第二章 言志録(ハ、陽明学を共に学ぶ)

山田方谷:幼にして聡明、八・九歳にして新見藩儒・丸川松隠の門に入り、程朱学を受け兼ねて詩文を属す。老輩と雖も能く及ぶことなし。

時、人稱して以て神童となす。客ありて問ふて曰く「兒学問して何事かをなす」と、彼れ乃ち声に応じて曰く、「治国平天下」と、客驚嘆して大に望を属す。

方谷は、学理よりは事功に力を用ひたり。

先生、初め宋学を尚び後、佐藤一斎に従って良知の説を講じ、参するに禅旨を以て、豁然として自得する所あり。

藤樹、道徳ありて功業なし、蕃山、功に豊にして文に嗇なり、一斎、文を能くして而して、徳と功とは及ばず。先生、三子に於て長を取り、短を補ひ別に一家を成す。豈に嚝世の偉器ならずや。

王子の学、誠意を以て主となす、致良知は即ち誠意中の事のみ。然れども、必ず、格物を以て之れに配す。蓋し、致良知にあらざれば、以て誠意の本體を観るなし。

格物に非ざれば以て、誠意の功夫を成すなし。二者並び進んで、而して後意誠なり。今、足下の言致良知を専らにして、格物に及ばず、乃ち王氏の学異なるならんか。

彼れ(横井小楠)己に小我の見地を打破して、直に大我の見地に接近し、其往古来今を一貫せる、根本主義を取へ来たれり。故に其心胸の壮快なる、真に天空海濶の看なしとせ
がくにてがくざるなり。

當世に處しては、成るも成らざるも、唯、正道を立て世の形勢に倚るべからず。道さえ立て置けば、後世士孫残るべきなり、其外他言なし。

西洋の学は、唯、事業の上の学にて、心徳上の学に非ず云々。心徳の学在りて人情を知らば、當世に至りては、戦争は止むべきなり。

奥宮悎斎:造次顛沛須臾も、或は思わざること莫うして、時々発憤激昂し、以て謂う均しく是れ人なり。或は聖賢となり、或は愚不祥となる。

我れ、亦堂々たる一男兒にして、志す所未だ遂げず、疑う所未だ開けず、人となりて未だ人たるを得ず。枉けて一生を費やせり。

是の若くにして、斃ふる々を待たばは、即ち真に夢生夢死、草木蟲豸と同じく朽ちん。我れ若し此疑を打破せず、人ば則ち生きて果して何の益あらん、死して亦何をか成さん。

佐久間象山、行ふ所の道、以て自ら安ずべし、得る所の事以て自ら楽しむべし。罪の有無我れにあるのみ、外より至るもの、豈に憂威するに足らんや。

人の知るに及ばざる所にして、我れ独り之れを知る。人の能くするに及ばざる所にして、我れ独り之れを能くす。是れ亦天の寵を荷ふなり。

天の寵を荷ふこと此の如くにして、惟一身の計をなし。天下の計を成さざれば、則ち其天に負くや、豈に亦大ならずや。

縦ひ予今日死するも、天下後世當に公論あるべし。予れ又、何を可悔い何をか恨みん。

身囹圄にありと雖も、心愧怍なく、自ら方寸の虚明、平日に異ならざるを覚ゆ。人心の霊、天地と上下同流、夷狄患難、他を累はし、得ざるも亦験すべきなり。

身を行ふの規矩は、則ち厳ならざるべからず。此れ己れを治るの方なり、己れを治むるは、則ち人を治むる所以なり。

人を待つの規矩は、則ち厳に退くべからず、此れ人を安んずるの道なり。人を安んずる、則ち自ら安んずるの所以なり。

君子五楽あり、而して、富貴興からず一門礼禮儀を知り、骨肉釁隙なし一楽なり。取予苟もせず、廉潔自ら養ひ内妻孥愧ぢず、外衆民に愧ぢずに楽なり。

聖学を講明し、心大道を識り、時に髄ひて義に安んじ、剣に處ること夷の如し三楽なり。西人理屈を啓くの後に生れて、古聖賢未だ嘗て識らざる所の理を知る四楽なり。東洋の道徳・西洋の芸術精粗遺さず表裏兼該す。因りて以て民物を澤し、國恩に報ず五楽なり。

読書講学徒に、空言をなして、當世の務めに及ばざれば、清談事を廃すると一同のみ。

世界は、衆智を集めて、朽ちて一塊となすの論旨、読み来りて壮快言わん方なし。象山も亦、豪傑の士なるかな。象山の門人には、勝海舟・吉田松陰・加藤弘之・西村茂樹・小林寒翆・北澤正誠等あり。

春日潜庵は十八の時、鈴木恕平に就いて程朱子学を修め、漸然頭角を露はし、二十七歳に及んで始めて王陽明文禄を読み、大いに啓発する所あり。

喟然として曰く「人となりては、當に是に至りて止まるべく、学をなしては當に是に至りて止まるべし」と。

是れより篤く餘姚を信じ、沈潜反後其源流究め、道徳・気節・事業一つとして、良知の工夫に出でざるはなし。

「潜庵、資性俊邁峭直、容貌魁梧、音吐鐘の如く、目光爛々として人を射る。其身を持するや厳正にして、閨門の間儼として朝廷の如し。然れども、彼れ一概に各法に泥むものに非ず。」

常に世の拘々乎として、堯行禹超するものを卑めて曰く「大海時ありてか狂瀾を起こし、大川時ありてか横流を生ず。」

「區々として、常を守るの士は興に語るに足らず」と、「其見る所此の如くなりしが故に、終身逆壇すと雖も、大に其志す所を行ふこと能はず、其言行の卓栄なる、決して庸儒の及ぶ所に非ざるなり」。

潜庵が「寄二南洲西郷翁書」に曰く
爾来音問を奉せず、貴國の士時に此地に往来するもの、動履勝確然の操往跡に、変ずるなきを言ふ、欽慕羨企す向きに執事國事を議して合わず。

身を奉じて勇退、未だ其委曲を洋にせずと雖も、世人嘆惜して置かず、執事にありては進むべく退くべく進退綽々然として餘裕あるなり。

独り惜む所のものは、其道の患を奈何せん。僕竊に謂ふ方今土風の振はざる、此時より甚しきはなし。

廉恥退譲衰頽して、地を拂ひ士の稍才幹あるものは、意を営利に専らにして、汲々然として商売の業を習ひ、而見として其耻を知らざるなり。

風俗人心日に以て陥弱し、返るを知らざるなり。夫れ亦何ぞ、土人の業を講ずるを知らんや。土人の業は、上主を尊び下民を安ずるのみ。

主を尊び民を安んずるは、乃ち其大綱なり。而して士風を起振するにあらざれば、不可なり。士風を起振すること学にあらざれば、亦不可なり。

夫れ学は、詞章訓詁の謂に非ざるは固よりなり、故に賢苦の志刻萬の操ありて、而して命世の俊にあらざれば、則ち能くすることなし。

嗟乎士風の振はざる亦宜なり。執事は豪傑の士にして、平生聲色財利に淡なり。之れに加ふるに艱難困苦練磨の功を経る事、既に己れ尋常に非ざるなり。

其天下士風の衰を興起振作する、甚だ難きに非ざるなり。此事執事にあらざれば誰にか望まん。

潜庵書を読むに、章句を修めずにして、義理に通ずるを主とす。其論・孟・周・易・伝習録等を講ずるや、語々霊活聴者をして躍如足らしめたり、とい云ふ。

姚江良知の教、真に、千古の秘を開き、簡にして盡せり。

後儒聖人の道を学ぶ、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。姚江出づるに及んで、始めて琴
鉦聲の正しきを聴くを得たり。

