第五章 言志録(ハ、王陽明に学ぶ)

去れば縝縝格物は、聖門の徹上徹下の工夫である。念菴のみならず陽明もこれを離れ得ない。格物とは陽明もいうように心 知 意の物を格すことで、これは慎独に外ならない。

慎独を外にして良知を語れば、大病に坐して識者の笑いを招く。良知は原来、来を知り数を極め事物に感通する至情、至変、至神のものであるが、それはその体、太虚なるが為である。故に、太虚でなければ真の良知を語る事は出来ない。只、慎独によって太虚に至るのは容易ではない。

良斎の学は無我を旨とし慎独を功とした。良斎によれば、独とは一点虚霊の独知、即ち良知でこれは自然の天機であり、その体は虚故に無我である。

虚にして無我なのが宇宙の体である。故に我欲私意を消尽して無我の体に復すれば、万物一体の生機は自ら充養発用する。

これが即ち慎独である。聖賢の立教、各々その説を異にするが、その要領帰宿は慎独にあると。こゝにいう慎独は、勿論本体工夫合一のところと考えられた。

故に慎独とは、わが内なる虚霊の独知に従って、我欲私意を消尽することであった。又良斉がいう慎独は、勿論致良知の工夫に外らないが、良斎は、その良知も生来観を愛し、兄を敬するの情を最も真切なものとした。

良斉は、実修真悟を切要としたので、読書が玩物喪志となることを戒め、朱子も良知の識取を事として、多聞博覧を忌んだ。去れば燦

又、学には分析と綜合の二端があるが、何れも弊害がある。併し「今日は分析の弊」といって、分析の弊に陥ることを戒めた。

中斎は、動処の工夫を重んじ、良斎は静処の工夫を重んじたのがその一例である。又中斎の学識は良斎もいうように該博で、且弁才があり筆舌に長けており、それだけに体認実得の深切さに欠く嫌いでもなかった。

良斎は、却って学の宏博を誇る世の儒風を厭い、それが玩物喪志に陥るのを憂えて、洗心蔵密、主静体認を旨とした。

特に良斎の静座は、真切を極め、草菴の畏敬仰慕するところとなった。故に体認の学という点から見れば、良斎の学は中斎よりも深潜縝密であるといってよかろう。

併し結局、良斎は中斎の精神骨髄を得た学者であったという事が出来よう。良斎は中斎を評して「文成(陽明)に於いては、その堂に入るだけではなく、既にその室に入っている」と云ったが、この評は中斎に於ける良斎にも当て嵌まるものである。

篤山は、良斎より四十歳の年長者で、二人の間に学術上の論争も行われたが、良斎は若輩にも拘らず老宿儒に対し、堂々の論陣を張ってその学に鋭い論駁を加え、一歩も譲らなかった。

良斎を始めとして、体認の学を標榜した幕末の朱王学者は、道学を掲げ心性の学・性命の学を説いたが、それが多聞博識・訓詁泛濫・議論弁折・孝索知解の弊に陥ることを特に戒めた。

良斎は、読書がいわゆる玩物喪志なることを戒め、朱子も良知の識取を事として、多聞博覧を嫌った。

朱陸の別を明弁した明末の陳清瀾や、清初の陸稼書などの朱子学は、真正の朱子学ではないと云ってこれを批判した。

又、心性学が訓詁の学となることを排し、その立場から陳北溪・饒双峰の朱子学を非難した元の呉草盧の学を高く評価した。

良斎はなお「今日は分析の弊」と云って、特に分析を事として専ら知識を弄し、議論を好む害を指摘している。

良斎の師、大塩中斎や王門の銭緒山に従って良知の体を太虚とし、虚なるが故にそこには生々霊機がある、これが良知であると考えた。

良斎によれば、この虚霊の独知に従えば、私欲私意は消尽して無我となり。無我となれば万物一体の生機が自然に生ずる。

何故なら、虚にして無我なのが宇宙の体であり、そこには万物一体の生機があるからであると。良斎が無我を以って学の旨とし、慎独をもってその功夫となすゆゑんはこゝにあった。

篤山の論、即ち陽明のいう致良知は、朱子学のように事物について一々理を窮める事をしないから、千変万化の事象に対して的確に処理することが出来ないという、篤山の論に反駁を加えたもので、下記はその論旨―――――――。

「論語」のいうところによれば、聞見の知には疑殆があるから善悪が混じり、従って、それによって窮められて理も当然善悪が相混じる。

良知は、天の自然に基づいて善悪を明弁するから、これを本として学習すれば、虚円不測の神を全うし、物理人事の変を尽くすことが出来る。

朱子も学問に於いては、「明心」が第一であるという。先生の論に従えば、陽明に罪を得るばかりでなく、朱子の罪人にもなる。

致良知は、直情径行の弊があるとすれば、それは理解が足らぬからである。致良知といっても学慮思為を禁ずるのではなく、それが固有の天に基づいて人為に渉らぬに過ぎない。

良知は天則、即ち理である。陽明はそれを不動といったが、それは聞見思為が理を主とするからで、それは、程明道のいわゆる「動もまた定、静もまた定」程伊川のいわゆる「体用一源」のものである。

故にその妙用は、至深を探り至動を尽くして而も作為がない。従って良知を致せば「易」に「義を精にして神に入る」ことができる。

又、己私を克治して天理に復することができる。その結果孟子のいわゆる浩然の気が生じ、情が性に帰するようになる。故に気質に任じて直情径行となるような事はありえない。

学問の要は、根本の生機を認識して、義理でこれを培養するにある。故に、物の理を外に求める学は生機を成すゆえんでない。

五刑の属三千といわれるが、老宿儒でも日常の念慮の微を細かに点検すれば、刑を免れている殆どいないであろう。

たとえ、人刑を免れても天刑は免れ難い。故に「論語」のいわゆる「懐刑」の要は、「自訟慎独」にある。

宋の張横渠のいわゆる「亹々として善を継ぐものこれを善となす」とは、陽明の「四句宗旨」のいわゆる「善をなし悪を去るはこれ格物」の意である。

又、横渠の「悪尽く去れば則ち善因りてもって亡ぶ」四句宗のいわゆる「善なく悪なきはこれ心の体」の意である。

本源は、周子の「太極図説」のいわゆる「無極にして太極」にある。故に陽明の学は周張の学である。

天地は生成してやまず、人は愛敬してやまない。すべては体虚の生機である。孝が天地人を貫く大道である所以は此処にある。

之に依れば、天地の諸象はすべて我の生機に外ならぬ。然るに、人は肉体の我に蔽われて自らを小とする。

故に聖人はこれを憂え、「老」と「子」を合して「孝」の字を制定し、それより「教」「学」「覚」の字を制定し、孝が天人を貫く大道であり、教学はすべてこの孝義を本にするものである事を明らかにした。

