第五章 言志録(ロ、王陽明に学ぶ)

曰く手を下すは静よりし、居平専ら実踐を務め、敢て過高の説を為さざること是なりと。其の己を持するや堅苦刻萬。

而も、心に城府を設けず。人、過失あれば必ず之を面責す、親戚故舊と雖も皆な之を厳憚す。常に気質を変化する以て、自修のの要と為す。

春日潜庵:資性俊邁峭直 容貌魁梧 音吐鐘の如く 眼光爛々人を射る。身を持する厳正 閨正 閨門の間嚴として朝廷の如し。

凡そ、王学者の主要とする所は、天人合一 死生一貫 天空海濶の気象等なり。此等の観念は皆、良知を致すの工夫より来るもの也。

生死一貫の理に大悟徹底すれば、則ち心境の霊明萬物来たり映して、妍媸判然たらん。栄辱利害 貴賎貧富 毫も擾乱すること能わず。

此に至て、天人合一の徳を全ふし、常に天空海潤の気象を保つべし。王学者が、活潑々地に天地に斡旋するは一に之に因る也。吾人が王学に得んと欲するも亦、此の精神修養の一法なり。

潜庵~西郷へ:執事は豪傑の士 平生聲色財利に淡して 之に加ふるに 難々困苦練磨の功を経る 既に尋常に非ず

其の 天下士風の衰を興起振作する 甚だ難きに非ざるなり 此事執事に非ざれば 則ち誰にか望まん

西郷隆盛少壮王学を喜び、又友人子弟を勤めて王学を修めしむ。葢し其の実学にして、且つ心術涵養に力あるを以てならん。

南洲翁天資の雄傑、古今に絶し、心術の涵養亦既に尋常にあらず。而も其の聲貸財に淡く、心事磊々落々たりしは、涵養の功尠少ならざるべし。翁が平素愛読せし署は、多く王学者の遺書なりしとは、之をしるべし。

南洲遺訓―――――――――――――――

一、萬民の上に住する者 己を慎み 品行を正くし 驕奢を戒め 節倹を勉め 職事に勤労して 人民の標準となり 下民其の勤を氣の毒思ふ様ならでは 政令は行はれ難し。

一、己に克つ事々物々 時に臨みて克つ様にては 克ちえられぬ也。兼て氣象を以て
克ち居ること也。

一、学に志す者 規模を宏大にせずんば有る可からず 去りとて 唯此れにのみ偏倚すれば 或は身を修むるに疎に成り行くゆゑ 終始己に克ちて身を修する也。

規模を宏大にして己に克ち身を修する也 規模を宏大にして己に克ち 男子は人を容れよ 人に容れられては済まぬものと思へ。
 
一、道を志す者は 偉業を貴ばぬもの也 司馬温公は 閨中にて語り言も 人に対して言ふべからざる事無し と申されたり。

独りを慎むの学 推てしるべし 人の意表に出て 一時の快適を好むは 未熟の事也 戒むべし。

一、節義廉耻を失て 國を維持するの道決して有らず 西洋各國同然也 上に立つ者下に臨て利を争ひ義を忘る。

時は下皆之に倣ひ 人心忽ち財利走り 卑吝の情日々長じ 節義廉耻の志操を失ひ 父子兄弟の間も錢財を争ひ 相ひ讎視するに至る也。

東林学派の高忠憲や劉念台の思想は、国歩艱難な明末の時世の中での、深刻な体験によって鍛錬された為に、深潜綿密なものとなった。

併し、その深い体認自得の学は、誠に刮目に値するものがあり、彼らの思想は、宋明理学史の末尾を飾るに相応しい物であったと云う事が出来よう。

このように明末の思想、特に高劉の思想は、幕末の新朱子学新陽明学に大きな影響を与えた。このような真切な思想も、明治以後の文明開化の嵐の為に衰退の一途を辿った。

併し、この思想の中には優に世界性を持ち得る者があり、且、それは今後の世界の思想家の指針となり得るものである事を信じて疑わない。

方谷は、経世家として名を馳せ、訥菴 潜菴 沢瀉は勤王家として世に名を知られ、端山は、藩政の要路に立って活躍した。

これらの学者は、当時の所謂行動派に属する儒者といふか、趣きを異にし。心性の学を講じて、道を明らかにする事を第一義とし。それによって世の風教を正し、国難に対処する事を使命とした。

故に、講学明道を以て、一国の命脈に関わるものとしたのである。当時は尊王攘夷を標榜し、国体の護持を力説して、国事に狂奔する者が多かった。

上記の学者たちは、このような行動も静深な心術、真切な実功を用いない限り、外 道義に名を仮り、内 権詐功利に陥るを免れず。

その結果、国家の元気を傷い、世の綱紀を破り、却って性民を途端の苦しみに陥れるに至ると考えた。

彼らが、講学明道明お道を以て、時弊救済・艱難克服の第一義を為す理由は、此処にあったのである。

幕末の、新朱子学 新陽明学に大きな影響のあったものは、前述のように中斉と一斉とであるが、中斉は良知の体を太虚とした。

慎独克己の工夫より入らなければ、禅の虚妄に陥るとしてその要を説き、一斉は、口耳訓話の学を痛斥して、体認自得の学を力説した。

上記の学者は、このような学風を継承して、これを一層深潜淵精切なものとし、その結果、近世思想史上に輝かしい業績を遺すに至ったのである。

訥菴は、秋陽と共に一斉門下の高足として、世に重きを成した儒者である。彼は訓話詞章に溺れ、功利に堕した江戸の学風を排して、心性の学 性命の学を高唱した。

特に経済を排し、これを以って「用を重んじて体を略す」といって非難した。「物に即して理を究めなければ心も正当に得ることはできない」として、窮理を旨とする程朱学を以って正学とし、陸王の心学を異端として排斥した。

