第八章 言志録(ロ、陽明学を共に学ぶ)

さうしない限り譬へ君が如何に耕転培養しようとも、只、大樹の根を滋養する。

   尋いで伯生の辞するに臨みその巻に書して、――

「自分がさきに除州で学を論じた時に、
異る事は専ら高明なる一路につい開導引接したが、矯柱救偏して時弊を拯ふには、かくせざるを得なかったのである。

然るに、近来漸く空虚に流れ、脱落新奇の論を為してゐることは、甚だ憂慮に堪へない。その人品の高下について云へば、終生陋習に迷ふ者より少し勝ってゐるとはいへ、究極に於ては相去る事幾何もない。

君が滁州に帰ったら、此旨を同志に告げ務めて平實簡易の道を、勉めるやうにして貰いたい」と云ひ、更に一書を伯生に托して滁州の諸生を警責したが、其の語気次に掲げる通り何時になく、烈しいものであった。吾

諸生の滁に在る者、吾心未だ嘗て一日として之を忘れざるなり。然り而るに闊焉として一字の往なきは簡なるに非ざるなり。

世俗無益の談を以て、徒に往復するを欲せざればなり。志ある者は吾一字無しと雖も固より朝夕面ずるが如し。その志なき者は対面すとも千里、況や千里の外盈尺の贖や……。

諸生が多く知的理解を務め、徒に口耳同異の辨をなして得る所がないので、姑く之に静坐を教へた。ところが、一時頗る効果を収めたけれども、久しくして、漸く静を喜び動を厭ひ流れて枯槁に入る弊が發生した。

或る者に至っては、殊更に高遠至妙な論を為して、人の耳目を驚かさうとするやうな弊が生じたとあり、前の記録と多少異なってゐるが、―――

何れにしても、滁州に於ける彼の啓蒙的な講学は、時弊を匤救しようとする特定な意図に専らであり過ぎた為、平實なる修為が後へ退けられ、高踏的独善的な風を醸成してしまったのである。

人に学を為める事を教へるには、一偏を固執してはならぬ。初学の時は心猿意馬で栓縛仕切れず、その思慮する所は多く人欲の一辺なるが故に、須く之に静坐して思慮を息めることを教へ、久しくして心意の稍々定まるを俟つのである。

然し只だ、懸空に静守して槁木死灰の如くなっても、亦用にたゝから、更にせしめる必要がある。そも省察克治の功は、時としてへだつ可きなく……事なき時も好色硬貨好妙等の私欲を逐一追究捜尋し、必ず病根を抜去して永久に復起せざるやうにして、始めて快となすのである。

それには、猫が鼠を捕へる時に眼を一つにして看、耳を一つにして聴くが如く、纔かにでも私なる一念が萌動したら卽時克服し、恰も釘を斬り鉄を打つやうに断々乎として力を用ひ、姑くも私念の自由を許容したり、欲を胎蔵したり、又は私念の出路を開放したりしてはならぬ。

天理人欲は、その精緻なるものは必ず時々刻々に力を用ひて省察克治してこそ、始めて日に漸く見られる。如今一説話の間、たとへ口に天理を講ずればとて、心中條忽の間に巳にどれ程の私欲があるやも知れない。

蓋し、竊に發して知らない者もあるべく、力を用ひて之を察しても尚ほも見やすくない以上、況して徒に
口先に講ずる位で盡く知り得べき筈もない。

今、只管天理を講じても頓放したまゝで、之を去ろうとしないやうな傾向が生じてゐる。之は果して格物致知のがくであろうか。

克己の工夫は、天理人欲を知り盡した後に用ひられるのではなくて、切實に克己の工夫を用ひてやまたまなければ、天理の特微なるものも日一日と見えて来るのである。

克己して、克服すべき私欲もないやうになってから、始めて天理人欲の盡く知り得ないことを、愁へても未だ遅くない。省察克治とは、決して静坐と相反撥するものではなくて、静坐をも包攝するものである。

それは、静坐という特定な形式に限定せず、所謂動静に管せずに念々刻々に天理人欲の機微を省察して、人欲を克治せんとするものである。

而も、又元来我々の意念思慮は、事無き時卽ち外的行動に出でない、静時に在っても萌動して已まず、況して事に臨んで之に應付する時には、一層紛雑し来るのを常とする以上―――

―――我々の修為も、唯単に静時に於ての心の寧静を、得ると謂うだけに止まるべきでなく、更に進んで寧ろ動時に於てこそ、心の寧静を得ることが期せねばならぬ。

然るに、所謂動時とは飽く迄、現實なる動時であって、預め脳裏擬定せらるべきものではなく、随って又動時に於ける修為とは、具體てきな現實の事上に在って、試みられるものでなければならぬ。

卽ち、かの「事上磨錬」がこれである。斯くて我々は、「省察克治」の當然「事上磨錬」にまで行き着くことを理解するのであるが、これは又夙に南京時代に於ける陽明が、次の如く説いてゐるのである。

卽ち、同じく陸元静所錄の語中に曰く。
 問ふ、静時には意志好きを覚えるが、事に遇ふや否や同じやうにゆかないのは如何。先生曰く、それは徒に静養のみを知って、克己の工夫を用ひざるが為である。

此の如くでは、事に臨むと傾倒するであろう。人は須く事上に在って磨すべし。斯くてこそ方めて傾倒することなく確乎と立ち「静も定まり動も亦定まる」ことが出来るのである。

南京時代の講学は、内部的には従遊の士のを行き過ぎを匡正して、着實厳密な修為を提示し、外部的には自己の唯一の真正なりと確信する教学に依って、道・学を振興せしむる為、朱子学との不必要な摩擦を解消せんとした。

この二つの點に、その著しい特微を認むべきであろう。そして又我々はこれらの點を通じて、思想家宗教家としての陽明の地歩が快調を以て、上昇しつゝあったことをも想像し得るのである。

ところで我々は、陽明の剿匪作戦が終始成功して、長さは数十年短くも十数年に亘る匪禍が以後久しい間、再発する憂ひなきまでに掃蕩せられた理由を,一應此処で尋ねてみたい

我々は、此れまで専ら学問生活を中心として、陽明の行實を叙べ手来た。事實また今迄の彼の生活は、慥かに学問がその中心をなしていた。

随って、恐らく門人達の中でも、彼にこのやうな軍事的才能のある事を、看抜いてゐた者は殆んど無かったであろう。

又、誰しも病弱な彼の肉體が巡撫の劇職に堪へられる等とは、想像してゐなかったであろう。然るに結果は総ての人々の豫想外に出たのである。

改めて云ふまでもなく、彼は夙に栄辱得失を超脱し、生死を一如と観ずるだけの徹底せる錬磨を積んでいた。前半生に於ける修為といひ、或る意味に於て、全てが不動の精神に涵養育成、に集注されたと言っても過言ではない。