孟子に至って不学不慮良知、即ち愛敬赤心の心を掲げてその機要を示した。故に愛敬の生気を充養して、これを肉体の我によって害する事の無いようにした。

その功夫が熟して、一旦豁然として心から太虚に帰するならば、天地の経義は義の経義となる。

孟子のいうように、万物は皆我に備わるようになる。斃れて後やむの志を以って、この学に従事する事が、聖賢の諄々たる教えに報いる所以である。

古今の朱陸同異の論は、皆党同伐異の論で公正を欠く。只、元の呉草廬と藤原惺窩の論だけが当を得ている。

惺窩にすれば、朱子は性が篤実であるから邃密を好んだ。この為に後学に支離の弊を生じたのである。

陸子は、性が高明であるから易簡を好んだ。この為に後学に怪詐の弊を主じたたのである。併し、共に堯舜 孔孟を是、桀紂釈老を非、天理を公、人欲を私とした。

蓋し聖賢は、皆人の資質に応じて入門を示したに過ぎぬ。故に程子の「居敬」、朱子の「窮理」、陸子の易簡」、陽明の「良知」は皆同じであると。故に程朱陸王の説は殊途にして、同帰であり、何れも皆聖学である。の教えが

良知は天理、天理は不学不慮、それは天に基づき人を超えたもので、依拠するところがない、故に中である。それが時において宜しきを得れば時中である。

故に、良知は天理であって中、中は心である。中庸の未発已発中和の説はよくこの宗旨を示し、孔子の秘儀を明らかにしたもので、それによって天理を外物に求め、中を物にあるとする誤りを正そうとした。

良知は無心であるから、真に是非を弁ずるこ事が出来るのである。それは天に基づくからである。その体は無声無臭であり、隠微で見る事は出来ない。

篤山の良斎への反論―――――――

聖人は、学の博からぬことを憂えて問学につとめる。故に、宇宙の善が皆聖人に帰するようになるのである。

人の本心は、朱子もいうように虚霊不眛、衆理を具えて万事に応ずる。知が虚霊不眛であれば、衆理を具える心の体を全うし、万事に応ずるの心の用を大にする事が出来る。

人は、気質人欲に蔽われるから、心の全体大用が得られないのである。居敬を主とする「小学」窮理を尊ぶ「大学」を教えがある所以はこゝにある。

居敬と窮理は一にして二。居敬が大小の教えを貫く貴下の引用する朱子の「明心」の説は、居敬の事を述べたに過ぎないのであって、専ら良知を致せば万理自明と云ったのではない。

学には内外がある、これを偏発してはならぬ。ただ体は渾然としていてその理は見難いが物に於いては見易い。

故に、心を尽くすには物について理を窮めねばならぬ。衆物の理を尽くせば、我が心の全体大用が明かになる。

陽明は、良知が固有の天に基づく事を知るだけで、物の理がまた固有の天に基づく事を知らぬ。故に内を是とし、外を非とするに至った。

良知に不善はないといっても、人には気質の類があるから、謬りを免れ得ない。故に孟子は、学慮の要を説いたのである。

陽明は、不学不慮に道心があることを知って、そこにまた人心があることを知らない。童心人心共に知覚の自然より発する。

陽明は、虚霊知覚を本然の性としたが、朱子はこの二者は方寸の間に雑居するから、修治の道を知らなければ、天理の公も人欲の私に勝てないと云ったのであろう。

陰陽動静は、気 陰陽動静する所以、即ちその道が理であり太極である。心の動静する所以。即ちその理が性である。

今、陽明のいうように動くことがなくして、常に知るものが理であるとすれば、これは理の何たるかを知らぬものである。

貴下は今、世儒の外馳支離の弊を厭い、その矯枉に急なる余り朱子を疑い、陽明を信じ古聖賢の語で、心に合うものは皆陽明に帰し、合わないものは措いて顧みない。

近世は、高明の者が却って異端に惑わさられた。陽明は高明で、その徒をまた異端に陥れて自ら悟らない。後世の高明の者は、往々王学に帰したが、足下もまたその徒になった。

只、高明であっても自ら足るとせず、予の如き者に質すのは、天下の明師賢友について講学する志があるからである。

予は、陽明を超えて朱子に従い、聖賢の徒を以って自ら許している。貴下が若し古聖賢の言に於いて、その心に合わぬものを虚にし、気を平らかにして反復講求すれば、嘗て心に合わぬと思ったものも合う様になるだろう。之は切に貴下に望むところである。

良斎の篤山への反論――――――

此処に、引用している古聖賢の至言は、誰しも拝服すべきものである。只、良心を拡充するには「大学」の「格致」の道によらねばならぬ。何故なら良心の萌といっても、よく精密にこれを択ばねば、終には仁義の賊となる。

学の功は、心の衆理を尽くすにあり。心の衆理を尽くすには、外・事物の理を窮め尽くす、心の衆理が尽くされれば、心中一毫の私もなく心は太虚に帰す。

貴下のいう太虚は、老荘の太虚と同じではないか。制字の説は予は知らぬもの、故に敢て妄議しない。

良斎が篤山に送った最後の論学書の中の論文;
「良知」の総要で、「致」は学の総功である。良知は太虚の霊明で、その無体 不二 節文 宜 不息 無妄 真実 常覚 不測 不倚 条理 固有、身の主宰よりして、これを独 一 礼 義 敬 聖 誠 行 仁 神 中 理 性 心という。

これらは、名を異にするが皆「良知」の別名に外ならぬ。これに対応して慎 主 崇 精 居 立 篤 体 存 執 窮 尽 操の工夫がある。

これらも名を異にするが、皆「致」の別名に他ならぬ。故に「良知」の外に道はなく、「致」外に学はないのである。

陽明が、「致知尽くす」という所以は此処にあったのである。然るに陽明は、「致知の如きは心悟に存す」と述べたのである。

世の良知を説くものが、良知の真を見ずに、専らその光景を弄するのを見て、これを惧れて「致」の要を説いた。

真の良知を致すには、聖人となるの志を抱き、難じ甘んじ、死を忘れるの覚悟を以ってしなければならぬ。

故に、現成派の王竜溪・王心斎・羅近溪の末学のように、本体を談じて工夫に及ばぬのは、陽明の本旨ではない。

蓋し、道は多種多様であるが、その至要のところは、仁義礼智。仁義礼智至要のところが、孝悌。孝悌の至要のところが孝である。

この孝は人心の固有、即ち「知能の良」であり、良は天の太虚の霊明である。故に良知が即ち孝である。孝は、天地人の道で万善を貫く。

陽明は、その初め孝に依って心が開かれ、苦難を経て心に良知を悟り、これを致して父に孝を尽くした。

そして君に忠を尽くし、国家に大功業を建てたが、すべて孝より発したものである。このようにして陽明は、千変万化すべて一孝より発することを知って此処に「致良知」の学を立てたのである。

これは、孔孟の真血脈であって、仏老の無用の学の比ではない。明末清初の動乱の世にあって、これに親炙私淑した豪傑は道学を守り、功業を成し節を全うしたが、何れも良知の余沢でないものはない。

