして、天地萬物は本来吾が一體なる者なり。生民の困苦茶毒は孰れか疾痛の吾が身に切なる者に非ざるか。

吾が身の疾病を知らざるは、是非の心無き者也。是非の心は慮らずして知り、学ばずして知り、学ばずして能くす、孟子の所謂 良知なり。

良知の人心に在るは、聖愚を閉つることなく、、天下古今の同じくする所なり。世の君子は唯だ其の良知を致すを務むのみ。

則ち自ら能く是非を公けにし、好悪を同じくし、人を視ること猶ほ己を視るが如くし、國を視ること猶ほ己がこと家を視るが如くし、天地萬物を一體と為す。

今や、誠に豪傑同士の士を得て、共に良知の学を天下に明らかにし、天下の人をして皆な自ら其の良知を致す。

嫉妬勝念の習を一洗して、以て大同に至らしめば、則ち僕の狂病は固より将に脱然として、癒えて終に喪心の患を免れん。

「耻を知るは勇に近し」と、只是れ其の自己の良知を致し得ること能はず。意気を以て人を屈伏し得る能はず。

意気を以て人を凌軋し得ること能はず。憤怒嗜慾に當って意を直くし、情に任ずること能はざるを以て恥と為す。

殊に知らず 此の数病なる者は、皆な自己の良知を蔽塞するの事にして、正に君子の宜しく深く恥づべき所なり。

諸君の知謀才略は、自ら超然として衆人の上に出づ、未だ自らこと能はざる所は、只だ御未だ自己の良知を致し得ること能はざるのみ。須らく是れ私欲を克ち去り、真に能く天地一體と為すべし。

陽明先生既に宸濠の大難を鎮定し、奸臣のざん構を排除し、所謂百死千難中より、良知を発見せられたり.

此の時期に至ては、既に心即理・知行合一・致良知の三綱領完く備わり、陽明学の全體系は已に成立せり。

故に、此の間に於ける先生は、自家の学説を主張し門人同士と往復論難して諸種の教学を後人に遺されたり。

神仙養生論・儒老佛三教論・入山養静系論・抜本塞源論・天地万物一體論より」心の動静」灑落と敬異」「講友間の態度」等に至るまで、最も懇切に説示されたる所、恰も孔門の師弟の門答に似たる者あり。

