第八章 言志録(イ、陽明学を共に学ぶ)

王陽明「山本正一著」より――――――――――


陽明の生涯程、波乱に富んだものは稀といってよい。紛糾錯綜した人生諸般の難問題は、彼の生涯に集積し圍統して愒きる所をみなかった。

而も此等は、すべて彼自身によって解決が與へられた。若い頃からの肺患に蝕まれた肉體のどこにそんな力があったのか、疑はれる程見事に解決された。

彼は、たゞの一回でも自己の求道講学に妨げとなる等いって、其等の解決を遷延回避した事はなかった。彼の教学は實に所謂事上磨錬によって、発展して行ったと謂ふべきである。

陽明は、四十代から五十代にかけて、病軀を罹って南支方面の数ヶ所大きな匪團と、一つの最も有力な明朝宗室の叛乱とを掃蕩し裁定した。

併し、彼は一介の武弁ではなかった。又地方行政にも治安工作にも、卓抜せる手腕を奪った。併しまた、彼は遂に一個の政治家ではなかった。

俄かに、彼の功業目覚ましいものは稀といってもよい。然し、其等は一として彼の教学と遊離したのではなかった。、畢竟、陽明の行實と教学とは二にして一であり、之を切り離して理解する事は難い。

陽明の教学を、論理的に系統立てゝ圖式のやうに構成することは、一見容易であり効果的であるだろう。然しそれが却って盲人捫象の類に属することなし、と誰が保證しよう。

私はたゞ陽明の生命をば、その脈動の一拍一搏を丹念に感触する事によって、強く把握したいと思うのである。

王陽明の教学が、如何なる性格を持つものであるか、といふことについては、従来之を朱子のそれと対比することに依って説明されており、――

――而も、この方法は歴史的にみても、両学の内容そのものから云っても、一番適切だと思われるのであるが、これを余り深入りしすぎて、両学論争の渦中に飛び込んでしまったのでは、却って観念的遊戯に堕してしまい兼ねない。

其れは、肝腎の対象を見失ふ恐れがあるから、此処では極く大雑把な大體論だけに止めて置きたい。

清代中葉に於ける屈指の経学者であった焦循は、「良知論」といふ短編の論文を書いて、朱子と王陽明との学風を次のように対比している。

大意をとって引用すると、朱子の学問は君子を教へるに適し、陽明の学問は小人を教へるに適している。前者は之を太平無事で、萬事ゆとりのある時代に適用することれば、優れた宰相や学者を養成し得る。

之に対し、後者は正常でない慌しい時代に處して、大功を成す人物を造り出す方である。抑々人間の世界は何よりも先づ、世道人心が正しく美しいと謂ふ事が肝腎である。

物事の道理をば、読書思索によって究めてゆくといった事は二の次である。而もこの二の次の仕事たるや、極く少数の人のみが關輿しうる事で、愚民には強ひられない。

愚民でも、關知して感動し得るものは實に良心だけであり、卽ち良知だけである。陽明が配所の龍場驛で蠻民を感化したのも、各地の討匪に成功したのも―――

―――治安状況の険悪な地方に於て、頑民を宣撫し遂げたのも、一に自己の良心を以て人の良心を、感動せしめたからに外ならない。

かような場合に、高尚な哲学や難解な経書の意味を、説いたとて何にもならぬ。……かく云へばとて、朱子の学問を悪く言ふわけではない。

両者各々、特微を持って優れた働きを為すものである以上、相互に誹議するには當らぬのである。、この意見は、頗る大雑把な比較論ではあるが、中々鋭い示唆を含んでいる。

卽ち、朱子の方が静的・合理的・思索的であるに対し、陽明の方は寧ろ動的・直感的・行為的である、といふ風にみてゐる點である。

陽明の教学が、動的な性格によって特徴づけられているといふことは、彼が比較的早年時代から唱へ出した「知行合一説」や」、修為の方法としての「事上磨錬」といふこと等にも、極めて端的に且つ印象的に表示されている所である。

蓋し、陽明の知行合一といふことは、知行併進とも言ひ変へられるもので、只、知った事を必ず行ふといふやうな簡単なものではない。

若し、さようなものだとすれば、去らなければ行へない。行ふためには、必ず先づよく知らなければならないと考へられ、その結果は知識偏重に陥ってしまふ。

陽明は、かような考へ方にへ対して「かくては、遂に修身行はぬことになるばかりでなく、又修身体當には知れぬことにもなる」と鋭く批判しつゝ、知行の併進によって真の知と行を全うしようとする。

「唖の「食べている瓜が甘いか苦いかは、唖に聞いたところで仕方がない。自分で食べてみなくてはわからない。」

「旅行しようと思って、事前に途中の路が険しいか平らかであるかを調べてみても、實際に自分でその路をふんでみないと、本當はわからないものだ。」

勿論、かういう比喩だけならば、同じやうな比喩によって簡単に破られてしまふ。例へば「此の薬がどんなものかは、飲んで見なければ判らぬ等といって飲んで見たら、それは毒薬であったといふのでは、萬事窮すである」と。

然し、陽明の比喩は飽くまで道徳範疇に於て、知識偏重・空言徒説をば矯正して、知行を併進させようといふ特定の意図から出たものであった。

決して、妄作冥行を是認するものでもなく、又単純な経験主義でもない事は、いふまでもないのみならず、彼の所謂「行」は、意念の外的動作に現われたものに限らず、心の内部に於て意念の發動するする事を包含する。

随って、外的動作に現われぬ以前に於ても、其の善悪は厳格に内省されねばならない。然し、行動以前に於ける意念のみの發動を内省するといっても、それは特殊な深居静座に依ってのみ、果されるものと考へてよいであろう。

慥かにさういった方法は、先づ考へられがちであろうし、且つある場合には、實際効果を収める事も出来るであろうが、この方法のみに終始する時は、往々にして静を喜び動を厭ふ。

意念の、發動そのものまでも抑制しようとして、所謂、空寂に流れる恐れが十分にあるのみならず、静を喜ぶ心境は、一旦事に遇へばへ忽ち乱れてしまふから、結局大きな発展が望めない。

陽明が、かうした経緯を弟子たちの講学に於て、實際に察知した末、陸象山の「人情事變上に在って工夫を倣す」といふ修養法をとり、事物に應付しゝその際における、意念を正す所謂「事上磨錬」を強調した。

又、自らも敢然として、憂患苦難の中に飛び込んで自らを鍛錬し、利害毀譽に惑わされる事無く、只管に道を求めて行ったのである。

事上磨錬は、静坐等の静的修養法に比較すると遥かに難しい。何故ならばこの境地は、流動変転してやむ所を知らないからである。

然しそれにも拘わらず、陽明はこの境地に於て、鍛練を経なければ道は體得出来ぬし、人間は完成されぬと確信する。

彼は又、一般の儒学者と同様に、儒教の教典その他を読む事については、決して軽視しないが、それにも拘わらず、経書その侭では破故に等しいとか、如何に多くの書物を読破して知識を集積し、――