嗚呼子敬足下、人の本心を失ふてより名利の習、天下を陥溺し聡明、英特、才智の士と雖も奮然自ら其中に抜くを能はず。

汲々営々、其心を読書講学に用ふるもの亦惟、夫れ名利のみ。姚江の学以て名利の習を除いて、天下の陥溺を救ふに足る。

藤樹先生文集序に云く
今、先生の集を読み、慨然として予を起すものあり。夫れ天下おみの書を読むもの、千百輩其人少なしとせず。而して超群抜秀の才、何ぞ其れ多く見ざるや。

豈に躬行勉めざるを以てに非ずや、予嘗て謂ふ、先生の躬行の如きは、固より倫此なし、而して、其識見の超卓なる学術の正大なる、亦、古今に絶す。

蔵書、萬巻に盁つと雖も、徒に豪具のみ善読書は、多きを以てするにあらざるなり。要は自得如何にあり。

一念清浄なれば、天地始めて開く、一念昏覆なれば、天地皆閉ず。

史を読めば、無窮の懐あり。千古を涸観し、古今を一視するは、人生の一大快事。

胸懐遍窄なるは、小人の事、濶大遠深なるは君子の境なり。

人生の富貴貧賤は、花の開落なり。生死は即ち晝夜なり、達人以て一矢すべし。

自ら責むる事厚ければ、何ぞ人を責むるに暇あらんや。終身自ら責むるれば綽々然として、餘地あるかな。

謹言は、自ら責むるよりきたる尤も好し。

君子も、亦其遭ふ所に安ずるのみ、蓋し君子の心一身の計にあらず、一家の為にあらず。嗚呼其期する所や大なり。

小周の風月襟懐と適うし、一室の静管観浩然として自得す。

士君子塵世の中にありて、擺脱開くを得て束縛する所とならず。擺脱浄きを得て汚衊する所とならず。此れ之を天挺の人豪といふ。

門を杜じ、書を読み、巻を掩ふて省察す。一室の楽此より善きはなし。此れ少壮の業にして、老大に至りて尤も善し。

若し、夫れ門を出でて應酬し、世を救ひ民を撫するも、亦一室の中にありて、既に、了々然たり。然して後以て経世の業を語るべきなり。

池田草庵人となり、清癯軀幹短小なりと雖も、端荘にして自ら威容あり、名利に近づかずして、清淡自ら甘んぜり。

池田草庵京師にあるや、象山・陽明を以て宗となす。其郷に帰るに及んで劉子全書を読み、大いに悟る所あり。

遂に朱子の学に和通し、慎獨を以て衆となし、特に、人譜の一書を尊信し、之れを小学に参し、諸生に課して曰く、大節劉子の如く、学識劉子の如く、人となり劉子の如くなるを得ば、遺憾なしと云ふべし。

此れに由りて、之れを観れば彼れは、劉子を以て其畢生の、理想とせしものなり。

人壽百年、赫奕たる富貴縦ひ以て、平生の懐抱を快うするも、達者より之れを視れば、亦是れ岩前の雲・草上の露・曾て以て、吾胸中に掛くるに足らざるなり。

而して、世人役々として之れを求めて止まず、適以て其惑を見るのみ。

怒りの克ち難き、猶ほ烈火の撲滅し易ベからざるが如し。克ち得て容易ならざる、乃ち其勇を見る。

士気一度奪へば、萬夫も避くるなし。前面何ぞ復た、難阻の言ふべきあらんや。然らざれば培塿曲徑、亦皆隔礙をなし。

消沮屏息氣を出ずること能はず、豈に以て男子の眉目に愧ぢざらんや。

所謂、仁者は人を視る事猶ほ己の如し。其窮するや、家國天下の事を擧げて、己が分内にあらざるはなし。

所謂、不仁者は纔に軀殻を認めて、以て己れとなして、親戚・兄弟視て猶ほ路人の如し。況や家國天下の事をや。

是故に、大人は其世にあるや、天下の人之れを尊びて此れを親しむ。其歿するや、後世の民之れを哀み之れを慕ふ、而して仁の人は、人皆其生に苦み其死を幸とす。

余、一人と謂う莫れ、天下自ら多少般の人あるなり。僅に百年と謂ふなかれ、身後の歳月甚だ長きなり。而して公論の掩ふべからざる、猶ほ、日月を掲げて行くが如し。

柳澤芝陵:聖賢の学他なし、唯実学実行のみ。是れ朱学の本旨、温山先生の導く所なり。

世の書生と稱すものを見るに、浮薄ならざれば固陋にして、往々世態事情に通ぜず。何ぞ之を実学実行といわんや。

西郷南洲:事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用ふるべからず。人多くは事の差支ゆる時に臨み、策略を用ひて、一旦其差支を通せば、跡は、時宜次第工夫の出来る様に思へども、策略の煩屹度生じ、事必ず敗る々ものぞ。

正道を以って之れ行へば、目前には迂遠なる様なれども、先に行けば成功は早きものなり。

道は、天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修むるに克己を以て終始せよ。総じて、人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るぞ。

能く、古今の人物を見よ、事業を創起する人、其事大抵十に七八迄は、能く成し得れども、残り二つを終り迄、成し得る人稀なるは、始めは能く己を慎み事をも敬する故、功も立ち名も顯はる々なり。

功立ちて顯はる々に随ひ、いつしか自ら愛する心起こり、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとて、不味き仕事に陥るなり。

依て、終に敗る々ものにして、皆自ら招くなり故に、己れに克ちて賭ず聞かざる所に、戒慎するものなり。

道は、天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我れも同一に愛し給うゆゑ、我れを愛する心を以て、人を愛するなり。

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡し人をも咎めず、我れ誠の足らざるを尋ぬべし。

己を愛するは、善からぬ事の第一なり。修業の出来ぬのも事の成らぬのも、過を改むる事の出来ぬも、功に伐り驕慢の生ずるも、皆、自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり。

過を改むるに、自ら過ちだとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をは棄て々顧みず、直に一歩踏み出すべし。過を悔やしく思ひ、取り繕はんとして心配するは、譬へば茶碗を割り、其の缺けを集め合せ見るも、同じ以て詮もなきことなり。

道を行ふ者は固より、困危に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否・身の死生抔に、少しも関係せぬものなり。

事に上手下手あり、物には出来る人出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行ふものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。

故に、只管ら道を行ひ道を楽しみ、若し、艱難に逢ふて之れを凌かんとならば、彌道を行ひ道を楽しむべし。

予、壮年より艱難と艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せなり。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るなり。此始末に困る人ならでは、艱難を共にして、國家の大業は成し得られぬなり云々。

平日、道を踏まざる人は、事に臨んで狼狽し、虚分の出来ぬものなり。

聖賢に成らんと欲する志なく、古人の事跡を見、迚も企て及ばぬと、云ふ様なる心ならば、戦いに臨んで逃げるより、猶ほ卑怯なり。

朱子も、自刃を見て逃げる者は、どうも成らぬと云われたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其處分せられたる心を身に體し、心に験する修行を致さず、只个様の言个称の事と、云ふのみを知りたるとも、何の詮なきものなり。い