蓋し王門の諸士は文武兼達し、学徳並進せる偉人を標的として、之に近接せんことを務めたるなり。

気象人を動かす是時に、唐堯臣に云ふ者あり。先生に茶を献し講堂に上ることを得て傍聴す、初め堯臣は疑を懐いて学を信ぜず。

先生の南浦に至を聞いて郷より出で迎へ、心己に内に動き面謁するに及び、先生の気象を見て驚いて曰く、近大安んぞ他に此の如き豪邁高潔の気象あるを得んや、と。

堯舜は、生知安行的聖人なるも、猶ほ勉めて困知勉行的功夫を用ひたり。吾輩は、困知便行的資質を以て悠々として坐してから、生知安行的成功を修めんとす。

是れ、豈に己を誤り人を誤るにあらずやと、又曰く良知の効用は至大思廣なれども、若し假りて以て過を文ざり非を飾らば、その害たること大ならん、と。

別に臨で諸人に属して曰く、修学の工夫は只是れ真切なれ。愈々真切にして愈々簡易、愈々簡易にして愈々真切なれと。蓋し簡易は是れ陽明学の特徴なればなり。

守人は才略素より優なり、議する所必ず自ら見あらん。事は遥に度し難し、其の会議の塾する處を俟て須らく、處置は中庸を得て久きを経て患なかるべきを要す。

事の宜くすみやかに行ふべきものあらば、其の便宜をゆるし顧忌を懷きて以て、後患を胎勿れと、蓋し陽明先生の才略は既に朝野に聞こえたる也。

王陽明先生、既に恩田二州の賊を平定して帰途に就く。所謂功成り名遂げて身退く時に至れるなり。此時に當って武功巳に成り。

文教も亦た巳に其組織を完備したれば、事功上のに於ては亦た遺憾のある事なし。然れば臨終の言動の如きも公明正大・寂然不動である。

実に、有道の君子たることを表せり。心性修養に志す者此心光明復何言の七字を服膺せば、必ずや迷溺の憂なからん。

折も、王陽明の学問の系統は、陸象山より来れるものなれば、其の同一の点多きは固より當然なれども、心即理説は特に象山より得る所多し。

蓋し、象山の学説の最要部とする所は則ち心即理是れなり。換言すれば象山の学は心即理の基礎の上に建てれられたるなり。

而して王陽明の学も亦、心即理の基礎なくんば到底成立せざるなり。是故に吾人若し王陽明の心即理説了解せば、則ち既に陸象山の学の要旨を了解せる者謂うべし。

但し、陸王二子は時代性質経歴等を異にすれば、其の説明用語は相同じからざるものなきにあらず。

夫れ、心即理或は之を心即理合一とも曰ふも、是れ唯だ異語同意のみなり。心即理とは則ち心は理なりとの意味なり。

換言せば、心即理とは心には理を備ふ。或は理は心に求むべきなり。或は心外無理と云ふと同一意義なり。

而して、理とは標準若くは法則又は至善と云ふの意なり。是に於て心即理とは、則ち心は標準と為り得ると曰ふに同じきを知る。

然れば、吾人百般の行為の標準は.心に備はるが故に、吾人は唯だ心を明かにして、之に法則を求むべしと曰ふに帰す.

陸王二子は、特に本心又は良知良能と曰ふて、邪心若しくは私心に區別す。心は固より一為れども、其の作用は常に正なる能はずしては矛盾に陥る。

公なる能はずして、私に流るゝことなき能はず。其の公正なるは心の本體の儘に起るものにして、邪私なるは外物の誘惑に由って起こるものなり。

本然之性:気質之性/仁義の心;利欲の心/良知;放心(陥溺心)/公欲;私欲/正欲;邪欲/本心;私心/天理:人欲/道心;人心。

世人は、心即理の文字に誤られて本心と私心とを混合して理なりと解し、遂には此心は即ち理なるが故に、私心の欲する所に従ふて、放僻邪慾淫欲に陥るも亦た不可なしと、教へたりと曲解するに至れり。

是れ特に、陸王二氏の本旨に反するのみならず、恐るべき害毒を世に流すに至らん。

独り浅学の徒の誤解のみならず、稍々大家と稱せらゝ人も亦、此の曲解を為して陸王二子を誣ひんとする者あり。是れ全くれ自ら精究せざるの過なり。


王子は、心即理と唱ふるが故に、朱子の即物窮理説と相容れず。朱子は、世間一切の事物は各事理を具振るが故に、経験的に世の事物に就いて其理を研究すべしす。

王子の理は、朱子の理よりも範囲稍狭し、何となれば朱子は其の極度に至ては、人間一切の行為は、勿論天地間の一草一木皆な理を有すと曰へども、王子は専ら道徳法則を指して理と曰ひたればなり。

且つ、王子の所謂天理は、カントの所謂無上命法に比較して考ふべし。尚ほ、心即理の基礎の上に建てられたる知行合一説、及び心即理説の内容の詳解と見るべき良知説を参考せば、王子の真意をする得ん。

知行合一:――――――――――――

⒈知れば必ず行ふ。

⒉知ることゝ行ふことは一緒に進む。

⒊行はざるは未だ知らざるが故なり。

⒋真に知ったならば必ず行ふ。

⒌行わずんば到底真知は得られず。

⒍知は理想なり行は実現なり。真の理想は必ず実現す。若し実現せずんば其れは唯だ空想のみ。空想は之を理想と曰ふことを許さず。観念と其の発現に就て言ふも亦之に同じ。世間に空想家家が多き故に王子の此の論が起こりしなり。

⒎知は理論なり行は実際なり。理論の真価は実際に適すると否とに依って定まる。実際に適せざる理論は価値なし。理論は実際と違ふものと諦めて怠る事は王子は決して之を許さず。知行合一説は空論排斥策なり。

