第六章 言志録(イ、陽明学を共に学ぶ)

憍憍時務六策:第1、幕府が率先して国を守る決意を固める。
     第2、わが信ずるものに依存し、わが方の長所を充実して外国と通商を絶つ。
     第3、国防と民心安定の為に食料を貯蔵する。
     第4、わが長所である陸戦に力を注いで軍備の充実を図る。
     第5、武のみならず文を崇び道義を明らかにして、士風を粛清する。
     第6、農制を整備して、生民の生活を豊かにする。

草菴は、吾が身は山中に退居していたけれども、経世の念は一時として絶える事はなかった。故に読書に於いては、たとえ高明玄妙の説くものであっても、わが学術や道義の汗劉隆明晦に関わりない書。

すなわち、無用な書は読む事を欲せず、有用欠くべからざる書を読み、経書を講じ史書を繙いて、経世の技倆を究めた。

また記事の書にしても、天下の治乱安危に関わりのないものは読まなかった。草菴はいう、人者は天下国家を己の分とすべきであると。

草菴の時世対策の要綱は三つある。一つは国論の統一を図ること。一つは国防を充実すること。他の一つは洋楽を排して、開国以来の美俗を維持することこれである。

洋学は、王政復古以来特に諸藩に流行したが、草菴は次のような理由でこれに批判を加えている。天文・兵制・医術など所謂科学技術は、わが方の及ばぬところである。

只、これを学ぶのはよいが、その研究は利用厚生を目的とした者であり、従って専らこれに従えば、私の習い日に長じて義利本来の分を忘れ、奢侈に流れて廉恥節義を失う惧れがある。

耿介の気が亡び、わが開国以来の美俗国体が一変し、延いては下剋上の風を醸成して、不測の禍を生ずるばかりでなく、信賞必罰を要とする法治にならって政体が煩瑣になり、租税が重く賊斂法令が厳しくなって、民は大不幸に陥るという。

ただ専ら文章に務める者は、文を以って人に誇る嫌いがが、あるがこれは誤りである。内に仁慈の心があれば、その言温然として愛すべきものとなり、内に義烈の心があれば、その言凛呼として犯すべからざるものとなる。

後世文に務める者は多いが、徳に務める者は少ない。文は気である、故にわが性格気象は其の侭文となって表れる。従ってこれを善養せんとすれば、、当然それに適する文を読む、これも又必要であろう。

「易」は、もって進退存亡の理を明らかにするもの也。苟ももって進退存亡の理を知ることであれば、則ち進むに方りてはもって亡ぶを知る。

この故に、退きては固より憂ひ進むもまた憂う。亡ぶは固よりれ存するもまた愓る。この故に「易」の工夫の憂といひ愓といひ厲といひ艱といふ。

それ然る後、もってその正を失はずして、その存するを保つべし。噫々天下あにあ安逸方肆、荒淫度なくしてその咎めを免るべきものあらんや。

これ「易」を学ぶの要なり。若し、真に以って進退存亡の理を知る事あれば、即ち進むに必ず以って退くを知り、存するに以って必ず亡ぶべきを知る。

亡ぶに或いは以って存すべきを知らん。この故に、富貴に居りて驕らず 貧賤に居りて戚まず 天を楽しみ命を知り、従容自適して怨尤をすく誠になきすべきと。

平戸が維新前後、他の地方と違って平穏無事であったのは、瑞山の施政が宜しきを得た為であると思われる。

瑞山は、「暗黙の裡にはかりごとが次から次へと湧き出てくる沈才」と称されたように、誠に力学のある人物であった。

瑞山は、実に南洲にも劣らぬ程の経綸抱負を抱いていた人物であったらしい。識者は、若し人あって瑞山を廟堂の上に立たたせたならば、刮目すべき偉業を成し遂げていたであろうと述べ、瑞山が西海の果てに空しく没した事を惜しんだ。

徳性では、明道に及ぶものはなく 学問では、伊川に及ぶものはない。明道と伊川の道は異なってはないが、明道は徳性の方が勝れており、伊川の方は学問の方が勝れていた。

明道は、徳性が寛大で規模の広潤であるが、伊仙は、気質が剛正で理路が精密である。

瑞山は、身体肥大で鬚が多く、遠方から望むと厳然としていて、畏ろしように見えるが近くにいくと、温然とした気象が顔色が溢れていたという。

だから瑞山は、慈祥温和の徳器を備えた王城の醇儒といってよいであろう。碩水の方は瑞山と違って気象が激しく性格にも圭角があった。

人に対しても清濁併せて呑んで、善に同化させるといったような處がなく、、寧ろ強く善を求める、所謂責善の風があった。

草菴の碩水への反省を促す書簡;貴契の議論、兎も角文字の間に於いても少々計画があり、過激の弊がある。講究の持敬の学問に於いて如何かと思います。

学問は、とにかく主張或いは誇張の気味を去り、只黙々と圭角を無くして素直に道理を考究し、気象も穏当平日を旨としなければなりません。

今、兄は気象が甚だよいと風聞しております。……聖賢の議論は、ともかく標榜や圭角があるのを嫌うのです。

晩年には、このような欠点もなくなって、気象も洒脱となり、深造自得 悠々とした自適の境地に達した。これは長年の努力結晶である。

はいう、古人は才があり記憶力もよかったし、又よく読書したので若くして学問が大成しているが、自分は苦勉励し、六十歳以後になって少し見る事が出来るようになったようだ。

は以上述べたように、若い時は血気に駆られて道義を大言高揚し、人に善を求めるに急であった所はあるが、一方では世俗の名声名利を脱する事に努めた。

だから学問も「論語」に言うように「己のためにする」ことが必要である事をこと強調して、もし己のために学問を為すようにしなければ、居敬や窮理というような色々な工夫をした処で、全ては空虚で吾が身に付かない。

一念利に向えば、即ちその人は既に市井のひとである。心術を弁明することが学問するもの第一義である。

心術が正しくなければ、千百万巻の書物を読んでも、それは私意邪心を増長するだけのことだ。

は、気象の峻烈な人であったにも拘わらず、塾生には殆ど干渉しない人であった。処生上の道義は非常に厳格であったが、塾生を叱ることは絶対になかった。

の講義は、一字一義を先ず講じて、後総合的にまとめるという行き方であった。併し瑞山の方はすべて品よく、難解な理論も、やさしく言葉少なくやるのがうまかったようである。

朱子は、「四書」を読む順序として「大学」から「論語」、「論語」から「孟子」「孟子」から「中庸」に進むように説いた。

「大学」を始めに掲げたのは、この書が学問の首尾次第を述べたものであると考えたからで、「中庸」を最後に置いたのは、この書に述べられている工夫が深密であり、、規模が大であると考えたからである。

要するに、「大学」は」学問の方法を述べたもの「中庸は道の本源を述べたものとして、これを重視したからである。

は、「四書」については「大学」と「中庸」をよく読むならば、「論語」や「孟子」は読まなくてもよいという程、「学庸」を高く評価している。

それは、「大学」は「論語」の大綱を説き「論語」は「大学」の細目を説いたものであり「中庸」は「孟子」の大綱を説いたものである。

「孟子」は、「中庸」の細目を説いたものと考えたからである。而も碩水は「大学」を以って「盛世の書」「学術の書」とし、「衰世の書・伝道の書」とした。

瑞山の学は深潜で綿密であるが、寧ろそれを内に包んだ道の大綱、即ち道体を体認自得する点に勝れていた。

碩水の方は、の道体の体認自得を究極とするが、細かい工夫をよく積み重ねていく点に力を注いだ。要するに瑞山の方は総合的 体験的であるが、碩水の方は分析的 理智的であった。