瑞山は、平戸藩の儒者であるが、若い時、江戸に遊んで一斉の塾に従学した。しかし、一斉の高足、秋陽と訥菴の講義を聴いて、心性の学と性命の学が正学である事を知った。

そこで始めて従来の訓詁詞章を捨て、切至な体認の学に務める様になった。瑞山は碩水と共に西海の二程と称された。

訥菴は瑞山に大きな期待を寄せ、我が国で正学を托し得る者は、西海の瑞山只一人と言って、我が著書「闢邪小言」の跋を瑞山に依頼した。

瑞山によれば、程朱のいわゆる事々物々上の窮理も、要するに一理の考究に外ならない。そうでなければ、宏博も知識も要するに聞見の学となり、結局玩物喪志に陥ると。

秋陽は三原藩の儒者で、若い頃古義学を修め、後程朱学を修めたが、やがて江戸に遊学して一斉が門に入り、心性学を深めた。

彼は、心性の精微に至っては、師の一斉も及ばないと云われた儒者であった。秋陽は陽明を尊信し、その学を以て平易簡切・深奥不測とした。

特に、陽明の致良知に於ける、本体工夫一体の主旨を体して、体験行躬を重んじ実修実悟を要とした。

性命の高論を排し、陽明が良知の上に「致の字を冠した主旨を説き、反躬践履の要を痛感した。秋陽が切論した実修は、「自反」或いは「反身」「反己」という自己反省の工夫であった。

彼に依れば、自ら反るならば物我が対立せず、物我が対立しなければ物我は一体となり、感応の際、已むを得ざるの心を尽くし、人倫庶物も自然に流行する。

即ち、良知が自然に致され、その天則が自然に流行してやまず、万物を一体とする仁の奥義が、得られるとしたのである。

沢瀉は、岩国藩の儒者で、一斉の下に遊学して訥菴・秋陽に会い、そこで始めて国学の非を悟って、心性の学に志すようになった。

特に、秋陽に従って篤く陽明学を修めた。一日悟るところあり、これを陸王の言に微したところ、一々符節を合するに至ったので、遂にその学に帰したと謂う。

彼の陽明学は師の秋陽と異なり、覚悟と自信を旨とし、心の円通活機を求めた。「円通の妙を得れば、即ち言語文字これが障碍となる能はず」と云って門戸の見を排し、それは反観内省・自責反求による自得によって始めて得られるものとした。

草菴は、但馬の儒者で、潜菴と往来して研鑽し、遂に陸王の学に心を寄せるようになった。草菴が、陸王の学を信ずるようになったのは、それが簡易直截・洞然として明快であり、よく程朱宋学の執滞の弊を、救うものであると考えたからである。

良斉は、讃岐多度津の儒者で、二十七、八歳の頃浪華に行って、中斉の洗心洞に学んでから陽明学を宗とするに至った。

良斉は、無我を旨とし、慎独を工夫として訓詁知解、空虚寂滅の論を排斥した。又良知の体を太虚とした。

人々が、我が中なる霊の独知に従えば、我欲は銷尽して無我になり、万物一体の生機が自ら生ずる。虚で無我なのが宇宙の体、そこに、万物一体の正機があると述べた。

明末の思想界も、最後に敬菴の門人劉念台が出て、一段と光輝を加えるに至った。念台は朱子学を通過した新王学者という事ができよう。

何故なら念台は、王学の中に蘊まれている血脈生命を開発して、我が学を形成していったからである。

血脈生命を重んじた念代は、性を掲げてこれをこれを題目となすことを嫌い、これを心体として説いた。それは、さもなければ性は血脈生命を失って、支離空蕩に陥ると考えたからである。

念台がいう心体とは心の存主であるが、念台によれば、それは心の主宰一物ではなく心の主宰であり、それ故に主宰即流行となるのである。

念台がいう心体とは心の在主であるが、念台によれば、それは心を主宰する一物ではなく心の主宰であり、それ故に主宰即流行となるのである。

従ってそれは有無合一・有無無間の至微の枢紐である。故にそれは又、未発であって而も存発一機のものであると。

念台はこの心体、即ち心の存主 心の主宰を善を好み悪を憎む、いわゆる好悪の意に求めた。念台は、このような意を心体とする事によって、心は定向を保持できると。

これによって、無の虚寂に淪み有の任肆に流れる弊から脱し、一原無間の機微を得て、真の主宰としての、面目を保つことができると述べた。

このように念台が、従来巳発とされた意を未発とし、これを心体と見做すに至ったのは、心の血脈生命を重んじて、それが支離外馳となることを、極力憂えたからに外ならない。

意を心未発体とした念台は、これを、心の初発としての念より区別したが、意念の別を明らかにすることによって、儒を蔽う仏老の陰翳を払拭することが出来るとした。

念台によれば、楊慈湖 程伊川 朱晦菴 王陽明もこの点に明らかでなかった為に、結局念頭の起滅するところに実地を求めて、遂に支離空漠に陥るを免れなかったと。

意を心体とした念台が、誠意をもって学問の符としたことは云うまでもあるまい。誠とは念台によれば、陽明が知の真切篤実とした行いの別名で、こゝに工夫の主意があるのであると。