⒏知行合一は知行の関係論の真相なり。即ち本義なり。

⒐知行合一説は、即ち実踐敵勇気鼓舞論なり。

⒑知行合一の行、必しも動作に發するものに限らず、心上にも言ふことあり。学べば悪念を知るは是れ知にして、妄念を直に消除するは是れ行なり。年頭を正すに就いての知行合一を見るべし。

王子は、心即理・知行合一と唱ふれども、学問を無用に云ふにはあらず。唯だ、當時一般人間社会に必要なる教訓は已に備はれるものとして、之に就いて知行合一たるべしと主張したるのみ。若し、然らずんば知行合一説は全く形式論に終らん。

見聞の知に依て、略々忠義の談話を為し得るも、之を忠を知る者と云わず。豈に亦た之を忠臣と云はんや。

孝の談話を為し得るも、之を孝を知る者と云はず。豈に亦た孝子と云はんや。即ち空しく忠孝を説く者を以て、未だ真に忠孝の何物たるかを知らざる者と為す。

王子の知行合一並進論は実踐的にして純理的ならず、故に実踐界に於ては実に千古不朽の価値を有すれども、純理界に於ては或は非難を免れざるべし。

縦令ひ純理界に於て、非難を免れざることありと雖も、其は少しも王子の立言の主旨に関係することなし。

若し之を、純理的方面より難ずるものあれば、恰も的を知らずして矢を發つが如しと謂うべし。

古人が、知行合一を分て二と為したるは、已むを得ざるの救弊策なり。古人が知を説く所以は、世間一種の軽率なる人の意に任せて妄行し、全く沈思熟考するを知らざるが為也。

又た行を説く所以は、世間一種の徒らに高遠なる学理に耽りて、全く実踐躬行せざる者あるが為めなり。

即ち、冥妄なる行動者を矯正するには、知的功夫のを以てし、玄遠なる究理者を矯正するには、行的功夫の詳説を以てしたるのみ。

然るに、今人は古人の真意を知らず、知行を分けて二と為して謂へらく、知り了りて然る後に能く行ふ。

我れ今且く講習討論して、知的功夫を為し真を知り得るを待て、方さに行的功夫を為さんとすと。故に遂に終身行はず。亦た遂に終身知らず。此弊害たる決して小なりとせず。

王子の知行合一説は、當時の弊害即ち「論語読みの論語知らず」の如きの弊害を救わんが為に起こりたる者なれども、一時的假説とは言ふべからず。


知行は合一を以て、精髄とし本義とするものなればなり。世間に不合一即ち先知後行の場合あるは、知行を防ぐる所の障礙物多くして、容易ならざるが為めのみ。

伊川は、知行の関係に就いては下の如く考へたり。即ち凡そ人たる者は天性として善を知る時は、必ず之を行ひ悪と知るときは必ず之を避くべき者なり。

且つ、善悪を知る事の深浅さに随て、行善避悪の深浅を生ず。善を行はず悪を避けざる者あるは、未だ之を知らざればなり。故に徳育の要務は、先づ善悪に関する知識を与ふる在りと考へたり。

凡そ、好悪を知らず是非を知らぜんば、偶然信義忠孝の如き善行ありと雖も之を尊ぶに足らず。是れ、全く無主義にして何等の操守亡き者なればなり。

後藤基巳;「明思想とキリスト教」より――――――――――――――

「明史」の論賛に、「明の亡びたるは神宗(万曆帝)に亡びたるなり」という批評の見えるのも、この意味に於いては当たっているのではあるが、斯かる政治社会の不安混乱せる時代の反映は、当然思想史的な面に於ても認めなければならない。

所謂、左派王学・泰州学派の名を以て呼ばれる王学末派の泛濫は、正しくこの意味に於いて理解される。彼らの傾向は一般に工夫を遺却して本体を空談す。

頓悟を宗とし自然を任じ、名教礼節を破棄せる放縦恣意の異端思想として排斥されるが、その時代的意義は寧ろ当時の不安混乱せる社会相を反映して、下流級の側から発せられた不満反抗精神の表れと考えられる。