そして、瑞山はその天稟あって若くして道の本源を知り、晩年になるにつれてそれが其の侭大成して、円熟の域に到ったという風であった。

碩水の方は、刻苦精励の結果、山を探り水を窮め、晩年になって漸く道の本源に到達したと、いう事が出来る。

瑞山は、江戸で性理の学を修めている時、一夜 静坐中に明道の「満身惻隠の心」というのを悟る所があった。

惻隠の心とは、人の不幸や苦しみを見るに忍びない憐れみの心で、明道はこの心が吾が身の隅々まで充ち満ちていると云うのである。

人減の智慧が深くなれば、痕迹すら留めない。丁度冬になって万物収蔵 静まり返っておる様な声もなく奥もない人心の面目。

宇宙の絶対性、天地 物を生ずるの心と云われたもの、其処には静の侭無限の動が含まれ、内界の立場が直ちに工夫に支えられて、始めてその真義を知る。

即ち、生活の共同性が生じ、天地ものを生ずるの心に復帰する。静坐に依る深智の涵養とはこの事に外ならない。

仁もそれが現実生活への働き、即ち用がなければその体は立たない。そこで瑞山は体用相即を説いた。

要を忘れて体だけを求めると、超俗によって道の純粋性を保持する事が知れない。併しそうなると現実生活への働きを忘れてしまう。

そして、仏教や老荘のような虚無寂滅の道に陥る惧れが生ずる。だからと云って専ら現実生活への働きだけに心を向けると、世俗的な功利に奔ってしまう。そこで瑞山は朱子に従って体用相即を説いた。

闇斎の学は、孔孟の正伝を得たもので、朱子の正統を継いだものである。世の宋学を奉ずる者は、只その影響の一二を得たに過ぎず、その外廊さえも窺うまでに到っていない。

我が国の宋学は、慶長頃から有能なものが輩出したが、みな支離分析の学に陥り、訓詁気象・博識広文に煩わされて、闇斎が求めた真の知行や真の存養を忘れたので、、その奥義に達することが出来なかった。

世の朱子学を唱える者は、訓詁にうわ滑って単刀直入の実行がありません。これでは朱子の宗旨が雲に覆われ四方が塞がれるようになるでしょう。

慨嘆に堪えません。真の実効を為す者であって、始めて間違いなく孔孟の正統を得ることが出来るのです。

闇斎先生は、学問の道は致知と力行の二つで、この二者を貫くものは存養であると云った。それは知も存養に基づかなければ、真の知となる事は出来ず、行いも存養に基づかなければ真の行いとなる事が出来ないからである。


陸王禅などの異端の学は、心即理とするから工夫は一つであるが、それは鳥が一翼で飛び、車が一輪で走る様ようなものである。

儒者の学は工夫が必ず二つある。それは鳥が両翼で飛び、車が両輪で走るようなもので、一方で偏ったり一方を排したりするようなものでない。

窮理の工夫は色々なものが、あるが要は読書にある。存心の工夫にも色々なものがあるが、要は静座にある。

碩水において、注意しなければならぬ点は、忠孝の念に篤く義利の分に厳しく、名分を重んじたことである。

沢瀉は陽明学を宗とし、それも些か直悟を喜ぶ風があったが、草菴は当時陽明学の蘊を終いて、心の存主である意を本とする誠意の説を唱えた。

その工夫として、厳格で反省的な工夫である慎独を要とし、、それに依って朱子学末流の支離と王門の猖狂の両弊を救うに功があった。

明末の大儒、劉念台の学を信奉して専ら慎独を説き、黙坐澄心を事として諸欲の掃除をなし、それによって酒落の境に達するよう求めていた。

天下の道理、太極の全体に透徹するのが瑞山の窮理の究極であって、居敬存養 或は主静涵養は、この窮理の本を立てる工夫であった。

瑞山によれば、このような窮理を旨としなければ、例え切至な存養に任ずるとも、結局賊を認めて子となす謬りを犯すと。

草菴の存養は、人に接し物に対する際して、よく名利の念を克去し、或いは図画を見て洒脱の心境を養成する類のもであった。

益軒は博学洽聞では、徳川時代では有数の儒者で、我が國の科学技術の発展に偉大な貢献があったことは周知である。

それも要するに、朱子学に於ける万物一体思想、特に全体大用思想を受用して、これを別途に展開させた為であって、その点で利用すべき太儒であった。

兄の瑞山と弟の碩水とでは、その学に多少の異動がある。それは人物気象の相違によるが、瑞山は徳に優れ 碩水は学に優れ、体認の深潜縝密では瑞山が勝れ、博学弁識の点では碩水に一歩の長がある。

瑞山によれば、智は仁義礼智四徳の体。従って四徳を蔵する処であり、その発行あると。

この結果、智は理の妙蔵するところと考えられ、これを知れば窮理も外物を逐う工夫でなく、朱子の所謂「豁然貫通」も神秘な悟入でないことが明らかになると考えられた。

未來は、只未だ来たらずといふのみでなく、現在はないが現、在の吾人の行為により、あるようになるものである。現在に於いて行為するという事は、具体的過去を基礎とし 媒介として未来に向って創造制作し、進展するという事である。

王陽明は僅か十二歳にして、夙に科挙に登第して官途に就かむが為に、いふ功利的な意味に於いてする学問を斥け、聖人とならむとする事を自分の学の目的としている。

陽明の聖学は、自ら学んで聖人となる事を目的とするものであって、聖人の教えや事蹟等を他人事のように、調べたり記憶したりなどする事では断じてない。

だから、此の年に門人が始めて進むや、自分自身が聖人と為らしむとする、志を先づ確立すべき事を説いたのである。

陽明の教へる所は、徒に高遠の説を口に唱へる事無く、著実に人欲を去って天理を存するにあったのである。そこで彼は省察克治の実功を以て、静坐に替へる事にした。

天理を存するのと人欲を去るのとは、決して二つの事柄なのではない。なの天理を存する事が人欲を去る事であり、人欲を去れば天理が存せられているのである。

天理とは、心即理の本来の姿であり、人欲はその非本来の姿であり、人欲はその非本来の姿に他ならない。従って又知行合一の状態にあるのが、天理を存している時であり、知行合一しないのは人欲が隔断するからである。

身の主宰は便ち是れ心、心は是れ一塊の血肉にあらず。凡そ知覚する處は便ち是れ心なり。耳目の視聴を知り、手足の痛痒を知るが如き、この知覚は便ち是れ心なり。

考へる心であって、考へられた心であってはならない。何故ならば、それは対象的なものではなくして、主体的なものであるからである。

一體、普通一般の凡人が有している心も、本来は聖人の心と異なるものではないが、人欲物欲などの為に、天理という本来の心を失っているのである。

そこで、何人も学んで人欲を去って、心が純粋に天理になりさえすれば、に聖人となる事が出来る。

而も、聖人は知識 技能などといふ点で、勝れた人を云うのではなく、聖人の学は知識技能を専ら問題にするものではない。

であるから、先に何人も学んで聖人になれるといふのは、その人の才力の如何にの問わず、また身分職業の如何に拘らない譯である。

事に臨んで、その都度人欲を去って天理を存しているのでは、未だ聖人の域に達していないのであって、一瞬も私欲に間断せられず、常に天理を存しているに至って、始めて聖人といふ事が出来るのである。