予、今日の人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、處分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之なし。

眞に、其處分ある人を見れば、実に感じ入るなり。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬へば、人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず、自分に得心出来ずば、萬一、立ち合へと申されし時、逃げるより外あるまじきなり。

天下後世迄も、信仰悦服せら々ものは、只是れ一箇の眞誠なり。

世人の唱ふる機会とは、多くは、僥倖の仕當てたるを云ふ。眞の機会は、理を盡くして行ひ、勢を審らかにして、動くと云ふにあり。

平日、國家天下を憂ふる誠心厚からずして、只、時のはづみに乗じて、成し得たる事業は、決して、永続せぬものぞ。

今の人、才識あれば事業は心次第に成さる々ものと思へども、才に任せて為す事は、危うくして、見て居られぬものぞ、體ありてこそ用は行はる々なれ。

以上の遺訓を読むに、南洲は決して,軒昂凌属一世を侮慢するが如き、人物にあらずして、其心胸は反りて、至誠を以て充たされ、其決心して動くや、死生を胸中に置かざりし事、想見するに餘りあるなり。

南洲、固より学者を以て見るべからざるも、其自得する所の見解に至りては、決して腐儒の及ぶ所にあらず。

蓋し、社会的衝突の烈火中に於て、鍛錬せしものならん。故に其の遺訓の如き、常に趣味多しといふ而己ならず。実に人をして、拍ちて快と呼ばしむるに足るものあるなり。

吉田松陰:天の茫々たる一理ありて存す、父子祖孫の綿々たる一気ありて属す生や、斯理を質して以て心となし、斯気を稟けて以て體となす。

體は、私なり、心は公なり、私を殺して公に殉ずるものを、大人となし。公を役して私に殉ずるものを、君人となす。

故に、小人は體滅し、気竭ぐれば、則ち、腐爛漬敗復、収むべからず。

死生の悟りが開けぬというは、余り至愚故詳に云はん。十七・八の死が惜しければ、三十の死も惜し々、八九十百になりても、是れで足りたと云ふことなし。

草蟲・水蟲の如く、半年の命のものもあり、是れを以て短しとせず。松栢の如く、数百年の命もあり。是れを以て長しとせず。

天地の悠久に比せば、松栢も一時蠅なり。何年限り生きたれば、気が済む事か、前の目あてもあることか。

人間僅か五十年・人生七十古来稀、何か、腹の云える様な事を遣りて、死なねば、成仏は出来ぬぞ云々。

是れ、豪傑の死生観にして、甚だ痛快なるものあり。その迂廻せる煩瑣的理論に優る事、萬々也と謂ふべし。

松陰、國家多難の時に生れ、心を政事に用ひ、静に学理を講究するの余裕を有せず、年僅かに二十九にして大辟に遇ふ故に、時務に関する論著は多きも、学理の見るべきもの幾んど稀也。

勝海舟:此の心して湛然止水の如く、螢然明鏡の如くならしめば、所謂物来たりて順応し、たとへ萬変に酬酢すと雖も、天機霊活入るとして、自得せざるは無けん。

世間の人は、動もすると芳を千載に遺すとか、旲を萬世に流すとか云って、それを出処進退の標準にするが、そんなケチな了見で何が出来るものか。

男子世に処する、只誠心誠意を以て、現在に応ずるだけの事さ、当てにもならない後世の歴史が、狂うと云はうが賊と云はうが、そんな事は構ふものか、要するに處世の秘訣は誠の一字だ。

藤樹は、朴直誠実にして、又温恭謙退・一学一動規矩に中らざるなく、人を感化するの力尋常ならず、是を以て村民の之を尊信すること神の如く。

記章詞章の学問とは、四書五経、その外諸子百家を残らず読み覚え、文を書き詩を作り、口耳を飾り、利緑の求めにのみして、心の驕慢といふ垣を、俗儒の記章詞章の学問といふなり。

正真の学問は先ず、明徳を明らかにするを、志の根本と立て定め、四書五経の心を師とし、応じ接物の境界を礪石となして、明徳の寳昧をみがく。

五等の孝行・五倫の道の至善をよく行ひ、大和を保合して利貞なれば、時に逢て用いる々ときは、四海をただし天下を治め、伊尹太公の事業をなす。

時に逢わずして窮する時は、一人その身をよくし、性をを盡し命に至りて、孔孟の教化をなす、かくの如く学ぶを、正真の学問と云ふなり。

正真の学問をして成就すれば、心明かに身修まりて、人間の願う程の事は、叶わぬ事はなく候。これ程に益のある事は、又世にあるべしも覚えず。

聖賢の心は、富貴を願はず、貧賤を厭はず、生を好まず、死を憎まず、福を求めず、過を避けず、唯身を立て、道を行ひたまふばかり也。

凡夫のねがふ富貴は、小富貴と云て小さな富貴なり。小富貴のほかに至高貴とて、広大無類成る富貴あり、此大富貴は、凡夫の目には見えぬ故に、もとめ願ふことなし。

聖賢は、此大富貴をおもひのままに得たまふによって、小富貴をば忘れたまひて、求め願ひたまはねば、疏食飲水瓢箪陋巷の貧賤に居たまひても、無上の真楽つねに泰然とありて、凡夫の小富貴を得たる楽しみと同じ。

明徳の明かなる君子は、義理を守り道を行ふ他には、毛頭願ふことなく欲心の迷ひ、少しも無き故に、義理を立て道を行ふ。

親の為に命を惜しまざる事、破れたる屣を捨つるが如くなれば、毛頭死を恐れ生を貪る心なし。然る故に天地の間に何にても、恐るべきものなし。千万人の敵に会ひても、虎狼の狐狸に向かへるが如く、少しも恐る々心なし。

孫子の五事はみちを第一とし、呉子の兵法は私を以って先とす。道といへるも、私といえるも、みな仁義の徳のことなり。

根本さむらいの、品上中下の三だんあり、明徳の十分に明らかに、名利私欲のわづらひなく、仁義の大勇ありて、文武兼ねそなはりたるを上となす。

十分に明徳は、明らかならねども、財賓利欲の迷なく、功名節義を身にかへて、守りはるを中とす。表向きばかり義理立てをして、心には、財賓利欲立身を望み貪りぬるを下とす。

主君の、臣下を差し支ふ本意は、公明博愛の心を基と々して、仮初にも人を選び捨てず、賢智愚不肖その分々相応の用捨てに私なく、道徳才智ある賢人をば、高位に上げし置く。

満事の談合はしらとし、才徳なき愚不肖にも、必ず徳たる事あるものなり。そのえたる所を見知り、分相応の位に置きて、差し支ひぬれば、人間に用に立たぬものは、無きものにて候。

人事を、能く勤めて励ますは、皆人間の力にて成す技なるに依て、押しなべて人事と云ふ。人事をよく勤めて禍に合うふは、運命にして人力の及ぶにあらざれば、天災と云うなり。

人事をつとめずして、わざわいにあふは、天災はあらず、自作の芸と云て、われをつくる禍なり。

惣じて、世間に学問に外れたる者は、一つもなく候。正真の学問明らかならざる故に、色々迷ひたる疑ひある事にて候。学問は明徳を明らかにするを、全躰根本とす。

孝悌忠信の、神道を行ひたまふこと、餓て食し渇して飲むごとくにして、人の褒むるを喜ばず誹るをも憂ひず、富貴にも坐せず、貧賤にも楽しみ、禍ひもも避けず、福をも求めず。