――且つ、それによって事物の道理を解釋し得た所で、それで人間が完成された譯ではないとか、経書と自己との関係は、言はゞ自己が本文で経書はその注解のやうなものである、と。

斯様な意味の言葉を屢々吐いているのも、道の體得・心得を以て、修養の最根本義とするからに外ならない。勿論聖人の道が経書に記載せられてあるといふ事は、誰でも知られている所である。

陽明は一歩を進めて、その経書は結局我々が、聖人の道を體得するための媒介たるに止まると云ひ、更に一歩進めて、経書を語る数々の道理が極精神がめて正しいと判定する者は、實は自己以外にない。

聖賢が、説いた事だから正しいのだ等、と容易に肯定して係るやうな人々は、必ずや聖賢になることが出来ずに終わってしまうであらう等、とまで極言する。

之を云ひ変へると、他力本願で古の聖賢に依存してはいけない。聖人の奴隷になってはならない。誰でも聖人に成れる。何人の心にも孔子は宿っている。

創造する生命は自己にこそ存する。無尽蔵の財實を抱きながら、他人の門前に食を乞ふの演ずると同様に、あてどなく外に求める必要等はないという事である。

上記のやうなッ言葉を通じて、我々が容易に看取しうることは、自力本願・独立独行の毅然たる態度、精神が躍如としている事である。

そして又、之を突き詰めてゆくと、遂には傳記・格式等一切の既成権威に束縛されない、のび~とした解放自在の精神が、横溢している事にも気が付くのである。

傳習録(巻下)の中に、次のやうな話が載せられていた。―――或る夏の一日、陽明が傍らに待坐している二人の弟子に、暑いから君等も扇を使ひたまへと勧めたところが、一人の弟子が起立して恭しく辞退した。

其処で、陽明は二人に向って云った。「聖人の学問は、何もそんなに堅苦しいものではないし、そんな道学者のやうな様子を作らうふ必要はないのだ。」と。―――

過ぎると却って心の中が忽かになる、といふ意味にも或はもっと軽い意味にも解釋されるが、彼の教学が能動
的になるが故にもつところの、解放的精神の自然の現れと見たいのである。

畢竟、自力本願は必然的に此処迄到達しなければ已まない。そして、之に至っては、如何なる傳統曹訓も決してその人を束縛し得ない。

例へ、孔子の言った事であらうとも、自己が悪いと信ずれば断じて善くない。況や孔子に及ばぬ者が言ふこと等は申すまでもない。

斯くの如くにして、この解放たくましい的精神は逞しい能動的精神と共に、陽明の教学を鮮やかに彩っているのである。

「致知と力行とは、何れに偏しても不可である。只然し、その先後軽重だけははっきりと分けなければならぬ。卽ち先後の點に就いて云へば致知が先であり、軽重の點に於ては力行の方が重い」――朱子

然るに、陽明学が対立関係に立った朱子学こそは、周知の如く、陽明の生を享けた明代に於ける官学であり、明の中央政府が、網の目の如く敷いた科挙(官吏登用試験)制度に依って全國に普及していたのである。―――

陽明は、何故か斯うした朱子学を尊奉せずに、之と対立関係に立つような学説を提唱せねばならなかったのであらうか。朱子学が、全國的に普及していた時代に、何故之と対立する陽明学が出現したのであらうか。

又、陽明が其の学説を發表し出してから幾許もなく、爾来の朱子学を捨て、陽明の新説に共鳴する者が、続々と現れたことは、種々の記録に傳へられている通りであるが、當時陽明学が斯くの如く時代に要請されたのは何故であろうか。

當時の思想界には、経学上の問題より更に一層、切実實な生活理念の問題いを巡って、朱子学が反省され批判されつゝ、其処に新たな理念が萌芽し形成されねば止まなかった。

又、当時の一般知識人は、求祿の工具として以外、大率朱子学に対して強い魅力を感ぜず、次第に朱子学の圏外、依存すべき新たな生活理念を欲求し摸索して行った。

そして、王陽明の教学こそは、實に當時の思想に於ける新たな理念として、一般の要望に應じ且つよく之を指導したのであった。

朱子以後、斯道は既に大いに明らかとなったから、これ以上著作を煩はす必要はない。たゞ躬行すべきである。

学者の實踐の工夫は、至難至危の處より試練すべきで、それ以外の實踐はない。貧困に處してこそ、修養も益あれ、さうでなければ終に脆弱なものとならう。

学者は、道理を書物の中にのみ求めないで、之を我が心に求め、見聞に依って乱ることなく、耳目のもつ支離な作用を去って、胸中の虚霊な精神を全うする事。

さすれば、書物を開いただけで、その中の道理は盡く得られる。そしてこの場合、道理は書物から得るのでなくて、實に我自身によって得るのである。

六経四書は、聖人の糟粕であるから、初学入門の場合には之に依るべきだとしても、終には之を棄て、我に固有の真を尋ぬべきである。

「中外の官に任じながら、念頭を君父百姓の上に置かず、道理を講究し、徳義を切磨しつゝも、念頭を世道の上に置かない様な者は、例へ如何なる美點があらうとも君子は歯にしない。」

と云った通り、自己の完成(修巳)のみを唯一の目的とするものでない。随って科挙・官界に意を絶つと謂ふ事は、それらによって自己を累はし、自己を見失ふのを回避しようとする一方便に過ぎない。

若し、自己が累はされねば例へ官界に身を置くとも、挙子の業に従事しようとも、更に防げないのみか、寧ろ儒学に於ては、あらゆる世俗的糾釐煩悩を超克しつゝ、その中から自己を錬磨完成し、國家百姓を指導する事をこそ貴ぶのである。

王陽明は、實に此の苦難なる本道を、まろびつ起きつゝ邁進直往した者であった。彼とても幼少の頃から應試登第を以て第一等の事とはしなかった。

専ら、聖賢の道を学ぼうと志していたし、且つ中年の頃、虚偽に満ちた険悪な官界に困頓しつゝ「仕官の途は泥坑の、如きもので一旦脚を踏み入れたら、二度と抜け出ることは容易でない」等と嗟嘆した。

それにも拘わらず、遂にそれを回避することなく、一切の困難を克服して道に直往した。知行合一説と云ひ事上磨錬と云ひ、決して清澄なる環境や空漠たる思索から生まれたものでない。

又、晩年に至って樹立した知良知説の如きも、百死千難中より得たものであることは、陽明自身の確信したところである。

陽明の祖父は、この初孫を愛すること一通りで無く、命名改名は固より、教育までも一人で引き受けたらしい。それは、陽明の父が前にも言った如く、科挙に應ずる為の勉強等に余念がなかったからでもあろう。

そして、後年の陽明が父のどちらかと言うふと、實直で典型的な官吏型に似ず、寧ろ物事に拘束されないで、直截な判断を下し、何物をでも恐れず、思ひ切って事を断行すると云った性向は、實に闊達豪放な野人祖父に享けるところ大であったと想像される。

