第九章 言志録(ロ、王陽明に学ぶ)

その、良知の実質となる無善無悪とは、何処までも燃え盛る生命そのものを、表現するもの。従って善悪に捉われず、これを自在に操作するものでなければならない。

この意味で、陽明の説く無善無悪は、「善悪をなみするもの」ものでもなく、又「善悪なき白紙の状態でもなく」、又「善悪なき白紙の状態」でもなく、「善悪を超出しつゝ、善悪を創造する」ものでなければならない。

陽明は又、「善悪一物」と云うたが、これも善の要素と悪の要素が混在していると謂う事ではなく、善悪何れへの翻転も、良知の独用(ひとりばたらき)によって、―――

―――自在に行われると謂う事、従って良知そのものは、善悪を以て規定し難い骨格を持つと謂う事であろう。善悪一物と無善無悪とは同一事態の異なった表現である。

良知を、善ん一辺と規定する時、その活潑自在な自主的想像力が、殺がれる恐れがある。併し又、無善無悪の一層に閉じ込めるなら、曖昧な妥協論に引き摺られる恐れがある。

無善無悪なるが故にこそ、念々不断に独自の善を創出する事が可能なのであり、無善無悪と為善去悪とは、飽くまで一体化してあるのであ

そしてその事は、理学と心学との見事な総合を意味するものであり、中国思想上新しい心学が誕生した事を意味するのである。

朱子学よりすれば、理を頭から無視する禅的心学は、その異端的性格が見分け易いが、理を口にする陽明心学は、巧みに人の眼を欺くから、それだけ悪質な心学と謂う事になるであろう。

清朝の朱子学者、張武承はいう「勝手な議論をぶちまける陽明の如きは、孔子・孟子を借りて禅宗を飾り、権謀によって道義を誤魔化し、程子・朱子規矩を破壊し、聖賢の門庭を踏み躙っているのである。

陽明学は、心学であるとはいえ、禅に解消しきれない、独自の体質を保持しているのである。そして陽明の出現は、とかく理学の勢力に押され気味で路線に、生気蘇らせる切っ掛けとなり、その風潮から、禅を中心とする明末仏教の復興運動が行はれるのである。

陽明学は、心学と理学とを総合し、価値判断に於いては、無善無悪と為善去悪とを兼備一体化せるものであった。陽明の生涯は、其の歿後は陽明学派の動向から省みる時、この両者の均衡の上に成り立っていたように思われる。

併し彼が歿して後、心学的側面と理学的側面の何れを重んじるにより、陽明学派は様々に分派し、一家言を弄する思想家が輩出するに至る。

万暦年間に及ぶや、理学を完全に心学化した左派王学が、圧倒的勢力を占めるに至った。その先駆となったのが、陽明の高弟であり、「王門の顔淵」と呼ばれた王龍渓である。

龍渓は、既成の道徳律に寄り掛かることを極度に忌避し、譬え善を行うにしても、その痕跡を跡形もなく払拭してこそ、心学としての良知の真生命が発揮できると考えた。

「心は元来、悪のないものである。若し意を起こさなければ譬え善でも名付けようがない。それが至然である。若し意を起こせば妄となる。

譬え善意を起こしても、既に本心がずれているのであって、これが義襲し(外部から義理をつかみ取る)と謂うものであり、誠と偽との分岐点である」

「一切の俗情欲望は、全て意から生じる。心はもと至善なのだが意に動いて、始めて不善が生じる。若し先天の心体上に根本を据えれば、意の動く所には、独りでに不善は無くなるし、一切の欲情欲望は独りでに無くなる」

このように意は、その発動場面に於いて、正邪が検討されるべきではなく、絶えず良知の本体に還元されて、その体質の点検洗浄が行わなければならない。

つまり、意が惜しみない努力を傾けて生み為した、是非善悪であるにしても、それを後生大事に抱え込まないで、無善無悪なる心の本体の中に送り込み、そこで溶解させなければならないのである。

それが、「良知は是非なきも是を知り、非を知る」と謂うものであろう。その良知の溶解作業に重点を置くならば、自ずと為善去悪よりも、無善無悪の方が前面に出て来ざるを得ない。

自己の本心に忠実であるのが、学問の第一義という事である。本心が、自己に忠実率直に生きているのが正道、それに反するのが異端である。

陽明は、知良知・知行合一・格物など、儒典にみえる術語を使用して、その思想を表現したのが「聖人が六経を述べたのは、人心を正そうとしただけの事だ」つまりは、教学の枠に縛られぬ生の人間が、思想界の前面に躍り出て来たのである。

「王陽明は、帝王を助けるだけの持ち主であったが、宰相の地位に付かなかったので、その徳を天下に及ぼすことが出来なかった。

けれども、古の聖人がまだ述べた事も無い学説を唱えて、天下の豪傑を鼓舞し、千年も途絶えていた学問を復興させたのは、何と偉大ではないか」

嘗て、朱子学全盛の時代では、「仏教が盛えれば儒教が衰え、儒教が盛えれば仏教が衰える」という事が、当然の事として主張された。

併し今や、儒仏相互を敵対関係に於いて捉える、朱子学から解放されて、儒仏の枠に捉われず己が心(良知)の欲する侭にどこからでも、自己の自己形成の素材を求め得る道が、開かれて来たわけである。

この思想運動に於いては、最早儒が先か、仏が先かは第一義の問題ではない。自己の心に忠実か否か、自己の心的膨張を如何に効果あらしめる否かゝ、最大の肝要事となったのである。

世間法の変態が行き詰まったら、出世間法で救わなければ、その変態はいつまでも已まない。出世間法の変態が行き詰まったら、世間法で救わなければ、その変態は何時までも已まない。

所が、儒教徒にも仏教徒にも、そうした深憂を抱いた人が少ない。だから互いにその弊害を除き合うことが出来ず、誹り合って弊害が益々激しくなるのだ。

つまり彼は、儒仏両教共に低調を究め、世情は変態百出状況にありとし、今こそ出世間法たる仏教の出番だと云い放っているのである。

彼は特に、政治の担い手たる官僚階層の無能と無責任に、剥き出しの怒りをぶつける。彼らは権柄をかさに着て人民から搾取し、賄賂を貪って袖の下に隠し、上は君主を積んぼ桟敷に置いている。

又中は、仲間同士で庇い合い、下は、人民の怒りを抑えつけている。人民は国家の根本であり、人民を虐めるのは、君主を滅する事になる。其れは軈て、彼等の誇りとする官爵を根こそぎする事に気付いていない。

何たる大馬鹿ものであろうか。彼が科挙試を無用の具とし、之に依って人材を登用し、政治の助けとしようとするのは、火に油を注ぐようなものだと謂うのも、遣り切れない程の官僚不信感を表現するものであろう。

「僧侶たるものが(出家するに当たり)髪を断つのは、首を断つのと同じ事、今更断つべき首なんてありはしない」と喝破すべき達観は、平素から不惜身命に闘志を燃やしていたのであった。

彼の獄中の語に言う「万物を寄せ集めて、全一の自己とする。全一の自己となれば、己の外に物はなく、物の外に己はない。物の外に己がないから、己の作用は卽ち物の作用である。

