第三章 言志録(ロ、王陽明に学ぶ)

天理は是れ、一大頭脳・千賢千聖此の頭脳を共にす。終日終身、只此れのみ一大事なり。志を立つるとは此に立つるのみ。体認は是功夫、以って此に得んことを求むる者なり。

夫れ、学んで疑はしき所を知るは、学の進なり、路を行くが如く叱り、行きて而る後に多岐なる見、多岐なるを見て、而る後に従る所を択ぶ、従る所を択ぶを知る者、行を進むる者なり。

知覚は心の体なり、思慮は心の用なり。霊にして応じ、明にして照らし、万変に通じて泊れず、夫れ、然る後に能く心の神を尽し、明照して遺すなく霊応して方無し。あ

総じて云えば、湛若水の思想は、陳献章と王守仁との中間にありながらも、陳献章や王守仁の心の本能に偏った、極端な見解は認められない。

彼は、事に重きを置き、用に重きを置き、学問に重きを置いており。そして思想としては、朱陸両派を調和させたものである。だから朱熹に対しても、非常に崇敬していう、其の志や、学や、行ひや、将諸を孔門に班ぶるも可なり。

目に体なく、万物の色を以て体と為す。耳に体なく、万物の声を以て体と為す。鼻に体なく、万物の臭いを以て体と為す。口に体なく、万物の味を以て体と為す。心に体なく、天地万物の感応の是非を以て体と為す。

朱子の系統に依ると、只よく性即理と言うが、心即理とは言わない。朱子の系統に依ると、よく孝の理があって始めて、親に孝なる心があるのであり、と言う。

忠の理があって始めて、君に忠たる心があると云うが、親に孝たる心があるからこそ、孝の理があり、親に孝なる心が無ければ、即ち、孝の理はあり得ないとは、云わないのである。

だから、朱子の系統では、理は心と離れて独立するものであって、此の事実はないとしても、此の、そうさせるものがある訳である。

陽明の系統に依ると、論理上と共に心が無ければ、即ち理も無いのである。この点実に理学と心学の根本が同じでないのである。

天地万物は、吾々の心の中に在るのであって、吾々の霊明がなければ、天地万物も共に無いものである。

王陽明の「知良知」の学説は、救世の為に発せられたものであって、誠に救世の福音であった。彼は世の中の人が一体となって、相親しみ相愛し、自利自私に走らないよう、望んだのであった。

これが彼の「明徳親民」の見解であり、即ち彼の「良知」説の目的でもあった。

人須らく事上に在りて磨錬し、工夫を做すべく、乃ち益あらん。若し只だ静を好めば、事に遇ひて便ち乱れ、終に長進すること無からん。那の静時の工夫も亦、収斂に差ひ似るも、実は放溺なり。

彼はつまり、これらの手段なり方法なりが、すべて行なりと考え、誦読と口耳による議論で、うつろで実のない、知を求める事に反対したのであった。

そこで、実習実行を重んじ、篤行だけが行であるのではなく「学問思弁」そのものも行であると、合わせ考えたのであった。

これが、王陽明の勝れたところであり、偏を補い弊を救うところの、見解である。

王守仁の最も大胆な見解は、本体を明白にしようという事である。即ち、良知或いは天理を明白にしたいという事が、おである最も重要な事なのである。

その外は、二の次といえる。何故ならば、天理を知ればその外は全て、容易に明らかになるからである。

此処で、彼が学習する上で、心の一面的見解に偏向していた事が伺われる。総するに、他の提唱した「知行合一」説は、まだ経験を軽視したとは言えないが、しかし、心に功を用いる事を要求している。

だから、結果的にはやはり、心学者達を空虚な方向に、走らすには置かなかったのである。元々「良知」の学説は「知行合一」の学説と話す事の出来ないものである。

経験と理性の二つの学説が、並べて提唱された事は、王守仁の特色である。惜しむらくは、彼を学んだ人が、多く、心で空疎な学問をした事。

そして、彼をの罵った人が、やはり、彼の「知行合一」説を粗略に扱ったことである。その後、彼の学説を伝承し、よく、その真髄を得たもには、只泰州の王艮一派があるだけである。