天理と人欲との葛藤は、一方が他方を服従せしめ、これを支配するといふ状態にも止まるを得ない切迫閉口した対立であって、両者に何等の和解平衡も許せない、相互に絶対に他なるものである。

係る、葛藤に於ける人欲の勝利は言ふまでもないが、その際に天理が勝利を得たのであっても、それだけではまだ不十分であって、かういふ葛藤そのものが、現実には、起こらなくなるのでなければ、聖人といへないのである。

所謂、四書五経等に説かれている聖人の教へは、全て係る方法を述べたものである。聖人は人々が聖人になれないのを憂へた。

天下に教へて、私欲の蔽を克ち去って、その心体の同然に復せしむとしている。だから聖人の教えへは、人欲を去って天理を存する方に他ならない。

吾人をも含める、一切の森羅万象を成立せしめている根柢を求めるには、それは吾人自身を働かせるものでもあるのだから、吾人としてはそれを自己の内底に、主体的なものとし
て求めなければならない。

為すべき善は、只之を知るのみではなく行うふべきであり、去る可き悪は、それは反対に行はぬばかりでなく、知るだけでもなほ許されないのである。

良知は、一切を成立させる根底であるから、良知は、見聞に由るものではあり得ない事になる。

詳しく言うならば、一切の事象が良知に由って、始めて存し得るのであるから、見聞も良知に基づくものでなければならぬ。

即ち、良知は逆に見聞を可能ならしめるものであって、見聞に由るものではないのである。

かくの如く良知は、吾人をも含める一切の根底であるから、古今東西を問わず何人もこの良知を有している譯である。

聖人も愚人も、良知によって可能なのであるから、之を裏から言ふならば、聖愚の別なく誰もが良知を有しているのである。

若しも、物欲が良知に基づくものだからと言ってただ廃棄され、単に良知に吸収されてしまふものならば、良知を致す事はさしたる努力を要しないであろう。

さうでないからこそ、学んで聖人に至るには、激しい努力によってる一歩~ジックリと踏みしめて、進むざるを得ないのである。

良知は、物欲を容れる事に於いても、又、廃棄する事に於いても、共に自己否定に陥るのである。そこで良知は、物欲を上揚しなければならぬという事になる。

而して、之は決して容易な事ではなく、忍耐強く著実に功夫を用ひて、行かねばならぬのである。

而して、聖人は上述の如く、悪の可能性を有しているのだから、戒謹恐懼して常に強勉して息まないのでなければ、聖人たるを得ない。

尤も聖人は、現実に善悪の葛藤がないから、その努力は自然なるもので、意識してするのではないが、やはり格物 即ち為善去悪といふ学の功夫を用いている譯である。

格物は、結局意を誠にする為の功夫であり、之によって更に心を正しうするのでなければならない。

格物というのは、意の在る所の事物に随うて善を為し、悪を去る事に他ならない。意を誠にする事により心は正せられ、心の本体たる至善に止まることが出来る。

致知こそ、最も重要なる中心問題であり、致知を根本としてこそ、至善に止まることが出来るに至るのであって、致知を根本とせぬ格物誠意は妄として卻けられているのである。

王陽明は、聖学―――即ち最も具体的なる学としての倫理学―――の立場に立つ者である故に、彼の唱導した致良知は、天の霊に頼って偶々見るありしものであった。

而も、彼の発明創唱にかかるのみならず、それは又聖門の正法眼蔵であり、千古の聖人達が相伝する所の一点の滴骨血であった。

悪は、外的行動に現れなくとも去るべきであり、善は外的行動となって現れるのでなければならぬ。

高瀬武次郎著:「日本之陽明学より」―――――

良心は先天的なり。良心は無上最尊の意の聲なり、理なり、道なり。而して、最も簡明なり。人間は必ず従うふて行動せざる能はず。

世に、無上の、大法なるもの存して、之に従えば善、之に反すれば悪。善なれば栄え、悪なれば滅ぶと。

三輪執斎は、十九にして佐藤直方の門に入り、後陽明子の遺書に就きて独習し、大いに悟る所ありき。

執斎は、藤樹の道徳、蕃山の事業を聞て、奮然として立ち、直ちに文に伍せんとしたる者にして、学問と文章を以て一世に鳴り、傳習録を標註し、古本大学を和解して、善く陽明学を宣布せり。

梁河星巌も亦、晩年深く王学に潜心して自ら涵養す。活發地の事業なしと雖も、気格高邁・規模宏大固より尋常詩人にあらず。是れ蓋し其の養あるに由れり。

幕府の末路に當りて、勃興せし映雄豪傑 佐久間象山 鍋島閑叟 吉田松陰 高杉東行 雲井龍雄 横井小楠等、皆陽明学を以て、其の心膽を練る。

気格を高め道理心胆を貫き、忠義骨髄を塡し、死生の際に談笑して、能く撼天動地の大業を成せり。

大凡そ、陽明学は二元素を含有するが如し、曰く事業的、曰く枯禅的是なり。枯禅的元素を得ば以て国家を亡ぼす。

事業的元素を得ば、以て国家を興すべし。而して彼我両國の王学者各々其一を得て以て、実例を遺すものあり。

我邦陽明学は、其特色として一種の活動的事業家を出せり。藤樹の大孝・蕃山の経綸・し執斎の董化・中斎の献身的事業より、維新諸豪傑の震天動地の偉業に至るまで、皆な王学の賚ならざるはなし。

彼の、支那の堕落的陽明学派に対して、我邦陽明学は凛乎たる一種の生気を帯び、懦夫も志を立て頑夫も廉なるの風あり。

是れ他なし、両國民の性質の然らしむる所也。日本國民の性質は彼に比して、義烈にして俊敏且つ、更に現実的に傾き実践的に性質に富めりと。

夫れ、王文成公は文武兼備の達詩なり。其学は該博にして究めざる所なく、其事業は赫々靑史を照らすものあり。

故に簡易直截を旨とし、頓悟の風ありと雖も、野狐禅に流れるとなかりき。志那後世の王学を承くるもの、唯ゞ彼の頓悟の風を仰ぐ。

心法を是れ事として、学問事業を顧みず、沈思黙坐・面壁敷息を以て斯道の本領と為すに至れり。

然らざるものも、外観頓悟を粧ふて狂逸を以て蔑視高しとなし。遂に人倫を蔑視亡国するに至れり。是れ末流の弊にして、亡國学の謗を連きし所以なり。

然れども、陽明学が元と基素を含まざりしとは言ふを得ず。是れ王学の特色にして、功罪共に之に係はる所以なり。

唯、之を学ぶ者の性質如何と顧みるべきのみ。我邦人幸に其善美なる一元素を主として、事業学問両ツ乍ら好結果を得たり。是れ彼我両國の王学派が同じからざる所以なり。

陽明学は、簡易直截の学なり。簡易なるが故に入り易く、直截なるが故に行ひ易し。入ること易く入りて得ざるなきは、陽明学を以て最となす。特に精神の修養、人物の鎔鑄は、陽明学の長所とする所なり。