己の外に物がないから、物の作用は己の作用である。……己が物を転ずるのを如来という。逆に己が物に転ぜられると如去という。如去は衆人であり、如来は聖人である」

この言葉は、端無くも、「聖人の心は天地万物を一体となす」という信念の下に「功利の毒が人の心随に沁み込み千年近くも習い性となっている」

時勢に体当たりして行った王陽明の「抜本塞源論」を想起させるであろう。「西山日記」の伝える所に依れば、達観は或る時廬山の石壁に刻まれた王陽明の詩を見し、―――

―――それが丁度、晨濠の賊討伐中の事を知って「古人は、慌ただしい軍中にあっても、こんなに心が落ち着き、才気が筆墨の間に横溢している。

だからこそ、あれだけの大功を立てる事が出来たのだ」と感嘆したという。陽明心学の源流は、脈々と達観心学へと伝わっていたのであろう。

「道の真によって身を治め、その緒余によって国家を治め、その士苴によって天下を治める」

「自分の本性を十分に会得すると、それによって君に仕えると真の忠となり、それによって親に仕えると真の孝となり、それによって友に交わると真の信となり、それによって夫婦であると真の和となる。それを天下国家に施すと、あらゆる施設、一事一法が全て不朽の功業となる。」

つまり彼は、先ず根本実在としての自性を確立する事が、肝要であり、それを基にしてあらゆる対応の場に接していくならば、人倫生活は真となり、天下に不朽の功績を残す事が出来ると謂うのである。

覚浪道盛は、明清の変革期を生き抜き、民族滅亡の惨状を目撃したゞけに、その禅風は一層壮絶にならざるを得なかったのである。

彼に於いて注目すべきは、非情無残な様相を呈するに連れて、宿命感や、世紀末的無常観、或は念仏禅などの流行する中にあって、そうしたものには目もくれなかった。

如何なる社会的災厄も、大乗菩薩道を実践する方法として受け入れ、大治紅爐禅の中で溶解し、新しい歴史形成の要因としようとした事である。

「こんなに、世界は壊れていますし、人心も壊れ果てゝいます。仏菩薩としては、どんな慈悲方便に依ってこれを救済なさいますか」という、ある官僚の問いに対し、道盛は世の治乱を、銀塊の純と不純に例えて、次のように答えている。

混り気のない銀塊は、どんなに砕いても清純な銀塊である。だがそれを爐にかけ、一分二分と銅を混ぜるに連れて、銀の精度は次第に落ち、遂には全くの銅となってしまう。

純粋な銀塊にも比すべき国初の太平が、此処迄衰乱して来たのは、正に銀が銅と化したも銀同様の事である。「であるからして、天もこれを嫌がり、人もこれを嫌がるのである。

そこで、是非とも(歴史の現状を)一挙に大爐火に投じぐらぐら烹、銅・鉛・鉄・錫をすっかり溶かしてこそ、あの国初の本色に還るであろう。」

こうして、この問答は次のように締め括られている。「そうだとしますと、造物者は必ず吾々に毒手下すのでしょうか、」「毒手下せばこそ、造物者は仁と言えるのだ。そうした手立てがなければ、天地の心は消滅してしまう」

彼は、決して造化の下す毒手を、手放しで楽しむ悪趣味に堕しているのではなく、歴史や造化を動かす最根源者は人間の心力であるから、毒手はそのまゝ時局を回転する好手となり得ると謂うのである。

当時、各地に発生した流感の原因が、為政者の搾取と無責任にあると、見抜いていた道盛は、「人民の背闊実態も弁えず、乱に代える乱を以てしても、―――

―――人民の按ずる日はあり得ない」と、手厳しく為政者を批難し、「乱に代えるに治を以てする」ための転機を、「天運気勢」に求めないで」、「吾人の自心」に求めよと主張するのである。

聖世と乱世とを、一味に捉える政治の力学を動かす、回転の軸となるものは、本来、人間に内具している心力以外にはない筈だ。而も陽明学一門が漸く衰退期に入った今こそ、活法の出番が訪れたのである。

「娑婆は、欠陥世界である。欠だから中々意の侭にならないし、陥だから中々出離出来ない。意の侭にならななければ、どこに往っても苦だし、出離出来なければ、、どこに往っても引き摺られる」

と、遠観は述べており、そこから脱出する為には、退境を追いかけないで、身体が己の所有でない事を知れ。と、戒めているのであるが、道盛は、さらに一歩進め、―――

―――「天地古今には、空欠する時はなく、空欠する人もなく、空欠する理もない……だのに今日の人は、生まれ合わせが悪く、何等の力もないのを恨みに思っている。

では一体、どんな時世に生まれ合わせれば、結構だとするのか、どんな力を授かれば満足するのか、そんなに時世を恨み、非力を怨むのは自心を知らないからだ。

生死昇沈は、全て自己の業力に依るものである。その業力の強弱を反省もせずに、時世や世事を逆恨みしている」。

此処で、道盛は乱世に生まれ合わせた事を、恨む心情のいじましさ、卑屈さを追求し、時弊と生の体当たりに依ってこそ、治世の招来可能であり、人心には本来そうした力用が備わっていると、策励しているのである。

このよう二、時代への怒りと、時弊に対する担い手意識が燃え上がる時、恨みは怨みに変質し、「天地の義気」としての性格を帯びて来る。

斯うして道盛は、喜怒哀楽を軽々しく表に出さぬ事を、身上とする禅門の常識を打破し、「怨の禅法」を誰憚ることなく、押し出していく。

参禅学道とは、怨怒の炎を燃え上がらせることである。怨め、怨め、怒れ、怒れ、雷のように地鳴りのように、道盛はそうけし掛け呼び掛けるのである。

怨は、最も悪質な煩悩の一つではないか。と疑った途端、忽ち「分かっちゃいない」と、突き放されるであろう。只道盛のいう怨は、被害者が加害者に対して抱く憎悪の感情とは、全く別箇のものである事に注意する必要があろう。

彼の云う怨は、加害者が加害者となった事を怨むのである。最精密にいえば、加害者が加害者となった自己の運命を呪い運命を呪い怨むのではなく、加害者が加害者となるまで低落し、自己の本分を喪失した事を怨み怒るのである。

自己が支えている世界そのものである。そこで、恨みと怨みの区別は明らかとなる。怨みは決して悪性の煩悩ではなく、参禅学道者が自らに加える厳しい警策なのである。

道盛は、激しい動乱期を生き抜き、面を背けるような惨事にも、屡々遭遇したにも拘わらず、末法意識と謂うものは、微塵も抱いていなかった。

それどころか、歴史を循環させる人間の能力を確信し、土人に変って時代を荷う意識に燃え、儒仏の枠に捉われぬ独自の法力に依って、衆生済度の難事業を完遂しようとした。

当時流行した、念仏法門・公案・棒喝などは、全く彼の眼中になかった。彼が愛用した「往法位世間相常往」という語は、森羅万象が様々な差別相を呈しながらも、―――

―――そこに其の侭、実相が顕現しているというのが、伝統的な解釈のようであるが、道盛に於いては世間相が如何に苛烈な地獄相を呈しておろうとも、これに火の鉄槌を加えれば、忽ち常往真如相が変じ得るという。