生をも好まず、死をも憎まず、只ひたすらに、仁義五常三才一書の、神道を行ひたまふ事。水の低きへ流れ、盤針の南北をさすが如し。

躰充周曰:つらつら、人物の有様を考へ見るに、善きものは少なく、悪しきものは多し。善きものは育ち難く、悪しきものは育ち易し。

人間には賢人君子なり、たまたまあれども、或は不孝短命なり。愚痴不肖は世界にみちみちて澤山なり。

盗賊などは、何れの代にも探し求めて、殺せども足らず、鳥には鳳凰は稀にして、鳶鴉は雲霞の如し。

獣には、麒麟は世に稀にして、狐狸は其の数を知らず、草木には霊草名木は少くして、名もなき雑木野草は山野に満てり。

天道は、純粋至善なり、と承りをよび候へば、善きものは多く、悪しきものは、少なき筈にしてこそ候へば、却って、悪しきもの々沢山なるは、何たる道理にて候や。

師曰:人の形にて見るに、眼は形の精なれば只二つあり。毛髪は形の粗なればその数多し。これにて、精粗の多寡を推し明らめるべし。

扨、何れのものも其の物の裡にて、精なるものは其の要となり主たり、粗は其の精に従うものなり。然るに依って、人間の精を受けてる聖賢君子は、愚痴不肖を修めて教え給う。

粗を受けたる愚不肖は、聖賢君子の臣下として、聖賢の下知に従ふ。本来君は少なく、臣下は多きものなり。

主君となる聖賢は少なく、臣下なる愚不肖は多きことわり、弁えずして分明なり。精を受けたら聖賢君子は、気きよく質ただしきなり。

自ずから、根本の善を失はず、粗を受けたる愚不肖は、気にこり質偏なるによって、國のしをき道あれば、根本の善を失わず、しをき無道なれば、それにあやかりて、根本の善を失ひ悪を成すものなり。

たとへば癖なき馬をも、下手が乗り候へば、色々癖の出で来るが如し。昔、堯舜の時代には、聖人は、天下の位に上り給ふ。

其の次の大賢人は宰相となり、其の次の賢人は諸侯となり、其の次の君子は御太夫士となり、愚痴不肖なる者は、農工商の庶人となる。

上天子より下庶人に至るまで、分々相応の位に居て、其々の所作を勤め、孝悌忠信五倫の道に、只管力を尽くし、毛頭邪欲の悪念なく、少しの不義をも行ふ事なくて、天下に一人の悪人なし。

聖賢の如くに、智慧の明かならざるを愚痴とす。聖賢の如くに、才能の達せざるを不肖とす。愚痴不肖と雖も良知良能あり。

其の、良知良能を失なはざれば、愚痴不肖も善人の徒なり。愚痴不肖をそのまま、悪人と云べきことはりなし。

才あるも才なきも、知あるも知なきも、形気の邪欲に溺れ、本心の良知を失ふものを、押しなべて悪人とは云うなれば、たとひ、才智芸能すぐれたりとも、邪欲深くして良知暗きは悪人なり。

夫れ、人間の貧富・貴賤・壽天の分数は、みな、資生の始め胎育十箇月の間に、定まる所なり。

その、胎育の間歳月日時に、各々陰陽五行ありて、生長化収蔵玉相死因老の気雑操して、造化するによって、運命等しからず。

その上に又、善悪報応の感化まで入り交じる故に、運命の良きところばかり揃えて、生れ付く事はならぬ勢ひにて候。

然るに依って、人間の世の有様、徳在りて才なきもあり、貧賤にして憂なきあり、富貴にして憂多きあり。

若きとき、仕合よくて老ひておとろふあり、若きとき貧賤にして、老ひて富貴になるあり。卑しき位に生れて、貴人の位に経上るあり。

貴き位に生れて、卑しく成り下るあり、貧賤にして命長きあり、富貴にして命短きあり。誠に色々様々、中々語り尽くし難し。

「衆生の汚濁に染まりて、書物を読むばかりを学問と思うなり。それ学問は、心の穢れを清め、身の行ひを良くする事を本質とす。」

其の心潔く、行跡を正しくする。思案工夫ある人は、物の本読まずして、一文不通なりとも、学問する人なり。

其の心を明らかにし、身を収むる思案工夫なき人は、四書五経を、夜昼手を放さず読むと雖も、学問する人に非ず。

生まれつき勇なるものは、正真の儒学を勤めて、其の勇を仁義の勇となし、生まれつき勇なきものは、又正真の儒学を勤めて、本心に具有したる、仁義の勇を明らかにせよと、教えたまふ義なり。

心を明らかにし、身を治むる思案工夫ある人は、一文不通にても学問する人なりと云うふも、学問の本意を明らかにし、偽の学問を退けん為の假説なり。

「もし、真実の格言なりと認めて、気習の汚れある心を以って、心を明らかにし、身を治める工夫をなして、聖学なりと心得なんば、千万里のあやまりなり。」

心を正しうし身を治め、文武兼備の志ある人士は、たとひ書物を読まずとも、儒門の先覚に従ひ、本心の端的を明辧して、気習の穢れを洗ひて、工夫のまなこ開くべし。

正真の学問は、私を捨て義理を専らとし、自慢のなきやうにたしなむを、工夫のまなことし、親には孝行尽くし、主君に忠節を致し、兄弟の間は悌恵きわめる。あことし

又、友達の交はりは、偽り無く頼もしく、五典を第一の務めとする故に、おほくして良く取入るほど、心立て行儀よくなりゆけり。

うわの空、少し学びて取り入なければ、用に立ち難し偽の学問は、博学の誉を専らとし、勝れる人を妬み己が名を高くせんとのみ。

高慢の心をまなことし、孝行にも忠節にも心掛けず、只ひたすら、記誦詞章の芸ばかりを務る故に、おほくするほど、心立て行儀悪しくなれり。

聖賢より下の生まれつきに、高慢の邪心なき人はなし。天下の悪逆無道をなし、或はきちがひ或は異相になる人、皆この慢心のなすわざなり。

此の自慢邪心が、魔境畜生道へ陥る道筋なり、と戒め恐るべき事なり。然るに偽の学問には、此の慢心を嵩む便りはおほく、捨つる工夫は心掛けざれば、覚えず邪路に入る事、諦め易し。

魔境へ陥るとは、或は贋の学問に耽り、或は学問せざれども、暗處に魔を来たしぬれば、自慢の心根固くなり、枝葉茂りて異風になる。

人をば、生る虫とも思はず、天下に我を越すべきものなしと、人も許さぬ高慢を鼻に当て、親方の愚痴なるを蔑しみ、可笑しくおもひ。

主君を誹り朋友を嘲りて、孝悌忠信の生道を妨げ、邪魔に相通じ、悪魔と作法を合わするを魔境に陥る云ふなり。生れ付き利根無欲健気なる人が、此の病ひ多し。

偽の学問する人に、世間の交わりをむづしがり、困居を好み、或は心気病みなどの如く、引き籠りする者あるは、何としたる事にて候や。

それら即ち、魔境に陥りにて候、高慢の魔心深き故に、本来非も無き世間を非にみて、親のする事も、兄弟のする事も、主君のあてがひも、朋友のなすわざも、皆わけもなき妄作なりと。