卽ち「静も亦定まり、動も亦定まる」境地こそ、彼の懸命求めて已まなかった処であり、王思輿の所謂「触れて動かぬ」印象も、亦實に斯かる心境から受けたものに外ならぬであろう。

我々は勿論、陽明今次の軍功を以て、彼の壮年時代に於ける剛毅な性行と、戦術兵抜の研究との結實であるとする所説を、支持しない譯ではないが、―――

―――さればと云って、清初の顔元が陽明の事功と学問とを、全く相関しない二つのものと看做す如き考へ方に従ふのは、躊躇せざるを得ない。

蓋し、彼の修為は常に百死千難中に試みられ、彼の事項も亦、其の他の極めて印象的な詩句に示された所の、光風霽月の如き脱然として、生死栄辱の外に超越した心境、自由無碍に躍動してやまぬ精神は、―――

―――或る意味からいふと、いにしえの難に當って「天、徳を我に生ず、枢魋それわれを如何せんや」と喝破し、危難の身に迫るのも知らざる如き態を示した、孔子のそれに髣髴たるものがある。

(43 43' 23)左記の暗号については、当wikiの真理学研究所を御照覧下さい。

王問の顔回と稱せられる曰仁の死は、また帝に師陽明の悲しむ所となったばかりでなく、また同門の悼む所であり、且つ王門全體の痛惜する所であった。

然し、同志は哀悼の裡にも曰仁の熱烈であった、求道心をば遺志として體し、日々切磋琢磨して行った。そして伝習録の公刊も、實に曰仁の死を契機として、具體化されるに至ったのである。

我々は、南京時代に於ける陽明の斯かる真摯旺盛な新求道心が、如何に兵務倥偬なりと雖も、贛州に至って卒然衰退した等と、想像することは出来ない。

否、それどころか兵事が紛櫌すればする程、却って意識的にも彼の修為は、真釼の度を加へて行ったのであって、この間の消息は、例へば傳習録の公刊される数ヶ月前にも、悧頭匪團討伐の前戦より尚謙に寄せた書簡中に、―――

―――従前は、自分も肝腎な點に対して、本腰に力を用ひることなく虚しく過ごし、虚しく語って来たが、今後は諸君と努力鞭策、死を誓って進歩せねばならぬと思ってゐる。。云々。

と、あるのによっても明らかであろうし、随って又、陽明自身の胸中には、既に新たなる事上磨錬による教学上の展開が刻々に進行しつゝあったことも、頗る想像に難くないのである。

江西は、云わば第二の故郷とも考へられるやうになった。そしてこの事は、彼の学徒指導に大きな歓びと熱意とを加へ、同時に彼自身の生活及び思索――卽ち修為――にも、兵馬倥偬の間に以気ない恒常性と深みとを与えた。

勿論、正徳十四年の六月寧王の叛乱が勃発してから、以降一ヵ年に亙る間に、彼の連続的に遭遇ものとはした変難憂患は、幾度か殆んどあらゆる生活及び想念の根底を覆すか、と思はれる位酷烈を極めた。

けれども、この時でさへ彼の江西に対する愛着及び、江西に於ける教学的・政治的背景がどれ程彼を、力づけ且つ事変の處理に寄與したか、測り知れないのである。

物とは外に在って身、心意・知離れてゐるものでなく、五者は一件である。

陽明は、實戦以上の憂患を體験し続けねばならなかった。然しこの反面、戦乱の裁定に次ぐ親征の諌止に於て、江西土人総意を代表した結果、彼の江西に於ける地歩は一層強固を加へてゐた。

且つ又、様々の憂患に處して、切實無比なる事上磨錬を行ったことも、兼ねてからの修為の態度より推して、最早や想像以上の確實な事實に属すると判断される。

之を言ひ換へると、武宗の軽挙・奸諫よりする深憂大患をば、がっしりと荷ひ答へつゝ弛まぬ修為・講学を続けるのが、當時の陽明の姿だったのである。

さうした十五年の六月、陽明が南昌から途中泰和まで至った折、南京吏部侍郎の羅整庵が書を以て、学を論じて来た。

整庵諡は欽順、字は允升泰和の生んだ朱子学者で、嘗て陽明と同様劉欣瑾の怒に触れ、革職されて庶民となり、瑾が誅せられるに及び復職した。

書面の内容は、云ふまでもなく朱子学の立場から、陽明の思想学術に批判を加えたもので、その中、朱子晩年定論に対する辨難は既に述べた通りである。

別に、古本大学に根據する陽明の所説をも批判し、就中「学は外求僻らず」といふ陽明の説を取り上げ、「若し専ら反感内省以て能事畢れりとするならば、正心誠意の四字で盡される。

依って、格物の工夫は不必要となるべく、又若し格物の意義をば意念の發動する處について、其の不正を正し正に帰せしめる事と規定するならば、この工夫だけで心も正され意も誠になる筈だから、今度は誠意正心の項目が之と重複して無用になるであろう」と、論難してあった。

行く先に豫定のあった陽明は、この書面を船中で熟読した。そして近来にない感激と興奮を覚えた。今まで彼の学説に対する世の学者の態度は、非笑か黙殺かに止まってゐたのに、整庵のそれは頗る真率で堂々たるものがあったからである。彼は早速十分なる敬意を込めた答書を認めて整庵に送った。

大学の古本は、孔門相傳の舊本である。朱子は原文に脱誤ありと疑って改正補緝したが、自分は脱誤なしと信ずるが故に一切の舊に従ったのである。

自分の見解は、孔子を過信するに失してゐ理かも知れないが、故意に朱子の文章と補傳とを削ったのではない。一體学問は心得を尊ぶ。心に求めて是ならば、譬へそれが庸常の人の言でも敢へて非としない。

況して、孔子の言は猶更である。且つ舊本の傳来すること数千載、今その文詞を読むに明白で通ずべく、その工夫を論ずるに又易簡で入りやすい以上、更に如何なる根據から脱誤ありと断じて、改正補緝し得るであろうか。

又かくしても、尚且つ朱子に背くことを重大視する余り、孔子に叛くことを軽視してよからうか。次は修身の二字で充足し、正心・誠意・致知・格物、悉く修身の一事に帰せられる。