歴史的転換の原理として、受容されていたように思われる。道盛と同時代に活躍した豪僧に智旭がある。彼は、明末の諸高僧の中で、最も明確に陽明学に激発された事を告白している。

その核心をなすものは、陽明心学に依って高らかに歌い上げられた、万物一体の思想である。「仏法の中で仏法を行するのは、容易い。しかし、背法の中で世法の中で仏法を行ずるのは難しい。

又仏法に依って、世法を壊さないのは最も難しい。世法と仏法とは同一の縁起なのだから」智旭は、陽明心学の持つ、理学と心学との総合的構造に同調し得ないで、―――

―――その心理学的側面を切除し、心学的側面にだけ、関心を抱いた訳である。真に己が心霊に忠実なものは、近時宗教の束縛から離脱してこそ、古来宗教の堂奧に入れるのだ。

殊に禅宗が、各院派対立し、公案を型の如く捻り、棒喝を弄び、古人を、疎かにして、戯論を増長させているのを、まるで俳優ソックリだと冷笑している。

心学そのものに立ち帰った智旭には、閉塞した時代状況を打開する能力は、案官士大夫になくて、出家大丈夫にあるという自負があった。

多面、彼は、伝統的な仏教宗門は、何れも低調化して、時代の先駆となる資格を失っている事を熟知していた。この両面を見据えつゝ、彼は人心の危機的状況を肌で受け止め、それを「現前の一念」に搾り上げて行ったのであろう。

而もその一念は、禅や華厳で主張するような、綺麗ごとに留まり得ないで、善悪共に抱きかゝえた、天台的十界互貝の一念であった譯である。

万暦三高僧の一人雲棲袾宏は、儒教と仏教とは、別々に知る必要もないが、強いて合わせる必要もないし、その理由として、儒教は治世を主とするが、仏教は出世を主とするからだと云う。

心の徒な膨張を自粛して、些かの誤魔化しも許さぬ、自己省察に沈潜するのが宏、袾宏の立場だとするなら、個別的な善悪勘定に引き摺り回されないで、善悪の彼岸に自己定立を則るのが陽明心学(特に左派のそれ)の立場なのである。
要するに袾宏は、儒教よりも仏教の方が、形而上的に深いものを蔵しているというものゝ、それは決して儒教の根本的改革を求めようとするのではなく、寧ろ儒教に支えられている。

現実の、社会体制の混濁を念仏願生に依って、浄化鎮静しようとするのである。その混濁の根因は、社会体制の歪みにあるよりも、寧ろ衆生の心の歪みある。

目に余る官僚の横暴に憤慨した達観や智旭は、科挙制度無用論唱えたが、袾宏は精々仁愛心を以て「官途の菩薩」となるよう勧めるに止まった。

「心すべき事は道理に任せ、因縁に従い、無心に順応するだけだ」徳清も三教通貫を説くが、「孔子は人乗の聖、老子は天乗の聖、仏は超聖凡の聖」と云われるように、飽くまで仏教こそが最上乗であらねばならなかったのである。

それでは何故、仏教だけで事足りるとしないのか、彼に依れば学問には三要があるという。三要とは「春秋」と「老荘」と参禅であって春秋を知らなければ、世間を渡れないし、老荘を極めなかれば、世間を忘れられないし、参禅しなければ世間を超出出来ない、という。

良知を頓悟として、徹底させて行ったのは王龍渓であって、彼は良知現成論(良知が現在卽今に成就しているという考え方)を唱え、良知の卽今当下に於ける体認に全力を尽くす以外に体錬の道はないとした。

一念一念のひとり働きの所に於いて、過を改め、徹底的に超脱すれば、良知の真体は自ずから輝き出る。完全円満な良知は、本来の具徳であるから、瞬時其処から足を踏み外すべきでなく、その円満性を直下に体得し続けて行けば良いわけである。

其処に修錬の痕跡が残るのは、良知が十分に体得されていない証拠であって、最上の境地は「翼なくして飛び、足なくして至る」体のものでなければならない。

始めから、自己を下根と決めて懸かるのは、志操の委縮に繋がる。逆に、始めから自己を上根と決めて懸かるのは、傲慢不遜の種となる。

自らが、どの程度の機根であるかどうかを判定するのは、難しい。併し機根の位取りをどこに取るにせよ、良知体上の一進一退であるに変わりはない。

その場合、良知頓悟に加わるに、漸修が必要であるという意識はどこから生じるか、それは、良知の外から起こるべき筈がない。良知そのものゝ内省からでなければならない。

どういう反省であるか、自己の本具する良知が、鋭敏に働けば働く程、内部要因として抱えている欲根妄執のしつこさである。

良知は外に向って、自己の実現を念願すると共に、内に向っては厳しい自律性の保持を、要請されるものである。その自立性が、自らの本性の難しさに突き当たる時、漸修的意識が芽生えて来るのである。

「神秀は、時々塵埃を払う、といゝ。六祖は、本来無一物、という。菩提正覚は、六祖に帰すべきものではある。だが、神秀の考え方も決して無視すべきではない。

神秀を筏とし、六祖を対岸とすべきである。筏があってこそ対岸に亙れるのだし、対岸に渡ってこそ、筏が入らなくなるのである。塵埃を払わないで、其の侭無一物の境を求める事はとても出来はしない。

良知の良は、朱子学的な先験的定理に、還元されるべき性格のもではなく、却って定理の拘束から解放されて、自由に自己定立を計り得るところに、その真骨頂があるのである。

若しも、良知の説の発展深化という事が朱子学との距離を、愈々明確にするにあるとするならば、その真妄相即の体質を愈々尖鋭化させずには措かぬだろう。

つまり、「道高きこと三尺なれば、魔深きこと尋丈」と云われるように、真への探求が厳しくなればなるほど、妄の重みも深刻となり、妄の深さが、逆により高い真の押上げに、欠くべからざる契機となるのである。

真と妄は、絶対背反の関係にあり乍ら、一全体の表裏をなし、妄に即して真を拓き、真に即して妄を凝視する。而もこの真妄相即せる良知は、仏教とは異なる。

飽くまで、歴史的現実に密着して、自己鍛錬・自己開展を行って行くから、それは決して空化(風化)されることなく、絶えず新しい理を創造し続ける。

「一人が、真を発して源に帰ると山河大地はすっかり姿を消す」

総じて、漸修の頓悟の規制力が強くなれば、心学は穏健化せざるを得なくなるし、逆に頓悟が漸修を吸引すれば、心学は過熱して来る。

前者ならば、既成の価値意識が保有される傾向が強くなるし、後者ならば、自由な価値観の想像される余地が広がって来る。

つまり、この時代の頓悟漸修論は、単なる悟りの様式に関わる問題ではなく、社会や歴史の解釈の仕方、価値づけの方向に変っていたのである。

理が情の内にあると気付かないで、情を払って理を立てようとするから、政治が中々うまく行かないのだ。物に応じて煩わされないのが心、物に応じて煩わされるのが情、物に応じて応じようと応じまいと、常に虚霊なのが性。