彼の弟子で、王綰なども実習実行を重視はしたが、単に浅薄な誹謗をしただけであった。

王畿;心意事物は本と是れ一機、若し、心の善無く悪無きを悟り得ば、則ち、意と知と物と亦是皆是の如し。夫れ、無心の心は其の機密なり。無意の意は其の応円なり。

無知の知は其の体、寂なり。無物の物は其の用、神なり。前の云うふ所の如きは、特に夫子の人間随ひて、教を立つるの権法のみ。

王畿は、王守仁の信徒である。彼は深く良知の学を信じ、良知は先天的なものであり、もし、この良知の存在を、信ずる事が出来た時は、それが悟りであり、それが本当の学問であると考えていた。

彼の欠陥は、甚だしく経験を軽視して、先天的な理性を過信した事である。彼の学問の方法は、屯悟法と名付けているが、実は禅宗の頓悟法の影響を受けたもので、天泉証道紀によって証明できる。

君子の学は、無念を以て宗と為す。夫れ念心を念と為せば、念は見在の心なり。吾人の終目の応酬は、見在を離れず、千緒万端皆此の一念之が主宰となる。

念一に帰せば、精神自ら流散するに至らず馬の轡銜有るが如く、操縦緩急自ら其の節に中るや水の源ありて、其の出づること無窮なるが如きなり。聖狂の分は他なし、只一念の克と罔との間に在るのみ。

吾人の心を護る事眼を護る如くし、好き念頭も好からざる念頭も、倶に着し得ざれば、之を泥沙と金玉の屑の皆以て、眼を障ぐるに足るに譬ふ。

諸友この意を窺見せんと欲すれば、端居暇に、試みに念頭を将って断ぜず、一に理会に着してみよ。果して能く全体を放下して、一物も無きや否や。

一切の知解は才情を離れずんば、皆是れ担子を増す、担子愈々重くして愈々超脱し出でず。

知は一なり、良に根差せば、則ち、本来の真となり。誠に依れば、則ち、死生の本となる。

誠が有に執着しなければ、誠は変じて知となり。これが良知であって、誠が只管有に執着すれば、誠をみて知としてしまい、それが知の害となる。

主教の最も重要な観念は、信仰心であるが、王畿は良知の学説を宣伝し、いつも人が、この良知を信ずるように導いた。

彼の熱情は、さながら伝道の信徒のようであって、彼は先ず、人はこの良知を信じなければならぬと教えた。

全て宗教は、必ず先ず信仰心を起す事を必要とするが、彼も人に先ず、信仰心を起することを教えたのである。

彼が言うところの「信心」とは即ち彼が言うところの「良知を信じ得」たことなのである。この信心を持ってこそ、身命を安定し、一切の事を成す事が出来る。

良知は便れ人たるの柁柄なり、境界は未だ順あり、得有り、失有るを免れずと雖も、若し良知を信じ得過ぐるの時は、縦横の操縦我に由らざる無く。

舟の柁有るが如く、一たび提すれば便ち醒し、縦ひ忙迫紛錯を極むる時に至るも、意志自然に安閒にして、手忙脚乱に至らず。

此れ便ち、是れ吾人の定命安身の或る所なり。古人の造次顚沛にも必ず、是に於てするは、亦只だ是れ、此の件の事を信じ得過ぐるなり。意気の能く及ぶ所に非ざるなり。

自己の良知を、自己の宗教的信仰と見做しているが、これは宗教上に於ては、甚だ高級なるものと云うべきである。

だがこの良知は、培養を必要とし、経験を必要とするものであるのに、王畿と王守仁とはこの良知の宗教を唱えて、少しもこの教育及び、経験の条件を説いていない。

大修業の人は、塵労煩悩の中に於て、道場と作す。

君子の学は、得碁悟を貴ぶ。悟門開かざれば、以て学を微する無し、入悟に三有り、言よりして入る者有り、静坐より入る者有り、人情事変の錬習より入る者有り。

言に得る者は、之を解悟と謂いひ、触発印正、未だ言詮を離れず。之を門外の宝は、己の家の珍に非ざるに譬ふ。

静坐に得る者は、之を証悟と謂ひ、収摂保聚猶ほ境に、待つ有るが如し。之を濁水初めて澄むも、混濁ほ在り。

絻風波に遇はば、淆動するに易きに譬ふ。錬習に得る者は、之を徹後悟と謂ひ磨礱煆煉、左右源に逢ふ。

之を湛体冷然として、本来品瑩、愈震藻して愈凝寂、得て澄清にすべからざるに譬ふ。根に大小有り、故に蔽に浅深有り。

而して、学に難易有るも、その功を成すに及んでは一なり。先師の学は其の始め亦言より入る。己にして静中より証を取り、夷に居り困に処し、動忍増益するに及んで、其の悟始めて徹す。