新朱子学者 新陽明学者は、却って博学強識を弊害とした。例えば秋陽は、漠然と広く読書することを学術の弊とした。

端山学は「約にして深く踏み込む」ことを要とし、栗水は博学強識は結局「玩物喪志」に陥り、意見私義に陥るとした。

草菴は、天下のことをよく知らないことは大したことではなく、心の自得のないことが問題であるといった。

王陽明の良知の学はその後、現成派(左派)・帰寂派(右派)・修証派(正統派)の三派に分れた。現成派は王竜溪・王心斎の一派であり、帰寂派は聶双江・羅念菴の一派であり、修証派は欧南野・鄒東廓の一派である。

現成派は、良知は現成的なもの、だから工夫を積んでこれを求めようとすれば、工夫と本体とは一致せず。結局、相対的見地から脱し切れずして、絶対に達する事が出来なくなるとした。

依って、才能のあるなしに拘わらず、誰でもその場その場に於いて、即座に悟らなければならない、といって頓悟を説いた。

本体を知れば工夫は、自然にその中に備わるという立場を取った。何心隠を経て李卓吾になると本体の現成を強信して、工夫を無視する傾向を生じた。

それが、世に流行した結果、人間のありのまゝの性情に従うのが、良知に依る事であるとして自我を強信し、多数を以って人間の自由を束縛するものとして、これを忌諱した。

そして、遂に猖狂放縦になった。併し、この派の者には、立談瞬目の間に人を悟らせる妙手を持つものが多かった。

現成派の中にも、良知を孝悌などの実践に求める者もいた。現成派の儒者で有名なものは、上の外に羅近溪・耿天台・周海門・李卓吾などがいる。
帰寂派は、良知には虚寂の体と感応の用にあり。本体は本でいえば根にあたり、作用は枝葉にあたる。

根を培養すれば、枝葉は自然に繁茂するように、虚寂の体を立てれば、感応の用は自然に行なわれるとして、帰寂を学の要とした。

此の派も、最初は静に偏る所があったが、後になると真の虚寂は、動静を貫くものでなければならないとして、透徹したものとなった。

此の派の者には上の者に、劉両峰・万思黙・王塘南などが居る。陽明の良知説も晩年には、良知を現成とするに至るほど円熟した。

陽明は、現成の良知は才能のある者だけが、能く理解できるのであって、一般の者は工夫によって、本体を証するようにしなければならないと説いた。

それに対して、現成派の者は前に述べたように、良知を現成として頓悟を要とし、此処に陽明の本旨があるとした。

の説は、陽明の心学の発展の必然性に従ったものであろうが、のこれを行き過ぎとして、元に返そうとした。

だから、その中に朱子学的気配が感じられるの当然であろう。このようになったのは、現成派に著しい流弊があるのを見たからに他ならない。

の流弊を、もっと敏感に受け取ったのは帰寂派である。これは動的な陽明の心学を、静的な朱子の心学に還す傾向を帯びたものと云ってよいであろう。

修証派は、現成派のものが専ら本体の悟りを掲げて、工夫を無視する傾向がある事を憂え、工夫に依って本体を証する事、即ち修証の学を説いた。

又、現成派の者が専ら心に従って理法の厳存を忘れ、その為に流弊を生じたのを見て、良知を説くにも天理を掲げ、その内在としての性を論じ、その結果程朱一派と同調的な説を述べるような事もあった。

朱子学の陸王学に対する特色は、格物窮理にあると言ってもよいが。彼等の朱子学は陽明学を経た関係もあって、格物窮理に於いても理の静、性の静に深く沈静し、且心と理・知と行・本体と工夫の妙結をする精微なところを探り、主静体認による深造自得を旨とした。

瑞山と碩水は崎門派の儒者で、共に、存養が致知と力行を貫くとする闇斎の学を奉じ、居を学の終始とし、格物窮理を本として篤く体認自得自を得を要とした。

朱子は嘗て、「本領一段の工夫」を掲げて、居敬存養の要を説いた事がある。瑞山は朱子の居敬は整斎厳粛・常惺々(いつも心を覚醒する)心の収斂の三つであると。

心を収斂とする事が主で、これに依って我が本心を求めるのが、本領一段の工夫であるとし、道の本源が明かになれば、世事は刃を迎えて解く事が出来るようになる。

天保六年(1835)二十三歳の夏、草菴は、潜菴の世話で洛西梅宮の神官の家を借り、そこで門戸を閉じ客を謝絶して、読書と思索の生活に入った。

草菴の生活は困窮を極めていたので、潜菴は時々食糧を贈与し書籍を貸与してこれを励ました。会えば互いに心性の学を語り、古今の人物を評価し、時には嵐山お風物を愛でた。

潜菴から草菴の送序;――――――――――
大いに成すあらんと欲するの志を抱き、その智力材力は日また以って、その志に酬ゆるに足るも、迹を田野に屏けて書を皇石烟霞の間に読み、貧富得喪 栄利寵辱、一も胸に芥滞するなきも、方今の士、予、子敬一人を観るのみ。

子敬の初め京に来たるや、、予一再見中、を年いまだ弱冠ならず形貌短小なるも、目光閃々として人を射、議論縦横恢々乎として、前に古人なきもの如し。

予、特に驚嘆せしも、いまだこれを許さず。既にして子敬盧を松尾山下に結ぶ、窮苦寂寞なるも少しもその志を変へず。

予、その盧を訪ひてその学を叩くに、沈々掩抑してその光を顕はさざるも、精悍の気馴るべからず。噫々子敬の学問変化の功、それ量るべけんや。

蓋し天下の事、遷移変態固より測るべからず。子敬、異時明主の出づるに逢ひて、その志を行ふえるは、未だ知るべからざる也。

草菴は、西山に困居すること六年、その間「自得するところなくんば一歩も動かず」と言って、専ら講学に励んだが、天保(十一年)1840二八歳の秋八月、思うところあって、京都一条に家を借りて塾を開いた。

聖坐す六年 松尾山 
   偶然今日人間に向かふ
      身は流れの如く縁に随ひて動くも
         心は孤雲とともに到る処困なり。

交友中、相知るの深きは良斎より深きはなく、相交はるの旧きは潜菴より旧きはなし。この二子は、実に当今獲易からざる益友にして、診重欽望するところのものなり。と述べている。

草菴は、わが愛する甥、盛之助をこの二人に従学
、これに依って二人に対する草菴の敬慕の察する事が出来よう。

但し、潜菴の人品学術に対しては、意に満たぬ處があったようで、その英邁な気象は類い稀であるとしながらも圭角が多く、宋の王安石のように自信過剰のところがあるから、己を誑き人を誑くの弊に陥り易い。