儒学は情に従うが、禅学は情を除く。この微妙な相違が、千里の隔たりを生ずるのだ。念仏する時は、たゞ念仏せよ。

このように情を尊重し、人間そのものを剥き出しにすることが許される時、喜怒哀楽の渦巻く日常的地平が、其の侭人間の真の生き様であると見做されるに至り、―――

―――それを卓吾は「着る事、食う事が、其の侭人間の生き様であると見做されるに至り、それを卓吾は「着る事、食う事が人間の道理です。着る事、食う事の他に、人間の道や物事の道理はありません」と、表現したのである。

扨て、卓吾は上の語について「学に志す者は、人倫物理の上について真空を知らねばならぬ。人倫物理を処理してはならない」

人倫物理の次元に止まらず、其処から超出して道学的な操作や、着色を排して底抜けの真機を見出して行く。理障の加わらない衣食であってこそ、始めて人間の滋養となる。

仮に、頑空の核に情意があるからと言って、頑空を溶解すると共に、情意まで雲散霧消してしまったら、人間としての貴重な財宝をみす~見捨てる事になりはしないか。

人倫物理を諳んじて、道を求めようとするなら、もう人倫物理を構成する重要な要素が洗い流される。

童心が、見聞道理に依って覆われているとするならば、確かにそれを空じなければならぬだろう。併し空ずるとは、見聞道理を一切無用視するのではなく、人間的信情に於いて、新しい組み立て価値付けをする事であろう。仮人から真人に変身するのである。

「李卓吾は乱民である。孔子の是非(価値評価の基準)を弁えないで、己の是非を用いるのは愚の至りである」と、これが大方の儒者の卓吾に対する見方である。

卓吾にとって出家とは、言論の自由、行動の自由を確保するための、最後の砦であった。それは、長い中国全も居や想史の課題より言へば、心学的本来主義と歴史的現実の相互燃焼による、空前の体験と謂うべきかも知れぬ。
 
善もいや、 悪もいやなり、 いやもいや、 事々物々は、 時のなりあひ、  (禅僧)
善もいや、 悪もいやなり、 いやもいや、 事々物々は、 義とともにしたがふ(陽明学)
善は善、  悪は悪なり、  悪はいや、  事々物々は、 義とともにしたがふ(朱子学)

忠は何か、孝とは何か、忠である為にはどうすればよいか。孝である為にはどうあるべきか。という根源的な
問いが、人間変革、社会変動を背景として、不生の仏心に襲い掛かってきた時――

――仏心は、泰然自若としていればいる程、歴史から浮き上がってしまうのではないかとだから、謂う事である。「事々物々は時のなりあひ」だから、その時々の事態の侭に対処すればよいと謂うのは、既に歴史の後から歩むものゝ自慰的口吻に過ぎない。

之は如何にも、徳川幕藩下にどっしりと、腰を据えた者の悟りであり、接化であると謂う事である。腹立ちがどうの、悲しみがどうの、妄念がどうのという。

個人的迷妄打破には、確かに不生禅は素晴らしい威力を発揮するであろうが、収奪に喘ぐ農民の腹立ち、重税に苦しむ商人の悲しみ、不当な身分差別に挫折するものゝ無念を、その社会構造の有様に則して解決する道を不生禅は示しはしない。

それどころか、それらの苦しみ、悲しみの無念を、不生の仏心で「時のなりあひ」よろしく片付けるなら、却って歴史の歴史の動態を無視する事になろう。これこそは、無作為を装う作為活發を装う遅鈍というものである!

陽明学(陸王学)と禅学とは、唯心一元論的なる点に於いて契符し、其の自力的・内面的・践履的・直覚的なる点に於いて、相通ずるものと謂うべきであろう。

陽明の思想は、殊に禅学思想と殆んどその趣を同じくするが故に、蓋し陽明の儒学思想は、一面観点を換えて強いて謂うならば儒学思想を加味したる、禅学とも称する事が出来るであろう。

原し、陽明の思想は、禅学の思想に近似し、而して仏祖の要機を獲得し磨き、能の心印を見得したるものと、謂うべきであろう。

又、儒・禅への志向的態度は、或時は儒学に重点を置き、或時は禅学に重点を置いて、恒に相互に主従軽重の傾向を示し、大局的見地に於いては勿論、調和融合の精神を現わしていたとすべきであろう。

王学の真訣は、渾身の功夫を致して邪悪の一念を掃蕩し、天理を体現し、昭明霊覚なる良知を活現し、機に触れ事に随って、活殺自在の活動力を発揮し、実践躬行を宗旨とする厳正なる修身学、人格学たる所にある。

陽明は、自己の学説を実生活に具現して、思想卽人格、学説卽生活の一如に達観し、終生堅忍克闘の意力と万死不屈の気力を以て、錬成された崇高なる彼の道徳的品性は、厳然として卓立し、万世に異彩を放っている。

陽明の活動実践主義が、我国に入るに及んで、特に顕著な精彩を呈し、藤樹を祖として、歴世多くの偉傑の士を打ち出せしのみならず、民心民学の中心的生命となった王学は、日本思想史上に多大の貢献を為したのである。

蕃山を始めとして、全ての王学者が治国平天下を唱道し、経世済民の事功を以て、明治維新の偉業を完遂せしめた王学の偉功は、歿する事が出来ない。

王学は、洵に維新の源泉、回天偉業に対する主動的勢力を為したもので、陽明学派の活動を無視して、維新の真義を解する事が出来ないと思う。

予は、早くから王学に心酔し、陽明の風格と性行とを敬慕し、今尚、溌剌たる生命の流るゝ彼の哲学思想に憧憬の心を向け、彼の性行と思想とが顕著に禅的色彩を有する点に留念し、専ら王・禅両学の思索と研究と体験とに精進して、今日に至った。

茲を以て本書を「王陽明の禅的思想研究」と題し、陽明の性格と行跡とに於て、その禅的なるものを窺見し、それ等と関係する禅的思想を検討しようとするものである。

竜場の省悟は、真に三十有六年混迷の賜にして、実に斯学の基因を為し、陽明の性格及び学風の両見地上注視に値する時期にして、禅学観点よりしても看過すべからざる也。

敬を致し、教を乞い、又、夷人押して竜場書院等の諸宇を新築する等、民風頓に改まり教化大いに上がる。これ仏教に所謂上求菩提(自覚)下化衆生(覚他)の境地とも見るべき也。

竜渓及び、緒山の両弟は、陽明を歓送して厳難(浙江・厳州)に到り、竜渓は仏教の実相・幻相の旨説を挙止して、教示を懇請せしに陽明は――

――有心俱是実、無心俱是幻、無心俱是実、有心俱是幻、と説く。竜渓は師説の所謂「有心俱是実、無心是俱幻」は本体上に功夫を説く。

其の、「無心俱是実、有心俱是幻」は、功夫上に本体説くとせし説に対し、陽明これを主是せしなり。かく高遠玄妙なる禅的思想を有する竜渓は、―――

―――端的に玄旨に徹せしと雖も緒山は、後数数載にして本体卽功夫、体用一源の妙旨を省せり。この説話は「
厳難問答」と称謂され、四言教と共に陽明最晩年に於ける、肝要なる旨説にして、王銭両子の根機と思想との相違が窺見せらる。