念台は嘗て慎独を重視して、厳格な反省的工夫を用いた。しかしその慎独説も後には内容に変化を生じたが、誠意を学の宗旨とするに至った。

それからは、古人の慎独の学は意根上に尋討して始めて得られるとし、慎独も誠意を主脳としなければ、仏の陥空のなる惧れがあると考えられた。

又、「大学」も誠意を主脳して始めて、主脳一貫した渾一のものとなるのであり、さもなくして誠意以外のものを主脳とすれば、その渾一性が失われて支離に陥るとした。

故に、朱子の「補伝」を非とし、朱子が、敬をもってこれを補おうとしたのは贅であるとし、また陽明が主意を良知に求めたのは穿鑿に近く、李見羅が止修をもって主脳としたのは支離支に近い。

これらは、皆「大学」の誠意の旨に通ぜぬために起こったのである、と述べた。蓋し念台の誠意説は、陽明の本体工夫合一の主旨をよく発明したと云えるが、実は、陽明の好悪の意についての論や、知行合一説の真髄微に入るところを発明して得たものであった。

思想家として、優れた幕末の新陽明学者・新朱子学者を挙げれば、彼等は、大義清義を張目大言したり、意気に激し客気勝心に任じ功業気節に志を馳せて、世を革新しようとした。

そして、尊王攘夷を標榜し、国体の護持を力説したりして、国事に狂奔するような、云わば行動派に属する学者とは異なっていた。

所謂、宋明の心性の学を講じて、道を明らかにする事を我が使命 学者の第一義とし、それによって、世の風教を正し国難に対処しようとした。

彼等によれば、上のような行動も深密な心術、真切な実行を用いぬ限り、外道義に名を仮り、内、権詐功利に陥るを免れず。

結局、国家の元気を傷い、世に綱紀を敗り、却って生民を途端の苦しみに陥れるようになると。

幕末の学者は、道学を掲げて或いは心性の学を説き、或いは性命の学を述べたが、又多用博識 訓話泛濫の弊や議論弁析、考索知解の弊に陥ることを極力戒めた。

――――例えば良斉は、陽明学を奉じて読書が玩物喪志となる事を戒め、朱子も良知の識取を事として多聞博覧を嫌ったと述べた。

世に経解の人は多いが、文学ばかりで真の実効は覚束ない。故に、訓詁の精を求めるよりも大略意味が明らかであれば、着実に体当し 実修実悟しなければならない。

潜菴も、多読の害を指摘し、仏老の虚無寂滅の論と共に、儒者の口耳の学 章句訓詁の見を排して実践の要を説いた。

体認自得を要とした草庵は、従って高妙の論よりも、平実で咀嚼に勝える語を喜んだ。故に、議論の場合でも標榜を忌み圭角を嫌った。

幕末の、新陽明学者だけでなく、新朱子学者も右のように多聞博識、訓詁貪濫の弊を述べ、議論弁析・考索知解の害を説いたのは何故か。

彼等によれば、専らこれに任すれば、捕風把影・懸空恍惚の弊に陥るか、さもなければ利害得失の間、計較の心を生じて功利権詐に陥り、覇学の為に赤幟を樹てるを免れないからである。

故に秋陽は、自警三条を掲げて「訓詁の陋に落ちず、門戸の見を立てず、知解の精にそらず」と述べたのである。

林良斎の学は、無我をもって旨とし、慎独を功夫とする。故に春日潜菴への書簡の中で、「おもへらく、聖人の聖人所以のものは無我のみ。」

「而して、吾人の一点の独知は天機の自然にして、人力得て与からざれば、すなはち又無我なり。その有我なるものは乃ち意欲のみ。」


尚、本日より、三・四日旅に出ますので、御海容の程願い上げます。

良斎によれば、人々がわが中なる虚靈の独知に従えば、我欲我意は消尽して無我となる。無我となれば、万物一体の生機が生ずる。

何故ならば、虚にして無我であるのが宇宙の体であり、そこに万物一体の生機あるからであると。故に慎独を要としたのである。

勿論、良斎のいう慎独は、本体即工夫たるものであるが、良斎は工夫に重点を置いた。良斎が慎独工夫として求めたものは、静座収斂による反観内省であった。良斎によればこれが又虚霊の生機に充養する致良知の工夫であると。

吉村秋陽:「学ぶものは自ら反のみ、切に物と対をなすべからず、百般の病痛みなこれより生ず。それ物と対せざればすなはち物なし。物なければすなはち物我混同し、その感応の際、ただ一箇の已むを得ざるの心を尽くす。」