抑々、理に内外なく性に内外なき以上、学にも内外のあるべき筈はない。随って講習討論も内でない事はなく、反観的内省も外を忘れるものでない。

今学は、外求にすると云へば、それは告子の義外であり、智を用ひる者である。又、反観内省を以て内にのみ求めるものだと云へば、それは我があり自ら私する者であって、共に性の内外なきを知らないのである。

ところで又、格物の工夫を入門の際の最初の工夫であると、順序立てゝをられるようであるが、實は初学より聖人に至るまで、唯だこの工夫あるのみなのである。

而して、正心・誠意・致知・格物は、皆身を修める所以であるが、特にこの格物こそは、吾人の修為の最も具体的なものなのである。

貴下が、余の格物説に疑を致されるのは、余が内を是として外を非とし、専ら反感内省を事として講習と、思ひ込まれてゐるからであろうが、左様な事は断じてない。

余の格物説は、朱子の九条の項目を包攝するもので、たゞ僅かな相違は、之を為すに眼目があるといふ點である。

陽明は斯様に答へても、尚ほ意を盡さぬ點が多々あるやうに、思はれてならなかったので、秋過ぎて帰る時には是非一面を求め、ぢっくり申し述べたいと附記したにも拘らず、惜しい哉両者の会談は遂に實現を見るに至らず、随ってその論争もこれ以上發展しなかった。

我々は、陽明の上揚答書から、二つの注目すべき所説を發見するのである。その一つは、あらゆる是非の判断が、自己の内心に於てのみなされる事、―――

―――言いひかえると、我々の心は是非を判断すべき能力を持ち、且その判断は無限界・無拘束に自由になされ、孔子の教言すらその対象とすることが出来た。

随って又、朱子の所説も我々の批判の埒外に超越して、批判を中止ささせる事は出来ないと確信した點。第二は、大学に示された修為の項目中、「格物」が初学より聖人に至るまでの徹頭徹尾であると云って、その意義を特提強調した點である。

卽ち、我々は第一の所説を通じて、直ちに彼・南京時代が一つの権威に盲従屈伏せざる、毅然たる精神の躍動を感得し、又第二の所説に於ては、明らかに彼の切實徹底せる事上磨錬の反映を感取し得た。

この二つこそ、實は當時の彼が既説の如き様々な憂患變難を處理克服しゝ、たゆみなき修為を続けた結果の必然的な現れでなかったか!

例へば、第二の所説についてみる、彼が「格物」をば余の修為項目以上に卓越しつゝ、之に最大の意義を賦与せしめたのも、理論的には云ふまでもなく「格物」が最も具體的な工夫であり。

而して、最も具體的工夫こそ着実なる修為の根底を為すべきものである、との理由に基づくものである。

陽明は、嘗て孟子の「生―於憂患―」に擬するに龍場の窮厄を以て下が、今や再び憂患に生じた云ふべきであらう。顧みれば、滁州・南京時代の教学には、或る意味に於てまだ~上滑りの気味があり、徹底を缺く憾があった。

時とすると、都会人的な技巧によって、持ち前の鋭鋒をば掩蔽せんとするやうな、傾向すらも見せかけた。然し今や其等の全てを佛栻して、陽明本然の姿を露呈しつゝ龍場の一悟以来の大道を真直ぐに、進むべき時期にした。

自由無碍な生命の躍動、一段と透徹せる人生観。益々切實さを加へつゝ集約され、簡易化された修為の方法、今やそれらが渾然一體となって、人格の圓熟境へ教学の最高峰へと発展して行くのである。

彼を遶る諸般の状況は、依然として好転を示さず、彼に侍する諸弟子の雙眉には、威々として憂愁の色が深かったけれども、而も彼は胸を張って高らか啾々吟を賦し、事も無げに学を講じ道を説くのであった。

卽ち陽明は實に、終始人間学に徹しようとするものだったのである。而して、今や斯かる立場は、百死千難を経て益々堅きを加へた。

確乎不抜の信念の下に、如何なる既成理念にも拘束せられぬ、彼独自の人間学が、漸く完成せられんとしてゐた。

彼は、夙に「理」を超越的存在と見る学説をば否定して、「心卽理」説を發展せしめ、意念の發動する處について、その人欲を克服しつゝ心の本然の天理を存するといふ、修為法を主張し来った。

が、人欲を絶対的に対立する天理が如何なるものについては、学者個々人の自得に待つべきものとして、殆んど説明されなかった。

又、我々が人欲を克服する際、何に由ってそれが人欲であると云ふ問題に就いても、従来は只之を知する働きは、我々自身の外に在るのではなくて、寧ろ我々の心に存する。

我々の心には、是非を判断する働きを持ち、且その働きは無拘束・無限界なものであると説明されただけで、働き其のもの、及び之と所謂天理との関係等に至っては、すべて亦個々人の體会に任せてゐた。

否、彼自身すら未だ嘗て現實なる修為に先行し、或は遊離して之が理論的解明を求めたことはなく、只管人々と同様に幾多の修為を重ねつゝ、その自らなる發明をば期して来たのである。

勿論彼とても、彼等の問題の解明が、自己の人間学の完成に不可缺の要件であること位、知らなかった筈はないのである。

それにも拘らず、却って之が解明の急がれなかったのは、畢竟彼の人間学が理論的構成を目指すものではなくて、現實の人間完成を目的とするものだったからこそである。

然し、今や之を解明すべき十分なる修為が積まれた。最初先づ「格物」の工夫が膨張して、彼の教学方面に異常な隆起を示して来た。

そして其頃、彼はまた屡々、「今すでに解明し盡せなかった問題が近頃、たった一言で解明されさうな気がして来たけれども、その一言が中々出て来なかった。

只、何ものかゝ津々として、口中に含まれてゐるやうな感を覚える」と告白したさうであるが、それは最早一瞬にも等しい短い期間で、次の瞬間には既にその言ひ出さんと欲した所の一語が、口を衝いで迸り出て来た。

――「良知」――それは孟子以来使ひ古された、何の変哲もない一語ではあったが、此時ひとたび彼の口を迸り出るや全く生命を賦与せられたものゝ如く、脈々たる精気を帯びて聞く者の耳朶を撞き、強烈な而も光明な印象を与へずには措かなかった。

陽明は、正徳十五年の九月に再び南昌へ帰ったが、その帰る少し前の頃、恐らく門人中最初に陽明から「良知」を聞いた一人だらうと思はれる陳九川は、次の如く之を記録している。