陽明は、成化八年九月三十日、浙江餘姚(瑞雲楼)に於て生誕し、後紹興の東南方越城光相坊に居を移してから、成化十七年十歳の頃迄越城に於て消化していた。

此の在浙は、約十載の永きに亘り、五十有七年の波瀾多き生涯に於ては、最も在留期間長く、殊に彼の行状に微し、思親、性格、慕郷の念が深厚であった事を窺う事が出来る。

陽明の思想、性格、信仰の各見地からこれを窺うに、在越中は近郊に遊歴をなし、殊に禅刹・名山・道観等を訪歴し、其の禅的老荘的な雰囲気に浸染し、深く其の影響を受けしものと察せられる。

陽明の五十七年の生涯を通じ、史実に現れる限りに於て、連続的に最も永く留在したる、陽明の年載及び府県は、憲宗成化八年九月三十日の生誕から成化十八年二月、北京に祖父竹軒公と赴く迄約十年に亘る。

餘姚及び越に於ける留在(勿論陽明の故里なるも)にして、次に五十歳正徳十六年八月江西から、帰越して以後五十六歳、嘉靖六年九月恩田討征のため発越迄、越及び姚に於ける約六年に亘る寓居である。

陽明は、殊に少年期より資性洒脱豪壮にして、鋭き然も豊かなる禅的機知に富み、且つ専ら静座に因って、沈思瞑想に耽る事を好む傾向が、多分に存していた事に留意すべきである。

これ等の、先天的な性質と嗜好とは、漸次錬成され純化されて、学術上に於ける禅的な思想及び、禅刹の遊歴に依る禅的雰囲気等と、相互に影響し融合して、益々純然たる禅的なる思想と性格とを、形成するに至ったのである。

この意味に於いて、彼に於ける洒脱豪壮・禅的機智・沈思瞑想の各々の性格は、深い意義内容を有するものとすべきで、禅的思想の観点上看過する事が出来ないと思われる。

湛甘泉も「陽明墓誌銘」に陽明公殆授歟・其異人矣、と記するに微しても、既に先天的に聖賢としての相を具えているもので、全くその常人に非ざることが窺見される。

斯かる、相貌を具えているのもので、総て彼の現行に至りては、塵俗の表に超然としていて、全く尋常一様の繩墨を以て律することが出来ない底の人物である。

儒・仏・道、三教中、唯儒のみ至誠にして、仙尺非なるを省悟するに至った。

斯く王陽明は三十一歳の時、漸く仙釈の非を悟ったのであるが、仏教殊に禅学への念は去り難く、彼の先天的禅機性と相俟って益々禅の実践と禅的思想の体験とに力めたのである。

彼の、省悟以前に於ける、道家の神仙養生・沈思瞑想の実践が、直接的或は間接的に、後年彼の禅的性格打成の一基因ともなったであろうと思われる。

此の点に於て、青年期に於ける道家思想に対する心酔は、相当の意義を将来するものと謂えるであろう。

仏道の、入門者の為すべき行修は、必ず一切の妄念を断じ、俗を塵を去って、相対の世界から離脱して、純一無雑の絶対界に逍遙遊すべきが肝要として、仏道入門者の為すべき治心修身の功夫を提示す。

陽明の眼に映じた了庵なる人物は、如何に資性英邁、挙止の端性且、道心の堅固にして、修道の為に勉焉として、懈らざる底の然も白蓮の潔きが如く、蘭の芬しさが如き徳操のあるかゞ看取される。

了菴は、陽明と親しく性理学に就いて論じ、陽明から斯学の允可証明を、授けられたとも考えられる。故に陽明は、良菴によって般若思想を体して、師の真風を味得し、―――

―――了菴は、陽明によって明の理学否、陽明の真箇の学風を了得して、両者相互に思想的影響を、蒙ったものとすべきである。

陽明に、禅的思想の色彩が濃厚に認められるのは、諸種の禅的影響による事は勿論であるが、亦以て了菴に依る禅的影響のあった所も、否定する事が出来ないであろうと思う。

陽明が確実に訪歴した、或は訪歴不明な仏刹、殊に禅的雰囲気及び該刹に歴住した禅僧の禅風禅機、その他仏刹付近の禅的環境等依り、感受した禅的影響に就いて窺見した。


それ等が、直接的に或は間しんそく利接的に、彼の思想的・性行的療法面に於て、鮮やかざる禅的薫化影響を受けた事は首肯せられる。

陽明学の根本的要旨にして、姚江学派の根基的指導精神たる心表現せられる心卽理説・知行合一説・知良知説及び該思想に表現せらるゝ、陽明の唯心一元論的・直覚的・静虚的・自力内省的・頓悟的な各思想傾向を有する。

思想的方面、及び洒脱豪放沈思瞑想に富む、性格的方面は、蓋し訪歴した仏刹の禅的雰囲気及び、修得した禅的素養に負う所多大であった事が認められる。

蓋し、陽明の禅的な性格は、一面其の先天的資質に負う所のものである事は、認容すべきであるが、亦如上の掛かる禅的環境に浸るにつれ益々彼をして、禅的性格者足らしめた事は否定し去ることは出来ないと思う。

彼が、三十有七歳斯学の根元を為す龍場に於ける、格物致知の省悟と其の証悟以前に於ける、見性への静座的行修とは、実に禅的な践履的功夫に因るものであった。

これ彼が、禅刹の訪歴より培われた、禅的精神と禅的素養とに因る所、多大であった事は看過する事が出来ないであろう。

彼の仏刹に関する詩賦、及び諸生に提示した詩その他の文集に、超越的幽玄なる禅的思想の随所に表現され、提唱されている一面も、亦彼が禅刹の訪歴其の他より得た、禅的影響と彼の禅的素養との發露に基因するものと思われる。

陽明の訪刹に際し、禅刹特有の洒脱にして幽寂な、然も淡雅にして落ち着いた庭園、庫裡禅堂等に温醸する禅的趣致と、其処に充ちている禅的雰囲気とは、陽明の性格に能く適応したものである

然るが故に、それだけ餘計に禅的感受性も多大であった事は看過され得ず、従って陽明をして益々禅刹を愛好せしめ、方歴を惜しまざるに至らしめたであろうと思われる。

陸象山の学風は、殊に簡易直截、実践躬行を特色にするものにして、其の学説の根幹をなす思想は、心卽理説にある。陽明が象山を尊崇し、彼の思想を祖述したる所も、主として此の心卽理説にあったのである。

故に陽明が「象山文集序」に於て、心学の伝統を陳べ、且つ心卽理の学説を鮮明にし、加うるに陸・禅両学の差異を弁明したのは、蓋し象山の学説を宣揚し弁護すると共に、陽明学の伝統を明示のせしものと謂ふべきである。

呉康斎は、頗る禅風を帯びた碩儒にして、かくの如き彼の禅的風格が、陽明に於ける先駆的禅思想の一萌芽ともなった事であろう。康斎の門下少なからず、殊に胡敬斎・婁一斎・陳白沙の三子は、呉門の鼎足と称せられている。