故に、心を虚にし気を平らかにして終身講学し、水辺林下に静居して深密な工夫をするならば、その弊を去る事が出来るであろう。と述べている。

草菴の良斎を見る人品学徳:容貌清癯 風神蕭疎 鬚毛除かず、被服庶民に類す。終日静座して風雲の変幻を静観す。

万物の自得を察す、早々欣々 禽鳥関々 内外洞徹し、物我皆忘れ、冥然として 只造物者と徒となる。

靑谿書院に於ける子弟教授の状況―――――――――

身を持する事厳格にして、常に礼節を尚ぶ。毎晨烊炷査して端すること数刻然る後諸生に接す。

諸生長幼の序をもって講堂に列し、まづ、先生を拝し畢りて互ひに礼を行ひて各々業に就く。其のまさに寝に就かんとする時、またかくの如くす。

終年易らず、循々としてこれ謹むこと子の巌君に仕ふるが如し。諸生過ちあれば訓海懇切にして、これ継ぐに泣を持ってし、至誠人を動かす。従游すること一年、未だ嘗て情容あるを見ず。

草菴の江戸滞在中訥菴と交際し、帰国後も書簡を往復して、交友を続ける意向があったようであるが、実際は段々疎遠になり、遂には絶好状態となった。

それは、その後訥菴が朱子学に傾いて、陸王学を激しく批判するようになったこと。その朱子学が知解に堕して体認に乏しかったこと。

攘夷や勤王討幕に奔走して、心性の学を疎かにし、遂に事功に心を寄せるようになったことなどが、その主な原因であろう。

嘉永六年(1853)六月にぺりーが浦賀に来航し、同七年にプチャーチン長崎に来航したので、人心は洶々として定まらず、幕府も又処置を失い国内は騒然となった。

その為に、儒者の中にも国事に奔走する者が出た。併し、草菴は廟堂の上にも成算がある筈であるから、国家の大計については書生が軽々に論じてはならぬと戒めた。

又、事件の委曲を知らぬものゝ言は機宣に当らぬから、妄言を発してはならぬ。外侮に対しては只学を講ず。

綱常倫理を明らかにして、士風を励ますことが、当世の急務であると言って、ひたすら講学に専念した。

碩水の、「家庭余聞」の中での秋陽・草菴・潜菴の気象風貌の比姿:――――――――

吉村秋陽は、容貌鄙野なる人であって、心中を打ち明かさず風があったぞ。

草菴は、さっぱりして難しい風も無く、俗家が少ないぞ。山人隠士の風があったぞ。
草菴は、こせついて小節に拘る風がある。

潜菴は、うらはらぞ。潜菴は難しい風があったぞ。

瑞山は二十四歳のとき、一斎の高足秋陽と訥菴に啓発せられ、それ以来篤く心性の学に心を寄せるようになった。

初めは、朱王折衷的な学風を持ち、特に明末の東林学派の大儒・高忠憲の学に心を惹かれて、静座体認の学に専念したが、やがて朱子学を遵守して、特に崎門の朱子学を慕うようになった。

瑞山が、専ら朱子学を宗とするようになった頃、天下の中で聖学を託するものは、海西千里の彼方に住む瑞山より外にないとして、訥菴から痛く嘱望せられ、遂に「闢邪小宮」んの跋文を書いた。

草菴の読書は、中国の経史子集は勿論の事、日本の史書や儒者文人の詩文などに及び、キリスト教の聖書も繙いている。

書画なども愛でて、わが心性の涵養に資に供している。草菴の誌書に於いて注意しなければならぬ事は、唐宋明朝の古文家の文を好んで続け、それをわが作文の範としただけではなく門人たちにそれを講じた。

そして雑識を求めず、要所は反覆精究し、沈潜思索して自得に達するように努めた事。門人にも精読 黙読を行わしめた事である。

先生、書を読まるに甚だ尋常に異なり、低声にて断続横往反し、或は呻吟するが如く、或は唱歌するが如し。

蓋し、その間に於いて静かに思ひ細かに考えへ、神融意会し、渙然と氷釈せんことを求められしもの見ゆ。

一書、先生好みて易経を読まる。嘗て、門人の鶏鳴より日暮まで続けて僅かに二張を了へぬ。三張に渡ること能わずと言わる。玩索精窮此の類也。

草菴は、壮年時代はよく静座しているが、それも始めは朝起きの時で、後には就寝前にも行い、時には一日二回も行っている。

時間は、一炷香ないし四炷香の間で、一炷香は大体半時間位であるから、半時間ないし二時間に及んでいる。

静座を重んじた儒者は多いが、当時にあっては、草菴ほどにこれに努めた者は少ない。これは誠に驚嘆の外はない。

草菴が、このように静座に精進したのは実は劉念台が、所謂「慎独「自訟」(自省)の工夫と実行する為であったが、草菴の工夫は誠に厳格であった。

勿論、工夫は静時も動時も共に行わなければならない。その意味では草菴はその程朱や朱子がしたように、或いは、明末の劉念台がしたように、整斉厳粛の居敬に終始したが、草菴の学風は念台と軌を一にする所が多い。

草菴は、また門人たちと寝食を共にし、彼等に畑を耕せたが、敢て貧苦に甘んじて講学に努めさせた。このような教化の仕方は、明初の呉康斉に類するであろう。

草菴は、よく門人を伴って山野を逍遙し、共に自然の趣を充しているが、それはまた溪山池塘を徘徊しながら門人を教化した、明の王陽明を偲ばせる。

門人たちの塾生活――――――――――――
生徒の生活は、極めて質素倹約なりき。一年四時を通じて朝は粥に沢庵大根三、四片。時としては、胡麻塩を添ふる事あり。

午は、温飲に欲大根入りの味噌汁、夕は茶漬けに漬物あるのみ。只毎月三慶日の午飲に塩魚乾魚加ふる事あり。

書院の周囲には、数畝の畑あり此処に野菜を植う、而して米塩薪炭の買入りより水汲飯焚の事に至るまで、すべて生徒当番を組みて順席之に当り、少しも外人を煩わさず。

十三四歳の者の弱輩は、主として酒掃の役を執り、或はいがきを揚げて豆腐買に行くもあり。十五六歳の者は炊事に服して、二十歳前後の者は取締りに任ず。

金銭会計の事は、門人中に信用のある者に委任せらる。先づ炊事係献立を具し、取締りに稟申し其の認可を得て水を汲み、米を淅ぎ薪を拾ひ薬を買うなど、各々其の努めを執る。

さて、調理了れば先生に啓す。先生食に臨まれ。師弟会食す。貴族富豪の子弟、又は懶惰生は自炊を煩はしく思ひ、これを廃止せんことを請うことあれども、先生断乎として聴かれず。