立身出世と遁世入山、それは遙に相反した方向であり矛盾である。而も彼の場合、その何れか一つの方向へ傾倒する事によって、現實なる煩悶が解消される等といふ筈はない。

元々、彼の煩悶は根本的には既述の如く、如何にして政権に近づくべきか(云ひかへると己といふ人間を完成する)といふ處から来ている。

謹みて新年の御祝詞を申し上げます 本年も宜しく願い上げます

科章の学といひ神仙の説といひ、それらは、すべて聖賢のへの行程中の一迷路であり、言葉をかへて云へば聖賢及び難しと、失望嗟嘆するひと時の空虚な心の間隙に巣くふた。

世俗的思想に過ぎない以上、それらに依って、彼の根本的な煩悶の解決される筈は到底ないのである。

實に彼の煩悶は、寧ろさいった世俗的思想を剋復して、聖賢の大道に立ち変える事に依ってのみ、始めて解決されるのであった。

然るに、さういった時機は容易に訪れて来ずに、彼は煩悶の中に数年間世俗的な道程を、歩み続けれねばならなかったのである。

思ふに、この間日時にすれば僅か一ヵ年にも満たず、而も迷っては醒め、再び迷っては又、忽ちにして悟る等、変動の複雑急激なる、殆んど把握に苦しむ位であった。

就中、陽明の其の間に於ける心理的変化の契機に至っては、関係資料中一つもこれを詳究したものがないので、一見頗る明確を缺く憾みがあった。

畢竟、死の一歩手前まで来て、強烈に生への執着を呼び覚ますのに似通った或るものが、精神的煩悶と肉体的苦痛とに、呻吟していた陽明の胸裏の奥底から、反撥的に盛り上がって来たのであろう。

そして恐らくそれは、自覚し説明し得る心理的契機のもう一歩奥にあるもの、謂わば神秘的な生命力とでも呼ぶべきものゝ發動であったに違いない。

又、斯かる生命力は、何人にも持ち合わせているに拘わらず、必ずしも容易に激發するとは限らない。要するに或はさるもの悟らず、惑ふて始めて能く悟り得る。

まさしく陽明の場合に於ても、煩悶苦悩の或る極限に達した末に始めてよく久しい間、惑溺し続けて来た佛老二学から免脱して、一筋の新たなる道を発見し得たのである。

後年、弟子の羅念庵が陽明の学問の発展をば、道を行く者に譬へ。最初は沈迷し、東に起きたかとふと西に陥り、非常な苦しみを経験する。

而も、遂に休まず歩み続けている中に、漸く小を発見して泥濁から免れる云々、と述べているは、思ふにこの頃の實情であったらう。

而も、謂う所の渓径とは最早かの浮薄な辞章は、学でないのみならず、又在来の読書窮理の学でもなかった筈である。

つまり、嚮に読書窮理の学では、事物の理と吾が心とが一體になり得ぬと感じ、後また限りある精神で、無用の虚文等を作って居られないと謂う思ひであった。

所謂、佛老二学に精神的肉体的な苦悩の解決解脱を、求めようとした陽明が再び逆戻りして、従前の学に復帰する等は考へられない。

更に云へば、今彼が佛老二学から離脱したのは、決して自己に此の二学を修べき天分力量なしとあきらめ、且つは今までの煩悶をも未解決の侭に捨て置いて、世俗と安易な妥協を結ばうとしたからではない。

さうではなくて、寧ろ佛老二学出は自己の―――人間の―――煩悶を解決するに足りない。實に煩悶解決の道は、この二学以外にあるべきだと云ふことを、身をもって證悟した結果でなのである。

此処に至って、我々は陽明の得た小渓径が如何なるものかを想像するに難くない。勿論彼は、此処で直ちに大悟徹底した譯でもない。

又、「学は心に求め心に得るのを貴ぶ」と道破して、獨立の学を打ち立てたのも、遙か後年のことに属するが、兎も角既成の教学に依存しても、一向に煩悶は解決せられないと観じた。

當時、三十一歳の陽明には、更に一層の難関を経なければならないが、少なくともそれに通ずる道は發見することが出来た、と推測されるのである。

山東郷試は、全文陽明の手筆に出でたものであるが、之についてみると彼が如何に力を入れたかゞ知られる。

のみならず、又その頃の彼の、思想学識をも窺へるのである。全文は頗る長いから、此処にはその中の策門五第に著されている要點だけを、摘記すると次の如くである。

⒈ 国朝(明)禮楽制度に関する議論

⒉ 佛老二学に対する批判。この二学が世道人心を害するのは、根本的には聖人の学が明らかでないからである。徒らに二学を攻撃せんよりは、聖賢の学を體得すべく先づ厳しく自己を責めねばならぬ。

⒊ 伊尹の志と顔回の学とに関する所説。古人の志を求めんとすれば、必ず先づ自らその志を求むべきであり、古人の学を論ぜんとすれば、必ず先づ自ら其の学を論ずべきである。自らその志を求め自らその学を論じてこそ、始めて古人の志と学を知り得る。

⒋ 風俗の美悪に関する所説。當今風俗の患は流通を務め、進取を貴び、擐狡を重んじ、文法を義し、形迹を論ずる點にある。

依って、これを挽回せんとすれば、必ず忠信を重んじ、廉潔を貴び、朴直重んじ、心術を論じ、狷介を尚ばねばならぬ。孔子は、「郷愿は徳の賊なり」と云われたが、現在に於ても郷愿を排せねばならぬ。

⒌ 當今の急務に関する議論。蓋し天下の患は紀綱の振はざるによるが、その根底には名器の太濫選用の太忽、求效の太速と言ふ三弊あるから、先づ之を改革せねばならぬ。

次に、急務として挙ぐべきは、(イ)現在各親藩は、中央から食祿を支給されているが、雑多不統一の弊があるから、封ずるに土地を以てすべきである。

(ロ)軍隊の編成配置は、地の利に因り人情に順ふのが要訣である。(ハ)邊彊戎慮の患に対する策は、平日より萬全の準備を整へて置くことが肝要である。

(二)其他、煌害旱魃によって人民が流離するのは、官吏に冗員があって、事務が簡捷ならざる為である。

又、訴訟が頻發し、盗賊が横行を極めるのは、賊税が繁多で経済的に困窮するからである。故に先づその原因を除去するやうにせねばならぬ。

又、貧富の懸隔による各種の怨嗟は禮を以て、之を制するやうにすべきである。

思へば、彼の聖賢に至らうとする高い志望は、年齢と共に世俗的な事象と欲求の前に浮沈し断続して、そこに失望を發し煩悶を生じつゝ、次第に内的煩悶の解脱を以て、最大の関心事と為すに至った。

そして、聖賢に至らんとする志望がはっきりと、「内的煩悶の解脱」に置き換へられたその時から、彼は始めて聖賢に至るべき方法を独自に考案し始めた。

且つ、その端緒も發見する事が出来たもの如く、頻りと内向的・行為的修為法を強調し始めたのである。

別の言葉を以てすれば、聖賢に至らんとする内向的・行為的修為に求めようとする、彼の近来の思想的傾向は、實に彼自身に於ける内向的煩悶の増大を契機として、必然的に生じたものであった。