胡敬斎とは、その為人醇正篤実、その学は治心養生を本とし、畢生主として、専ら力を敬に用いたが究理に及ばず、主として心生を重視し、蓋し稍々師説と背馳する所がある。

陽明は、十有八歳以後親しく一斎に謁し、宋儒格物致知の旨を聞き、飄然聖学に志し深く相藻黙契する所があったからして、専ら力を静坐得道に用いた。

これに因って、省悟する所があったからして、姚江陽明の学に及した影響少なくない。陳白沙は資性恬淡明敏にして、専ら力を静坐得道に用いた。

これに因って、省悟する所があった。白沙の学風は未発の中を涵養し、随処に天理の体認を目的とし、静坐を以て悟道の門としたもので、殊に白沙は師康斎の学風と大に面目を異にするに至ったのである。

白沙の思想を窺見すると、全く禅学的なると共に、陽明の思想と能く符号するところ極めて多く、益々陽明心学に近接するを見る。

茲を以て、白砂の禅的な風格と思想とは、陽明の学説に深く浸潤し、その禅的思想の直接的先駆思想を為すこと疑いはない。

陳白沙の学は、程朱の理学に対する心学の端を開き、稍々陸学に近い近接するに至り、その功夫の唯心的なる点に於て、陽明の学風と相通ずるを見る。

此の点に於いても、白沙の学は胡、婁二子の学風よりも遥かに王学的であり、禅学的であると謂うふべきである。

甘泉は陽明と親交し、講学の心友であったからして、甘泉を通じて白沙の学風が、少なからず陽明に影響を受けたことは看過され得ない。

甘泉に於ける天地人一体論、動静論及び天理の説等は、陽明の説と背馳しない様で、又その学は禅的なるを窺うことができる。

要するに、遠くは陸象山、近くは呉、胡、婁、陳、湛の各思想が陽明の前芽を為していると共に、その禅的思想の先駆をも為しているものと謂ふ事が出来る。

殊に象山、白沙、甘泉の禅的なる思想の、陽明に及ぼした影響も亦多とすべきである。慧能の思想及び禅旨は総て自性の徹見、即ち見性を基礎として展開されていく。

陽明が初めには、仏性の無差別を喝し、次には客観的無一物を説き、最後の証悟に於ては絶対的自性を見徹して、自性を一切法の根本的契機としたるもので、此の自性こそ慧能の思想の核心をなすものと、謂ふべきである。

陽明学の基調とする所は、禅学と同じく唯心一元論的思想にして、此の唯一絶対的なる統一的本然的な霊体の実相を仮名的に、良知或は天理と称している。

此の、所謂良知は禅学に於ける自性、或は真如の当体にして、六祖慧能の「無一物」趙州の「無」に相当し、尚、臨済の「一喝」徳山の「三十棒」天竜の「一指」等は、―――

―――総て、此の言詮不及底の妙体を、より具体的活動的に表現したに過ぎない。陽明は禅学の如く直接的経験に依って、超越的霊体の相を端的に把住する。

これを、直下に最も具体的事実的に、然も躍動的に提示する所禅学に比し、稍々稀薄にして迫力も乏しく感ぜられる。

王、禅学共に異名同体である。良知或は自性を以て、渾一なる絶対的極致を称呼し、総ての相対的概念的な思慮を否定し、亡絶したる所の、最も直接具体的な実在を指すのである。

かくの如き、実体たる良知は、昭明霊覚の妙処たる本性、即ち人心の本件を表詮すると共に、万物を生成化育
する、宇宙の根源的主体にして、造化の精霊である。

良知の宿在する心と、其の心が主宰する身とは、不可離的関係にあるものにして、禅学に於いては、心身一如性相一如称謂して、仏心の合一にして分離すべからざるを説く。

陽明も、宇宙卽己心にして、其の心は万化の根源を為し、而して心は即ち理、理は気と相即不離にして、仏心不二観を提唱している。

而して、宇宙間の一切万物には、悉く精霊的良知が具在し、一物も良知の發用顕現に非ざるものは無い。茲を以て人的良知は、即ち一切万物的良知で、此の性一絶対的良知の一元的観点からして、天地は同根、万物は一体となる。

陽明の所謂心とは、即ち理なるを以て心性を外にして、理も無く事も無く物も存在する事なく、万理我心に厳然として、具備せざるはなし。
好適
逍遙自在の妙用を現ぜば、万理悉く心の侭に運行せられ、「心行平直」の如く、総ての行為は心と一致し、心と合一せざる事はない。

これ、禅学に於ける心性の合一的活動にして、所謂「無心」、「無念」の状態を現したものとすべきである。此の善悪も、或は天理人欲も、同一なる心の作用の合理的なると否とに依って、名を異にしている。

畢竟、両物にあるに非ずして、一物に帰する陽明の功夫は心を明鏡の如くならしめ、一切の執着心を去り、心上に生起する好的念頭をも些子を著け得ず、総て拘着重滞なからしめん事を要す。

些子の情欲を、根底から掃蕩する純一なる工夫を存して、始めて微にして細なる物にも繋縛せられざる、活溌々地の妙境が現前し、慧能の所謂「不立一塵」底の妙処得るに至る。

かく心を調攝して聖賢に印対するには、読書の法に因るべきで、師友との問学琢磨と共に、致知の自省的功夫に必須欠くべからざるものであるが唯、主従本来を顚倒せざるを要するのみ。

陽明は、かくの如きの静的功夫よりも、動的功夫たる事上磨錬の方法が、最も功あるを説く処で、禅に於いてもん二六時中、喫茶喫飯運水搬紫の間、否行住坐臥の一切に於て恒に直心を行じて、禅心を失しない事を要す。

竟畢王、禅両学は動、静両功夫を立し、静時には戒心し、動時には省察し、動と静とは共に致知見性の目地に非ざるはない。

陽明の四言教の見解に於て、漸修、頓悟の両派の意見が生じ、錢緒山は心体は無善無悪なるも、人にも習染心があって、心意の発動上、善悪の別を生起するを以て……

……格物・致知・誠意・正心・修身の功夫に因り、性体に復帰することを要すと説き、王龍渓は心の本体が無善無悪の至善であるから、意知物悉く無善無悪にならざるべしと説く。

陽明思想の殆んど全般に亘って、「六祖法宝壇経」に於ける、六祖慧能の禅的思想と比較検討したのであるが、陽明学の儒教的立場と、禅学の仏教的なそれとは、……

……各々、自ら趣を異にしてはいるが、其の思想的方面は、勿論、功夫論その他に於いても、王、禅両学全く符を合し、揆を一にするものと謂うべきであろう。

陽明は「良知」を以て、彼が思想の根幹として学説を開展したのは、六祖慧能が「自性」を中心的思想として、禅風を挙揚し禅旨を唱説したのと同じく、其の両学の根本的な良知と自性との思想的内容は、共に相通じているかの如くである。

陽明は、竜渓・緒山の両思想的傾向を自家の学風としたのであるが、勿論その重点は竜渓の頓悟自性門的思想に傾向するものにして、六祖慧能の南頓的禅風と顕著に同通している所のある事が首肯され得る。