得心することによって、右を見るも左をみるも、皆、己が心に叶わぬ事は、別なる故に世間の交わりを厭ひ、一人居る事を好むべし。

心学をよく究めたる士は、義理を固く守りて邪欲なければ、世間の作法にあやかる事なし。心学の磨きなき士は、邪なる名利に耽るものなり。

狂者は、道躰の廣大高明なる所をば悟と雖も、未だ精微中庸の密に悟入せざるに依って、見性成道の心術粗糲迂潤にして、脩行異相にして逸狂なるものなり。

夫れ人間は、迷悟の二に極まれり、迷ときは凡夫なり、悟ときは聖賢君子佛菩薩なり。その迷と悟は一心にあり。

人欲深く無明の雲あって、心月の光の中にして、闇の如くなるを迷の心と云うなり。学問修行の功積もりて、人欲清く尽きて無明の雲晴れ、心月の霊光明かに照らすを、悟りの心と云う。

釈尊十九にして、天子の位を捨て山に入、三十成道の後、人間本分の生理を営まず、或時は乞食し人倫を外にし、人事を厭ひ棄てる。

種々、権教方便説を説きて、愚民を誑誘召されたる事、皆これ無欲無為自然清浄の位を極上と定め、元気の霊覚に任せたる、豪髪の差より起りたる、無欲妄行の誤りなり。

その心の位意馬の奔走は、初学の間は同じけれども、その修行の道は眞妄格別なり。例へば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通しぬる、定めたる道を登るが如し。

平常不易の道なる故に、是を天真と云うなり。佛家の学者の修業する道は、山八分に来れどありて、峯頭まで通ぜざる筋の登るべき、道なき所を木の野を分けて登るが如し。

険阻にして道なく、人間の通らざる所なる故に、これを妄行と云うなり。

心拗けて、口の上手なる者を侫人と云う。才智逞しく芸能文学に優れ、辯舌達し、邪欲深く、義理を守らず、人を化かす事狐の如く、人を損なふ事虎狼の如くなる心根ある者が、侫人の棟梁なり。

世俗の、ぬくちかわきと云える人を、郷言と云う。此の郷言は、機転利根にして、才覚人に優れ、何事を裁判しても疎からず、孝悌忠信をつとめ、行廉直無欲を嗜む。

低所なき様に見ゆれども、その志、唯當世の人の賞むる所の名と、其主君に護られて、立身する利とを、求むる事を専らとす。

義理をも、法をも省みず、名利の欲泥に汚く穢れたる、心根なるによって、孝悌忠信の行廉直無欲の嗜み、軽薄にして根にいらず。

其は、真実の廉直無欲に非ず、心に義を守らずして、利害の分別理根なるに依って、多分武道にぶきものなり。

財実を、蓄ふるを欲とは言えず、一錢にても義理に背きて取り蓄へ、又与ふべきものを惜しみて、与へざるを欲とす。

此の欲を捨つるとは易き事にて、世の中の住居の障りとはならず、学問せぬ人も生れ付き廉直なる者は、不義の蓄へをば卑しみ嫌うものなり、況して心学に志ある人をや。

名の欲は、利欲に較ぶれば、一位況して潔し、子網は、名を好むものは財実を貪らず、命を惜しまず、汚き利欲は少しも無き故に、功名の士をば中の位と定めたり。

心学に志ある者は、名を捨つる程気随の驕りなく。作法よく成りて狂風にも入らず、市井の風にも入らず、君子中行の風に入りて、君子誉求めずして至ものなり。

名利の欲習染の心、間思雑慮を一念の微に省察して、独を慎みて除き去る事、第一の要法なり。

間思雑慮とは、さしたる悪念にあらざれども、思ひて益なく訳もなき事を、繰り返し繰り返し思出て、天真の患ひとなるを間思と云うなり。

應事接物の際、至善のある所を分別思慮する時に、工夫専一ならず、他の念の取り交ぜ起こりて、感通の障りとなるを雑慮と云うなり。

此二はかろき病にて、却克治し難きものなり、よくよく省案あるべし。おんあり

良知とは、赤子孩提の時より、その親を愛敬する、最初の一念を根本として、善悪の分別是非を真実に辨しる徳性の知を云う。

此の良知は、愚痴不肖の凡夫心にも明あるものなり。然る故に、此の良知を工夫の鏡とし、種として工夫するなり。

大学の、到知格物の工夫これなり。独を慎むとは、一念の少し起こる時に、良知を鏡とし、よく省察玩味すべし。

名利の欲、習心、間思雑慮などの邪念起こる時は、我、親の身を損なひ破る不幸の罪人となりて、幽にしては、六極莫重の鬼責を受け、明にしては、五刑莫大の肉刑を受くべき魔心なり。

恐れ慎み、火急にて克去て、神の目に相通ずる、至徳独楽を求むる工夫を云うなり。

何事も異風を好み、人をば生ける虫とも思わず、天下に我を越すべき者なしと、人は許さぬ高慢を鼻に当て、親方の愚痴なるを蔑しみ、友達を侮り、仮初めにも、己を是とし人を非とす。

或は、世間の交わりを厭ひ、独り居る事を好み、或は、甚だしきは、気の違ふ方もありと見えたり。

周公の才ありても、慢心あらば取るに足らず、と孔子のたまふも、高慢の凶徳甚だ害あるとを戒め給ふなり。

学問に志し、ある人は天に及ばず、無学の人も此魔障を能のぞき捨べき事、第一の急務なり。

名利の穢れなく、道に志ありと雖も、高慢の凶徳を除きたる心得無きによって、暗處に魔を来たし、其身凶悪に落入りのみならず、とがなき学問に傷を付ける事、浅間敷嘆かし、我も人も能く戒めむべし。

兵は、凶器なりと雖も、君子これを用れば、天下の乱を定めて、凶器却て宝なれり。小人これを用ふれば、國を乱り、天下に禍ひして、凶器益々凶器となれり。

学問は、明徳を明らかにするを主意頭脳とす、明徳は我人の形の根本なり。主人たり此ぬしくらければ、主君のうつけで天人の妄りかはしき如く。

其人の思ふところ行ふ事、みな天理に背き、偏に名利の欲深く、親を親とせず、君をも君とせず、只、一向に己を利し、人を損ずる處に利発才覚を用ふる。

相争ひ相奪ひ、甚だしき時は、親をも殺す悪逆を成せり。人間の萬苦は、明徳の暗きより起こり、天下の兵乱も又、暗きより起これり。

これ、天下の大不幸に非ずや、聖人是を憐れみたまひ、明徳を明かにする教を立て、人の形ある程のものには、学問を進めたまへり。四書五経のする所、みな是なり。

世間の、学問する人を見るに、学問の実義を知って、学問に志す方は稀也。多分もの読み奉公の望みか、又は、医者の飾りか或は伊達道具かである。

此三つを志として、学問するによって、学問第一義の明徳を明かにする事は、始終とりさた無き事なれば、心を正しく身を治むる益は無くて、文芸を高慢する病の嵩む計りなり。

よき先覚に、親灸なきによって、道の我が心にある事を弁へず、徒に先王の法賢人君子の跡を思て道とし、世間の好格套を善と定める。

世間の理屈を認めて道理とし、是を以って心を正しく身を修と、技量を励むに依って本来沽溌融通の心却ですくみ、自己心裏に固有したる明徳の寛裕温柔くらく、圭角日々にかさみ次第々々に人と和睦せず、異なものになりぬ、かくあれば、学問の益といふものは、只文芸ばかり也。