庚辰(正徳十五年)虔州に往って再び先生に見え「近来功夫は稍々要點を知って来たやうであるが、未だ穏當快楽な境地は尋ね難い」と云って――

――教へを請うたところ先生は、それには一つの秘訣がある。「たゞ知を致すということだ」と云はれ、「如何にして致すか」と問ふや、次のやうに教へられた。

「君の持つ良知こそ、君自身の準則である。良知は君の意念の著する處について、是は是と知り、非は非と知り少しも之を瞞くことは出来ない。

されば、君もたゞこの良知を欺くことなく、真實に之に依ってその指示する通りにゆけば、善は之を存し、悪は之を去ることが出来る。その時心中はいかに穏當快楽であらう。

而して、これこそ格物の真訣であり、致知の實功なのである。實は余自身も、近年漸く此の如く分明に體認したのであった。

當初は猶ほ、たゞ良知に依るのみでは恐らく足らぬ所がありはしないかと疑った。然し、精細に考へた末、今では少しの欠闕もないと信ずるに至った。」

尚ほ、此等郷土の学徒に混って異彩を放ったのは、江蘇泰州の王心斎である。心斎は身分的には元来一鹽丁に過ぎなかったが、発憤して聖人たらんとの志を立て――

――士大夫の子弟が、挙業に汲々としてゐるのを尻目に、独り本質的な修為を積み陽明に相ま見える以前、既に一廉の儒者として自他共に許すまでになってゐた。

この人が、陽明の門下となるに至った顛末を略記すると、初め心斎は陽明の学が自己の学と相似ている事を聞いて、遙ゝ泰州から南昌へ赴いて陽明に会見を求めた。

時に彼は、禮經に準據した古式の冠服を着け、陽明に会っても傲然上座に踞して、反覆辨論少しも譲らなかったが、種々問答をしてゐる中に上座にゐたゝまれなくなり、致知格物を論ずるに及んで、簡易直截到底及ばずと嘆じ、下拜して弟子の禮を執った。

然し、館舎に退いて、陽明の所説を再考するに肯けない點があるので、軽率に弟子の禮を執ったことを悔い、明日再び会見し、再び上座して議論を試みた。

陽明も、彼の盲従せぬ率直な態度を喜び、委曲を盡して議論したので、彼は始めて心から悦服し遂に再び下拝して弟子の禮を執った。

心斎の初めの名は銀といったが、此処に於て陽明は民と改め、且つ汝止と字をつけてやった。そして後門人に「余は辰濠を擒にした折には一度も動く所はなかったけれども、―――

―――今却ってこの人の為に心を動かした」と語ったそうである。この心斎は、後年王龍渓と共に陽明門下の二王に稱せられる高弟となった。

さて王心斎の従学は、彼が庶民階級の出身であるだけに、頗る人の注目を惹いたが、何人もひとしく学んで聖人たり得るとの信念の下に、講学する陽明は――

――凡そ志ある者に対しては、貴賎等一切の条件を没却して講授し、殊に知良知説を指示してからは「良知こそ人間の同じく持つものなり」と喝破しつゝ、異常な熱意を加へて講学に明光献身した。

區々論ずる所の致知の二字は、乃ち孔門の正法眼蔵なり。此に於て見ること真ならば直是を天地に立てゝ悖らずらず、これを鬼神に質して疑ひなく、これを三王に考へて謬らず、百世以て聖人を俟って惑わず。

此を知る者にして、方めて之を道を知ると謂ひ、此を得る者にして方めて之を徳ありと謂ふ。之に異りて学ばゝ、卽ち之を異端と謂ひ、此を離れて説かば、卽ち之を邪説と謂ひ、此れに迷ひて行はゞ、卽ち之を冥行と謂ふ。

千魔萬怪に眩幻すと雖も、之に触れて砕き、之を迎へて解く、太陽一たび出でて魑魅魍魎逃げるゝ所なきが如し。聖賢の道は、坦々として大路の如く。愚夫愚婦でも興り知る事が出来る。

然るに後儒は、徒に之を深遠難解なものとしてしまった為、凡常の者は到底修められぬと諦め、非凡な者は虚談贅説の対象とするに至った。

斯様な際であるから、若し志を立てゝ斯道を学ばうとする者が、余の許に至れば真に所謂空谷の跫音で、余も亦折として接せざるを得ない。

且つ、真なる人物を求めるのは、正に沙から金を採るやうなもので、、其の場合譬へ沙の十中の八九迄が淘汰されようとも、沙を舎てゝは金は求められないのである……

彼は常に、自己の致良知説が、實に百死千難より得来ったものである、と云う生々しい記憶を喚び起しては、聞く者の軽忽共鳴と空疎な理解とを戒めた。

良知の體認に至っては、しかく容易なものでなく、我々の修為も窮極する所がないのだと、教へ込むのを忘れなかった。

陳九川に向っても、體得と聴講とは同じでない。初め自分が講じた時君はたゞ早呑みしたゞけで、未だそこに滋味が感じられなかった。

この説の要妙な點は、一層深く體得すれば日に同じからざるを見、窮め盡きることがないのを知るであろう。

(陽明問ふ)汝の口は是非を言ふ事が出来ず、汝の耳も是非を聴くことが出来ぬが、汝の心は是非を知ることが出来るかどうか。(茂 答へて曰く)是非を知る。

然らば、汝の口はの人に如かず、汝の耳は人に如かぬとも、汝の心はやはり人と一搬である。(茂 時に首肯して拱謝す)

全て、人は只この心が大切、この心若しよく天理を存すれば聖賢の心であり、譬へ語れず聴けども、また聾唖の聖賢である。

心が若し、天理を存しなければ禽獣の心であり、譬へ口が利け耳が聴けても、また口がの利け耳の聴ける禽獣である。(茂 時に胸を抱き天を指す)

汝は、顧みて只汝の是なる心を行ひ、汝の非なる心を行ふな。譬へ、他の人が汝を是なりと云ふも聴くな。汝を非なりと云ふも聴くな。(茂 時に首肯して釋謝す)

汝の口は、是非を言ふことが出来ぬため、却ってどれ程無駄な是非を省いているか、全て是非を言へばこそ余計な是非を生じ、煩悩を生ずる。

是非を聴けばこそ、余計な是非を添へ煩悩を添えへる。今汝はどれ程無駄な是非を省き、どれ程無駄な煩悩を免れている事か。汝は却って、他の人より遥かに快活自在である。(茂 時に胸を叩き天を指し地にゐる)