「考はもって自ら考となり、悌はもって自ら悌と成る。殊更孝を欲し悌を欲するにあらざるなり。日用万変わが操るところは一、自ら反るとはかくの如きに過ぎず」。

秋陽は弟子に対しては、朱子の章句集註によって諄々と講説し、陽明の書に至っては、学者が篤く信じて懇請するのでなければ、妄りに講説しなかったという。

秋陽によれば、学問の道は去欲在理の反躬践履にある。朱王の学入門下手の処は異なるも、この実効を旨とすれば一に帰する。只、我が力量の及ぶところに随って、その孰れかを選択すれば良いのであると。

方谷は、「王氏の学 誠意をもって主とす。致良知は、即ち誠意中の事のみ。然れども必ず格物をもってこれに配す。蓋し致良知にあらざればもって、誠意の本体観るなし。」

「格物にあらざれば、もって誠意の功夫をなすなし。二者並進して意誠なり」。といゝ、誠意を致良知の主とし、格物をその実地の功とした。

方谷によれば、これによって始めて陽明の致良知が、恍洋茫蕩の弊から脱して縝密となるのである。

故に、専ら致良知を掲げその簡高に任じ、その実効を用いずしてこれを虚説することは、陽明の本旨に悖ると。

碩水:学問は染み入ることが大切である。

瑞山は、幕末の新儒学者の中でも最も透徹した思想家の一人であるが、一般に日本思想史家が取り挙げたものは、新儒学者の中では主として、政治と社会の舞台に目覚しく活躍したものだけで、思想史上に重要な地歩を占めると思われるものについては、これを軽忽に付している。

そのために彼らの朱子学・陽明学の思想の神髄が理解されず、その価値さえも知れない状況になった。

彼らの思想は、中国 日本ないしは朝鮮の儒学思想上から見れば、誠に注目すべきものであって、心性の学すなはち新儒学の発展の上から見ても、その末尾を飾るにふさわしい者である。

池田草庵:「ああ茫々たる宇宙 議論是非、何れの時にかして定まらん。安危利病何れの日にかして明らかならん。」

「紛々擾々、何れの処にかこれ脱駕の地ぞ。願ふところは、すなはち我が輩竊かにこの学を下に講じ、奔発勉励斃れて後止まん。」

「幸ひにもって、この一種子を天壌の間に存するを得ば、すなはち庶幾はくは嘉苗待ちて殖せん、或はもって世道人心に裨するあらんか。」

「これは、これ吾人の深く心に期するところにして、将に手を藉きてもって、天地神明に謝せんとするもの也。」

草庵;「元来宋儒の学は、漢唐訓詁の弊に鑑みて内面に向ったが、仏老の虚弊を脱する為に含湖曖昧を忌憚しようとしたので、格物窮理の学を掲げて細密な分析を事とするようになった。」

「その結果外面に馳せて、支離決裂に向わざるを得なくなったのである。其の後興起した明儒の学は、この流弊を救う為に易簡直截を主として、渾融と成らざるを得なくなったのである。」

「その結果、おおむね自信過剰となって、猖狂の弊を生ぜざるを得なくなったのである。これも時節の因縁で、現勢の然らしめるところであり、各々苦心がある。」

「故に、門戸の見を撤去し、その説の跡に拘泥したり、その説を固執したりするようなことをせず、互いにその意のある所を理解して工夫を精微にするならば、大中至正の旨を得る事が出来るようになる。」

「論説の異動も、偏弊に的中するものとなって、わが警省に役立つであろうと。又両儒は本来同じ志を持し、共に聖人と成る事を期していうのであるから、席を同じうして虚心坦懐、共に誠心を推して相悟るならば、紛争を生ずる筈がない」と。

瑞山は、天下の事物の理を究明してその本源、すなはち、太極の全体に透徹するという正丈な規模を立て、猛志をもって、縝密深潜な体認自得の工夫をしっかりと加えなければ、見識も高妙とならず。

結局、卑汚卑賤に陥って、小人となるを免れないとし、真切な主静体認の窮理の要を説き、且つ此処に朱子の本領があるとして、朱子学を宗旨としなければならない、と。

栗水は、心性の学を修めて、道義を樹立することこそ救世の大義であるとし、権謀智弁は却って国を乱す禍いとなるものであると考えた。

国歩艱難に際しては、憂国の士が得てして功業や事功に走るのは、止むを得ないかも知れない。当時、陽明学を奉ずる者の中には、陽明の功業に思いを寄せ、それを現世に応用しようとする徒輩も出たようである。

併し、方谷は彼らに警告を発し、彼らは真に陽明の功業を理解せずに功利に堕し、却って乱賊の徒となっている。

功業気節をして、功利に堕さしめるものは何か、それは心性の学に基づかずに、客気勝心に駆られる処にあるのではなかろうか。

この、客気勝心を脱する事が出来なければ、心性の学を修める事は出来ないであろう。故に、この客気勝心の克治が心性の学において、切要とされたのである。

気象の圭角がある事は、心性の学者として特に戒めるべきであった。潜菴は草菴の知己ではあったがこの欠点があったので、草菴はむしろ水辺村下で講学する事を勧めた。

又、潜菴に客気勝心があって、傲然として世古を忽せにする風があるのを忌んだ。

訥菴は、学者の気象は寛裕温柔 含弘退譲でなければならないと云い、気質の弊は克去し難いとした。

碩水は、涵養克治の功に乏しく、褊固 執拗 好勝の弊 急迫苛刻の気象があるのを責め、「須らくこれ慈祥和気を本となすべし」という朱子の訓。

学者は先づ須らく温柔なるべし。温柔なればすなはち学を進むべし」という張子の訓。「犯さるゝも技せず」という顔子の訓。

「辞気を出して鄙倍に遠ざかる」という曽子の訓を掲げて、懇々と碩水を戒めた。草菴も碩水には文字議論に圭角があり、持敬の学問に背くところがあると指摘した。

そして、気象が従容としておらず、浅近迫切であれば深造自得には到れぬ。故に、兎も角主張や誇張の気味を去り、圭角をなくして素直に道理を講ずれば、気象も穏当になると云って、たしなめている。