随って、若し殻がこの煩悶を煩悶として、之と必死に取り組むことをせずに、却って解決を回避したとすれば、譬へ彼に如何なる良師と高才があっても、恐らく上記の如き思想傾の發展は、實現されなかったに違いなかったのである。

その小渓は、以前の険道に視べると遙に異なるものであった。それで、ヨ他の人ならば此処迄辿り着くと、もうこれでは好いと考へ止まってしまうのだが、先生は遂に休まうとせず、尚ほも歩き続けて行く中に、今度は愈々大康荘に出られる。

當世の務に明かなる者は、惟だ豪傑のみ然りと為す。今士を科挙に取るは未だ記誦文辞の間に免れずと雖も、有司の意は固より惟だ豪傑を求むるのみ。

深を釣し隠を索し以て、諸子のを覧を探る能はざるに非ざれども、之に待つ所以は淺し。故に、願はくば相與に備に當世の務を論ぜん云々。

浙江郷試に落第した妹婿の徐曰仁へ激励の書簡―――

吾子年方に英妙、此れまた未だ深く憾ずるに足らず。惟宜しく徳を修め、学せられよ。を積みて大成を求むべし。尋常の一第は固より、僕の望む所に非ざる也。

隠微欺くべしと謂ひて放心ある勿れ。聰明恃むべし我々はと謂ひて怠ある勿れ。心を養ふは義理より善きはなく、学を為しむるは精専より要なるはなし。

習俗に移さるを勿れ、物誘に引かるゝ勿れ、古の聖賢を求めて之を師法とせられよ。斯言を以て迂闊と為す勿れし。

さて、以上のことゞもを通じて、我々は陽明自身に於ける学徳の進歩と共に、その非凡なる感化力の片鱗をも伺うことが出来る。

一面又、世を挙げて滔々と科挙に趣き辞章の学に溺れ、儒学も形式的には科挙を通じて普及していたにも拘らず、大多数の者にはそれが一向自覚的に把握されていなかった。

斯う謂う時代に於ては、儒学を生活理念として把握せよとか、人間何よりも先づ聖賢たらんとの志を立てねばならぬ等と叫ぶ。

貨の如きものが、却って往々異を立て、名を求むるの徒を目せられるのも、又必ずや免れざるであったらう。

勿論彼は、生来不屈な精神の持ち主であったし、確かに儒学復帰後の通念は烈々として何人をも、覚醒せしめずんば已まぬ概があった。

屑々たる世評の如きは、毫も意に介するところでなかったとしても、獨力を以て時流に抗
し狂欄の転倒に巡らすことは、流石に又容易でさればとて閉戸闇修に甘んずるのも、第一彼の若さが許さぬところであった。

某幼にして学を問はず、邪僻に陥溺すること二十年、はあじめは心を老揮究めたりしが、天の霊に頼り因りて覚る所あり。

始めて、周・程節に沿って之を求むるに、得あるが若し、然れども顧みるに、位置一二同志の外予を翼なく、岌々として仆れて後興く。

暗晩に友を甘泉湛子に得、而る後吾が志益々堅く。毅然として過むべからざるが如し。とは、陽明が後で述懐した言葉の一節である。

事実、彼の志は甘泉を道友とする事により愈々堅くなった。そして、最早何人も留め得ぬ不退転の有機を鼓し、欣躍して道に邁進する事になった。

時に年三十四、前半生の久しきに亘る。困迷時代は此処に至って、完全に終りを告げたと云ふべきである。

我々は、無論舊来の陽明傳にまことしやかに織り込まれている以上やうな、傳奇的神秘的な説話を通じて、彼の言行乃至は教学が、如何ほどまでに當時及び後世の人々に影響し、興味と景仰の対象になったかを認めるのに吝かではない。

今の我々としては、種々の神秘的な幕を隔てゝ、陽明の姿を望見するよりも、寧ろ一層切實な関心の下にさういった様々な幕を衝破して、陽明の真の姿に迫らうとする欲求に駆られるのである。

それは、陽明といふ不世出の偉人を、故意に平凡化させようと企てるのではなくて、寧ろ却って、人間最高の可能性を實現して行った者としての陽明に、何ものかを学ばんとするものなのである。

所で、それはさて置き、我々は此処でもう少し、謫地に赴いた頃の陽明の心緒を、詳らかにしておく必要がある。話は多少前に遡るが、既説の如く彼は餘りにも不當且つ豫期せざる禍難に見舞われた。

然るに、折角求め得た湛甘泉等の同志とも別れて、遠く化外の地に赴かなければならなかったので、一時は轉た自己の悲運を嗟嘆して已まなかった。

さればとて、生来不屈な精神を持つ彼が、この場合そのまゝ悲嘆に沈みきって自己の意気や、志望までも沮喪挫折せしめてしまふ筈はない。

況して、彼は元々正義を踏み大道を歩んだまでゞ、決して許し難い社会悪を犯したのでも、投機的な行為にでたものでもなく、随って心中何等疚しい點もなく、極めて公明堂々たるものであった。

喩へ、彼を見舞った禍難がいかに不當であり、豫期せぬ所であったとしても、それは、到底彼の正大なる志を動揺顛倒せしむるに足らなかった筈である。

乃ち、彼は易を読んで、天地萬物の盈虚消長する理を感じ、天の理に随って只管命に安じつゝ、そこに自己の活べき道を見出して行かうと努めたのである。

又、易理に沈潜するだけでなく、道中到る處で道を説き、同志を求めることを怠らなかった。斯くて陽明は、一面に於ては人情の自然として、自己の窮厄に対する哀愁も感じない訳でなかった。

さればとて他面に於ては、或は易理によって諦観を求めたり、或は師友の道を講じたりすると云ったやうな具合で赴謫の旅を続け、正徳三年、漸く貴州龍場なる謫所に到着したのであった。

扨て、陽明は既にして龍場に到着したとはいふものゝ、場所は名にしおふ化外の地、況して流謫の身ではあり、住ふに足る程の屋舎の準備とてなかった。

初めは巳むを得ず、草庵を結んで雨露を凌ぎ、次いで一古洞を發見して之に移居すると云った風の、今までとは打って変わった、簡陋極まる生活を始めねばならなかった。

病弱な陽明にとって、斯かる謫居生活は、慥かに甚だ苦痛であったに違いない。、然し彼は、之を予てから覚悟してゐたとみえ、「夷狄に處しては夷狄に行ふ」の態度を持しつゝ敢然と荊棘拓いていった。

衣食住の住が、今云った通りの不自由さであったばかりでなく、食の方も満足には求められなかったので、全然農耕には未経験であったが、付近の蠻人に見習って種々工夫を凝らしたりしつゝ、従僕を指図して曲がりなりにも数畝の田畑を開墾した。