藤樹は、宇宙を以て太虚より生ずるものとし。太虚は理を體とし気を用とす。太虚は只理気のみなり。而して、理は寂然不動にして気は流行活動す。

理は寂然不動なれども、至神にして感ず、且つ、感に動静あり。故に動て陽を生じ 静にして陰を生ず。此感即ち太虚の原動力なり。

感ずるは太虚の用にして、気の流行活動は此に始まる。故に先天に在りては、理気は合一なり。已に一動一静、互いに其根となりて生々息まず。逐に天地を生ずるに至り。

天地は亦た、人及び物を生ぜりとす。以上の意を考察するに、宇宙は無始無終なり。何となれば太虚より生ずと言ふも、太虚は只理気のみ。

其理気は、無始以来法爾として存在すればなり。且つ一動一静互に其根となりて、生々息まずと云ふは、無終の意なるを見るべし。

是れ、藤樹が純正哲学に入る黙なり。、又曰く「太虚は理のみなり、語を換へて言わば只一気なり、理は気の徳なり。

一気、屈伸して陰陽と為り、陰陽は八卦となり。八卦は六十四爻となる。其れより以往、一理萬殊言語を以て盡すべからず。

天地萬物の理極盡せり。理を主として謂へば、気は理の形なり。動静は太極の時中なり」と云えり。

人は其形小なれども、太虚の全體あるが故に、人の性にのみ明徳の尊號あり。故に人は小躰の天にして、天は大躰の人なり。

人の一身、天地に合わて少しも違ふ事なし。呼吸の息は運行に合す。天地造化の神理主宰を元字利貞と云ひ、人に在ては仁義禮智と云ふ。

天地人を三極と云ふ。形は異なれど其神は一貫同流して隔てなし。理に大小なきが故に方寸と太虚は本より同じ。

心は空を以て躰とす。故に、天地萬物の於て感應せずと云ふ事なし。心は生々の理を以て神とす。日として生ぜずと云ふ事なし。

二期を以て性といふ。性は心の本然なり。無極の理、二気五行の精神合して人となり。明徳具わる、之を性といふ。

性中、自ら仁義禮智の條理あり。我心即ち太虚なり。天地四界も我が心中にあり。

藤樹は、致知格物を解して曰く。致知格物は誠意の眼目、入徳の門戸、聖を作るの途轍、学者力を用ひ手を下すの実也。聖学の始を成し終を成す所以なり。

藤樹意を論じて曰く。意は萬欲百悪の淵源なり。故に意あるときは、明徳昏眛 五事顛倒錯乱す。意なきときは、明徳明徴 五官令に従ひ、萬事中正なり。

夫れ心の發する所は、本来の霊覚 善ありて悪なき者なり。凡心の起發 善あり悪あるは本と心の裏面に意の伏蔵あるが故なり。

然らば、則ち悪念は意の伏蔵より發するものにして、本心の発見にあらず。然るを只發する所のみを認めて、善念も意なり 悪念も意なりと為すときは、善悪の根源分明ならず。

且つ、發する所のみを退治して、伏蔵の病根を省察克治する講論なきは、本を端たし 源を澄ますの功缺けたるに似たり。誠は純一無雑・真実無妄の本體即ち良知なり。

藤樹初め朱学を宗とし、後ち王学に帰す。故に王学を強化するの方針も、自ら前後二途に分れ、初め専ら格法を主とし、朱子の小学を以て標準となす。

己に王学に帰して後は、弟子に教ふるに心法を以てし。乃ち自ら致良知の三大字書して、之を楯間に掲く。

藤樹自家も初めは、厳粛なる格法家として朱子を学び、後には、渾然通達の王子に倣はんとす。故に書生に告ぐるに屢 前日拘泥を以てしたり。

藤樹曰く、一人の農夫の務めと自身の作用とは一般なりと。會所に臨む時も一座の議論、深切ならざるときは「淀舟話に為りたり、我等は年貢を量り申すべし」として表家へ帰り去れと。

学門の始めは、志を立つるより先なるはなし。憤を發して志を別つるの法他なし。此の学
は天下第一等の学、人間第一の義にして、別事の做す別べきな別路の、走るべきなしと見るべきべきのみと。

心善なれば事もまた善、事善なれば心も亦善。天下未だ事善にして心不善、心不善にして事不善なる者あらず。

藤樹は、格物を以て五事を正すと解し、五事を正し己に克つ工夫を説き、叉た良知を教へられたり。故に藤樹の門下には、克己方と本體方との二派を生ずるに至れり。

克己方とは、五事の不正を防ぐを以て専務とし、私欲に克たんとす。本體方とは良知の本體を尊信し、之を保存すれば克己は自然に其の中にの在りとするなり。

藤樹は、孝を以て畢生の徳行と為し、一日片時も孝を忘れしことなし。藤樹の香の如きは、天地間有数ののものにして、千歳に一を見るもなほ難からん。

藤樹の成功せしは、忠にあらずして孝に在り。藤樹の徳行は孝を全うするに因って成り、近江聖人の號は偏へに彼の孝徳の金牌なり。

是故に、藤樹の孝を説くこと至大至廣先人未発の言あり。此説を以て察するも彼が孝を重んじ、之に心血を注ぎたるを知るべし。

孝は、天地未盡の前に在る、太虚の神道なり。天地人萬物 皆孝より生ぜり。春夏秋冬 風雷雨露、孝に非ざるはなし。

仁義禮智は孝の條理なり。五典十義は孝の時なり。神理の含蓄する所を孝とす。孝に義は孝の勇なり。禮は孝の品節なり。智は孝の神明なり。信は孝の実なり。

藤樹深く先哲を尊崇し、床間に道統傳の一軸を掛け、毎朝昧爽に起き、盛服を着けて香を焚き禮拝し、次に孝経を誦読す。其誦読は主として感應篇なりき。

始めは誦声高かりしが、晩年に至り音声梢稰低く、遂に口の中にて読誦せり。嘗て曰く、声の高きは外に向かふの気味ありと。

藤樹は、官を棄てゝ孝養を尽くし、忠孝を比較して孝を重しとなし、忠を軽しとなす。是れ其境遇に因ると少からずと雖も、資性純孝の致す所なり。

然れども、藤樹が忠孝の比較論は、直ちに方今我邦に適用すべきにあらず。藤樹の論は、唯封建時代の諸侯に対するのみ。吾人帝国臣民としては、忠を以て重しとなすと固より論なきなり。

藤樹人と為り、眉目清秀 四體豊肥之を望むに威あり。性潤達大度 其心極めて洒落。而も人其の洒落たるを知り難し。

極めて愛敬あり、而も人其愛敬たるを知り難し。卑遜にして而も陋劣ならず。樸実にして而も固帯ならず。

人に対するや、色温にして言正し。平生の作用活法ありて定体なし。應酬の変殆ど形容し難き者あり。

その気宇の定静なるや、倉卒の間に當ると雖も、遽色在ることなく。其威儀の困雅なるや、昇降進退 自ら規矩に中らざるはなかりき。

君子は、人の非を云ふに忍びず。我不肖なりと雖も、亦、君子を学ぶ者なり。故に妄りに言はざりしのみ、今にして之を言ひしは、是れ実に止むを得ざるの良知なり。君子其れ之を思へと。