此は、倹素を養はん為にも、冗費を省かん為にも、将た運動の為にも必要なりと曰わる。
されば、難儀不自由の中にも、自ら言うべ可らざる楽あり。

食料は、毎日米五合外に薪炭魚菜料として些少の費を要す。是れ等は未納金随意なり、会計主任月末に過不及を決算す。

浴場は一ヵ月六回とし、水を汲み火を焚くは生徒の伝也。夫の休講日には大掃除を為す。毎日朝は撃析にて起床し、夜は亥刻(十時)寝ぬが常也。

朝起の後 夜寝の前は、一同揃ひて先生の前に出でて挨拶をなす。塾則は簡易なれども規律自ら立ち、熟舎清浄にて一塵なく、諸生の坐臥動静整然毀れず、而も和気藹々たりき。

草菴の塾に於ける教化の模様;初学の者には、酒掃応対・礼節威儀などを厳課せられ、、漸く進めば省察存養の工夫を凝らさしめらる。

要するに、行状と心法とを兼ね修め、内外相応じ表裏互いに匡さしめる。講義の仕方は、少しも弁舌を弄し辞令を飾るゝことなく、極めて平々淡々なれども、其の滋味限りなく而も意義明暢たり。

要義の処に到る毎に大声疾呼し、兗々として舎かず。という風であった。故に聴くものは肺腑に透徹するのを覚え、悦服感嘆しないものはなかった。

草菴は、劉念台を篤く尊信したが、安政二年(1855)十月、四十三歳の時に書いた草菴の「読劉子全書」の中に、その理由を簡明に記している。

それに依れば、念台は、長年に渡る朱王両学の是非に対する、紛然たる衆論を調停融和して至当の論を唱えた。

朱王以後、なくてはならぬ学者であり。念台が平生主張する慎独説は、功夫切実で且つ微密に入ることを実証するに足り。それは、誠に千里の真の血脈を伝えるものである。

而も、進んで朝廷に立ち退いて身を持するに当っても、氷霜烈日のように潔白厳正で、、その志操は一世に輝き、実に明三百年の儒林の最後の大儒であると。

何故、朱王両学に流弊を生ずるようになったのであろうか。草菴のいう所によれば、孔孟の後、その遺教は殆ど絶えたが、千載の後程朱が奮起して、その緒を継ぎ斯学の為に大功を立てたのである。

只、彼らの格物窮理の説が、後学にが支離の弊を生ぜしめる原因となった。そこで王陽明が出て致良知説を掲げてそれを救い、学者に易簡直截の要を」知らしめた。

その功績は、決して少なくはない。併し、後学に本体を説き工夫を忽せにして、空虚に陥る流弊を生ぜしめた。念台は、誠意の説を掲げてこの流弊を救うたのである。

念台のいう誠意は慎独の主体であるが、草菴は念台の誠意説を奉じたのである。草菴は朱王共に孔孟の嫡伝を得たものであることを認めるに吝かでなかった。

只、朱王両学よりも劉台の学を奉じたのは、両者が「大学」解に於いて誤りを記すと考えたからである。

即ち、「大学」首章の格物 到知 誠意 正心についての朱子の解は、格物を主とするから「大学」の本旨に違うものであり、陽明の致良知説も致知を主とするから牽強付会を免れない。

且、誠意についての解も、因襲の誤りを継承していると。草菴は、誠意を主とする念台の「大学」解だけが「易ふべからざる」の説で、聖学の本旨をよく発揚したものであり、これは誠に「千古の卓見」であると述べた。

「大学」は、学問の方法を述べたものとして、宋明儒者はこれを重視し、特にその首章に掲げられた三綱領の八条目に注目したが、その中から小学の宗旨とするものを選び、これを発揚して我が思想を構成した。

例えば、王門の別派に属する儒者、李見羅は「止善」と「修身」を重視し、「止善」を以って学の宗旨とした。併し、多くの者は八条目の「格物」「到知」を学の宗旨とし、中には「正心」「誠意」を学の宗旨する者がいた。

「格物」「到知」を学の宗旨としたのは、朱子・陽明・であり、「正心」「誠意」を学の宗旨としたのは、念台である。

朱子は、「格物」によって諸物の理を窮めて、始めて知を尽くす事が出来、然る後、意を誠にする工夫をなすべきものとした。

陽明の方は、「到知」を主張し、且つこれを良知を致すと解し、「大学」は「致知」」で尽くされるとした。

念台は、「誠意」をもって「大学」の首尾を貫くものとし、且つ意をもってこれを已発の用とする従来の説を非として、これを未発の体とし、誠をもって心髄微に入る工夫とした。

草菴は、朱子に従えば外馳支離の流弊を生じ、陽明に従えば猖狂自恣の流弊を生ずるが、念台は、これを救うに「誠意」「正心」の説をもってしたと云って、念台の心学を尊信した。

良知の自覚 是非好悪の心は、すべてこの「正心」「誠意」より発する。これによれば、読書 講学 事師 交友などは、処に随い時に随って道を得る事が出来るとして、正心誠意は、これ古来聖賢相伝ふる真箇の実用の学なり。

草菴によれば、「誠意」は「大学」の宗旨であるばかりでなく、「中庸」の宗旨でもある。それは「中庸」が誠を宗旨としたことが能くこれを物語る。

「中庸」によれば、誠は未発の中で、それが発用すれば、いわゆる「三達道」「五達道」「九経」となるのであり、これによって修己治人が実現せられ、こゝに至れば「聖人の能事畢る」と。

草菴が尊宗した念台は(1578~1605)、どのような思想家であったのであろうか。念台は、明末の動乱期に出た儒者で程朱と陸王を折衷した。

特に 陽明の心学の秘蘊を啓き、心体の性命的なることを切論して、独創的な学説をなし、陽明没後の思想界にあって輝かしい業績を遺した。

宋から明に至って展開した心性の学に於いて、その末尾をかざるに相応しい大儒で在り、誠に程朱陸王に比肩することが出来る学者であった。

念台は、このように思想界に偉大な貢献をしたが、明滅亡の時自ら食を断って国土に殉じた儒者で、その節義は歴史の上に燦然と光輝を放っている。

生まれ乍ら清逸で、人から寒王と称せられた。少年の頃から嗜好が薄く、言笑することも寡く、夙に有道者の風があったと謂う。

生前に父を喪い、貧苦の中で母の手によって育てられ、母の父や兄弟の教化によって器識日に長じた。念台の高潔志操は庭訓によって、その根底が養われたと云っても過言でない。

二十四歳の時進士に及第し、三十一歳の時陽明の講友で、程朱学を宗とするを湛甘泉の門人、許敬菴に師事して克己を本とする厳粛な居敬を事とした。

敬菴は性善説を唱え、厳粛な反省的工夫の要を切論し、其の立場から性の無善無悪を主張し、本体の直悟を要とする説を唱えて、当時思想界に重きを成した王門現成派の巨匠、周海門と論争しその学に鋭い批判を加えた。

念台はその後、清議を唱え 主静体認を旨とする朱子学を説き、本体の直悟よりも工夫の重修の要を説いて、現成派の亜流によって紊された世の綱紀を建て直し、政界の堕落を救わんとした。

所謂、東林の諸儒と交わり、又屡々朝廷に上書して、或いは、政界の粛清と道義の恢復につとめ、或いは窮民の救済に奔走し、正に傾覆せんとする国勢の挽回につとめたが、明朝の崩壊は最早如何ともする事が出来なかった。