余は今汝に教へよう。汝は終日汝の心を行ひ、口中に物言はうとするな。只、終日汝の心に聴き、耳裏に聴かうとするな。

扨て、「體得と聴講とは別箇のものだ」と喝破する陽明は、當然また體得には決して特定な機会及び方法なしとして、徹底せる事上磨を説き、現實からの遊離をば厳しく警責する。

ところで、我々の克治すべき私心は、念慮の間に於て無限に生起し、又一種の空想とも云ふべきものが時に快感を伴って、念慮に広がる場合も少なしとしない。

而も多くの場合、此れ等は克治しようと焦るほど、却って意地悪く生じて来る。斯様な祈り、心機一転の意味で全然別なことをしたり、考えたりすると、――

――往々、雑念も之を克治しようとする理性も両つながら忘れ、両者の扞格が解けて、心中の廓清されることがあり、別にまた、静座等に依って心気の澄静を図ることもある。

後者は、陽明も嘗て頻りと奨めた方法であるが、前者も人のよく試みる所であり、而して當時陳九川も之が體験を以て、陽明に質してゐる。

然るところ、之に対する陽明の答へは全く否定的で「我々の修為は本體を離れることなく、又只管良知の上に於て工夫すべきであり、斯かる一時的な姑息な方法は不必要である。

工夫が、中断するからこそ、良知が蔽はれるのであるから、中断したと思ったら直ちに継続するやうにすれば宜しい」と、頗る激しいものであった。

そして、九仙が尚ほも「雑念を皆殺しにすることは難しい。気づいても除去し切れない」と告白するや、陽明は厳然として去った。

「須らく勇なるべきである。功を用ひること久しければ自ら勇を生ずる。故に孟子も『浩然の気は集義よって生ず』と云った。雑念に打ち勝つことが容易になれば、その人は阿仁巳に大賢である」

我々は、斯様な言葉に通じて、陽明の講学が簡易直截化すればする程、人々に要求する所の實地の工夫も之に比例して加重される。

微塵のゆるみも、寸毫の脇見も許容せず、只管、純一な本質的な修為に徹底せしめんとする態度の、愈々強化されつゝあることを知るのである。

陽明の肉體は、一日として健康に恵まれる機もなく、依然として宿痾に蝕まれ続けてゐた。而も,幾度となく上がった奏疏や人に寄せた書簡等に告白されてゐる。

症状は、それが完全に不治の病患と判り切ってしまったの如き、印象を與へずには置かなかった。然し陽明は、殊に近年自己の病患に対して些かの憂悶の情も起こさなかった。

のみならず、却ってそこに格物の工夫を用いてゐるように見受けられた。例へば傳習録の、嘗て陳九川が贛州で病んだ時、陽明は「病も格し難い物の一つだが君はどう感ずるか」と問うた。

九川が、「この功夫は甚だ難しい」と歎ずるや「常に快活であるのが功夫である」と云ったこと等もそれを物語るものであらうし、――

――又、帰省する頃に北京の陸元静から、「多病のため神仙家の養生の道に従事しようかと思ってゐる」来たのに対し、大抵養徳と養身とは只一事なり……果たして能く睹ざるに戒愼し、聞かざるに恐懼して志を是に専らにせば、神住り気住り精住る。

而して、仙家の所謂長生久視の説も亦その中に在り。……元静気弱多病、たゞ聲名を遺棄し、清心寡欲、意を聖賢に一せよ、と。勧めたの等もその好例である。そして、彼の今度の帰郷も、特に病軀養ひ病苦から逃れようとする為ではなかったのである。

陽明学派の形成は、直接には外的な諸契機に促進せしめられたもので、初めから陽明の意志は殆んど働いてゐなかったと見られるのであるが、然し陽明の教学精神は、其の侭の姿に於て脈々と学派形成の紐帯となり、指導精神となり得た。

陽明の生活体験は、百死千難そのもにであり、彼の教学も慥かに百死千難の中から得来ったものであるが、云ふ所の百死千難とは、決して超現實的な環境化於ける、特殊體験の連続を意味するものではなかった。

更に又、生活體県は新たなる時代に現實に眼を蔽ふたり、自己を失ったりする事無く、真率且つ力強く現實を活きつゝ、そこから新時代に相応しい生活理念を導き出さうとするものであった。

故に、その教学も亦自ら既成のそれに求められぬ、革新的能動的な性格が横溢しており、且つその點に於て、時代の息吹に敏感な人々に一種逞しくも、清新な魅力を感ぜしめずには置かなかったのである。

陽明を中心とする思想集団は、彼が正徳十六年越しに帰ってから後、急激に膨張發展遂げ、官学派に対立して隠然たる一大勢力を成すに至った。

同時に、陽明自身の教学も益々圓熟の境に入って、芸術的香氣さへ感觸せられるようになるのであった。

正徳十六年の秋、陽明が帰省した當初に於ては、一つには朝廷の論功行賞がほ未だ發せられなかった所為でもあろうか、陽明の身上には相も変わらず悪質の誹謗嫌疑が、加へられていた。

その為に、郷里の故老達の間でも、猜疑の眼を注ぐ者がゐたけれども、流石に新たなる時代を担おうとする純な青年達だけは、率直な憧憬の尊信の心を以て陽明に近づこうとした。

その中で最も熱烈だったのは、彼の錢緒山で、彼は弱冠にして朱子学を博綜し、後、傳習録を読んで、両学の相合はぬのに懐疑しつゝも、密かに郷土の生んだ偉材に心を傾けてゐた。

陽明が帰省すると間もなく、故老達の反対を押し切って、同志七十四名と共に陽明に従学した。時に緒山二十六歳。すう百人を

陽明が帰郷後、知良知説を唱道した時、遠近一帯の学徒は、従来の思想と異なるのに駭いて信ぜず、相與に「敢へて新説に臺する者があれば共に排斥しよう」との盟まで立てゝ、舊学の墨守に汲々としていた。

併し、獨り王龍渓のみは之を黙殺して陽明に従学した。然るところ龍渓弱冠にして郷試に合格し、夙に高才を以て地方の衆望を荷ってゐたので、彼が従学後聞く所の師説をば感激を以て同志に語るや、彼等も大いに共鳴し、相尋いで倶に陽明に従学するやうになったと謂う。

龍渓時に二十六歳、慧敏非凡な知性と跌宕不羈な性行に於ては、門下中彼に及ぶ者癖なく、江西で従学した王心斎と相並んで二王と稱せられた。

又、篤実無比な錢緒山と相対しては門下の雙璧として、師説の敷衍、学派の発展に貢献する所、最も大なりと稱せられるに至るのであった。

様々な、誹謗壓迫を受けつゝも、陽明学は生成して止まぬ樹木の如く、日毎に根を伸ばし枝を張ってゆく。毎日の如く催される講会には、越城内の諸管刹が使用されたけれども、環坐して聴講する者が常に数百人を下らなかった。