藤樹は、殆ど一生純然たる学者として立ちたれば、その生涯は極めて平穏なり。然れども其期する所高尚にして、聖賢を以て師友と為したれば、一生は間断なく進歩したり。

彼は、中年までは純粋なる朱子学者とし、格法家して立ち。中年以後に至て陽明学者として渾然通達の人となれり。

惟ふに藤樹の学力は、多くは朱子学に得て陽明学に入りし頃は、朱子学を学び盡して躬行実践せんとして、此に疑点を発見したるの時なりき。

故に、陽明子と融然契合したるは、既に一家の朱子学者と為りたる後なり。而して、其陽明学を得たる時期に関しては、先哲叢談には三十三歳の冬、玉龍溪語録を得たりと云ふ。

行状には、二十八歳にして陽明全書を得たりと云ひ。年譜には、三十三歳の冬 王竜溪語録を得しは、陽明全書を得しに先つと明かなり。

而して、彼が該語録を読みたるはを、実に王学の門に入るの時なりき。彼が四十一歳の八月に歿せしを以て算すれば、二十八歳に得しとするも、僅々十三年間なり。

若し、三十七歳にして得しとせんか、僅かに四年間なり。、然れども元来陽明学は頓悟の風あり。

訓詁と窮理を主とせざれば、一読で豁然貫通すれば、則ち、幾十年前に悟りたると、毫も異なる所なし。

況や、藤樹の既に朱子に疑を懐き、猛烈な感情と鋭敏なる推理力を以て、王学を迎へしをや。故に藤樹が王学の精髄を得て、我邦王学の鼻祖たるとは疑ふべき所なし。

藤樹が佛子と稱せられ、又近江聖人の號を生前に得しは、自ら彼の資性非凡なりしを見るべし。且つや、彼は敏捷なる智力と強大なる意志力を欠かざりしも、寧ろ最も感情に長するの人なりき。

遭ふ者を感化し、聞き者を興奮せしむるものは、彼の真摯にして至誠なりしに由れり。藤樹は所謂、温良恭謙讓を以て之を得たると云ふべく、温潤含蓄の気象あり。

渾然として玉の如くなりしも、彼は往々聡敏智慧を以て構せられたり。而も彼は務めて圭角を抹殺し、専ら徳行の人たらんと期せリ。

彼は、人を圧迫せずに人を心服せしめたり。彼は、最も感化力に富める精神的教育家となりしなり。

日本の学者が、一般的に支那の学者より実用的なるが如く、藤樹は王陽明よりも、朱子よりも実行に於て優れたり。

彼の修養の主眼は、智にあらずして徳に在り。学術にあらずして、実用に在りしなり。即ち彼は、王学に入らざりし以前より、知行合一の人なり。

王学を得て、更に数歩を進めたり。彼は知るが為に学ばずして、行ふが為に学び、又知るが為に教へずして、行ふが為に教へたり。

藤樹は其資性境遇に於て、孝の全徳を成せり。一生社会の愛兒として待遇されたりしは、彼自身が純孝至誠なりし効果なり。

彼の心血は、孝の一事に向て傾注されたり。故に孝を以て太虚の神道と為し、萬有は悉く孝より生ぜりと言ひ。

随て、専ら愛敬の二字を以て、教養の根本為して曰く、愛敬は是れ人心自然の感通なり。猶ほ水の濕に流れ、火の燥に就くが如し。

吾人は、全く気習の為のに蔽はる。然れども父子兄弟の間には、猶ほ時ありて発見す。苟も此を認得して存養すれば、則ち聖賢の窺知すると難からずと。此孝の主義は畢生一貫、王朱の学派を以て変ぜざりしなり。

凡そ、人に過ぎたる大業を為すものは、亦豫め精神と身體に就いて、人に過ぎたる素養あり。

其就学の期、僅々十カ月に過ぎずと雖も、同聲相應じ 同氣相求むるの機あり。是れ人為か人為にあらず、天の然らしむる所なり。

故に、講習討論 心々相ひ通融せり。甚だ輔仁の益、莫逆の寄趣を得たるを、喜ぶも云ふを以て見れば、師弟相承の間の融然契合し、自ら以心傳心の好機の存せしものあらん。

予の、先師に受けて違わざるものは実義也。学術言行の未熟なると、時處位に應にずるとは、日を重ねて熟し、事に當りて変通すべし。

予が後の人も、亦予が学の未熟を補ひ、予が言行の往々叶はざるをば改むるべし。大道の実義に於ては、先師と予と一豪も違うこと能わず。

予が後の人も、亦同じ其辺に通じて、民人倦むことなきの知も等し。言行の迹不同を見て、同異を爭ふは道を知らざる也。

先師存生の時、変ぜざるものは志ばかりにて、学術は日々月々に進で一所に固帯せざりき。其至善を期するの志を継いで、日々に新たにするの徳行を受けたる人あらば、真の門人なるべし。

朱子学は、余りに章句を分ち過ぎて、文句の理に落ちて心を失ふこと多し。今の朱学をするものは、是も非も朱子の語とさへ云えば善しと思へり。

是故に、聖経は註の為に掩はれ、心法は経義の為にの隔てられる。朱学者の劫て朱子を罪人とするなり。

王子……仁に過ぎて、異学悟道の流に似たることあり。学者愈其弊を大にするものあり、亦王子の罪人也。

蕃山は、超然として学派の外に出て、只其変通の神髄を得て之を活用するに熱中せしを知るべし。

區々学派に拘泥し、朱王の争を為すが如きは、固より識者の取らざる所。況や時處位の至然を以て最大の要務と為す。

活動的英傑は、一学派を以て拘束せんとするも得るべけんや。将来学を為さんとする者は科学的知識と、精神修養を兼ねざるべからず。

朱王二子の精神を得て、其跡に拘泥するなくんば、亦以て偉人たるべきか。日本の王学者が支那の王学者に比して、数層も実行的なることは既に之を陳べし。

夫れ、王陽明の学を傳へて知行合一を完成し、陽明にも讓らざる活動を為し、一代の豪傑として欽慕せられ、今に至って王学者の最好模範として挙るは、独り此人あるのみ。

若し、我國の陽明学派に蕃山の才略事業なかりせば、後に王学に入る者、或は支那に於ける王学の末流と揮ぶ所なかりしやも知るべからず、是れ独り私言にあらず。

維新前後の傑士が、如何に蕃山の経綸を欽慕せしかは、彼等の言に拠りて昭々たるものあり。而して、今や遂に我邦の王学者は、活動的経綸家の異稱の如く為れり。

顧ふに後の王学者、大塩中斎如きも必ず深く蕃山に負ふ所在るべし。特に維新の際、経世済民の事功を期して、崛起たる志士は蕃山の風を慕へるもの決して少なからざる也。横井小楠の如きは日本の学者に唯々蕃山のみを取りしといふ。

三重松庵曰く;余一日傳習録を読む、初は未だ文義を曉らず。之を讀む已に久くして恍然として、省みる所ある者に似たり。然る後に知る、陽明子の学、真切簡易にして粋然として大中至正の帰なるとを云々。