一切の経綸変化は、皆悟る後の緒余なり。赤水の玄珠は象罔に索め、深山の至宝は無心に得、此れ入聖の微機、学者以て自ら悟るべし。

夫れ乾々として、誠に於て息まざるは、良知を致す所以なり。念を懲らし慾を窒ぎ、善に遷り過を改むるは、皆良知の条目なり。

若し、懲窒の功以て第二義と為さば、所謂好色を好むが如く、悪臭を悪むが如く、人一たびすれば、己百たびし、人十たびすれば、己千たびする者、皆剰語と為る。

良知の二字は、精明真純にして、一毫の世情も点汚し得ず、一毫の気質も夾雑し得ず、一毫の聞見、推測も附会し得ず。真に是れ天地と運を同じくし、日月と明を同じくす。故に致良知の工夫は、須く本体に合し得べし。

先生の学は、獄中閑久しく静極まり、忽ち此の心の真体の光明瑩徹にして、万物皆備わるを見、乃ち喜びて曰く「此れ未発の中なり、是を守りて失はざれば、天下の理皆此より出づ」と。

乃ち出でて来学と静坐の法を立て、之をして寂に帰して、以て感に通じ、体を執りて以て用に応ぜしむ。

良知は是、未発の中にして、寂然大公の本体なり。便ち自ら能く感じて遂に通じ、便ち自ら能く物来って順応す。

思慮を袪除し、此の心をして光光地をたらしめば、便ち是れ未発の中、便ち是れ廓念太公、自然に発して節に中り、自然に感じて遂に通じ、自然に物来って順応す。

王学の弊害は、根本は経験を軽視するにある。

夫れ致知とは、吾が心の虚霊の本体の量を充満し、之をして寂然不動たらしむ儒と釈と一なり。而して吾が儒の致知は格物に在り。

而るに、釈氏は事物の感応を以て、皆吾が寂体の玄妄として、一切断除して之を絶滅す。之を儒者の感じて、遂に天下の故に、通ずるに比すれば、則ち毫釐千里なり。

蓋し、感じて遂に天下の故に通ずるは、即ち是れ格物なり。即ち是れ、明徳を天下に明らかにするなり。即ち是れ、天地万物を以て一体と為すなり。

羅念菴;苟も、其の任に当らば、皆吾が事なり。

王畿は、良知は自然で、ほんの少しの力も、必要としないと主張したが、洪先は、どうして現成の良知など、あり得ようかとした。

聶豹は、致知とは、只、寂に帰する事によって感に通じ、体を執る事によって、用に応ずる事である、と主張した。

洪先は、良知の明は、枯槁寂英を経過した後で、一切のものが退き、天理烱然となるのでなければならない、と考えた。

羅洪先の思想は、陳献頣の、無欲主静の見解を推し広めて、成立したものである。彼は守仁(王陽明)に私淑したが、又非常に陳献章を尊敬していた。

良政は充達長養されねばならず、収摂保聚されねばならぬ。則ち良知を使用する前に、適当な滋植、すなわち適当な培養、又は、教育の功を受けなければならない。

王良の思想は、実行を目的としており、彼は、聖人は到達することの出来るものであって、決して、人に崇拝されるだけのものではない事を知っていた。

書物に書かれてある事は、我々の考えを証明する為のものであって、我々の学問は、書物があれば工夫が出来、書物がなければ工夫のしようがない、というものではない。

学んでも、自分の身を凍えたり、飢えたりさせるようでは、学の中に入れられない。

聖人の道は、百姓日用に異なるなし。凡そ異なる有る者は、皆之を異端と謂ふ。

先ず学び、そして試みなければならない。それを経て後に役人となる事が出来るのであって、それをしないで、人民・國家について直接試みたのでは、恐らくは救う事ができなくなるだろう。