何れも狭隘を告げ、時には戸外まで利用された。越城内で陽明の最も好んだ場所は、天泉橋架の架かっている碧霞池で行人の散じた夜半等には、屡々月光を浴びて獨り瞑想に耽る陽明の姿が見受けられた。

又、時たま門人達を集めては酒宴に興じつゝ、印象的な講学を試みる事もあった。城外に足を伸ばせば、森林長谷に富む山々の景勝が、到るところ天然の道場を開いていた。

快適な季節には、師弟相携へて山水の間に逍遙しつゝ、随時随地に学談を試みることが出来た。亡父喪が嘉靖三年四月を以て明けたにも拘わらず、陽明は一向後職後の気配も見せず、依然として講学を続けてゐた。

實は喪の明ける頃から、陽明の才学を重んずる朝廷の諸臣に依って、再三特待の推薦運動が続けられたにも拘わらず、それが何れも効を奏するに至らなかったのは、陽明にしても却って幸ひであった。

晩年にして始めて獲た閒人たるの境地、その境地に浸りつゝこれからの時代の道義を荷はうとする、青年学徒と語り合って喜び、それ以外に何を求めて、再び官界の泥濘に足を踏み入れやうか。

陽明にとって、そんな問題は最早ふと、水面に浮かんだ泡沫の如き現象にしか考へられなかった。今彼は一切の俗事を塀絶しつゝ、只管求道講学に全精神を打ち込むのである。

勿論さればとて、彼自身決して現實に怖れ眼を蔽ひ、頑なに小さな自己の殻を守らう等と、してゐるのでもなく、又門人達にも嘗てしかく逃避的な学問生活を勧めたことはない。

良知は、「見聞に滞らず、亦見聞を離れざる」ものであり、吾樹の心を養ふは「未だ大挙て事物を離郤せざる」真切なる修為は、須らく「事上磨錬」であらねばならぬ。

随って「人の仕途に在る、之を山林に退處する時に比すれば、その工夫の難きこと十倍」であるこ而してとは、彼の夙に自身閲歴して熟知する所であった。

其れにも拘らず、その困難を體験しつゝある後進に、小さな同情や由なき心遣ひ等、掛けてやるやうな彼では決してなかった。

其れのみか、殊にこれから世に出ようとする青年達に向っては「静を喜び動を厭ふ」気分の生長をば油断なく注意しつゝ、寧ろ現實の地盤に立つ動的な修為を勧めるのであった。發

本筋を外さなぬ限り、又、世故に流されて自己を失はぬ限り、現實なる活社会は時として處として、吾人最大の道場たるはない。

―――當時、彼は山林の間にも退處しつゝも、常にかく教へることを忘れなかったし、随って若きし門下生は多くの場合、いつまでも師の膝下に安穏な学問生活を送ることが許されず、活社会の中に自力以て自己の運命を開拓すべく、要求されるのであった。

而して、彼等も亦師門に得た力強い信念を抱きつゝ、師の許から或は会試に應じて京師へ、或は官途に就いて地方へと活發な進出を試み、夫々第二の陽明として求道講学に従事した。

江西時代の陽明は、啾々吟を賦する迄に、環境その他諸条件の厳しい制約を受けつゝ、様々な苦難と闘った。毀誉褒貶の場裏に、あらゆる譎詐誹謗と彼の生命とが恰も暖流と寒流との激突する如き、壮絶な闘争を繰り返した。

勿論、陽明の学説が、官学との宿命的な対立を続ける以上、越に帰ってから後に於ても彼は様々な誹謗壓迫の対象となるのを避ける事は、殆んど不可能であった。

然し、最早其等は微塵も彼を動かすに足らない。この啾々吟の作者は、決して詩人ではなくて「人生達命自灑落」と確信し「信歩行来皆坦道」を實地に行くことの出来る哲人であった。

否、そればかりではない。越に帰った後の彼は、身分的にも官場苦海から解放された閒人であったし、その上、彼の帰省を迎えてくれた、浙東会稽山麓の自然的人文的環境は、其処が郷土であった。

只、そういふ理由からばかりでなしに、客観的にも江西各地のそれより遥かに好適であった。―――居越六年の講学は、結局かうした好条件の下に、自由無碍なる躍進を遂げるのであった。

郷愿は、忠信廉潔を以て君子に取られ、同流合汗を以て小人に杵ふなし。故に之を非とするも擧ぐるなく、之を刺るも刺るべきなし。

然れども、その心を究るに 乃ち共に堯俊舜の道に入るべからず。狂者は志古人に存す一切の紛囂俗染は以て、その心を累はずに足らず。

真に、鳳凰の千仭に翔るの意あり。一たび念に克たば卽ち聖人なり。惟だそれ念に克たず。故に事情を闊略にして行常に揜はず。惟だそれ揜はず、故に心尚ほ未だ壊れずして、ともに裁すべきにちかし。

只管、聖人たらんとし志して来たのであらう。陽明が、齢知命を過ぎた今となって、殊更に中庸を得ぬ次善的な狂者に対して眷たる情を寄せ、且つ自らも之に擬せんとしていることは―――

―――一見頗る不可解のやうにも感じられないでないが、少なくとも陽明と共に時代の奮意識の重壓を反撥して、新たなる理念に生きようとする門人たちにとっては、―――

―――この高邁にして、進取的な狂者の性格ほど、無条件で魅力の感じられたものではなかったであらうし、當の陽明自身すら幾辛苦の末、良知の證悟によって得たところの高度なる、自主的精神の高揚は―――

―――たゞ新たに「一切の紛囂俗染は以てその心を累はすに足らず、真に鳳凰の千仭に翔るの意あり」の一語を附加しさへすれば、そのまゝ狂者に髣髴たるものがあると、感じられたのであらう。

聖人が人を教へるには、人を束縛して同じ型に嵌める事をしない。然し陽明は、やはり単なる狂者を以て、自ら甘んじてしまふものではなかった。

成る程、かの世俗的な知識人が、生氣なき形殻にも等しい形式的道徳に束縛されたり、富貴聲利の奴隷に堕したりしてゐるのに較べると、流石に狂者は人間として規模も大きくて、活々した生命が躍動してゐる。

然し又、規模の大には之に伴ふ内面的充實がなければならぬし、生命の躍動には常に正しい方向が與へられていなければならぬ。さうでなければ、空虚に陥り放逸に流れ、到底道に入ることはできないであらう。