四言教は王陽明病没前一年、五十六歳即ち明の世宗嘉靖六年九月に於ける、最晩年的教旨にして、四句宗旨・四句教法・四句訣・天泉証道紀等と称謂された。

陽明学の要旨を四句に総括して、極めて簡明に提唱し、聖賢嫡々相伝の要典を明し、後学の準拠すべき教旨を示したもので、実に重要なる教法と謂うべきである。

三輪執斎は「四言教講義」に於て、此の四言の教は陽明王文成公、始めて門に入る人に授けたまひたる定法にて、人々受用すべき心法の大規矩也。

大学の身を修たる工夫にして、古聖人の天に継で其の道を直ぐに人に示し給ひし、嫡々相承の道統要文、人皆学で堯舜となるべき大典也。

是を外にして、道を立つるを異端と云ふ。是を似せて効を採るを覇術と云ふ。是に背くを悪と云ふ。是を知らざるを愚と云ふ。

故に、凡そ聖人の道を学ばんと思ふ人は、必ず斎戒沐浴して敬で是を受け、起居動静無問断これを服膺すべきところ也。

我、王文成公の御教に従って、堯舜の道に入むと思ふ人は、此の四言の第一句を初入門の誓約と心得、斎戒沐浴して之を受け、其善を為し其悪を去るべし。

堯舜の徒となるに当りては、身命を捨てるは本望なりと心得て、向其本心に誓ふべし。於茲、丈夫に性根を据えて、志を立得定する時は世上一切の利害、名聞、得喪の類は誠に浮雲の大空を渡るを見るが如くにて、心の動かざるに至るべし。

是れを本心を立つると云ふ。我本心は卽天心なり。何ぞ天に継の道にあらずと云はむ。故に此の学に入よりはや悪人、忽ち善人と成るの証拠明白也。

是、堯舜道統の正伝にして、孔孟の学派なる事何の疑ひあらむや。よく~尊信敬愛し奉るべきことなり。

斯く、此の四言教は王学に於いては、重要的教旨なれども、其の意義が深遠にして玄妙なるを以て、排王学者がこれを非擬するのみならず、忠実なる王学者と雖もこれを疑議する者少なくない。

陽明の、所謂無善無悪には、善悪の相対的差別相を超脱したる「至善」「性の本体」「心之本体」即ち、良知或は天理を指示するものにして、―――

―――禅学に於ける心性の妙体を表詮したる、仏性・真知・法性・実性・虚霊不昧・自性清浄心等の思想と同通す。

王竜渓に依れば、若し心体が無善無悪なりと説くならば、意・知・物、三者も、亦無善無悪にして、若し意に善悪ありと説くならば、心体も亦善悪なきにあらざる也と。

所謂、四無的・四言教を提唱したのである。是に対して緒山は「伝習録」に」依れば天命の性たる心体は、元来無善無悪即ち至善なれども、但、人は習心あるを以て―――

―――心意の発動上善悪の相対的差別相を生起するもので、畢竟格物・致知・誠意・修身は正に性体に復帰(後性)するの工夫して、若し元来、善悪無くば功夫も亦説を要せずと。

所謂、四有的四言教を提唱して、師の人を教示する定本となした竜渓は、緒山を難じて師門の権法に執滞するものと為し、緒山は竜渓を評して師門の協力教法を壊るものとなして、両子共に譲らなかったので、遂に師に請問して判定し、疑いを決しようとしたのである。

陽明の天泉橋上に於て、王、銭両子に斯学の要旨を教示し、而して愈々思討征の為の越を発し、王、銭両子は惜別の情断じ難く、遂に陽明を見送りて厳難(浙江厳州)に至った。

王竜渓は茲に於て、仏教の所謂実相幻想の旨説を挙して、教示を懇請したのである。茲に於て陽明は懇切に次の如く教示して曰く、―――

―――先生曰く、有心俱是実、無心俱是約、無心是実、有心俱是約、と。竜渓は師説の所謂「有心俱是実、無心俱是約」は本体上に功夫を説くものであるとしたる説に対し、陽明はこれを首肯した。

斯く、高遠玄妙な禅的思想を有している王竜渓に於いては、端的に玄旨を悟得するに至ったのであるが、浅近着実な中根に属する銭緒山に於ては其の当時尚未透低であった。

後、数載にして始めて本体卽功夫、体用一源の妙旨を得た。此の陽明の有無実約説(及び竜渓の本体功夫説)に関して佐藤一斉は、―――

―――前有心無心、本心指、後有心無心、私心指、本心無言有、私心則無、有心無心皆実、私心本心則無、私心有、本心則無、有心無心皆愿也。

本心汝謂就、工夫於本体也、私心一言就、本体於工夫是説也。と説論し、且又三輪執斎も次の如く論じて曰く、先生曰、有心倶是実、本件の心を見付けてする、是れ実事也。

本心なれば皆幻想なり、無心倶是実、心を用ひて私知するは幻也。私知せず無私心にてなすが実なり。汝中曰云々、汝中爰を見付けたり。

初の句は本体を見てとく、本体上に説工夫なり。後の句は私心なき処から云ふ。工夫上説本体なり。仏者の実幻想あしらひには非ず。

予は、執斎説と略々同一見解にして、一斎及び執斎の説の如く、前の有心無心の心を(陽明訴天理、道心に当り、禅の所謂悟心・真心・菩提・般若・霊覚に類す)となし、―――

―――後の無心有心の心を私心(陽明の所謂人欲、人心に当り禅の所謂迷心・妄心・煩悩・無明に類す)と見做すのが当を得た説と思われる。

竜渓は高朗明敏、緒山は温厚篤実、竜渓の説は高遠玄妙、緒山の説は遠近着実。而して竜渓は上智頓悟的、緒山は中根漸修的なるのは、両子の資性根機相同じからざるに因るものと謂ふべきである。

畢竟、竜渓は直覚的、頓悟的方法に依る、心体的見做すを主とするを以て、其の説絶対的深玄的にして、緒山は漸修的方法に依る、事上的磨錬を主とするを以て、――――

―――その説、相対的浅近的にして、両者の修履同じくないが「悟」の妙境に至達することに於て、異なる所が無い。故に竜渓の説は、高遠玄妙に過ぎて浅履の実功を缺き、緒山の説は浅近着実に流れて、見性の第一義諦を無視するが如くである。