従って彼等に於ては、あらゆる権威的なるもの、与えられたるもの、殊に名教礼節と云ったものに対する、否定的批評的態度が露に主張された事は当然である。

最も斯かる傾向は、既に王学自体の固定化瑣末化したる、官学的朱子学に対する反動として発生し、従って又斯かる形式的朱子学によって支持される科挙制度。

乃至は、この科挙制度の中から生まれ出る、無気力な官僚士人の腐敗堕落に対する反省的批評的態度を示すことは、云うまでもなくその中心思想たる心即理・致良知・知行合一説も此処から生まれ出る。

自由闊達な批評精神と、知行合一・事上磨錬の語に示される力強い実用精神とは、単なる朱子学への反動という事を越えて、大きな意味を持つものと云うべきである。

斯かる王学精神が、当代社会の底流として渦巻く、自由解放の時代精神と呼応して、嘉靖より万暦の至る数十年間に驚異的な隆盛に赴いた。

又、それと同時に既成官僚階級の側からの反撃が、繰り返し行われた事はむしろ当然過ぎるほど当然であった。

清初において、各方面に多彩な活躍を示す数多くの思想家たちが、孰れも斯かる東林的風気の中に在って、多かれ少なかれこれとの交渉を持ち、その影響を受け乍ら生長しつゝある事は興味深き事実である。

清初の政治思想は、晩明から受け継いだ実用精神・批評精神によって裏付けながら、名清社稷の興替という大きな政治的社会的変動の中にあって、激発された民族意識を基底とした。

特に晩明史実への反省を通じて、成立せる当代士大夫知識階級の為政的関心の表現であり、その議論発展の方向は民族意識の高調とそれに随伴して、君主専制否定を通じての民本主義・重民主義の唱導を示した。

慶祝 令和元年

自己の経済生活の基線としての農村問題に関心を注重せる、理想国家建設理論であるという事が出来るであろう。

中華思想は王道思想を内包し、中華の政治的指導者たる〈天子〉がその徳化を近きよりも遠きに及ぼして、遂には天下――――全世界をも包括し尽くす事を理想とする一種の世界主義である。

嗚呼、我が中国満州の覊縛を脱せんと欲すれば、革命せざるべからず。我が中国独立せんと欲すれば、革命せざるべからず。

我が中国列強と並び雄たらんと欲すれば、革命せざるべからず。我が中国地球上の名国、地球上の主人翁たらんと欲すれば、革命せざるべからず。

内は満州人の奴隷となり、満州人の暴虐を受け、外は外国人の凌辱を受け、数重の奴隷たり、正に亡国珍種の難あらんとす。此れ我の黄帝神明の漢人種の今日に革命独立を唱る原因也。

伝導の開拓期における、心的指導者として知られたマテオ・リッチ師の場合である。すなわちリッチ師の伝導は1582年にはじまるが、彼はその当初まず中国の言語の習得から、その思想文化の研究へと歩度を進めた。

中国人の〈精神〉を理解することに努め、所謂、儒仏道三教思想の存在を知ると共に、これに対して更に慎重な検討と省察を加えた結果として、儒教が官僚士人の教養の中心をなす必要がある。

そして、他の二教よりはるかに優位に置かれている事、而も仏道二教の多神教的汎神論的教説は、カトリックの立場から見て疑似異端の宗教思想として、否定し去らざるを得なかった。

之に反し、儒教の敬虔な天命思想や性善論に立脚して、仁愛孝悌に注意する道徳思想の中には、カトリック的唯一神の信仰や愛徳の倫理に近いものが含まれている点において、提携の必要性と可能性の存することを見出した。

明末に於けるカトリック伝導は、その最末期(1650)には十五万人に達する信徒の中に、信仰を行き渡らせたと報ぜられている。

併し、このような繁栄の端を開いたリッチ師等開拓期の伝道者の辛苦は、決して容易なものでなかった。リッチ師がその伝導生活20余年後、1610年に北京で逝世した当時に於ける信徒は、漸く2500人を数えるに過ぎない。