都 北京が、満州軍の手中に帰した時、念台は官を退いて野にあったが、南都で王族を擁して国力の恢復に力を竭くした。

併しそれも功なく、遂に国土を喪う羽目に陥った。そこで、自ら食を絶ってこれに殉じたのである。

湛学派の朱子学、東林学派の朱子学に接した念台は、国歩艱難わが生死も保持し難い時世に邁過して、深刻な体験を嘗めたのでその学術思想は、深淵切至なものになった。

朱子学を奉ずる許敬菴の学風に接した念台は、反省的な実修の要を痛感して克己、訟過、慎独の工夫に精進したが、東林党と非東林党の間に党争が起こった。

その為に、わが命が脅かされるような切圣な体験を経たので、却って従来批判的であった陽明の心学に対して心を寄せるようになり、これが朱子学亜流の支離の弊を救うものであるとして、これを信ずるようになった。

念台は、当時慎独をもって学の宗旨としていたが、念台によれば独とは中に万物を体する至善統会のところであって、「大学」「中庸」の学はすべてこの慎独に帰するとし、これをもって「格物致知」の下手のところとしてこれを重視していたが、陽明の心学を信ずるようになってからは、慎独は致良知に外ならないという陽明の説を是認し、且つ慎独をもって動静知行を貫く一源とした。

そして、この立場から「格物致知」と「誠意正心」を二事とし、慎独をもって同処における察識の工夫、即ち動察の工夫とした。

その前に主静存養、即ち静存の工夫があるとする朱子の説に対しては、分析私利に陥ると云ってこれを批判した。

念台は、一応慎独をもって動静を貫くものとしたけれども、静在を根本としたので、周子の「主静立極」を慎独の宗旨とし、その下手の工夫として静坐を説いた。

この点では、念台の思想は陽明の思想と一致し難いものであったということが出来よう。何故ならば、主静的な工夫は専ら良知の体の活動に任じる事を旨とする、陽明の致良知説とは指向を異にするからである。

にも拘わらず念台は、陽明の致良知の説は、人は本来成人である事を証悟する事を、求めたものであって、講友陶石深と証人社を造って講学に学を講じた。

その時は、本体の識悟をもって学の第一義としたが、念台は、本体は一語も着け得ないものであるから、学の要は専ら工夫にあると云い、石梁の重悟説に対し重修説を唱えた。

その後念台は、朱子は勿論陽明の「大学」の「格物到知」」解に対しても、これは「大学」の本旨に違うものであるといって、王学に批判的となった。

それは念台が「大学」の宗旨は「誠意」にあるとしたからである。爾来念台は、誠意をもって学の宗旨とするようになった。

念台によれば、心体(独体)は渾一な生命体であるから、本体上・工夫上からもこれを分言することはできない。

このような、心体を旨としたのが孔子の学で、孟子以下陽明に至るまでの諸儒は、みなこれを分言した。

例えば、誠と明 已発と未発 人と義 心と性 動と静 有と無 存心と致知 聞見と特性 頓悟と漸修など、すべて分言してはならないものを分割したと。

念台が心体としたものは何か、それは知ではなく意であった。意は念台によれば心の主宰、すなわち心の存主であって、善を好み悪を悪(にく)むもので、相反する二つの作用であるけれども、要するに一つの働きに過ぎないものであった。

故に、二用あるも一機であるとした。念台によれば、このような愛は未発の体であるから、心の発動としての念から区別されなければならない。

この両者の混同が、心学を不明ならしめている原因であると。要するに、道徳的価値に対する好悪の情を持つ意に善悪の判断を下す知覚がある、と。

それによれば、心は定向を持して虚無に陥らず、流蕩に堕せず、よく体用一源の機微を得て、宇宙人性 道徳経世を貫く面目を有するようになるとした。

念台は、意を心体とせずに朱子のように理を心体としたり、陽明のように知を心体とすれば、支離に陥り虚見に堕するを免れないとした。

念台が、誠意を学の宗旨とし、その立場から朱王両学に批判を下した理由はここにあったえある。念台がいうところによれば、このように生命体としての意を心体とした。

それは、陽明の好愚論、行を主とする知行合一論の微旨を発揚し、その本源を探って得たものであるが、陽明の良知は、誠の発動する機関に過ぎないものであるから、これは第二義的存在であるとした。

故に意を心体とし、誠意を学の宗旨とすることによって、良知が始めて真の生命体を保持することができると。

このようにして、念台は誠意を宗旨とし、学をなすの要は「一の誠これを尽くす」といったが、只、常に静坐して内省的な厳粛な工夫を下さなければ、それも虚妄に陥る惧れがあるとし、主静慎独の要を説いた。

念台は、「慎独」をもって「大学」「中庸」を貫く学の宗旨としたが、慎独も自らの過ちをを責める同訟を要とし、且つそれを静坐によって心を収斂して、厳粛な内省を加える訟過法を切要とした。

念台は、晩年「人譜」を著わしたが、これは人が真の人となる系譜を述べたもので、これは周子が「太極図説」を著わして、人間存在を生成論的に説明して、学問の目的を示したのに倣い、存在論的にこれを説明して、真に人となる工夫を述べたものである。

その工夫として慎独が掲げられ、その要として訟過法が説かれた。故に、念台は暇さえあれば常に静坐に努めて厳粛な自省の工夫をした。

故に「静坐はこれ困中の喫緊の一事なり。その次は読書」といって静坐を重視した。草庵は「人譜」に掲げられた「自訟」「慎独」を絶賛し、それをもって「説き得て微に入る。先生(劉子)の人となるの心は、只これを至れりとなす」といった。

念台は、殉国の際「餓死の事は小にして節を失う事は大なり」といった。臨終にあたってわが胸を撫で「この中甚だ涼快」といった。

これは、私欲とか意気慷慨といったような俗念は一切超脱した、我が胸中が清爽壮快の境地にあることを述懐したものであった。

草菴は、「涼快堂記」の中で「涼快」の二字は念台が深造自得のところを示したもので、浅学の窺うことができない真境であると述べている。

康斎(1391~1419)は、明初の朱子学者であるが、暗かに陸学の風を受けて、居敬存養のを以って読書窮理の本とした。

「小学」の工夫を重んじて礼を厳しくし、洗心去欲など克治の工夫によって、聖賢の道を体認しようとつとめた。

康斎の朱子学は、このように心の存養を重んずる朱子学であったので、康斎は明代心学の祖ともいわれた。康斎の父は、明の成祖の永楽年間に翰林修撰となった人である。

康斎は、十九歳の時都北京に行って榻文定に従学し、北宋大儒の言行を記した「伊洛淵源録」を読んでから、官吏になる為の学問をした。

即ち、挙子の業を捨て人事を謝絶し、独り楼に住んで毎日「四書」「五経」や宋儒の語録を読み、心身に体認する学をなして、聖賢の域に達するを我が務めとした。

楼を下らぬこと二年、その間余りにも精進に努め過ぎた為に病となった。そこで郷里である江西省に帰った。

郷里にあっては、必ず礼をもって起居動作し、人から迂濶と罵られたが少しも動ぜず、常に粗衣敝履に甘んじて学に務めた。

その後、家は益々貧しくなって衣食を給せず、風雨も蔽わずというように貧窮の極みに達したが、それに堪えて心体の涵養と道体の究明に励んだ。

常に、農事に勤しんで我が口を糊したが、、時に食が足らず近隣に食を乞うた事さえあった。昼夜寒暑を問わず途上といわず枕上といいわず、精思して学に務めたが、高妙の論は一切これを為さなかった。