「無善無悪是心之体」 (第一句)
  本来純粋至善にして、且、霊々照々たる宇宙的本体の妙相を稟けた人心の本性。

或は本体が「中庸」の「未発の中」・「周易」の「寂然不動」・「詩経」の「上天之載無声無臭」・禅の「虚礼不昧」・「常程々地」・「無相」・「妙心」等の妙旨に当り。

善悪の相一体的差別相を超脱したる、絶対至上善なることを表詮したるもので、三輪執斎は「四言講義」に於て、心は声も臭いも無し、故に善悪の名付くべきなし、と。

これ心は、体にて至善をなすものなり。人々力を用ひて至るべき目当て也。と字義をなし、且つ又、人心善悪の二途ありといへども、それは動き出づる時のことなり。

動くは気によるが故なり。其の動かざる時は一の明のみ。鏡の未だ開かざる時は妍媸なきが如し。然るに其の写さゞる時も万象無きに非ず。

向ふものゝ心うつす心にて見れば、則象ありて鏡は本のかゞみなり、うつさぬ心にて見れば、則象なくして鏡の内象なくんばあらず。

此鏡人の人たる本体なり。この源を知らずして善なりと思ふは、其善は気質の善にして天理の本体にあらず、悪もまた然り。此所謂心の本体は即ち人心に宿れる天神なり。

この光明、人は意念に渡らず自然に是非を照らす、是を良知と云ふ。夫耳に吾なきは耳の本体也、夫唯吾音なし。故によく吾音を聞いて違ふことなし。

若し、常に一音もすれば五音皆違ふ。故に五音なきを耳の至善とす。口も亦味なきは、口の本体也。夫唯吾味なし、故によく五味を分かちて違ふことなし。若し一味もすれば五味ともに違ふ。

故に、五味なきを口の至善とす。心に善なきは心の本体なり、夫れ唯善悪なし。故に、よく善悪を弁へて各々誤ることなし。若し之ある時は善悪共に違う。故に、善悪なきの心の至善とす。故に至善は心の本体なりと云へり。

「友善有悪是意之動」 (第二句)
  善悪の別は、心意の発動上に生起し、卽ち心的作用が本体的天理の儘に従循するもの、始めて善然らざるもの、善に非ずして悪があるとするものである。

三輪執斎は、心一たび本体より動けば善となり、形気より動けば悪となる。動くに因りて善悪は分かるゝなり。是れ人々力を用ゆるの場、学問の肝要なり。

と、第二句に就いて字義をなし、且又、天下の事々物々の理を外に窮めたりとも、我心起る所誠ならずば窮め得て却って害あるべし。

天下の事々物々悉く知得たりとも、我心知らずば亦害あるべし。然れば格といふも我が意の存する所の物を、正す事致といふも、我が意に於て致すこと也。

人心元来至善にして、無善無悪といへども、血気の生々時として止まる事なければ、必ず動かずと云ふことなし。其動くを意と云ふ。其の動く所千緒万端、是を物と云ひ皆意のある所なり。

意のある所かく千緒万端と云へどもつゞまる所善悪間が二途に洩るゝ事なし。只自反功、間断あれば、過悪を念慮の間に分つ事能はずして、長じて後事業にあらはれて其の害あるに至りては、―――

―――良知に照らし恥ずかしくなけれども、如何ともすべからざれば、俄かに驚いて其不善を揜うて其害をあらはさゞらんか、是常人の常態なり。

然るに、終に揜ふこと能はざれば後何の益あらんか。故に戒懼の功懈らずして独を慎む。是れ先聖の学派なり。故に此句を設けて、力を用ふるの地を示す。

仮令一念の場へ引き返して、初念の所に立かへり悔悟し改むれば、誠意の工夫なり。若し格法を事業の上にのみつとめて、かの一念の所より起こさゞれば、覇者にあらざれば郷愿となりて、聖門正統のがくにあらず。

其の所謂善悪一物とは、禅学に於ける善悪一心、迷悟不二の所にして、陽明の所謂去人欲とは、禅の不思善不思悪及び断煩悩に当る。

存天理或は。致良知とは、禅の見性成仏及び証菩提に当るものにして、畢竟人欲卽良知、人欲卽天理になり、禅の煩悩卽菩提に、通ずるものと謂うべきである。

蓋し、「無善無悪是心体」は、心を本体論的に「有善有悪是意之動」は、心を現象論的に説示したるもので、「無善無悪」以て体となせば、「有善有悪」は用に相当するであろう。

「知善知悪是良知」 (第三句)
  自然律道徳律を為し、先天的普遍的に聖凡賢愚を論ぜず。同等に人心に具在し、照明霊覚、斉荘中和、文理密察、寛裕温柔、発強剛毅、博溥淵源、寂然不動の諸徳を円やかに具している。

良知は、万物造化的精霊にして、明鏡が物を照すが如く、正邪是非善悪方円曲直美醜を分毫も相違なく、極めて公平に判別する作用を為す、自家の底の準則である。

三輪執斎は第三句に就いて―――
悪念起こると雖も本体の良知は末嘗亡、此処に善悪を知らずと云ふこと無し。良には拵えたることなく、直にすら~と出ること也。其の思ひ計らざれども、自然に知る物を良知と云ふ。是れ人々力を用ゆる規矩也。

   と、字義をなし、且又
学ぶもの格物の段に於て覚悟を定めて、善は生命にかへて為さん。悪は骨を粉にするとも、去らんと十分に思ひ入りたる以上は、十の内七八迄は進むべし。

然れども、其知れる所必ず良知より出ずるにあらざれば、其善なりと思ふことに悪なることありて、其悪なりと思ふ事に悪ならざるものあるべし。

夫れ良知は心の光なり。善悪を照らすこと白日の黒白を分かつが如し。然れども気質の偏ヘリよりて、様々の違ひある事免れず、其の様々違ひは一也と云へども、剛柔善悪の下地の気質に因りて照らすところ一様ならず。

良知は本体の儘にして人為にわたらざるもの也。孺子の井に入るを見て、怵惕惻隠するが如きは人為にわたらず、天命の性より直に発出する物なり。是れを良知と云ふ。

此心体、自然の良知より出でたる善を至善を云ふ。真知と云ふも是れ也。

「為善去悪是格物」  (第四句)
  格物とは応事接物困静無事の際、心の事を正すものにして、即ち視聴言動思の五事に就て、正しく善なる事を為し、不正にして悪なる事を去るを謂ふのである。

三輪執斎が、意の在るところを物と云ふ、天下の事物々は皆この意にあり。其の意の善を為し、其の意の悪を去るを格物と云ふ。人々力を用ゆる実功也。
 とて第四句に就いて字義となし、且つ又

それ学問は、悪人をまぬかれて善人とならむと欲するが為らずや。善人の至極は堯舜にも進むべし。悪人の至極は桀紂にも陥るべし。其の界は一念の間に在り。

善人にならむと願はゞ善を為すべし。悪人を免れなんとならば、悪を去るべし。悪を去るを不正を正すと云。善を為すを正しきにかへると云い、不正を去て正にかへる、これを物を格す云。

是聖門最初の手を下すの実効にして、聖となるに至るまでも外に待つことなきものなり。故に大学八条目の第一に在るなり。人此所において、丈夫に心立さだめざれば万事皆成事なし。

室をつくるに基なきが如し。本経四言の序に於いては、人心発見のもとより語る。故に此句四言の終に在といへども、今受容工夫の次第を示さんとて、逆に此句より説起す前語に拘らず物とは事也。

凡我意にうつり来る事、一身より天下に天下に至る迄皆事也。その事の悪は我心の嫌ふ所なり。これ本体元来悪なき故也。故に務て是を去るべし。

其事の善は善心の好む所、是本体元来善なるが故也。故に必是を

(43 43' 23)

  • 最終更新:2022-10-19 12:56:15

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