父が、致仕帰田したとの報が陽明の許に達したのは、正確に何時であったか明らかでない。とにかく平穏な謫居生活に入ってから後、程遠からぬ頃であったろう。

陽明は、この報を手にした時、足元が俄かに崩れて真暗な底知れぬ深坑に転落してゆくような衝撃を受けた。正義に依って動いたとは云へ、結局は自己の行為に依って父までが禍に罹ったのではないか、といふ自責悔恨に陥った。

その直ぐ後から、若しも劉瑾等の怒りが、斯く迄にも尚も釋けないとすれば、この次には失脚や流謫以上の恐るべき不幸が、我等父子二人を見舞ふのであるまいか。

萬が一、死の運命が二人に迫ったとすればどうしたら良いのであろうか、恑懼推操の念が次々に沸き起って来て、心は全く平静を失ってしまった。

平素、養ひ来った信念・勇気等が、迹形もなく消え失せてしまったばかりでなく、多年修め来った学問思想等も、此の際一向役に立ち得ないと云ふ事が、深刻に感じられて来るのであった。

陽明は、焦燥悔恨の念に駆られつゝ、次第に幾辛苦を重ねた今までの自己の修養に、徹底的な反省を加へざるを得なくなって来た。

惑溺昏迷の時代以前は兎も角、儒学へ復帰して以来、殊に下獄して以来、抑々何を為し来たったのか。一體何のために学問を付けて来たのか……。

獄中から赴謫の途次、そして今の今まで絶えず易理を玩味し、思索に沈潜して来て、慥かに深く得る所ありと信じてゐた。

世俗の得失栄辱は、皆能く超脱し得たし、蠻地の困厄窮乏も漸く克服し得た。が、それにも拘わらず、今何故に目に見えぬ影を怖れ、耳に聞こえぬものと戦わねばならぬのか…。

斯様に反問を続けてゆく中に、陽明は遂に従前到達し得た段階の上に、もう一層の段階の残されてゐること、及びその段階に飛躍するためには、今までの修養等では、尚不充分であることを悟った。

實に、得失栄辱の問題も困厄窮乏の環境も、生死に比すれば物の数ではない。死に直面しては其等を顧みる暇もない。生死の問題こそ實に人生最大の問題であり、学問の最根本的問題である。

この問題にして、解決せられずとするならば、そこに何の超克があり、何の修為があろうか。然り、而して若し聖人あって我がこの境に處したならば、果して如何……。

陽明は、心中にかく叫びつゝ遂に一切の愛誦せる書籍を擲ち、あらゆる不徹底な思索を排し、決然と死生の一關めがけて身を躍せた。

行状に曰く、公(陽明)一切の得失栄辱に於て、皆よく超脱したけれども、只、生死の一念のみ尚ほ心に遣る能はず、乃ち石廓をつくり自ら誓って曰く、たゞ死を俟たんのみ、と。

他に復た、何をか計らんと。日夜端居黙坐し、心を澄まし、慮を精にして、以て静一の中に求む。

死か、生か、幾日となく幾夜となく、石の棺槨中に必死の思索が続けられた。其の裡に種々の雑念が次々に払拭せられて、胸中が灑々として来るのを感じた。

然し、これだけでは只静境に在って寧静を得た迄の事である。今だ能く動中に静を持し、静中に動を蔵するまでに至ってゐない。

動静を一にするのでなければ、到底死生を一如と観することが出来ないのではないか……斯くて更に必死の思索は思索は続けられて行った。

それは、文字通り不眠不休の悪戦苦闘であった。晝もなく夜もない。彼は嘗て弱年の頃鐵柱宮で道士と一夜を明かしたと謂ふが、今はそれどころではなかった。

恐らく従僕達は何事かと狼狽し、どうなる事かと案じたであろう。然し、遂に一切の解決される時は来た。一夜従僕達は、石棺の中から突として發せられた、名状すべからざる叫び聲に警起した。

彼等は、主人が發狂したのではないかと疑った。然し、陽明は發狂したのでも何でもない。彼は、後年屡々「天の霊に頼って、偶々良知の学に悟るあり」と繰り返し述懐している。

この時、正しく「天の霊により」聖学の確信を得たと狂喜欣躍してゐたのであった。この時、陽明を狂喜せしめたもの、それは何よりも先づ、生死の一關を突破し、生死の問題を悟り、解脱し得たことであったらう。

而も生死の解脱は、直ちに「志士仁人は、生を求めて仁を害することなく、身を殺して仁を成す」、といふ儒学の體得であり随って生命の流行躍進である。

傳習録巻下にある、学問一切の聲利嗜好に於て、倶に能く脱落を盡すとも、尚ほ一種生死の念頭の豪髪だに掛帯するあらば、便ち全體に於て未だ融釋せざる處あり。

若し、此の處に於て見破り透過すれば、この心の全體方是で流行して礙ぐるなく、方是て性を盡し命に至るの学なり、といふ言葉はこの時述べられたものではないが、―――

―――所謂「龍場の一悟」とは、實にその盡儒学の性至命といふ儒学の核心を把握し、生命の流行無碍なる躍進を體認したことに他ならぬ。

否それのみならず、陽明はこのことを契機として、始めて多年追求し来った修為法の問題、卽ち「格物致知」の問題をも、明らかにすべき段階に到達し得た。

換言すると、彼は流行躍動して已まぬ、生命の真相を直覚する事により、始めて「格物致知」とは、決して外的な事象の理を探求して、知識を推極する事ではないと悟った。

寧ろ、それとは反対に自己の心性中にに存する、至善なる生命體を求めて行くことでなければならぬ。と信ずるに至ったので、年譜に始めて聖人の道は吾が性にて自ら足り、向きの理を事物に求めたるは誤なること知れり。とあるのは正しく之を指すのである。

「龍場の一悟」は思ふに、陽明の全生涯中最も劃期的な事として、特筆大書せらるべきであらう。それは實に陽明の教学の分水嶺を成す最も劇的な事である。

(それは餘り遡らないが)直接には、肉體及び精神の懊悩の解脱を目指しつゝ、聖賢に至らんとする方法をば、次第に内向的行為的に求め切った。

陽明は、流謫の試練を経て道念愈々堅く、且つ既に得失栄辱をも超脱するに至ってゐたけれども、而も尚ほ人生最根本の問題たる死生の一關が、突破せられなかった。

その為に、修為法の問題に関しても、確たる解答を獲る一歩手前に、停滞を余儀無くされてゐたのである。然るに「龍場の一悟」は一切を打通した。

陽明の生命は、之に依って決河の如く奔騰し、陽明の思想は之を契機として、劃期的な飛躍を遂げる事となった。陽明は之を「天の霊に頼って偶の悟る」といふ。

それは、如何なる言葉を以てしても表現し盡せぬ、神秘的な境地であったからである。併しそれは決して単なる頓悟ではない。

従前、幾層かの修為と「龍場の一悟」とは、相関せぬ別個のものではない。前者を含蕾とすれば後者は破蕾である。

それは、如何に神秘的であろうとも、飽くまで偶然ではなくて必然であり、而もこれを可能ならしめたものは、陽明自身すら説明し得ない程の、言葉に絶する必死の思索だったのである。