碩水は晩年、壮年の頃の気象を反省して、「客気はよくないぞ。予は少いとき客気が多かったぞ、理屈がよいでも客気があってはいかんぞ」と述べている。

碩水は、晩年気象も洒落 深造自得 悠々自適の境に達した。草菴は「胸中涼快」と云った念台の辞世の時の語を絶賛して、その深造自得は、浅学の窺う事が出来ない真境であると述べたが、酒落の気象は、心性の学に志す者にとっては最も理想とする所であった。

草菴に依れば、生民の安危外に国家の大計はない。生民の安危は、只綱常倫理の確立に懸かるものであるから、心性の学を講ずる事が、天下の民を途端の苦しみから救い、国家の長久を保持して太平を開く良図であると。

要するに、心性の学を講明して道理に通ずる事が、時勢に対処する根本で、気節や気概はすべてその自然の発露となるべきであり、本末の別を忘れてはならないと謂うのが、草菴の立場であった。

草菴は、五十歳の頃まではよく静座に勤め、殆ど毎日一炷香から二炷の間静座し、時には、それも朝夕二回に及ぶ事もあり、又三炷香から四炷香に及んだ事もあった。

草菴に依れば、このようにして静修をしなければ、見解も開けず、経書を読んでも聖賢の気象を自得する事が出来ず、仮令天下の事理に通じても、利害得喪に際しては心に動揺を来して道を失うに至るとした。

故に、黙坐収斂に依って心の点検をするように求めたのである。草菴は、この様な静修の功を以って、「丹符一粒、鉄を金になす霹靈の手段」とした。

程朱と陸王の両学を比較して、その特色を極言すれば、前者は窮理を本とし、後者は尽心を本とするものである。

瑞山も、「学静に本づかざれば、即ち功夫手を下すの地なし。静も愈々定貼なれば、即ち愈々果決なり」、と。

静中愈々無事なれば、すなはち動上愈々各々当たる。静は動を涵し体は用を含む、その功夫本立ちて用に達す。

瑞山は、若い時一夜静座して、程明道の所謂「満腔これ惻隠の心」なるものを悟ったと謂う。

瑞山の静座が、如何に精切深密で会ったかは、静座中に線香の灰が落ちるのを、一々胸中に感じたと謂う一事からも、推察する事が出来る。

人間の知恵が、深くなれば痕迹を留めない。丁度冬になった万物修蔵 静まり返っているように、これこそ声も無く匂いも無き人心の面目宇宙の絶対性。天地物を生ずるの心といったものである。

其処には、静の儘無限の動が含まれ、内界のの立場が直ちに外界の立場となる。逆に活発な外界の立場は、常に静寂な内界に支えられて、始めてその真義を知る。

即ち、生活の共同性が生じ、天地物を生ずる心に復帰する。静座に依る深智の涵養とは、此れに外ならない。

智蔵の秘旨を知った瑞山、愈々本領一段の工夫に力を注いだ。故にいう、本領巳に明らかとなり、推して世務に応ずれば、大半は刃た迎へて解けん。その余は、一件一事に遇う毎にすこしく問ひ去れば、すなはちまた力を費さず。

義利の間は、将に全力を尽くして以ってこれを弁ずべし。君子となり小人となるは全くこゝにあり、と。碩水は、義を厳守して世俗の功利を最も忌み嫌った。

志士仁人は、幕府大名に仕えず、古人は、四十にして仕うるも、吾れ三十九歳にして禄を捨てゝ山に入る。

良斉は、終世妻を娶らず、読書尚友を事として生涯を終えた。良斉は幼い時から読書を好み、講学に従事したが三十歳になって始めて、身心のの学に志すようになった。

仲斎先生:精神気魄極めて盛んなり。時に、昼夜寝ねざること十余日なるも精神故の如し。常には酒を飲まず。飲めばすなはち斗升を尽くして、平日に異なるなし。

飯は、一度に十杯位。凡そ路を行くこと三十里。夜は八ツに起きて天象を観る。門人を召して講論するに、冬日と雖も必ず四面門戸を開いて坐す、門人みな堪へず。然るに中斎依然として以て意となさず。

その、気魄の人を圧する門人敢て仰ぎ視ず。その家にあるや賓客来たりて虚日なし。又自ら起って門人に武芸技を教ふ。終日多事なるもその読書該博なることかくの如し。抑々又怪しむべき也。