孔子は、天性の聖人なりと雖も、亦必ず詩を学び、礼を学び、易を学び、逐段研磨し、乃ち、明徹の至を得たり。

其の身を安んじて、其の心を安んじる者は上なり。其の身を安んぜずして、其の心を安んずる者は之に次ぐ。其の身を安んぜず、又其の心も安んぜざる者は、斯ち其れ下と為す。

天下の学は、惟だ聖人の学有るのみ。学を好んで、些子の気力を費さざれば、無辺の快楽有り。若し、些子の気力費さば、便ち是れ聖人の学ならず、便ち学ならず。

ゆったりとして余裕があり、楽しく物事を処置する態度を養生する。

王艮の思想は、王守仁の学説を継承し、その上に学を重んじ、実行を重んずる精神を加えたもので、実に王学の欠陥を繕ってその上に更に王学を輝やかしく、発展させたものと云う事が出来る。

彼の格物学説であるところの、自己自身に立返って求める事を主とし、自己の身を安んじて、その後に、自己及び物を完成する事を、目標にするという事も、独自の見解である。

黄綰:黄綰は爵祿を世襲する家柄に生れ、非常に士気があり、実行実力に富む人であった。彼の少年の時、張載が父祖の手柄によって、官位に就く事を論じた言葉に、遂に毅然として科挙の試験に応ずる事を止め、父祖の手柄によって、与えられる小官に就いた。

彼は又、冊子を作って、天理と人欲とに分け、黒と赤と色分けしたした事で、自分の行為を記録していたが、これによっても、彼の刻苦して実行する精神を見る事が出来る。

後に彼と王守仁とは友となり、王守仁はやがて彼に、内面に向って功を用いる事を教え、又「誠を立つる」事を教え、「当に心髄従の微処に入る力を用ふべき」事を教えた。

王守仁が、「致良知」をもって教を立てるようになると、彼は到頭「聖学疑ひ無し、真に吾が師なり。尚ほ自ら友に処るべけんや」として、守仁を尊んで師となした。

今日の君子は、禅学の本来の面目を見るに於いて、即ち指して以て孟子の所謂、良知此に在りと為し、以て学問の要と為す、凡そ学問を言へば、惟だ良知を謂ふのみて足る。

故に、致知を以て其の良知を至し極むと為し、格物を其の非心を格さんと欲すれば、必ず先づ己に克ちて以て其の私意を去る。私意既に去らば、良知至り極む。

人心自ら善なり、人心自ら霊なり。人皆惻隠の心有り、惻隠は即ち仁なり。人心は即ち神なり。人皆惻隠の心有り、惻隠は即ち仁なり。

皆羞悪の心有り、羞悪は即ち義なり。皆恭敬の心有り、恭敬は即ち礼なり。皆是非の心有り、是非は即ち知なり。愚夫愚婦も聖人と皆同じなり。

人の学を為して、若し止まるを知らざれば、則ち必ず禅に流る。若し道に志すを知らざれば、則ち事に処して必ず節ち中らず。

若し徳に依るを知らざれば、則ち気性必ず好からず。若し仁に依るを知らざれば、則ち心術必ず良からず。若し芸に遊ぶを知らざれば、則ち守る所必ず固ならず。縦ひ或は勉めて苦節を為し身を終るあるも、後必ず継ぐべからず。

大学の道は、己を成し物を成すのみ。己を成すとは、明徳親民の事なり。物を成すとは、斉家治国平天下の事なり。

己を成すは、物を成すの所以にして、内外を合して之を一にする也。其の工を用ふるの用は、只だ、「致知在格物」の一句に在り。

学者は、凡そ日用事為の間に於いて、其の志に勉強とし、必ず以て其の当然の理にして、容に已むべからざる処を見るあらば、方に益有りと為す。

若し、一毫の以て学ぶべく学ばざるべく、以て為すべく為さざるべきの、心の之に問する有らば、即ち終日端坐し、終歳誦習すと雖も、皆益無しと為す。

止まることを知りて、而る后に定まること有り。定まりて而る后に、能く静かなり。静かにして、而る后に能く安し。

学問の道は、兢々業々に在り。今の学を言ふ者聖賢の兢々業々を思わず。鳥んぞ、能く気質を変化して、以てその徳を成さんや。

黄綰には非常に実施に習ひ、実施に行うという精神があり、彼の態度には、後の願元に似たところがある。

彼は思考を主張し、学を主張し、実行を主張し、功効を求める事を主張し、人情に近い事を主張し、致知を以て精思とし、物則の当然を以て格物とし、治生を以て芸に遊ぶとした。