陽明は結局狂者を以て、究極の境地と考へたのではなくて、究極の境地は實は狂者の實は狂者の一歩上層に在ると信じつゝ、常に深い反省と厳しい修為とをば、自己及び門下の学徒達に課することを忘れなかった。

昔、孔子陳に在りて魯の狂士を思ふ。世の学者富貴聲利の場に没溺し、拘の如く因の如く、之を省脱するなかりしが、孔子の教を聞くに及び、始めて一切の俗縁は皆性の體に非るを知り、乃ち豁然として脱落せり。

但だ、此意を見たれども實錢を加へて以て精微に入らず。則ち漸く世故を軽蔑し、倫物を闊略にするの病あり。此世の庸々瑣々たる者と同じからずと雖も、その未だ道を得ざる、一なり。

故に孔子陳に在りて、帰って以て之を裁し道に入らしめんことを思ひしのみ。諸君の学を講する、たゞ未だ此意を得ざるを患へたるも、今幸ひにこゝに見るあり。

正に好し、精詣力藏以て道に至らんことを求められよ。一見を以て自ら足れりとして終に狂に止る勿れ。狂者は慥かに他律的な観念からは擺脱し得てゐるものゝ、峻厳なる自律的精神に於ては未だ缺くる所なしとしない。

然るに、年譜の編者錢緒山は、周到にも陽明の上掲の如き教訓を垂れた、同じ月の條下に敬畏と零落との両立を、困難とする同じ舒國用の問ひに答へた陽明の書簡を抄録している。

敬畏と零落、それは當然豫期される右の問題の姿を、変へたものに外ならぬと考へられるものである。陽明の答へは大意をとると次の如くである。

敬畏の程度の増加が、零落の累にならざるを得ないと考へるのは、この両者に対する認識の誤謬から来ている。卽ち敬畏とは、大学に出てゐる「(身)恐懼する所あらば則ちその(心の)正を得ず……

愛患する所あらば、則ちその正を得ず」の如き受動的な恐懼憂患ではなくて、實は中庸の所謂「賭けざるに戒愼し、聞かざるに恐懼する自律的態度なのである。

零落も又、曠蕩・放逸・縦情・肆意の如しに發露して、而もその間些かの障碍渋滞をも感ぜぬ境地(例へば孔子の所謂、心の欲する所に従って則を踰えざる境地)であらねばならぬ。

然り、而して心の本體がその正を失はぬ為には、必ず「賭ざるに戒愼し、聞かざるに恐懼する」修為が間断なく続けられねばならぬのである。

結局、敬畏と零落とは相反發撥するものではなくて、寧ろ後者は前者を須つ事によってのみ、始めて可能となるべきものである。

其の意味に於ける零落が、かくの如き高度の境地であるとするならば、それは最早一種の聖境であって、所謂狂者の克く與る所ではない。

けれども、恐らく錢緒山の配慮した通り「狂者たるに止るなかれ」と云ふ陽明の教訓は、この敬畏零落の説を照合することにより、数多の門下に多大の感銘を與へずには置かなかったことゝ、想像されるのである。

扨て、狂者を環って種々の教説が示されたけれども、これは取りも直さず、陽明派の宗旨とも云うべき「知良知」に関する講学なのであった。

そして、陽明は結局これまでに善悪是非の判断に於ける、良知の自主性を信じても、(換言すれば狂者たりえても)それが、修為の究極ではなくて、更に之を致すべき工夫が、要請されねばならぬ、と謂ふ事をふ説いてきたわけである。

然らば、「致す」とは何であらうか、それは、我々が知を致すに當っては、只各々その分限をの及ぶ所に随ふべきである。

卽ち今日の良知が、これだけ見在してゐるとすれば、今日の知る所に随って之を擴充到底し、明日良知が又か開悟すれば、明日の知る所からそれを擴充致底してゆく。

所謂、擴充到底し得えない限り、善は観念的にではなくして、必ず具體的になさねばならぬ。同じく傳習録下に、心の良知が擴充到底し得ない限り――

――善は之を好むことを知ってゐても著實に始めず、悪は之を悪むことを知っても著実に悪めない……然し乍ら、擴充到底とは懸空に知を致すといふ點に在るならば――

――その事上について為してゆき、意念が悪を去るといふ點に在るならば、その事上について(悪)を為さぬやうにしてゆく。……かくすれば、心の良知は私欲に蔽はれることなく、その極を致す事が出来る。

と、あるのがそれで、卽ち擴充到底するには具體的な「格物」の工夫が要請されねばならぬ。然るに又、擴充到底するといふことは、擴充して到底する究極のところまで、擴充し続けてゆくといふことである。

それ故に、我々の工夫は飽くまで、持続的であらねばならぬ。聖賢に至る道には一筋の捷径もなく、飛躍も許されない。

譬へば、奔流する濁水を缸裏へ貯へたばかりの時に、直ちにその水の澄むことを望んだとて仕方ない。長時間動かさずに澄まさねばならぬ。

出たての萌芽が樹になる道理はない。同じように我々の修為も、まろびつ起きて歩み続ける以外に特別の方法もない。

諸君は、只常に「世を遁れて悶ゆるなく、是とせられずして悶ゆるなき」心を懐かれよ。この良知に依って、どこまでも忍び耐えつゝ修為してゆかれよ。

人の非笑、陰謀、栄辱にかゝづわらはず、又功夫が一進一退しようとも、只だこの良知の主宰を致して息まなければ、やがては自然に力が充實して、一切の外事にも動揺せぬやうになれる。

陽明のこの言葉には、修為があくまで持続的にあらねばならぬと謂ふことの外、持続的である為には、強い忍耐と共に、非笑・陰謀等一切の外的刺激に対して――

――一々神經質な反應を示したり、或は自己の失敗を忌む余り、之を矯飾したりすることなき自主的精神、謂はゞ一種の狂者的精神も必要だといふ考へを含んでゐる。

換言すると、格物の工夫が徹頭徹尾終始一貫したものであると同様に、狂者的精神も或る意味では修為の歴程上に於ける固定した段階ではなく、――
がた6
――終始格物の工夫と、相卽不離に發展しつゝ知良知の究極點へ進んでゆき、終ひには真の意味に於ける零落の
境地に到達するものである事を示してゐる。

堯俊は生知安行の聖人であったが、猶ほ且つ兢々業々として困勉の工夫を用ひた。我々は困勉を待たねばならぬやうな資質であるのに、若し悠々蕩々として坐して生知安行の成功を享けやうと、考へたら大間違ひではないか。