一般に陸王学は、他の学派よりも孝を重視する傾向があった。殊に良斉の学問の源となった王陽明は、孝の自覚によって異端から聖学に転じた位である。

それ、孝は天の径なり、地の義なり、天の行なり。

聖人の学は、無我をもって的となし、慎独をもって功となす。聖賢時に因りて教へを立つ、その言同じからざるも、その要領帰宿を求むるに、独り事あるにあらざるきなり。

学ぶ者、いやしくも徒らに博く渉ってその要を知らざれば、偶々傲を長じ詐を滋すに足る。固よりその有我私のみ。

人々が、わが中にある虚霊の独知に従えば、我欲私意は消尽して無我となり、万物一体の生機が自然に生ずる。

潜菴の草莽への送序;大いになすあらんと欲するの志を抱き、その智識財力、またもってその志に酬ゆるに足るも、迹を田野に届け、書を泉石烟霞の間に読む。

貧富得喪、栄利寵辱一も心胸に芥滞するなきもの、方今の士予子敬一人を観るのみ。子敬の初め京に来たるや、予一再中、年今が弱冠ならず。

形貇短小にして目光閃々として人を射、議論縦横恢々乎として、前に古人なきもの如し。予特に驚嘆せしも、いまだこれを許さず。

既にして、敬廬を松尾山下に結ぶ。窮苦寂寞なるも少しもその志を変ぜず。予その廬を訪ひてその学を叩くに沈々掩抑して、その光を顕さざるも、精悍の気馴るべからず。

子敬は、異時明宝出づるに遭ひて、その志を行ふを得ること、いまだ知るべからざるなり。

僕の交友中、相知ることの深きは、良斎より深きはなく、交わることの旧きは潜菴より旧きはなし。

良斉の草菴が来訪したときの模様:偶々甲辰の秋、池田子敬但州より来訪す。その人となりを観るに、外撲にして内敏、着実に己がためにする心あり。

僕甚だこれを悦び、以って得難しとなし、すなはち文を締ぶ。これより書札往来殆ど虚時なし。

草菴一斎を来訪したときの模様:今回愛日楼(一斎一の塾)に行く。講釈日なり、書経多方編中、二三節講義を聞く。

本文を読み註を読み、言語極めて枝葉少し、然るに、別に開発感動すべき処もなし。言の簡明なる処、又弊もこゝにあり。聴講者凡四五十人、中間眠る者多し、座中甚だ厳ならず。

嘉永六年、米韓の来航以来人心恟々とし、幕府又政を失い、国内は騒然となったので、儒者の中にも国事に狂奔する者が出た。

しかし草菴は、廟堂の上には成算があるはずであるから、国家の大計については、書生が軽々にこれを論じてはならぬと戒めた。

事件の委曲を知らぬもの、言は機宣にあたらぬから、妄りに言を発してはならぬといゝ、外侮に対しては、講学して綱常を明らかにし、士風を励ますことこそ、当世の急務であるといって講学に専念した。

草莽は、世を変革するより、幕府が先ず朝廷を奉じ、諸侯を統率して世の秩序を確立し、綱紀を正するようにするのが肝要なり。

士農工商もまた、各々その分を守り職に励み、相共に国家の富強を図り、国威を発揚して外威に対すべきであると、云う事を述べてこれを拒絶した。

草菴から潜菴への書翰;あゝ茫々たる宇宙、議論是非、何れの時にか定まらん。安危杮病、何れの日にか明らかにならん。

紛々擾々として、何れの処か終にこれ脱駕の地なるを知らず。願ふところはすなはち、わが輩竊かにこの学を下に講じ、奮発勉励 斃れて後やまん。

幸ひにもって、この一種を天壌の間に存するを得ば、すなはち庶幾はくば嘉苗待ちて殖し或ひはもって世道人心に裨するあらん。己は、これ吾人の深く心に期して手に籍きてもって、天地神明に謝せんとするもの也。

草菴の時政に対しての考え方は、「平心和気を旨として、各自が本分を尽くせば、天下の紛擾は立ちどころに止み、生霊の塗炭も救済できる」と。

故に、「利欲を逐うものは勿論の事、当時の豪傑有為の士に対しても、意気に激し功名を競うて却って政を乱し、その為に生霊窮民その害を受けて、塗炭の苦しみを嘗めている」と述べて、彼等の行動を非難した。

の風貌:麗明形色蒼く目光榮々として、音吐鐘の如く偉丈夫の表なり。その言を聞くに及びては坦然平易、敢て奇怪にして人を駭がする語なし。

吉村先生に之くを送るの序:秋陽吉村先生、夙に王文成の良知の学を奉じ、潜悟黙修すること寒暑の久しきを歴、契然として深く得るところあり。

予もまた、屡々講席の末に与りて、その学をなすの要を聴くを得たり。先生の学、践履を重んじ体認を主として、一切の空虚寂滅の説をもって、聖賢の旨にあらずと成す。

故をもって、従遊の士その学いまだ至らざるといへども、絶えて軽薄浮靡の能なし。これあに言語口舌の能く致す処ならんや。

嘗て、藤樹書院に往き「古本大学」を講じたが、聴講者みな感激して感泣したという。

秋陽は、始めは詞章の学を修めたが、中年それを悔いて性名心性の学に向った。しかし始めは程朱に従ったが一斎に従学して研鑽を積むに従って、王学を信奉するようになった。

詞章の学を排した秋陽が、訓詁の陋に落ちないように警め、晩年になるにつれて特にそうであったが、一切玄虚の説を排して、実修実悟を旨として知解の精の弊害を痛感したのは当然である。