奉教士人におけるカトリック教説の理解は、徐光晵が反教論者の非難に抗して、皇帝に奉じた有名な「弁学章疏」の中で、―――――――その説は上帝に昭事するを以て宗本と為し、身霊を保救するを以て切要と為す。

忠孝慈愛を以て工夫と為し、遷善改悪を以て入門とし、懺悔滌除を以て進修と為し、昇天の真福を以て善を作す栄賞と為し、地獄の永殃を以て悪と作すの苦報と為し、一切の誡訓規条は天理人情の至を悉くす。

一般に明末というより、明代中華以降の儒教思想界の主流をなすものは、いわゆる王学(陽明学)である。すなわち王学とは十六世紀の初頭に於て、当時の官学たる朱子学の形式化・固定化を批判して興った新儒教である。

その始唱たる王守仁(陽明)のと特微的教説は、「心即理」説の易簡直截な唯心論的基礎に立って、良知=人間精神の絶対的自由尊厳を説く。

斯かる自我意識の覚醒に基づけて、一切の外的権威への盲従を否定する自由思想の昂揚に求められるが、更にその後学のうち、いわゆる左派王学・新陽明学の名を以て呼ばれた。

一群の思想家たちは、師説を極端にまで推し進めて益々観念論的色彩を濃くし、人間の自然本能的欲望を積極的に肯定した。

此れと対立する、外的規範の束縛を否定する立場から、名教倫理を蔑棄して終には儒教思想の埒外に逸脱して、これと鋭い対立を示すに至った。

併し乍ら、始めに見た如くカトリック伝道に対する明末思想界の反響は、これら肯定的受容的傾向と共に又、烈しい否定的排斥的傾向ををも示すものだった。

中国人には、古くから」自分の国を以て天下(世界)の中心=中国と考え、周囲の国々を夷狄蛮戎と蔑ましめて、政治的にも文化的にも中国に劣るもの、及ばざるものとする自信が旺盛であった。

この意識に本づけて、華夷弁別尊華攘夷の思想と行動が示されたことは、歴史上の数多の事例がこれを実証する。

吾儒のいわゆる天には三義あり、第一は望んで蒼々たる天、いわゆる「昭々の多その無窮に及ぶ」蒼天の謂であり、第二は世間を統御し善を主どり悪を罰する天、すなわち詩易・中庸に称する上帝の謂である。

彼(天主教者)は、且これを知るのみに過ぎないが、此の天帝は只世を治るのみで世を生むものにあらず。彼のこれを以て人を生じ、物を生ずるの主とするの主とするのは、大いなる誤謬である。

第三は、本有霊明の性を指し、無始無臭・不生不滅なるが故に天と名づけ、天地万物のの本原なるが故に命と名づける。

天主教は、天地と天主と人を分って三物と為し合体を許さず、わが中国万物一体の説を以て是ならずとし、王陽明先生の良知は、天を生じ地を生じ万物を生ずるとするを以て皆非なりとする。これ天下万世の学派を壊乱する者なり。

吾儒にあっては、惟だ心を存し生を養う事が天に事うるの道。過を悔い善に遷ることが天に祷る所以であり、これを置いて別に所謂之を天とする説之に事うるの法なし。

独り、天主のみを至尊と為し。親死して哭泣の哀を事とせず、親葬りて追遠の節を修めず、此れ正に孟子のいわゆる父を無みし君を無みする、人道にて禽獣為る者なり。

天主を、至尊とする唯一神観の協調が、君父を斎行の権威と仰ぐ儒教倫理と抵触する所以は、最早多弁を要しまい。即ちカトリックの立場よりすれば、天主は絶対の権威であり、その前に在っては如何なる人間も皆平等である。

併し、人倫関係を重んじ君父を最高の権威と見る儒教の立場からすれば、この論断に含まれる危険は容易ならぬものがあると云ってよい。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2019-05-15 08:22:27

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