「龍場の一悟」は又、陽明の教学の今後に於ける方向を決定した。固より教学はこの一悟に依って完成せられ、體系立てられたのではない。

これは、彼の高足錢緒山、龍渓が俱に「龍場以後先生の教説は三變してゐる」、と明言してゐるのによっても明らかである。

然し、彼の教学が龍場以後、如何に變遷し発展したとしても、之を一貫する根本的精神と方向とは、一に「龍場の一悟」に於て確立し、決定せられたとしても過言ではない。

卽ち一言に要約すれば、前にも掲げた「聖人の道は、吾が性によって自ら足る」と云ふのがそれである。、云ひ換えると、彼はこの一悟によって始めて完全に在来の教学―――

―――主として朱子学、一を掲棄し、その末学の残渣を払拭すると同時に、更に独自の思想體系を樹立すべき新たなる、出發點に就いた訳なのである。

我々は今、「龍場の一悟」を陽明の教学の分水嶺と稱したが、ここに至ってその意味は一層明瞭となる。卽ちこの一悟を中心として、それ以前及び以後を展望すると。

以前は、専らこの一悟に至らんとする「修為の歴程」であったのに対し、以後はこの一悟の指示した訪問に従って、只管思想體系の樹立に直往しつゝ、兼ねて育英に従事する「講学の歴史」と云ふことが出来るのである。

そして、固より陽明の真摯なる修為は「講学の歴程」中に於ても、間断なく続けられるのだから、龍場の一悟に至って「修為の歴程」が終りを告げたとは云えない。

それは兎も角、龍場の一悟によって死生の一念も解脱せられ、修為の要諦も把握せられた事は確かな事實なのであるから、本章の立志修為時代も是れ於て一先づ、終止符を打たれるべきであろう。

尚、我々は此処に到り、忽ちかの人相身が十二歳の陽明に與へた、謎の如き言葉を想起する。―――鬚が領を拂ふ頃、聖境入る―――が記憶に新しい。

解釋のしやうに依っては、龍場の一悟を契機として、陽明は聖境に入るべき端緒を得たものと云ひうる。時に年齢も亦恰も鬚の領を拂はうとする、三十有七歳の頃であった。

既にして、小蹊徑を発見した後、尚ほも休まず歩み続ける中に、今度は遂に大康荘でられた。これは以前の蹊徑に較べると、又異なる所がある。

他の人々ならば、最初の泥濘の険道から蹊徑を經て、此処に出られたと云ふことは過分の幸ひだに考へて、當然そこで歩を停めてしまふ。

陽明先生は之と異なり、人々をして来ってこの坦道を行く楽しみを、共にさせようと冀ふの心やみ難く、更に極力呼號するのであった。

之は、前に一二回引用した羅念庵の言葉の続きである。謂ふ所の大康荘とは勿論龍場の一悟を指し、極力呼號するとは、其の後の講学育英を意にする。

既述の如く、陽明は龍場の一悟によって、その立志・修為時代を終へ、今や新たなる講学育英時代に入る事となったのである。

それにも拘らず、現實なる龍場の謫居生活は、尚未だいつの日果てるとも知れなかった。彼は依然として萬山叢棘の中に困乏の生活を続けて行った。

勿論、さういった生活も、劉瑾等の目に見えぬ迫害も、最早や大悟徹底した彼の心境を、動揺せしむるに足りなかったが、此処に又一つの事件が偶々彼を見舞って、悟了の深錢を試問する事となった。

我々は、此処に至って躊躇する事無く、近来の陽明の生活が学問と一体化し、實戦が思索と併進しつゝある事實を確認することが出来る。

往年の、彼の学問や思索は、年齢の若さと環境の順調なせいもあったらうが、とかく生活や實踐と遊離して、欲しい侭に伸びようとしがちであった。

其処に又、種々の煩悶の芽ぐむ間隙があった。然るに下獄以来、彼の環境は急激に悪化し、幾多拂乱困頓の事が實生活の上に噴出して、極まる所を知らず遂に彼をして、以前の学問思索では如何ともし難い究極の問題に逢着せしめてしまった。

大概の学者ならば、此処で徒らに深嘆・悲歌・慷慨して、為す所を知らないのであるが、独り彼のみは自己を失わなかった。

彼は、概説の如く一切の不徹底な思索と中途半端な学問とを抛擲して、捨て身で究極の問題に體當りを試みた。彼の思索と實踐とが二にして一の境地に入ったのは、将にこの時に始まると云っても過言でない。

何故ならば、云ふ所の究極の問題こそ、實に思索の最高の対象であると同時に、實踐の最大目標たる死生の問題だったからである。

既に陽明は、斯くの如くにして「龍場の一悟」から、思索實踐合一の妙を発揮し、その後も前述の如き事件に邁進して、益々之を錬磨體会する所があった以上、学説に於て先づsarerutamenihs「知行合一説」の樹立が見られたのも、又極めて必然的であらう。

年譜によると、陽明が始めて知行合一説を發表したのは、「龍場の一悟」があった翌年であるといふが、陽明自身も嘗て謫せられて龍場に官となっていた。

その時、夷に居り困に窮し、心を動かし性を忍ぶの余恍として悟るあるが若し、體験探求再び寒暑を吏へ、六經四字に證するに、沛然として江河を決して之を海に放つ。

若し、然る後歎ず、聖人の道坦として大路の如くなるを、と云ひ、また事実、謫居中十数ヶ月費して、五經臆説四十六巻をなしたこと等に依って見ても、学説の發表の如何に慎重な検討の末行われたかゞ、知られるであろう。

然らば、何故にかくも慎重であらねばならなかったのか。第一、知行合一の思想は、當時最も普遍的で且つ権威を持ってゐた。朱子学の説く所と相抵悟するものがある事であった。

第二に、且つこの思想は、當初は陽明自身が主として、實生活お體験より得た儘の信念的な考へ方に過ぎなかったこと。

随って、此の素朴な考へ方が学説として成立し、且つ公開的に発表される為には、相當の学問的基礎付け及び、經書の裏付けが必要とされるからであった。

斯くて陽明は、往時誦読した五經をもう一度獨自の考へ方に照らし合わせて研究し、主要な部分に訓釋施して、五經臆説を著す一方、知と行とは何故に合一並進せねばならぬか、―――

―――知行を二つに切り離して、先知後行を説く従来の学説は、何故に正しくないのか、抑々知とは何か、行とは何か等の問題に対しても、綿密な考究を行なった。これ

そしてこの場合、彼の石棺中で悟った「聖人の道は吾が性にて足る。先の理を事物に求めたのは誤りなり」と云ふ、新見解も同時に發展せしめられて「心卽理」説、卽ち理心合一の説となり、―――

―――知行合一説の構成に哲学的根據を與へた事は、後年彼が顧東橋の「若し、行卽知と云ふ事が単に躬行を強調する為の教説ではなくて、真理であるとするならば、専ら本心に求めて遂に物の理を遺し、必ずや闇くして達しない處があるだらう」との問題に答へて、―――