致良知、此の三字は学問の肝要にて、聖人の人を教へたまふ第一義なり。良は本然の善なりとて、根本より善なるをいふ。知は明覚の自然をいふ。

花を見て花を知り、風を見て風を知り。善は善、悪は悪と、其々に知りわきまふる心の神明にして、人たるもの同じく天より享けて、根本より善なる智慧を吾心の良知といふ也。

されば、天道の春夏秋冬と運行すること古今のかはりなく、柳は緑・花は紅・甘艸はあまく、黄連はにがく、牛は耕作をしり、犬は夜を守るごとく。吾心の良知も萬古一日のごとく、更に変わる事なし。

知はしると譯む、事物の道理を能く合點するをいふ。行はおこなふ譯む、身に道を修行するをいふ。合一はあわせひとつにすと譯む。

儒学にても、佛教にても、知行を分て二とす。故に先つ事物の道理を心に知得て、其後身に行ふと会得せり。

―――中根東里「一體の訓」より―――

泰誓に曰く、惟れ天地は萬物の父母、惟れ人は萬物の霊なり。夫れ天地果して萬物の父母なれば、萬物は乃ち天地の子なり。

子と父母と一體ならざるもの有らんや。禮に曰く、人者天地の徳なり、又曰く、人者天地の心なり。人果して天地の心ならば、天地は乃ち人の身なり。

身と心一體為らざるもの有らんや。明道曰く、仁者天地萬物を以て一體す、と。己れに非ざるとなし、天地も己れなり、萬物も己れなり。

天は己れが高きなり、地は己れが厚きなり。日月は己れが明かなり、四時は己れが変化なり。鬼神は己れが測るべからざるなり。

学者誠に其心を存し、其気を定め、人我の見を去り、意必の私に勝て、真誠に之を體認せば、天地萬物吾に於て豪末の間隔なきをを見て、聖賢のわれを欺くに非ざることを認得すべし。

東里既に、釋氏の道の非なるを知り、修辞の非を悟り、叉朱子学窮理の説を排して取らず、躬自ら良知の学に帰し、知行合一の説を奉じて、専ら実践躬行の意を用いふ。

故に、子弟を薫化すると廣からずと雖も、其門に出ずる者皆実践を以て要と為し、一時学徳を以て称せらる。

東里嘗て、静立の工夫を發明して、静坐と相対せんとす。凡そ初学の徒一事を沈思黙考せんとするには、必ず心身の静座なるを要す。

故に、静坐・静立共に廃すべからず。然れども静立は、静坐巳に倦怠する時に行ふべく、静坐己に倦怠せば、叉逍遥を以て之を助くべし。

余は、往々逍遥を以て佳興を得たる事あり。更に一言す、陽明学は、山林厳穴に静坐するを要せざることを、陽明子は右手に剣を執り、左手に巻を持して、遂に其志を成せるなり。

嘗て曰はずや、山中の賊を平ぐるは易く 心中の賊を平ぐるは難しと。又常に坐禅入定の非を戒めたり。吾人は唯自反慎独の一工夫として、東里の静立を賛するのみ。

三輪執斎が心の本体を説き、善悪の起源を論ずるは、極めて周到精密なり。其の言に曰く、人心善悪二途蟻と云えども、それは動き出る時の事なり。

動くは、氣に因るが故なり。其の動かざるときは、一つの光明のみ。鏡に一未だ開かざる時は、妍媸なきが如し。

然るに、其写さざる時も、萬象なきにあらず。向ふ者の心写す心にてみれば、則ち象ありて、鏡は本の鏡なり。

写すは心にて、見れば則ち象なくして鏡の内、象なくんばあらず。是れ鏡に動静なくして、向かふ者の心に動静あり。

此の鏡、人の人たる本體なり。此の源を知らずして、善なりと思ふは、其善は気質の善にして、天理の本體にあらず。

悪も又然り、是れ所謂心之體は、即ち人心に宿り存します天神なり。此光明は人の意念に亘らず、自然に是非を照らす、是を良知と云ふ。

夫れ、耳に五音なきは耳の本體なり。夫れ只五音なし、故に良く五音を聞き分けて違ふことなし。若し、一音もあれば五音皆違ふ。

故に、五音無きを耳の至善とす。口も亦味なきは口の本體なり。夫れ只だ五味なし、故に能く五味を分ちて違ふことなし。

若し、一味あれば五味ともに違ふ。故に五味なきを口の至善とす。心に善悪なきは心の本体なり。夫れ只だ善悪なし。

故に、能く善悪を辨へ各誤まる事なし。若し之有る時は、善悪共に違う。故に、善悪無きを心の至善となす。

執斎の意を詮すれば、良知とは寂然不動にして、善悪を超絶したる心之體の、至霊至妙の直覚的判断の能力を謂うなり。

善悪の名は元より相待的なり。故に、之を弁別するは極めて困難にして、古来の学者共に苦心せし所なり。

凡そ、一事を善悪の二途に弁別するは、必ず標準なかるべからず。此の標準を確定せざれば、善悪を判断せんとするも、到底得べき事にあらず。

然るに古来の倫理学者は、此の標準率を確定するに、潜心熟慮すれども未だ一定せず。支那の倫理学者は、此の標準を漠然たる中に定めて明示する事なし。

故に、厳密に善悪を弁別するを得ず。若し善悪は、目的に合うを善とし其 合わざるを悪とすれば、彼の目的を立する学派の如く、萬事を目的上より弁別せんとするに至らん。

執斎曰く、善は性命に代へても為せん。悪は骨を粉にするとも去らん、云々。然れども其の知れる所必ず良知より出づ。

然らば、其の善なりを思ふ事に、悪なる事あり。其の悪なりと思ふ事に、悪ならざるものもあるべし。

中斎は威も屈せず、権勢も避けず、自ら信ずる所を行って、秋毫も假借せず、深く賄賂の弊を矯む快刀乱麻を截ち、利鋒盤根を断つが如く、姦猾の同僚の為に肝膽をして寒からしむ。