眠りにつけば、屡々孔子や朱子に謁して、その教えを受け夢を見た。門人には婁一斎 胡敬斎 陳白砂といったような名儒が出た。

師道は厳格で、常に相共に農具を執りながら彼等を教化した。嘗て、宦官の推挙を受けたというような事で、その出処進退には兎角の評を加える者がいた。

「目録」の翻刻によって、康斎の学が世に知られるならば、利欲に溺れ意気に激し、競う士人の風潮が正される。

又、彼等は皆心を平らかにし、気を和らげて、各人その本分を尽くす様になり、延いてはそれが、国家生民の安寧を齎す本になると考えた。

先生平日、貧賤寒餓の境に処りて心を動かし、性を思ひ敢へて実施に従ひて功を用ふ。その自省の切なるは、即ち痛憤悔恨身を容るゝところなし。

而して、その志嚮の専且つ篤きは、すなわち往く聖賢を夢床し一起一伏 一進一退敢へて自ら瞞過せず。鍬積分累漸をもって進む。

而してその受容の深きは、すなはち天を楽しみ命を知り、従容として宴養し、而も言動の間平澹の穏実、絶えて矯飾の態なし。

且つ学問の弊、記誦詞章は固より論なきのみ。乃ちかの聰明特達士に至っては、すなはち又皆世故を軽忽にして高遠に騖す。

虚を説き玄を説いて、復た卑近より功を著けず。道の明かなざるは職ら此れこれに由る。先生の学術言動の如きは、もってこれらの病を医すに足る。

蓋し、下学して上達するは孔門の遺訓にして、困窮道を守るは朱子の得力なり。、先生の如きはすなはち真に能くその伝を得るものといふべし。

先生、平日心身上に得るところの剳記なり。蓋しその学の造詣行の励苦は、千載の下読者をして、感発興起せしむる事これに親炙するが如し。

呉康斎の、流亜と云われるだけあって草菴は、毀誉 得失 声色 貸利、その他あらゆる世俗の嗜好などには一切冷淡であった。

草菴は三十歳の時、我が講学の綱領を述べて次のように言っている。大学の正心誠意の微旨を講明し、中庸の太本未発の奥義を発揮し、これを終ふるに主静慎独の功夫を以ってす。

これによれば、草菴は「大学」では「正心」「誠意」「中庸」では「未発の中」を講明し、主静慎独の工夫によって、これを体認自得することを学問の本領とした。

そして、如何に念台に傾倒してその学を我が信条としたのかという事が分かる。草菴が「学庸」を重視したのは、宋儒以来の伝統的立場に従ったからである。

経書においては、「四書」から「六経」に移るように説いた。「四書」の中「大学」では古人が徳に入った次第を観、「論語」「孟子」では日用浅履の実施を求め、「中庸」では
聖学心法の要訣を悟る事を目的とした。

」の中では、特に「易」を好んだが、それはこの書によって、道の深奥を探る事が出来ると考えたからである。

「四書」「六経の次には、「小学」を読んで日用実践の規矩を知り、史書を読んで世事を考え、旁ら唐宋八家文を読んで文章の法を知る事を求めた。

草菴が、経だけでなく史を要としたのは、経によって本を立て、史によって事に応ずるの道を知らなければならない。

経によって得た理を、千古の事変に微して違わぬことを知れば、、自信をもって時用の応ずることができる。だから経だけで史がなければ、迁濶無用に陥ると考えたからである。

草菴は、経書を読む場合無暗に諸家の説を渉猟して、これを読むようなことはしなかった様である。寧ろ反覆して精読体認すること、自己の見解で読書することが緊要であるとした。

故に解説に於いても、世のいわゆる経学家のように、博引旁捜 敷暢誇張を旨とせず、それを却って弊害とした。

それは、経書は聖賢の気象を説いたものであるが、その気象は本来わが胸中のものであるから、経書はいわば我が胸中の気象を説いたものと、考えてよいとしたからである。

草菴は生涯使途に就かず、山中に静居した講学と子弟の教授に専念したので読書する暇もあり、心性の学者としては博学の法であった。

只、読書に勤めていても、学の根本は心性の静修にあった。草菴によれば、それを本としなければ見解も開けず、経書を読んでも聖賢の気象を自得する事は出来ない、と云う事であった。

仮令、天下の事理に通じていても、利害得失に際しては心が動いて道を失う至ると。故に黙々として心を収斂して、これに点検を加えるという工夫、乃ち黙坐自省・主静慎独の要を説いたのである。

草菴は、このような静修の功は「丹府一粒鉄を金と成す霹靈の手段なり」といって、これを切言した。草菴によれば、禽獣の別は念の正妄の別にあると。

心体は、本来無病の完全な実在であるが、常に妄念妄想の為に掩弊される惧れがある。生知の聖人でなければ、これを即座に悟ることはできない。

常人に於いては、常に厳密な自訟内省の功を加えなければ、これを保全する事は困難であろう。草菴のいう心体は勿論体と用・動と静・未発と已発・存と・発の一体の意根に外ならなかった。

故に工夫は、動静に分かつべきではないが、初学に於いてはこれを分けて、静中の工夫に骨折らなければならないとし。且つ、これが子思の「中庸」における未発存養の精神であると。

瑞山は若い頃、佐藤一斎の門に学んだがその時一夜静座して、宋の程明道の所謂「満腔子(満身)これ惻隠の心」を悟ったという。伝えるところでは静坐中よく心を清澄にし、その為に線香の灰が落ちる音さえ、一々胸中に感じたという事である。

念台が実施した静坐法:ひとくゆりの香とひと鉢の水を、塵ひとつない机の上に置き、座布団を下に布く。夜明けごろ身体を厳かに保持して座につき、足を組み手を揃え、静かに呼吸して姿勢を正す。

このように威儀を正しておれば、天帝が現われ、従前の心の病がまざ~とあらわになる。すると天帝が予を戒めて云う「お前は如何にも慎み深い人間だが、一たん足を踏みはずすようなことがあれば、禽獣になって万事堕落するだろう。そうすればすべて手遅れだ」と。

予はそれに答えて云う、「よく分かりました」。すると天帝は更に予を戒めて「人の見る眼は厳しものだ」といい、「大学」の語をあげて「何事もこのように気を付けるがよい」という。