僕の途をに問ふ、その最も信じて易ふべからずとなすものは、特に致良知の三字あるのみ。而してその他の説、前後同じからざるもの如きは、また敢へて輙かにこれが軒軽をなさず。

蓋し、の言至平至易にして、その旨深奥、夷の思ふ所にあらざるものあり。いまだ窺測し易からざる也。

嘗て、妄りに意へらく学は自得を貴ぶ。大綱己に立ちて力を用ふるの方を知れば、自己の見るところに随ひてこれを成す。

善くを学ぶもの、或ひはかくの如くなるべきかと。……学問の要は、只人欲を去って天理を存する反躬践履にあるから、朱王の学、その入門下手は異なっていても、我が力量の及ぶところに随って選択すればよい。

故に、秋陽はは宗とはしたが、一方に於いて、朱子学を真に理解するように人に求めた。

姚江の学は、独り利刀の如きのみ。これを善用せざれば、すなはち手を傷らざるも稀なり。

抑々、朱子の説は道のなり。ただ躬に反りて力践して、しかる後始めてその味を知るのみ。

もし、徒にその言語を守りて己に関わることなく、以って学はかくのごときのみといえば、膏腴も又なほ糟粕のごときのみ。

学ぶ者この編よりして、朱子に訴るに果たしても膏腴となすか。秋陽の宗旨は何か、一言で示せば自反。

すなはち、反身無物もって良知を致し、天則の已むべからざる、自然の流行万物一体の仁の発現求めるにあった。

秋陽は、を宗とするけれども涵養践履、すなはち実功を重んじた。秋陽が宋儒のいう敬の一字をもって聖人相伝の一滴血とし、懲忿改過をもって人生の第一義とする所以は、此処にあったと云わねばならぬ。

秋陽は、過失に厳格であったばかりでなく、人の過失に対しても厳格で、よくこれを面責したので、親戚故旧からも忌み嫌われた。

しかし、よく張黄横渠のいう気質変化の工夫をしたので、晩年は、人に接するに温容をもってするようになったという。

秋陽は、訥菴や潜菴などのように、時勢の変化に敏感に対応して政治運動に走ることは、寧ろ、儒者の本務を失うものとして、それに対しては批判的であった。

訥菴は、世事に熟した人物、英敏ではあるが機心が多い。これでは実修などは一切できにくい。故に、朱子を信棒するといっても、その心底は不明である。

彼の学は、姚江念台などと次から次へと移り変り、一向定着しない。而も議論だけに日を過ごしている。従って、いわゆる窮理の論も把風 捕影 霸学のために一幟添えるに過ぎない。

故に、俗流の朱子学者に堕して自ら気付かないのである。これでは、聖学に益にはならぬ。

東沢瀉;天資 強敏剛健 音吐雄壮 眼光爛々として輝いていた。英偉果敢の気象に富んでいたが、晩年は風月を娯しみとし、胸懐灑落 宋の邵康節、明の陳白沙の風があった。

幼児の時は腕白で読書を好まなかったが、十歳になって始めて学に志し、寝食を忘れるまでに至った。

十四歳のとき詩文を修め、先輩の大宮錦水・玉乃五竜などと結社を起こしてその研鑽につとめた。

社中では、最も年少であったけれども、一句を出すごとに一座を驚かせたという。故に一同みなこれを畏敬した。

我、少時誤って志を禅に弱らせ、頗るみづから信ず。東遊に訥菴先生に謁するに及んで、一々その説破するところとなる。又屡々秋陽先生を広陵に訪れ、しかる後わが志始めて定まる。

安政・万延の頃、沢瀉は修学のため屡々出遊し、東西に奔走して諸賢を歴訪しその門を叩いたが、各々一説を持して互いに非議していたので、沢瀉の志向するところも、確立し難い有様であった。

依って、一室に端座凝思したところ、融合貫通の処に達し、忽然と大悟し、結局王学
帰宿とするに至ったのである。

それを、秋陽に質したところ、秋陽ももこれを印可した。秋陽は一斎門下の長老で、人となり沈毅重厚 威望が高く、軽々しく人を許さなかった。

併し、沢瀉に対しては、特に情誼をもって接した。秋陽が沢瀉に贈った詩の句に「わが三秋の思ひを慰め寸心相ともに論ず」とあり、沢瀉も「秋陽先生学力精微のところ、先師一斎といへども恐らく及ばず能わず」と云っている。

汝身を謹み行をつゝしみ、誓って家声をする無かれ。然れどもその義に当たりては、家を亡び禄を失ふも毫もこれを恤ふべからず。

これ即ち、それ家声隕さざる所以なり。われ常にこの心を存してもって身を終ふ。汝謹みてこれを記せ。

沢瀉は、門生の教授に二つの方法を用いた。順法と違法とがそれである。順法とは、王陽明の「訓蒙教約」いる教授法である。

和風甘露が、草木を発芽させるように、和気悦楽の中に性情を涵養していく方法であり、違法とは、禅家が用いるような方法で、秋霜烈日のように水火の苦しみを与えて、それを鍛錬する方法である。

われ只、一壷酒一架書常に座右にあるあれば、もって歳を終ふるに足る。

春日潜菴:十歳の時近衛公の諸大夫、佐竹甲斐守について句読と書法を学んだが、性魯鈍で、師を驚かせるほどであった。やがて、昼夜勤苦 数ヶ月のの間に学業長進し、同輩これに及ぶものは無かったという。