問曰:人間世第一に願ひ求むべきものは、何事ぞや。
答曰:心の安楽に極まれり。

問曰:人間世第一に厭ひ捨つべきものは、何事ぞや。
答曰:心の苦痛より外なし。

問曰:苦を去て楽を求むる道は如何。
問曰:学問なり。

問曰:学問に苦痛を除き、安楽を得る道は如何。
答曰:元来吾人の心の本体は、安楽なるものなり。其證據は孩捷より5、6歳までの、心を以って見るべし。

世俗も、幼童の苦悩なきを見ては、佛なりどいへり。かくのごとく心の本体は、安楽にして苦痛なきものなり。

苦痛は、只人々の惑にて、自ら作る病なり。心は例へば眼の如し、眼の本体は立て開け自由にして、物を見る事分明快活なり。

苦塵砂など目の内へ入る時は、立て開け自由ならず。物を見る事も明ならず、苦痛こらへ難し。一旦苦痛こらへ難しと雖も、塵砂を除去る時は、本体に帰りて、開閉自由にして、分明快活なり。

其如く、心の本体は元来安楽なれども、惑の塵砂にて種々苦痛堪へ難し。学問は此惑の塵砂を洗ひ捨て々、本体の安楽に帰る道なる故に、学問をよく勉め工夫受用すれば、本の心の安楽へ帰る。

君子は、明徳明徳明らかにして、習に染らず人欲毛頭なし。勿論、酒食財気惑なき故に、天下を得ても興らず、國を得ても憂とならず、家を得ても煩らはず。

妻子あらば妻孥を楽み、牛馬あれば牛馬に滞らず、金銀財賞あれば金銀財賞に溺れず。見事聞事皆楽となる故に、上天子となりても其楽まず所なく、下庶民となりても其楽滅する處なし。

元来色念は、欲火炎上気乱れ、心枯れたる魍魎なれば、本心の太陽一照し、照したまはば其盖悪彼の穢れを破り、其是非彼の惑ひを破り、淫魔を忽ち消散すべくして、此念の放下容易なるべく候。

本来、我人の本心安楽にして、力強く、独座接人の隔なく、明快通達にして、懈念無きものにて候。心苦しく力無きは、従来の習心・習気の祟りにて候。

欲、迷いを弁へ、習心・習気の穢れを洗ひ清め候へば、生れ付きたる本心顕れ、大安楽実躰に立ち帰り、動静語黙、いつも力あるものにて候。

邪念・雑念は、習心・習気の妄動にして候へば、天君泰然たれば、いつとなく無くなるものにて候。

明徳を暗くするは五病:習心、好悪の執滞、是非の素定、名利の欲、形気の便。

明徳喜事に感通する時は、陽気動て昇るによって、其色うるわしく、其聲おだやかに、其威儀のどやかなり。

明徳哀事に感通する時は、陰気動て降る因て、其色いたみ、其聲なやみ、其威儀せまれり。

水止れば月現じ、心静なれば道存ず。間思雑慮石を投げ、所謂存養は静時の省察、省察は動時の存養。本躰即工夫、工夫即本躰なりき。

我に、眛からぬ心あり、明徳といひ良知とも呼べり。これ赤子の誠にて聖人の本也。只此心に打ち任せて、意なく必なければかかる人は、順境も自在逆境も自由て真に楽し。

凡夫は、常に虚明中正を失ひ、平常軀殻の為に、俗尚好悪発して、虚明中正ならず。故に、藤樹の学術は常に利害・名根・意必・敵莫・好悪の執滞を来たす。

是非の素定、財色、勝心、毀誉、得喪、勝迎等の病原を立去って、中正に復れば、心の神明順応して當下良知となる。所詮、王子の良知と藤樹の良知と指す所、異地とは是也。

説楽は心の本躰也、此楽人々具足のものなれども、意必固我の惑に因て気結れ、心塞て萬の苦痛生じ、天下の万事万境におひて、碍り悩ざる所なく、終に本来具足の楽なきが如し。

然に、学問をなして時習ときは、意必固我の惑解きて、本来具足の説楽の徳呈露す。己に此徳に入るときは、従前種々の苦痛、悪夢が覚たるが如し。

故に、順境に逢ひては愈々楽しみ、逆境に逢ひても其楽を改めず、慊鬱不平の気、露も萌さず、心廣體胖に坥蕩々として、中行の君子となりぬ。

凡心の万不同なりと雖も、其根皆此四のものに在り。此病根なき時は、習もけがす事あたわず、名利酒食も溺す事あたわず。

萬欲此根より生ず、四の物各累をなすに非ず、累意ただ一病也、意に始て必に遂、固に留て、我に成、我又意を生じて、循環極まりなし。

源の頼光、小松の内府重盛、畠山の重忠、文武を兼て士君子の風ある人なり。かかる人に聖学の心法を聞かせば、唐まで聞るほどの人に成給へ候。

良き武士といふは、飽くまで勇ありて、武道・武芸の心掛け深く、何事ありても躓く事なき様に、たしなむもの也。

さて、主君を大切に思ひ奉り、自分の妻子より初めて、天下の老若を不憫に思ふ、仁愛の心より世の中の無事を好み、其上に不慮の事出来る時は、身を忘れ家を忘れて、大いなる働きを成す。

歌道は、我国の風俗なれば、少しなりとも、心得たき事にて候。されどもいにしえの歌人は、本在りての枝葉に、歌を詠みたる由にて候。

本と云は、学問の道なり。学問の道に文武あり、文武に徳と芸との本末あり、文の徳は仁なり。武の徳は義なり。

仁義の本を立て後、弓馬・書数、禮楽・詩歌の遊びあり。これ等は、文武の徳を助くるものなり。

文武の道をよく心得て、武士を導き民を撫おさめ、其余力を以て、月花にも野ならず、歌をもてあそばれ候ば、花も実もある好人たるべく候。

武道の物語りを聴き候、其の云へるは、吾は、人の云ふほどの手柄も無し、若き時より愛敬ありて、人に愛せられたる者也。

此の故に、世に高名あり、武偏の極意は、愛敬なりと云へり。何事も、至極にいたれば、道に近く候。

龍というものは、羽なくて天に昇る程の、陽気の至極を、得たるものにて候へども、平生は、至陰の水中に、わだかまり居候。

是を以て、真実に武勇に心掛けある人は、常々の義をよく仕事に候。

俊約は、我身を無欲にして、人にほどこし、吝嗇は、我身に欲深くして、人にほどこさず、器用は、物を求めず蓄えず。

あれば人に人にほどこし、なければなき分に候。奢は蓄へをかず、器用なるように、見え候へども、其用所はみな我身の欲の為、栄耀の為にて候。

奢て、用たらざれば尤人にも施さず、しかのみならず、家人を苦しめ、百姓を搾り取、人の物を借て返さず、商人の物を取りて、價をやらずと云う也。

飲食男女の欲も薄く、行跡良くても心志の定所なき人は、父母兄弟妻子の集りたる古郷なくて、只、独り身の浮きたる如く也。しからば、往々何國に留まるべきやらん。

昔より今に至るまで、色々の願を立て難行をして、神佛に祈るもの多く候へども、福を得たる者一人も無し。

親に孝行にて、神の福を賜り、君の恵みを得たる者は、倭漠共に多く候、然るに、目の前に印ある家内の福神には、福を祈らずして、印も無く眼にも見えぬ所に祈り候。吾身も親の身なり、千里を隔といへども、父母にはなれず。