山陽洗心洞に過ぎり、置酒高談 互いに肝隔を抜く。主客の知遇一朝にあらずと雖も、其学を問へば自ら相容れざるものあり。

中斎は、太虚、知行合一 致良知を以て標的と為し。山陽は、則ち歴史 文象 詩歌を以て自ら任ず。

此に因て之を観れば、其の相知るや必ず他に因由の存するものあらん。然れども山陽毎に中斎の説をの聴て善しと云う。其の見識に於て相合ふ所ありしか。

吾を知る者山陽に若はなしと、固より當に然るべし。而して山陽を知る者亦、中斎に
若くなきなり。知己や獲難し山陽去て後た山陽なし。

山陽嘗て、私かに中斎の大急過鋭を憂へしか。果然中斎は之が為に軽挙事を誤りぬ。天若し山陽に假すに、尚六年を以てせば、能く中斎を輔けて、救民の良策を請ぜしめならん。

帰太虚の三字は、是れ実に人を殺すの寸鉄か。中斎は唯一主義として、太虚の三字を提出して畢生の業とし、之を以て宇宙萬物を総括せんとす。

彼は、太虚を以て理想とすれども消極的にあらず。退歩的にあらず、破壊的にあらず 空空寂々にあらず。彼は積極的なり、進取的なり、構成的なり、生々不息を説くものなり。

只彼は、虚と云ふ一金管を通して、聖人の域に到達せんとするのみ。孔子が仁を説きて、其の理想とする所の、堯舜禹湯文武周公の治に達せんとしたると、毫も異なる事なし。

孟子の仁義を説き、子思子の誠を説くと同じく、共に聖域に達するを以て目的とす。若し佛家の所謂五蘊皆空と観するが如く。

五蘊を破壊的に観察し去りて、我體即空なり。世界即ち空なりと言ふとは、全く相反す。又色即是空・空即是色、或有即空・空即有。又有空は平等と説くとは、全く相反す。

中斎が虚を説くは、最も現実に 最も卑近に 最も密接に、有害の太虚即ち聖人たらんことを言ふに外ならず。

虚を説くは、空なりと観ぜしむるぜにあらず。現実に存する所の虚に就きて、融通無礙に天の太虚に同じきを示し、以て區々の人欲を去る。

大我を以て我となし、意必͡固我を除き、時中的変遷を為さんとするのみ。若し虚の字に誤まられて、空々寂々を主とするものとすれば、実に中斎の罪人なり。

豈に警戒せざるべけんや。中斎の意を察するに、世の物欲に陥溺する者を憐みて、自然の霊心に帰せんことを教ふるのみ。

而して、老子が虚無を説き佛子が寂滅を説くと、全く相反すると謂ふは、流行活動日用應酬を先とするに在りて存す。

中斎の太虚は宇宙の本体なり。而して宇宙は大なる虚なり、我は小なる虚なり。我即宇宙、宇宙即我なり。

故に太虚は我霊心の本体なり。我と宇宙と共に虚なり。換言すれば我と非我共に虚なり。

陸象山が「宇宙即ち自家分内の事、自家は即ち是れ宇宙分内の事」と云ひ。陳眉公が「太虚を以て體と為し、利済を以て用と為す、斯人天乎」と説ける
もの、皆な中斎が我は即ち我悲観に同し。

然れども、彼は却て中斎の説の明明察切に及ばざるを覚ゆ、。中斎は陽明子が太虚即良知良知、即太虚、と説きしより更に一歩進めて、太虚是れ虚、太虚是れ即ち良知。故に良知是虚と推断せり.

而して中斎が虚を説くは、一切の現象に及べば、石間虚、竹中虚、叉草木中の、至虚、即ち、分子間の空虚なる有形的の虚も、太虚の虚霊心の虚なり。

無形的の虚を通して、一つの虚を以て最終の概括とし、断案とせり。彼が「白ニ口耳之虚一至ニ五蔵方寸の虚虚ニ皆ナ是レ太虚之虚也」と言ふは、是れ全く客観的の空虚ならずや。

而して、彼が「心、太虚に帰するは他に非ず。人欲を去り天理を存す、乃ち太虚なり」と云ふ如きは、主観的空虚にして空間的関係なし。

唯心の欲念去り盡して、鑑空衡平静にして、波浪なき淸水の面の如きを指すものなり。而して中斎は、此の二者の區別を立つるを欲せざるのみならず、主として之を連合融通せり。

即ち方寸の虚、即ち心の虚は口耳の虚を通して一にして、口耳の虚は亦太虚を通して一なりと。此の如くにして中斎は、唯空に就きて其の融通無礙を説き、有言の太虚なる理想に到達せんとするのみ。

有に就きて之を破壊的に空と観し、諸行無常 諸法無我と観ずるとは決して同からず。此旨趣最も微妙深遠、切に猛省を要す。

陽明学者が、千軍万馬の間に馳突激闘して、泰然迫まざるもの多きは、職として比観に由るならん。又困難に處するも従容として、楽天主義を取れるは、常に其生死の間に疑なきが為なり。

死生の際に談笑するは、道理心肝を貫くに由らずんばあらず。徒らに客気勝心者流の所為に倣ふものにあらず。所謂、大悟徹底より来りて死生を一にするものなり。

中斎の哲学を熟考するに、或は太虚を説き、或は天人合一を説き、或は良知を説くも、其主要とする所は一つの倫理学に在り。

其説は、或は純正哲学に入るものもあるも、其主意は彼にあらずして此に在り。彼は宇宙の大を説くも、倫理の為なり、一身の小を説くも亦修身の為なり。

千言萬語、横説聖説すと雖も倫理の範囲出つるを願はず。彼は唯心の理を主とし、方今所謂博物科学の如きは、之を修ずるに意なきのみならず、却て之を以て無益の業なりとせり。

専心一意、人間に関する事を主唱して其他を顧みず、唯、人間の研究に熱中せしのみ。即ち彼は東洋学者従来の風習を踏襲したり、偶々、剏始特見あるも倫理の範囲を離れず。唯、基礎建設の順序として得たるのみ。

口耳の虚空と五臓六腑の虚空とを以て、真に太虚の虚となす。而して心臓の方寸は、仁義禮智の出つ所なりと云ふ。

仁義礼智は、即ち春夏秋冬と同一なれば、心臓の方寸の虚は即ち大天地と一般なり。小天地と大天地を以て唯心を証するもの也。

夫れ東洋の学者は、一般に心の精錬作用に長じ、西洋学者は一般に経験に重きを置き、分析作用に長ずるが如し。

東西各長短ありて、西洋の長所は新知識を得るに便なるも、精神作用を綜合精錬するに便ならず。東洋の長所は之に反す。

而して特に陽明学、即ち心学は純乎たる主観的になれば、専ら心の精練作用を主として、外界の知識を得るに務めす。

否、却て方今所謂科学的研究の如きは、無益の徒労となす。是れ其根本説として、心の理を知れば萬有の理は之に葆含すとすればなり。

蓋し、斯学の弊も亦此に在るが如し。若し心法に加ふるに、実験的新知識を以てせば、其利幾何ぞや。

良心は仁義の心にして、人間各自固有するものなり。而して道徳に関する萬般の行為を支配し、善悪正邪を斬断する力を具ふ。

其性は本来善なれども、教養の如何に由て其力は増減強弱を見る。而して其減弱の極度に達すれば、所謂禽獣を去ること遠からずに至り。

其増強の極度に達すれば、所謂大聖人と成り、最も円満にして其行為に毫も欠くる所なし。而して、人類が萬物に霊たる所以は、独り人類のみが此の仁義の心を有して、他動物は之を有せざるに因る。

惟ふに良心は、善悪正邪を判断ゆる點より見れば、智力にして善を為し悪を為す結果として、快楽苦痛を感ずる點より見れば感情なり。

善を為さんと欲し、悪を避けんと欲する點より見れば意志なり。道徳上吾人が一行状を完成するにも、智情意の三作用は決して欠くべからざるなり。尚ほ約言すれば(良心とは即ち智情意の道徳に関する作用を指すなり)