余いまだ弱冠ならざるとき、亀山の富松秀年と共にては書を読む。悲壮凄涼、激昂慷慨し、轟烈の際に至れば、二人机に憑りて奪憤跳躍し、声涙ともに下る。

潜菴は二十七歳の時、「王陽明全集」を得てこれを熟読し、沈潜反覆その源流を究め、遂に陽明学を篤く信俸し、道徳気節事業はみな良知より出ぬものは無いとした。

潜菴の治政は、厳正果断 そのため姦人はみな戦慄したという。朝廷その功を嘉し枢機枢機の官職に任じようとしたがこれを固辞し、自ら仕途の道を絶って講学に育英をもって、我が楽しみとした。

潜菴は、容貌魁偉 眼光は炯々として人を射、音吐洪大であった。天資は剛邁俊英 事を処するに厳正明確であった。

身の行いは厳格で、子弟門生には君臣のような礼を以って相対したけれども、人に接しては和気靄然として、その心を動かすに足るものがあった。山田方谷は、潜菴を評して「厳毅方正、伊川先生の風あり」と。

姚江の良知の教へは、真に千古の秘を闢く、簡にして尽くせり。所謂、尽くせりとは本体即工夫の謂ひなり。

予愚不肖、力をこの学に用ふること蓋しこゝに二十年、始めてこゝに見るあり。往々これを以って人に告ぐるも信ずるもの鮮し。あゝ灯を火を覔むるものか。

幕末の朱子学・陽明学、即ち朱王学の一つの特色は、な体認自得を要として、これを切論した一派の学者学あ者が出たことにある。

何故、このような真切な体認の学が求められてか。それは彼等が訓詁に堕し、支離に陥った当時の朱子学(官学官の学)蔽を痛感したからである事は論ずるまでもない。

又、幕末騒擾の世にあって、真切な体認の学の要を身を以って、痛感したからでもあり、又、彼等が同じ様な動乱の世に処して、深い体認の学を以って、世を憂え国を救おうとした、明末の朱王学者の説を熱心に受容摂取したからでもあろう。

この一派の朱王学者は、心身上の体認の学のみが、聖学の正法眼蔵 真血脈であって、これのみが真に世を救い、家国の命運を左右するものであると信じ、弊れて後やむの決意を以ってこれを講じた。

彼らの、体認や自得の深潜縝密さは、当時、一世の泰斗として四方から欽仰された、佐藤一斎を凌駕するものと云って良い。

それだけに、幕末儒学の学術思想史上に遺した彼等の足迹は、利用すべきものがあると云わねばならない。

林良斎の大塩中斎観:先生は賢人であって学を好み、陽明の致良知の学を信じて、意必固我を去る工夫を行い、心が太虚に帰することを求めた。

嘗て、大阪城市の吏であった時、善を育て悪を除き、わが職責の達成と窮民の救済とに尽力したので、威名は赫として輝き人々より畏愛された。

一旦、脱然として職を辞するや子弟に学を講じ、困逸無事の時は江湖の間に逍遥し、常に天下の英才を得て、これを教育することを楽しみとした。

これは思うに、心が太虚に帰し、万物を一体となすものでなければ、なし得る事でない。

良斎こそは、中斎にとっては教育することを以って、楽しみとするに足る天下の一英才であったのであろう。

それだけに、中斎の良斎に対する期待も愈々厚く、わが主著の一つである「古本大学刮目」の跋を依頼している。

良斎は中斎の弟子で、その正宗を伝えた学者であるが、両者の性格 気質 風貌が異なっている為か、学風にも自ら多少の差異がないでもなかった。

池田草菴の記する処によれば、晩年の良斎は容貌清癯、風神疎 鬚毛を除かず、庶民の服を着し、蕭然として野人のようであった。

当今、王学を口にするものは、徒に性命の説をなして高玄を論じ、下手入門の際、真切な反観内省を事とせず、自らは王学の宗旨に明らかであるというが、実は潰敗して王学の真を失い、甚だしく流弊を生じている。

その中にあって良斎は、自訟慎独の功を厳にして、自ら光明酒落、胸中類なき境にある。而して志操は人と異なり、俗学の紛乱を厭うて易簡の微旨を喜びその識見また不群。

人と応接するに際しては、謙虚礼譲・沈静抑畏、敢えて人の先とならないが、自ら毅然として犯すべからず気象があったと。

―――良斎と中斎との問答録――
陽明の根本精神をよく理解すれば、陽明の説は時弊を救う為のもの、即ち「病ひに因りて薬施す」ものであることがわかる。

静中では悟ったように見えても、事変に遇えば往々困頓として心は生意を失う。心が動静に徹して常に生意を持ち、常に、活きるようにするにはどうしたらよいのか?

答え;生意がないと自覚するものは良知。この良知の明覚が昏くなければ生意が生ずる。工夫は静座によるよりも、動処に格物到知するのが真修。

陽明は、若し良知を明らかに認めるならば、聖人の気象は聖人になく我にあると云ったが、この場合「若し」の二字が重要である。陽明は千死万難を経て良知の旨に達したのである

(43 43' 23)

  • 最終更新:2017-12-30 04:33:11

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