人生の境、様々ありと雖も、順逆の二に漏れず。小人は順に遭ふて奢り、逆に遭ふては悲しむ。春秋を常として、夏冬なからんと思ふが如し。

君子は、順に遭ふては物をなし、逆に遭ふては己をなす。春夏にのびて、秋冬にをさまるが如し。富貴福漳は春夏の道なり、貧賤艱難は秋冬の義なり。

君子に三の憎しみあり、其の功を誇り、賞を受くると多き者を憎み、富貴にして驕る者を憎み、上に居て下を恵まざるを憎む。

判官義経は、其人から道を知らず、勇気に依りて失ありと雖も、大功ありて賞を受けず、人情の憐れむ所なり、頼朝判官に飾るべからず。

驕りは、地道の亡す所、人道の憎む所なり。謙は天道の増す所、地道の恵所、人道の好む所也。

政の才ある人を、本才と申し候、其人に学あれば、國天下平治仕申し候。本才ありても学なければ、闇の夜に灯火なくして、行くが如くにて候。
聖賢を直に師としては、書を読までも、道を知徳に入こと成申候。今の時、聖賢の師なく候へば、中人以下の人は、書を学び候はでは、道を知と成り難く候。

世の中の人成らず富候はば、天地も其のま々つき候なん。貧賤なればこそ、五穀諸葆を作り、衣服を織り出し材木薪を切り、魚を採り諸物を商ひ候。

六月の炎暑を厭わず、極月の雪霜を踏みて、瓜・野菜などを売り候。事富候はば仕邊く候や、農工商も貧より起りて、世の中立ち申候。

只、農工商のみに非ず、士と雖も貧を常として、学問諸芸を励み才徳達し候也。生まれ乍ら栄耀なる者は、多くは不才不徳にして、国家の用に立ち難く候。

貧しくはあれども、乏しき事は無く揃う。人々分を安じて願なければ、身は労して心は楽めり。

流れは常に生て溜まり、水は程なく死ぬ。柱には虫入り、鋤の柄には虫入らず。

心の楽しびは、奪ものなければ、人鬼共に安し。

凡人は、貧賤なる時は憂苦し、富貴なる時は逸楽す。共に日を空して、愛する事を知らず。目前の利を心として、千載の功を忘る。君子は貧賤なる時は勤学し、富貴なる時は人を愛す。

存養省察は、同じ工夫にて候。存養は静中の省察、省察は動中の存養に候。共に慎独の受用なり。天理の真楽其中に御座居候。

君子

一、仁者の心動きなきこと大山のごとし、無欲なるがゆへによく静なり。

一、仁者は、太虚を心とす。天地、萬物、山川、河海みな吾有也。
  春夏、秋冬幽明、晝夜、風雷、雨露、霜雪みなわが行なり。

一、順逆は、人生の陰陽なり。死生は晝夜の道なり。何をか好み何をか憎まん。
  義と共に従ひて安し。

一、知者の心、留滞なきこと流水のごとし。穴にみちひき々につきて、終に四海に達す。
  意を起し 、才覚をこのまず、万事不得己して応ず。無事を行て無為なり。

一、知者は、物を以て物を見る。己に等しからん事を欲せず、故に周して比せず。
  小人は、我を以て物を見る。己に等しからん事を欲す、故に比して周せず。

一、君子の意思は内に向ふ、己一人知るところを慎で、人に知られん事を求めず。
  天地神明と交わる、其人から光風霄月の如し。

一、心地虚中なれば、有することなし。故に問ことを好めり。勝れるを愛し、恐れるを恵む。
  富貴を怨まやまず、貧賤を侮らず。

一、富貴は人の役なり、上に居のみ。貧賤は易簡なり、下に居のみ。
  富貴にして役せざれば乱れ。貧賤にして易簡ならざれば破る。

一、志を持する所は、伯夷を師とすべし。友を千仭の岡にふるひ、足を萬里の流に洗ふ如く
  くなるべし。衆を抱く事は、折下恵を学ぶべし。

一、天空して、鳥の飛に任せ、海広くして魚のたどるに、従ふごと如くなるべし。

一、人見てよしとすれども、神のみることよからざる事をばせず、人みてあし々とすれども、
  天のみることよき事をばこれをなすべし。

一、一僕の罪かろきを殺して郡國を得るこtもせず、何んぞ不義に興し乱にしたがはんや。

小人

一、心利害に落入りて、暗昧なり。世事に出入して、何となくいそがはし。

一、心思外に向て、人前を慎のみ。或は頑空、或は妄慮。

一、富貴悦楽を好み、貧賤患難をいとひ、生を愛し死を憎みて、願のみ多し。

一、愛しては、生きなんことを欲し、悪むでは死せんことを欲す、すべて命を知らず。

一、名聞深ければ、誠すくなし。利欲厚ければ、義を知らず。

一、己より富貴なるを羨み、或いは嫉み、己より貧賤なるを侮る。

一、才知芸能の、己にまさる者ありても、易をとる事なく、己にしたがふ者を親しむ、
  人に問うことを耻て、一生無知なり。

一、物ごとに、実義とは叶はざれども、當世の人のほむる事なればこれをなし、
  実義に叶ぬる事も、人をしればこれをやむ。

一、眼前の名を求むる者は、利他の名利の人、これを小人といふ。

一、形の欲にしたがひて、道をしらざればなり。

一、人の己をほむるを聞いては、実に過たる事にても、悦びほこり、己を誹るを聞ては、
  有ることなれば驚き、なき事なればいかる。

一、過ちを飾り非をとげて、改むる事をを知らず、人みな其人がらを知其心根の邪知て
  唱ふれども、己一人よくかくして知らずと思へり。欲する所を必として、諫を防ぎ
  て入れず。

一、人の非を見るを以て、己が知ありと思へり。人々自慢せざる者なし。

一、道に違ひて誉れを求め、義に背きて利を求め、士は媚と手立てを以て、
  禄を得んことを思ひ、庶人は人の目を晦まして利を得る也。

一、これを不義にして富かつ貴きは、浮べる雲のごとしと云へり、終に子孫を亡ぼすに
  至れども察せず。

一、小人は己ある事を知て、人ある事を知らず。己に利あれば、人を損なふ事をも顧みず。

一、近きは身を亡ぼし、遠きは家亡ぼす。自満して才覚なり也と思へる所のもの是なり。
  愚これより甚だしきはなし。

今の時代に志ある人は、たとひ其身根気強く、愛情深くして、三年の喪をつとむべ者なりとも、人の師父兄となりて子弟を導きならば、己一人高く行き去て、人の続き難き事はすべからず。