予はそれに答えて云う、「分かりました」すると心が心が緊張して玉のような汗をかき、顔面が紅潮して手かせ足かせ嵌められたような気持ちになる。

やがて、気を奮い起こして云う、「これは私の罪です」すると天帝はまた戒めていう、「そうすらすらと自白してならぬ」予はそれに答えて云う。

「いいえそうではありません」暫くすると、一筋の清明の気が心中に徐々に萌して、心が太虚になって行く、元来心は太虚と同体である。

このことが分かれば、これまでのものは全て妄執であって、真実のものでなかった事が分かるようになるであろう。

真実の心が、泰然として動かなっければ心は清澄となり、外界に引きずり廻されるような事がなくなる。これこそ本来の真面目である。

この時に、本心を保持するようにしなければならない。突然一つの煩悩が起これば直ぐさまこれを吹き消して心を保持していく、再び煩悩が起これば直ぐまたこれを吹き消す。

このような事を幾度も繰り返す。油断せず無理せず、又効果を期待するような事をしてはならない。暫らく身を整えてから起ち上がり、門を閉じて一日を終わる。

ある人が、この説は禅に近いといって余を非難した。禅は予が捨てたものである。これは静座法である。静坐は学問なのである。

むかし程伊川は、人が静坐しているのを見ては、いつもよく学問に励んでいるといってこれをほめた。

後世の人は「静坐は坐禅入定を求めるものではなく、小学でいう失われた本心を取り戻す工夫の補いにしようとするものである」といっているが、この語には深意がある。故に静坐は単に心の無事であることを、願う工夫ではないのである。

単刀直入、心髄微に入り、言々的を破り、針々血を見、学ぶものをして、悚然として猛憤警省の念を生ぜしむるものにして、余深く竜溪の言に取るある也。

王門には賢多く、遺文も観るべき)もの少なからず。然るに独り竜溪の超悟、念菴の苦修、この二者は諸子中において遥かに類い少なし。故に余常に二子の集においてこれを読む毎に、殆どまた手より釈く能はずといふ。

念台は、死に際して「孤忠耿々」と云ったけれども、同時に「胸中万斛の泪あり、半ばこれを二親に灑ぎ、半ばこれを君上に灑灑ぐ」と云った。

又、胸を撫でて「壮快」とは言ったが、郷里の縉紳が薙髪して、清朝の招聘に応じた事を聞いた時は、歯を食い縛り床を叩いて二度大息した。息が絶えた時は両眼の眸は烔々と輝いていたと謂う。

陳白砂は、天地日月の晦朝山川の流峙、四時の運行、万物の化生は、すべて道の妙用に外ならないが、この道は心中にあるから、心に即いて道の妙用を観て、その枢機を握らなければならないとした。

静中存養に勤め、人為の安排 華飾 欲念を一切洗い去って、「大海は魚の躍るに従ひ長空は鳥の飛ぶに任ず」という。

全て、自然の大化流行に任ずる境地に達した儒者で、呉康斎に従学してから郷里の白砂里(広東省)に帰り、茲に春陽台を築いて静坐し、勤苦刻励して道を自得したのであった。

草菴は、程朱と陸王についていえば陸王を好む傾向あったが、敢て両派の別を立てず、程朱といっても陸王を経た程朱の学、陸王といっても程朱を経た陸王の学を「尤も妙」と考えた。

草菴によれば、異端は別として両学とも人倫綱常を主とするもので、下手の工夫に抑揚軽害の差はあるけれども、結局彼等は聖人の徒であることに相違はなかった。

その学に異同があっても、却って講学の助けになると、元来宋儒の学は分析を主としたので、支離に陥る流弊を生じ、明儒の学は渾融を主としたので、猖狂に陥る流弊を生じた。

何故、このようになったのか、それは宋儒の学は漢唐訓詁の学の弊に鑑み、内面に向うようになったが、仏教老荘における虚学の弊に鑑み、含糊曖昧を忌み嫌った。

その結果詳密厳護となり、勢い分析に務めるようになって、遂に支離に向わざるを得なくなったのである。

その後に興った明儒の学は、この流弊を救うことに務めたので、勢い易簡直截を主とするようになり、遂に渾融とならざるを得なくなったのである。

これは時節因縁で、理勢の然らしめるところであって、各々苦心のある所である。故に門戸の見を撤去して、その説の跡に拘泥することなく、 その論に固執することなく、互いにその意のある所を理解するように務める。

さすれば、大中至旨を心に得ることができるし、而も精微な工夫を加えるならば、論説の異同も各々偏病に的中するようになって、わが警省に役立つと草菴は考えた。

念台の学を案とした草庵菴は、勿論程朱陸王両学の流弊をよく知っていたが、唯その長を取って短を捨てるよう努めた。

故に、両者の論に異同があっても、共に人倫綱常を第一義とするものである。学問は元来天下公共のもので、「大中至正」の道を求めればそれでよいのであって、、敢て、門戸を主張するには及ばないと述べたものである。

瑞山は、天下の事物の理を究明してその本源の理、すなはち太極の全き本体に透徹するという「正大の規模」を立て、猛志を以って深潜体認縝密な、体認自得の工夫を「シンメリ」と加えなければならないとした。

所謂、見識も高妙とならず卑汚卑賎に陥り、結局小人たるを免れないとして、真切な主静体認をの窮理を要とし、ここに朱子学の本領があるとした。

草菴は、尊王攘夷を大言しなかったけれども、只、これを高言しなれによって国論が一定せずに、却って不慮の禍いを招くようになるのを恐れたからである。

又、世の時勢を切論して、義や忠に奔走する輩が専ら事功上に走り、功名功利の念に駆られて、却って過当の病に陥り、そのために事態を悪化して、国家生民の禍となる事を恐れたからである。

草菴によれば、生民の安危の外に国家の安計はない。生民の安危は専ら綱常倫理を立てるか否かに罹っているかにある。

然るに、心性の学を講明することが、天下の民を塗炭の苦しみから救い、国家を長久に保持して太平を開く良図である。

故に道学を講明して、道理に通透する事が時勢に対処する根本であり、そうでなければ却って処置を誤まるようになる。

元来、気節とか気概とかいうものは、すべて講学明道より自然に発するものであって、本末の別を忘れてはならないと。

草菴のこのような態度は、世間から迁儒の誹りを受けるかも知れない。併し、草菴はたとえ迁儒濶空疎として轟々たる誹笑を受けようとも、、それに甘んじて大いに発奮した。

綱常倫理を維持せんとするの志を、堅く持するに務めること以外に、、自己の為 天下の為になる務めはないと考えたのである。

草菴がこのように、時勢への働きをせずに講学を第一義としたのは、一つは草菴が草莽の臣であったことも原因の一つではあった。

又、時勢の推移は如何ともすることが出来ないことを知って、国家生民の為に長久の計を考えたからでもあった。草菴は、時勢は天命の然らしめるところ、只、黙々として講学に励んだ。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2018-06-05 03:54:26

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