―――心を外にして仁を求むべからず、心を外にして義を求むべからず。独り心を外にして理を求むべけんや。心を外にして理を求むれば、これ知行の二つなる所以なり。

理を吾が心に求むるはこれ聖門、知行合一の教へ吾れ又何ぞ疑はん、と云った言葉からも推知出来よう。蓋し理心合一の見地よりすれば、心と事物も一體不可離の関係に立つ。

其処に始めて、知行合一の説も成立を見る分で、理が心外の事物に存するとなし、事物に就いて先づ其の理を窮め、而る後之を自己の心に反へして實行に及ばうとするから、勢ひ先知後行の順序が立たざるを得ないのである。

換言すると、知行合一の説は、心卽理説を根底とせざる限りに於ては、将しく単なる實踐強調論に止まってしまひ、何等学説としては論理性を獲得し得ない。

随って、知行合一説の発表に當っては、必ずや心卽理説が爾餘の諸研究や體験と共に、先行していたものと思考せられるのであるが、而も亦、この心卽理説が實は朱子と対立した陸象山の創唱に係る―――

―――学説であったことを想起するならば、例へ陽明自身は明言していないにしても、何らかの機会に陽明は象山の学説をも、修めたのではないかとの推測が下せるであろう。

然しさればとて、陽明は単に朱子をを棄てゝ象山に移り、之に依存して自己を立てたのではなく、實に身を以て自己の運命を開拓しゝ、遂に朱子学を揚棄して一派の学を樹立するに至ったものである。

である以上、例へその中間に於て、象山の学説が入って来たにしても、それは飽くまで陽明が自主的摂取しただけの事で、要するに象山無しと雖も陽明は猶ほ興り得たのである。

随って、象山の影響如何と云ふ問題はさして重要ではなく、況や陽明に至っては、胸中たゞ聖人の道を明らかにせんとする意念のみ切々として、朱陸云々の如きは問題でなかったのである。

斯くて陽明は、猶ほ龍場の驛丞ではあったが、今や兼ねて貴陽書院の主講となり、獨自の学説を提げて貴州の青年を教育する事となった。

彼には、龍岡書院に於て龍場付近の諸生と学を講じたから、立志・勤学・改化・責善の四つの教條が立てられたが、此処に至って新たに知行合一説が、教條の大綱に加えられた。

その教育は、一段と精彩を発揮するに至った。貴陽を中心として付近一帯の州縣の青年は、彼の教導によって始めて真正の学問を知る喜びを持ち、土人等も益々彼に信頼を置く様になった。

陽明の全生涯を通じて、最も意義深かった貴州流謫時代も、約三ヵ年以て漸く終わりを告げた。正徳四年の歳暮、陽明は江西廬陵縣の知縣に赴任する事となった。

一陽来復の歓びに満ちて、貴州を後に一路東帰の旅に就いた。今や、謫居生活の数々の辛酸もすべて是れ思い出と化した。

前に言った静坐のことは、坐禅入定しようとする為ではなく、放心を収めるための補助的方法であるから、誤解ののないやう、尚徒らに人に異ならん事を求めず、理に同じからん事を求め、着實に勉学せられたい。

立志を強調する彼は、更に又修為の態度及び方法についても、之を自己の體験に徴しつゝ懇篤に記述する。彼は先づ、凡そ学ぶといふ事には「専」卽ち専念没頭する事が必要であるが、「専」だけでは未だ不充分で、必ず更に「精」あらねばならぬ、と。

然し、たとへ「専」「精」であっても、最根本的には「正」であることが必要であるとされねばならぬ。例へば博奕に専念する事も「専」であり、文辞に精通する事も「精」であるが、真正の学問は道を学ぶ事でなければならぬ。

一筋の大道以外、一切のものは総て荊棘の螇に過ぎない。文辞技能は如何に精専であろうとも、道を去る事遠い。我々の修爲は真正の道に専であり、精あること以外にないと云ふ。

専横し乍ら彼は又云ふ、真正の道に志して修為するにしても、俱體的には必ず自己の心を清らかにして、繊翳も留めざるやうにすることが肝要で、斯くしてこそ始めて吾が真箇の性が露呈し、それが操持涵養(卽ち修為)の素地となり得るのである。

聖人の心は、明鏡の如きものだが、常人の心はまだらに垢積り蝕める鏡の如きものである。故に思ひ切り利磨せねばならぬ。斯くてこそ始めて繊塵も目に留まり、之を拂拭するにも力を費す必要なきを得るのである。

然し又、よしんば汚點が除去しきれずとも、その間に一點の明處さへあれば塵埃が落ち来っても、目に留まるから之を拂拭することも出来る。

これが若し、一面の腐蝕の上に塵が堆積する事になれば、終ひにその塵もみられぬわけである。凡そ易きを好み難きを悪むのは人情とはいへ、その間また自ら私意や気習の蔽があるもので、これさへ看破してしまへば、煩難を感ぜずに心鏡を磨くことが出来るのである。

君子の学は、以てその心を明かにせんとするなり。その心はもと昧きことなきも、欲之が弊をなし習之が害をなす。故に弊と害とを去って明に復す。

外より得るに匪ざるなり。心は猶ほ水の如し。汚之に入りて流濁る。猶ほ鑒の如し。垢之に積りて光昧し。孔子顔淵に「克己復禮を仁となす」と告ぐ。

孟子も、「萬物皆我に備はる」「身に反りて誠」と謂へり。夫れ己に克して誠。固よりその外に待つなきなり。

丗儒、既に孔孟の説に叛き大学格知の訓に昧く、徒にその外に博ならんことを努めて以て、その内に益せんことを求む。皆汚に入りて清を求め、垢を積みて以て、明を求むる者なり。得べからざるのみ。

致知の知とは心の本體で、心は自ら知るという能力を持ってゐる。それは父を見ては例へば孝を知り、兄を見ては悌を知り、孺子が井戸に陥るの見ては惻隠を知る如く、良知であって外に要める必要のないものである。

只、一般に於ては私意(人欲)障礙無きを得ないから、努めて私意に克ち天理に復さう(格物)としなければならない。

そして、この事によって心の良知をば、何等の障礙もなしに能く内外に充實流行させることが、卽ち「知良知」である。

扨て、上来の説に依って我々は、一應次のやうな観察を下す事が出来る。卽ち第一、陽明にとって根本問題であったのは、殆んど自然科学的な視角を含むかと思われるやうな、広範な外的事象に関する知識の集積如何ではなくて、寧ろ之とは反対に我々自身の心性及び行為の価値判断に関わる事であった。

第二、斯かる道徳学の立場に故に、陽明の物、理をば専ら私心との静止的状態に於て、客観的に把握せんとする朱子の考へ方を厳しく否定する。

卽ち、若し理が外的事物に存するとすれば、模擬的偽善行為と真に善なる行為とは、何等辨別し得ないのみならず、理を外物に求めて行こうとする主知的傾向は行為の世界に於ては、勢い形式主義、結果論に堕して、真に道徳的なる行為が昂揚せられないと、考へられたからである。