括り付きて、衆と共に行ふべし。武将の道も同じ、一人抜け駆けして高名するは、独夫の勇なり。人に将たる者は、総軍勢の駆け引きすべき程、考えへて進退す。

己が馬の速木が為に、独り行かず俗に異なる者は、一流となりて俗をなさず。天地の化育を助くべからず。

終に小道となれり、異端と是非を相乗へり。道の行なはれざる事、常に此処にあり、俗に抜きんすべきは、民の父母たる徳のみ。

誠意は、工夫本体なり。主忠信は、未発の時に誠を養ふなり。誠意は、己発の時に誠を存するなり。誠は、天の道なり、誠を思ふは、人の道なり。

誠を思ふ心真実なれば、誠即ち主となりて、思念を借らずして存せり、是主忠信なり。又、先儒の説に、真心に発する是を忠といひ、実理を盡す、これを信といふなり。

聖人は俗と共にあそぶ。魯人硫較すれば孔子も亦獵較す。衆と共に行を以って大道とす。善なる時は衆と共に善なり。

時至ざる時は、衆と共に愚なり。故に学者俗を離れず、道衆を離れず。

仁義禮智信は、天理未発の中也。喜怒哀楽は気の霊覚なり。

惻隠羞悪辞譲是は、仁義禮智の端なりと雖も、気に感じて声色に現はる

小人は、自欺で気に随ふ。故に心の躰空なる時も真空ならず。念慮動く時は妄也。

義は孝の勇なり、禮は孝の品節なり。智は孝の神明也。信は孝の実也。おう

小人の心法は、外を照らして内昏し。人の非を数へて、己が不善を改めず。燈台の下暗きが如し。天下の人、皆内明らかにして、己が不足を知る。

外温にして、人の非を咎めず、天下の人皆我に混ざる所ある事を、知は孝の象の如く、相助けて天下を平なるべし。

夜寝られざると、疾病のなす所と雖も、大方は思慮多くして、精神を消より起こるもの也。天下何をか思ひ、何をか慮らん。

義に随ひ理に応ぜんのみ、知者は無事なる所行といえり。万事私より成すべからず、天を以て
動くべし。

好むともなく、憎むともなく、やむを得ずして応ずるを、天を以て動くと云ふ。平人は私の願ひあり、時を得ざるの動きを成さんとす。

此れ故に思慮多し、天下我にあらざるものなし。何をか願ひ何をか求めん、心ほど大事なるものはなし。

聖人凡夫同じき所なり。天下を与えんと云ふとも、命には換ベからず。されば、天下よりも重きものは、我身なり、それより命よりも、又義は重し。

天地の間に、己一人生てありと思ふべし。天を師とし、神明を友として見時、外人によるの心なし。かくの如くなれば、内固して奪ふべからず。外和して咎むべからず。

慎獨の工夫は誠意なり、自欺ことなきものは、慎獨にあらずや。致知はただ聖人至るの的なり。工夫は全く格物にあり。格物は下学なり、致知は上達也。

聖賢も又静坐ありや?静坐あり、孔子困居し給う時は、中々如たり、夭々如たり、心主なき時は必ず散ず。故に忠信を主とす。

これを意を誠にすとも云、人欲の妄は間思雑慮成しぬ偽なり。其意を誠にする時は、忠信主と成て天理を流行す。

空々如たり。故に、呼吸の息は頂きより踝に至り、躰ゆるやかに色温なり。是静坐の至り也。心に妄ある時は、息喉よりも入る。心誠なる時は、臍の本より出、養生の術も亦こ々にあり。

人も天理の自然に従って、或は労し、或は休す。其間に私心を入ざるは無為なり。

君たる人の、時所位に従って、無事を行ひたひ、天下国家浄清なるを無為にして、治といふ。

夫れ道は、声も無く臭いも無くして存せり、思いに及び難し、言は書に盡し難し。漢字の文章に含める深理は、和字の假名書きに写し難し。

然りと雖も、学者聖経賢傳の、吾心の註釋なる道理を失ひ、心を外にして、経傳を見る時は、経傳本となり、吾心末に成りぬ。

故に、経傳の文の高く深きを弄び、其理を口に述ぶるばかりにて、心を失へり。文の奥義も口耳の学となりて、斉家治國の用を成さざる事久し。是正心修身の実学に当らざれば也。

仁國になるが故に武なり、仁者は必ず勇なるの理明らかならずや。穂区北狄は勇國也、然れども不仁にして禽獣に近し、勇者は必ずしも仁あらずの至言まことならずや。

知者は惑わず、勇者は恐れず、仁者は憂えず、知は明の至なり、有は義の徳也、仁は生の精なり。此故に仁者は命ながし。

剛毅ならず、静かなるは尤よき事なり。然れども、文書のみ事とすと聞所はいかかがあらむ。公家か士儒か出家などにしてはよかるべし。

武士たるうへは、をのづから其の勤めあり。孔子も書をのみ事とは、し給はざりしき士大夫なりし故に、文武共にかねて、射術の道をも待給へり。

何心もなきは、人心の常なり。敬と戒心恐懼といふは主意なり。常に心にこれを持するにあらず、敬は心の徳なり。

須臾も離ベからず、只主意のむかふ所、異なるを以て君子といひ小人といふ。外に向て人の見聞する所のみを慎み、内心に恥ざるを離ると云即凡夫なり。

君子は主意とする所内に有、天地神明を師友として、人の見聞及ばざる他、一念獨知の所におひて戒懼す。是を慎独と云。

己が心に恥じて、一人知る所を慎みなば、何れの時にか不善をなし、不義を成さんや、義と共に随て、好悪の欲なき時は、天理常に存す。

敬是より大成るはなし、只敬は一のみ、外に向ひ内に向ふの別あり。君子小人の別る々所なり。

大才は刀の如し、よく砥ぎて柄鞘をし、晝夜身を放たずとといへども、一生用ひず。威を以って無事也。小才は刀を、朝夕用ひるが如し、人を損なひ身を損なひて、無事なる暇ひなし。

勇者は、仁知を兼ねて怖る々所なく、知者は仁勇を兼ねて、てらざ々る所なく、仁者は知勇を兼ねて、憂る所なし。故に君子の道三との給へり。

心は無事無臭なれば、感応の跡依て知べし。明師ありといえども、一念の微は知難し。只我にありて、善悪を知り霊明を奉時する時は、師我に有て幽明の隔てなし。

古の文を学びしは、詩を始めとす。詩は志を云へるものなり。善悪邪正共にみな人情の実事也。故にこれを学ぶ者は実学なり。

人倫日用の実事に於いて、善心を渙発し、善行を興起し、悪を懲らし、邪を防ぐ事を知れり。これ詩に依りて、志の起こるにあらずや。

不仁者は、物を二にす、一己の私を持して、世を渡るもの也。順を好み逆を憎み、富貴を願日貧賤を厭ふ、故にせは々々しきは、厭ひ憎む所なれば、其の地に安ずる事あたはず。

或は溢れ、或は破る々ものなり。富貴を得ては大に悦び、己一人の栄耀とす。終は病苦を招き、或は家を亡ぼすものなり。

共に、久しき能わざる所なり。周に大なるたま物ありて、善人是とめりと云へり。

武王、天下を有給ひて、商のだいにつみ蓄へたる財閥を、天下に施し散じ給ふ時、四民の頼りなき者に与へて、余あるをば善人を選み興へる。

富しめ給ヘリ善人は、人欲の私なき者なれば、天下の財用は、天下の通用なる道理に任せて、富有に成ても自ら宝とし楽しまず、人に施すを以て楽びとする。

君子は、民の父母と云えるも、父母たる者宝あれば、子に分かち与ふるを以て、楽びとするが如し。

上より國天下に、財を分かち与へむと給ひては、如何ほど多くありても、あまねくを呼ばざるなり。

しかのみならず、与へて却て害にならとあり、只、其利を利とする様に、政をし給ふなり。尚漏る々所あれば、彼善人仁者是を救へり。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2014-09-17 08:05:31

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