中斎曰く、利の為に屈せず、欲の為に熱せず、徹頭徹尾、虚心平気たらん者、必ず、大事業に當るに足らん。

若し、功名富貴の為に事を謀らば是れ実に阱(落とし穴)に陥るものなり。中斎が蹶起して、聖賢の業に従事して利禄羨望せざりしは、丈夫の所為と謂うべし。

若し、博物窮理の学を外にして、静坐黙考に傾かんか。是れ即ち、所謂枯禅の流れに伍するなり。

太虚が果して普遍的ならば、何ぞ必しも區々限界を立てゝ、此れを取り彼を棄てることをせん。

古来陽明学者が、大業を為し常人を驚かしゝは、実に利欲を離れて、心事来磊々落たる、に基因せずんばあらず。

凡そ、吾人利欲あれば必ず危懼あり。危懼あれば、其心平稱を失して挙措其所得ず。遂に誤まるもの比々是なり。

虚心平気は成業の秘訣なり。而して、陽明学の太本領亦此に外ならず。中斎の時に奇矯に失するものあり。

然れども、彼が富貴利祿を羡まずして、高く聖賢を以て其目的と為しゝは、大いに欽慕するに足る。陋

中斎の教育主義は文武を兼ね、学問事業に並進せしむるにあり。是れ即ち知行合一の主義より来たれり。

学理は学理、実行は実行と割然區別する如きは、斯学の最も取らざる所、本體即ち工夫、工夫即ち本體、體用一源。明々徳は親民と相は離るべからず。哲理と事業とを合一並進せしむるは、王学の大本領なり。

洗心洞入学盟誓:聖賢の道を学び、以て人たらんと欲すれば、則ち、師弟の名正しからずベからず。

則ち、、不善醜行ありと雖も、誰が敢て之を禁ぜん。故に師弟の名誠正なれば、則ち、道其間に行はれん。

道行われて、而して善人君子出焉。然らば則ち名は学問の基なり、正しからざるしべけんや。其孤陋寡聞なりと雖、件の立と不立に在り。

故に盟を入学の時に結んで、以て豫じめ其の不善に流るゝの弊を防がん。忠信を主として聖学の意を失ふべからず。

習俗の率制する所となりて、学を廃し業を荒み、以て奸細淫邪に陥らば、則ち其家の貧富に応じ某告ぐる所の購ひ以て出さしむ。

其出す所の經史は、盡く諸れを塾生に附せん、若し其本人に出藍の後は各其心の欲する所に従ふて可なり。

学の要は、孝悌仁義を躬行するに在るのみ。故に、小説及び異端眩目の雑書を読むべからず、如し是を犯さば則ち廃学荒行の譴と同じ。

一宿の中、私に塾に出入するを赦さず。如し某に請わず以て壇に出れば、則ち之を辞するに帰省を以てするも敢て其の譴を赦さず鞭朴若干。

家事に変故あれば、則ち必ず諮詢し以て之を處せん。道の義あるが故なり。其人の陰私を聞かんと欲するにあらず。

喪祭嫁聚及び諸吉凶は必ず某に告げよ。與に其憂喜を同じくせん。公罪を犯さば則ち親族たりと雖も、掩護する能わず。

諸れを官に告げ、以て其處置に任せん。儞們小心翼々として。父母の憂いを貽す莫からんを願ふ。右数件忘るゝ勿れ、失ふ勿れ、此れ是の盟を恤へよや。

是れ、厳正なる中斎が規定する所の塾則なり。彼は悄直にして励精、事を處して寸毫を假さず。甚吏務を理むると等しく、此塾則を属行したらん。

或は、疑う惨激恩少しと。然れども洗心洞師弟の情誼の深厚なりしは、彼が大事を挙うるの日に微して知るを得ん。

「萬死身を修めんと欲すと、身を殺して仁を成す」とは、中斎の片時も忘れざる所、済々たる多士とも子の薫陶を受け、能く身に献して師の命を奉ぜり。


勢ひ、自から多少の強迫を免れずと雖も、能く二百有余名の死士を得る。豈に偉大の感化力に由らずとせんや。

中斎の学は王陽明より出て、中斎の如何に王陽明を欽慕せしかは、上来論述する所に據て歴然たり。

中斎の管鮑の友、頼山陽之を称して小陽明と云へりへ。中斎は度量極めて狭隘、王陽明の気宇宏濶なるが如くにならず。

二氏の人物を比較すれば、其種類を同じくすれども、其等級に大差あり。彼を大と云ひ此を小と云ふは、亦止むを得ざるものあらん。

王陽明が毅然として立ち、百難を排して屈せざりしが如く、中斎も亦、始終幾多の障礙に打ち勝ちて、其志を成せり。

中斎は独立不羈の人なり、彼は徒論空談者にあらず。彼は其論を掛けて其学説を樹立し、遂に其主義の為に斃れたり。

彼言は、充分に彼自身に依て證明せられてり。王陽明子が朱子学全盛の時に際して、廓然大悟せる自説を唱道した。

我が国に在りて朱子学盛運の秋に崛起し、幕府の奨励に背反し、堂々自説を主張して一歩を譲らざるは、恰も東西府を合するが如しと。

中斎子を読む者、誰が其の精神の勇猛に感じて、勃然奮起せざらん。中斎は能く太虚説をと唱へ、天人合一の大観念を懐きしも性急にして發怒し易きなり。

夫の、王陽明の寛洪大量酒々落々に似ず、屡世人をして其過激を議せしめたるが如し。特に矢部駿洲は次の如く評している。

「平八郎は、癇癪の甚だしきものに候」と云へり。然れども聰明果報にして、謹巌自ら持するの風あり。

其志の高尚にして、擧々鑚仰直ちに聖賢に伍せんとし、威武賢貴の為に屈せず、富貴利祿の為に動かず、正々堂々俯仰天地に愧じざるの行為は、最も称すべきものあり。

自家の所信を貫徹して、身命を顧みず。蒼生を塗炭に救わんとして、遂に自ら黒焼となりて死せしは、彼のギリシアの聖人ソクラテスが、道の為に毒を仰ぎしと全く其旨趣同くす。

併し、彼阿は遂に短気の為に、喪身の弊に陥りたりとの謗りを免れざるは、豈に千秋の遺憾ならずや。

吾人は、如何に彼の根本主義を知り、彼の信念の厚きを称し、如何に公平に彼の挙動を考ふるも、彼は尚一層着実にして、遠謀深略に出でたるべきを望まらざるを得ず。

然れども、中斎の峻厳峭抜なる性質が、能く簡易直截なる陽明学を発揮して、更に簡易直截なる太虚主義を創唱した。

其れは、単刀直入 亭々當々 直上直下、太虚を以て天人を貫通し、宇宙を網羅したるは我哲学史上の一大偉観と謂うべし。

而して、彼の哲学は其の性質の如く孤俊なり。其弁證法は彼の如く精鋭なり。其推理力は彼の如く果敏なり。其思索力は彼の如く直截なり。

陽明学者として、中斎を以て我邦前後の学者に比するに、徳行に於て藤樹に及ばず、為政家としては固より、蕃山に企及すべきにあらず。

然れども執斎に至りては、如何なる點に於て優劣を見るべきか。彼は大峙な人となりたれば、徳望甚だ揚らず、今に至て世人尚ほ、中斎の真価を知る者少なし。

然れども、太虚主義を以て、哲学を建設して孔孟の教へに契合し、王学を中興したるの技倆は、我邦に於て大哲学者の名を博すべきものあり。

之を汎く我邦古今に微するに、中斎に比して優るもの果して幾人ある。中斎不運にして風雲に幾合するを得ず、終始逆境に立ちしを以て、名聲赫々たるものなしと雖も、我國哲学史上の位置は蓋し第二流に下らざるべし。

人は過去の経験に鑑みて、将来の形勢を端摩するものなれど、過去を記憶するは、之を軽んじ将来を予想するは、直ちに一身の安危に関するが故に之を重んず。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2018-11-20 03:46:17

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