凡そ、工夫は只だ簡易真切であらねばならぬ。真切であればある程簡易となり、簡易であればある程、真切とならねばならぬ。

一ヶ月にも満たぬ短期間を以て、而も一矢も折らず一卒も戮さずして、数萬の蠻夷を卒服せしめ、両省の人々を安らかしめた、陽明の神技は到底世の武将の企て及ぶ所ではない。

必ずしも、自己を信ずる者の多きを求めないが、然し倶に斯道を荷う天下の陥溺を救ふべき同志だけは、求めねばならない。

區々の病勢日に狼狽・廣城に至りしより、又水潟(下痢)を増し、日夜数行止るを得ず。今遂に両足坐立する能はず。稍々定まるをまって即ち嶺を踰えて東せん、諸友皆必ずしも相候たざれ…とあり。

然るに、足腰も立たぬ重態となってゐた。それでも彼は、切々として故山の諸生を想ってやまず、「旬日後には養病許可の勅旨を得るであろうから、――

――譬へ致仕帰国の願ひが遂げられぬにしても、間違なく故山に帰って諸友と一面することは出来る。云々」等と云ひ送っている。――實はこの書簡が彼の絶筆となってしまったのである。

行状によると、臨終の時、彼は又、家童に向って「他に念ふ所なし、平生の学問はじめて幾分かを見得たるに、未だ吾黨と共に之を成す能はず。恨むべしとなすのみ」と告げたさうであるが、思ふに又如何にもさうであったろう。

陽明学派の活動は、偉大なる指導者の死を契機として、一種悲壮なる拍車がかけられた。泰山と仰ぐ師陽明は卽に幽明境を異にして、再び教言を請ふに由らなかったけれども、その崇高なる精神は、すべて門下の胸裏に、脈々として不滅の生命を躍動し続けて行った。

而も彼等は、陽明の死によって、始めて完全に第二の陽明とならねばならぬことを、はっきり自覚したのである。彼等は最早や、師の力強い大きな庇護の下に道を求め、学を論ずることが許されずに、一人ひとりが峻厳なる現實に直面しなければならなかった。

彼等は、在世中の師がさうであったやうに、思想界に於いても教育界に於いても、常に朱子学派の頑強な拒否抑壓に遭遇し、延ひては官界に於いても多く不遇であった。

然し、彼等は「毀謗は外より来る聖人と雖も免れない。人は只だ自らを修めて行くことが大切である」といふ師の教言を體し、又一切の毀謗壓迫を反撥して、只管自己の所信を發揮提唱して已まなかった。師の堂々たる風格を偲びつゝ、鋭意求道講学に邁進した。

生前の王陽明は、嘗て一部の經書を纏って講じたことはなかったし、又特にこれと云った體系を示したこともなかった。それのみか寧ろ「經書は實は自己の注釋である」「聖人の教学には、定説成訓といったものはない、病に應じて薬を投ずるが如きものである」とまで云った。

そして、その代わりに「諸君は何よりも先づ、聖人たらんとの志を立てよ。而して時々刻々、喝棒鐡拳を喰らわされたやうに緊張し、真剣になってこそ、余の話を聞いても實になる」等と警責しつゝ教へたことは――

――「理を外物に求めず心に求めよ」「現實を離れた徒らなる智識の集積や、あてどない思索の継続が真の学問なのではない。知行合一でなければならぬ。事上磨錬せねばならぬ」。

「孔子は、過去の存在でもなく、超越的なものでもなくて、實は現在自己の心に宿っている。良知がそれである。我々は、今からその發端を把捉して發展させて行けば、必ず孔子に成れるのだ」等と云ふ簡単なことだけで、後は一切聴く者の發明體認如何にかけられた。

職業的な学者教育者ならぬ、陽明の教言は、いつも此の如く聴けば簡単であるが、その後には自ら自己に求め自己によって、解決されねばならぬ問題が、残されてゐるのであった。

陽明に学ぼうとしても、生易しい仮初めの気持ちでは何の得る所もなく、血の出るやうな鉄拳を喰らわされた時にも似た、気持ちでなければならなかった訳も、實は此処にある

陽明は又嘗て、「聖人の礜業(官吏登用試験の為の受験勉強)に妨げないのみならず、却って大いに益がある」と云ひつゝ「無自覚な礜業は譬へば借り物で、人を招待しようとするに等しい。

客が居る中は、頗る豪勢に見えるが、客が散じてそれを還してしまえば、あとには何も残らない。」と痛烈に皮肉ったが、然し世俗的な栄達聲利だけを追って満足のゆく人は、礜業だけ
で間に合ふのだから、何もその上陽明まで学ぶ必要は感じられなかった筈である。

況や、陽明の教学は、棄権思想の如く視られてゐたのではないか。斯様に幹祟れば看来れば、陽明に着いて行った人々の心理志向も自ずから明瞭である。

彼等は、必ずしも栄達聲利を壓はしく思ってゐた譯ではない。又必ずしも世の非笑毀謗に無神經であった譯ではない。只、毀礜得喪に浮沈することなく、しっかりと根を降ろして、時代を意識し現實を活き抜かうと願って已まなかったのである。

陽明は、門下の人々を自己の根幹に寄生せしめたのではなくて、根幹の枯生に拘はることなく、発芽する種子をば彼等に與へたのである。

所で、緒山・龍渓が陽明の教学を敷衍したことは、陽明学の学派的発展に寄與する所、最も大であった反面、陽明学にとって最大の不幸とも云ふべき事態の発生も又、或る意味に於いてこの両者の間から出てゐる。

卽ち、陽明学派が師の死後、幾くもなくして内部から大きく二つに分裂し、相互に何れが師の真髄を得てゐるか、何れがより本質的であるかといった問題を、環って深酷に論爭対立するに至った。

本を正せば、緒山・龍渓の思想対立に端を發して、ゐるものゝ如く考へられるのである。両者は年齢も僅か二つ違ひ、郷里も同じ浙江省の餘姚と山陰とで相近く、進士に及第したのも同じく嘉靖五年、其の後官途に就いたのが、之また同じやうに容れる所とならなかった。

といふ風に、すべての點で共通したものを持ってゐながら、たゞ一つ性格だけが相反し、緒山の篤實敦厚なるに対し、龍渓は跌宕慧敏であった。そして、かういった性格的な相違こそ、不幸なる両者の意見の対立を、来した最大の素因であった。(了)

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  • 最終更新:2021-08-16 02:57:22

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