第三、斯かる反面に於て、陸象山の心卽理説を支持したのも、畢竟道徳的価値を荷ふべきものは、我々自身の心以外にないと云ふ如き、道徳学的立場に於てであった。

第四、修為論に於ては、専ら意念の發動する瞬間を把握し、其の不正を去って正を全うすべきことを腫脹した。

処で、以上の如き陽明の所説は、一見主観的動機論の色彩が濃厚であるやうに考へられ易い。何故ならば、専ら不善なる意念の發動をば、外的行動に現はされる以前に克服して、一念の不善をも胸中に潜在せしめないやうにするという事を―――

―――修為の要諦として強調する為に、反面の外的行為に現はされたものゝ、道徳的価値は、甚だしく問はれてゐないやうな印象を与へるからである。

然し陽明が、故らに主観的動機論に陥る危険を冒してまでも、右の如き修為論を強調して已まなかったのは、一面彼自身も「近世の所謂道徳は功名のみ、所謂功名は富貴のみ」と歎じた通り―――

―――功利の習い滔々として、聖人の学をも手段化しつゝあった當時の風を匤正して、真實なる学問道徳を振興せしめねばならぬ、との現實的要請に基づくものであると共に他面また、行為の構造をば修為の立場から見れば、既掲の問答にあるやうに、―――

―――自己の内心に属する意念の方が、根本且つ最初の問題であり、之に対して外的に具體化された所のものは、云はゞ結果に属すると考へられる。

依って、意念ほど重きを置かれないのも當然と云へるし、事實彼は「聖賢の学は自己の為にする学であるが故に、功夫を動くじ効験を重んじない」との立場に立ってゐたのである。

只さればとて、彼が行為の具體化された面をと問筈に、只管内的な面のみを問題にしたと、速断してはならないのである。

第一、彼は例へば形式的外的な儀説を講ずることを末とし、心をして天理と純ならしめることを本としてゐても、決して本と末とを分離された二つのものとは考へてゐなかった。

又、特に意念の發動等の言葉を使用して、道徳的価値を荷うべき心が必ず事物を媒介としてゐなければならぬ(事物を離却してはならぬ)。

この事を明瞭に表示している以上、所謂その内的修為も、必ず外的にもう具体化されるものでなければならぬ。卽ち不善は一念と雖も、胸中に潜在せしめてはならぬ。

同時に、善は一念發動の處のみでなく、必ず之を外的に具體化し實現せしめねばならぬと、考へられてゐたこと多言を用ひずして明らかであるが、斯かる主旨は又、かの有名な「知行合一」説に於て、特に明確に説かれている。

知行合一説は、頗る難解であったと見え、この後も多くの人々の論議の対象となり、陽明も屡々種々なる質疑を受けて、夫々の場合に應じ様々な答解を与へたが、彼の立言には二つの面を持つことが知れる。

その一は、主知的朱子の修為論から導き出された、先知後行の諸弊を匤正せんとする、現實的意図を含むこと。然し、それだけでは單に主知的なるものを―――

―――主意的に転換させるだけに止まるから、他面に於ては更に次の如く陳べる必要があった。卽ち、實際に於て知行は私欲に隔断されて合一ならざる場合が多い。

けれども、それは所謂本然の姿ではなく、知行は本来相互に媒介し合って、切り離すべからざるものであり、而して我々の道徳的行為は、常に斯かる、知行の相卽合一の上に形成せられるのである。

随って、私欲に知行が隔断されて、或は懸空な思索に陥ったり、或は妄行迷作に走ったりしてはならぬのである。聖賢の様々な教言も要は我々をして、知行合一の本然の姿に姿に復帰すべく、努力せしむるものなのである。

善念が、發れば之を充し(擴充發展)、、悪念が發れば、之を知って之を過める(禁過克服)。知と過とは共に志であり、天の聰明である。

今人の学問は、只知行を二つに分つが故に、一念が發動した場合例へそれが不善であっても、行動と現されぬ限り、之を禁止しようとしない。

自分の今、知行合一を説くのは正に人をして、一念の發動する處が行であると知って、直ちに之を克服させるやうにさせようとするのである。

王陽明より黄宗賢への書簡――――

斯くして、後始めて自然篤實高貴私欲の萌と雖も、真に洪爐に雪を點ずるが如く天下の大本立たん。……吾儕住時に論ぜし所自ら(向裏)自己内心に求める。

内向的、此れ蓋し聖学の的傳、惜しいかな論落巳に久しく、往時見ること猶ほ自ら恍惚たりき。只だこの處に於て看ること較ゝ分業曉、直是痛快復た疑ふべきなし。但だ吾兄と別るゝ久しくして告語する處なきのみ。

陽明の南京在住時代は、翌月五月から約一年有余、頗る平穏に過ごされた。實を云ふと、彼の肉體は既に壮年時代からの宿痾に蝕れていた。

殊に龍場への流謫によって一層悪化し、それが其後環境も好転して、北京から滁州へと比較的困散な地位に身を置く事になった為、一時は人並みの健康體に復するかと思はれたのであるが、――――

――――時既に晩しと云はうか、病は漸く膏盲に入り、その上南京に於ける都会生活は、これに好影響を与へる筈もなかった。

陽明の修為法が、必ず先づ功利の俗習を去って、聖人たらんとの志を樹立し、訓話辞章の末枝に心を馳せることなく、直ちに聖学の核心を衝かうとする點に特微を持った事、既述の通りである。

除州に於ては、斯かる點が一層強調せられたと見え、彼の特微的な教説に魅せられた従遊の人々は、斎しく感發興起しつゝ末俗を超脱して、高明なる一路を目指すやうになった。

そして彼も亦、自己の教導が頗る能く時弊を匤救し得た事を喜び、益々信念を固めつゝ南京へ向かったのである。然るに南京で講学し始めてから幾可もなく、彼は意外な風聞を耳にして驚き且つ疑わねばならなかった。

それは、謂はば投じた薬石が副作用を起こした如く、彼が滁州に於て感發せしめた人々の間に、往々高踏的な空談を喜んで、着實平明な修為を忽視するやうな行き過ぎの傾向が、成長しつゝあると云ふ事であった。

而も、この事は単なる風聞ではなくて事實である事が、滁州従学の士中有数と認められた、孟伯生の来京によって裏付けられた。

伯生は生来自ら是として、名を好む癖を持ってゐたようであるが、、それだけでなく、この学とを通じて滁州の士の弊風をも推知する事が出来たのである。

陽明は先づ、伯生の性癖を次の如き比喩によって、矯正する。「自ら是として、名を好む病は君一生の大病根である。譬へば、一丈四方の狭い土地に植ゑられた大樹のやうなものである。

雨露の滋、土脈の力はたゞこの大きな根を滋養するのみで、たとへその四傍に嘉穀を種ゑようとしても、上は大樹葉に遮覆せられ、下は樹根に盤結せられているから、どうしても生長出来ない。

卽ち、此樹を伐りとって繊根を留めないやうにしてこそ始めて、嘉穀を種ゑることが出来る。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2021-04-15 04:14:12

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