性は、即ち道心なり。知覚は、即ち人心なり。此れ、心を論ずるの的なり。

儒は、義理を以て主と為し。仏は、知覚を以て主と為す。

人心は、卒徒の如く。道心は将師の如し。:朱子

平時には理を追求し、事に臨んだ時に、そこで得られた理を慎重に、発現させてゆく事である。

吾が儒の学は、敬を主として理を窮はむ。異端の学は、静を主として以て精神を完養す。

覚を外にして理を求めると、準と権とは、その根拠を失ってしまう、と考える。このことによって学を求めるには、必ず先ず、心性に務めねばならず、物の理を研究するのは末事である。

王守仁一派の思想で、最も精彩を帯びている所は、人々は皆良知を具えていて、満街の人すでに聖人である、とする事であって、これは、彼等の最も平民化した見解である。

泰州一派は、王守仁学派の中で、最も切実で、最も有為で、最も過激な一派であったのであり。何心隠は、この派の末尾であって、しかも、最も切実で、最も有為で、最も過激な者の中の一人であった。

彼は、極めて自由な又、極めて平等な見解を抱いており、講学を大いに広め、世を救うという目的を抱き、宗遊族を試験台とし、家を破産させても顧みず、師友を生命とし、所謂「其の行侠に類する」者であった。

李卓吾の思想は、非常に自由・解放的であり、個性が甚だ強く、且適性的であり、彼の態度は批判的である。

着物を着、飯を食う事、これが人倫物理である、と彼は考え。更に真空道理は、この着物を着、飯を食うと云う人の道、物の理を明察にして、得られるものであるとする。

今の学者は、官は名より重く、名は学よりも重し、又皆口に道徳を談ずるも、心高官に存し、志巨富に在り。既己に高官巨富を得るや、仍は道徳を講じ仁義を説きて自若なり。

天下の人の身は、即ち吾れ一人の身。

自分の心に動揺がなく、自分の心に塞がるもの々無い事が立達である。

道を学ぶ者当に尽く、古人の芻狗を掃ひ、自己の胸中従り一片の乾坤を闢き取り、方に真の愛用を成すべし。何ぞ死人の脚下に甘心するに至らん。

利とは、己を益し人を損なひ、己を厚くし人を薄くするの謂。義とは己を公にし人を公にし、人を視ること猶ほ己の如くすの謂いなり。

後世の理学を講ずるものは、その重点を、求知というところに傾注しないで、明心ということに、重きを置いてしまうなり。

一歩一歩物を格して行く事が出来ないで、只管「吾が心の全体大用明もならざる無し」ということを追求し、外界に注意せず、専ら内面に注意するようになった。

王学が盛んになってからは、識見のすぐれた人は、世間を甘く見て謙虚さを失い、下卑を人は媚びへつらって、恥じる事がなくなった。

社会正義を想い、俯仰天地に恥じぬという、強靭な意志力を以て、行動した陽明学派の人傑は、その多くは、時に合わず非命に倒れた。

しかし、これを以って、陽明学を叛逆の哲理と見做す事は、甚だ誤解であろう。

陽明学によって、その真骨頂を養った人傑がすべて毅然として、富貴も淫する能わず、貧食賤も移す能わず、威武も屈する能わずという、大丈夫的風格を生来したのは、まことに必然の道理である。

もし、私情に従い、我意に任せて以て言動せば、則ち胸に万感に富むと雖も、要するに、書庫のみに貴ぶに足らざる也。

ともあれ、陽明学派の人傑が、如何なる逆境にも屈せず、不退転の努力を傾けて、心情の陶冶を図り、所謂、猶興の精神を発揮して、一世を先導した成果を省みる時、斯学の現代的意義も又、自ずから明らかではないか。

万巻の書を読むに非ざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるを得んや。

慎獨を識得すれば、則ち発して皆節に中り、天地万物其の中にに在り。

獨の外に本体無く、慎獨の外に別に工夫無し。此れ、中庸の道たる所以也。

一巳の労を、軽んずるに非ざるよりは、いずくんぞ兆民の安きを致すことを得んや。此を知るは謂ふに復性の学也。

天命、一日として未だ絶へずんば、則ち君臣たり。一日既に絶ゆれば、此れ、中庸の道たる所以也。

思想の起源は、困難に出会う事に起因する。社会思想も常に社会上の環境の困難により発生し、その時代の産物となるのである。

従って、どのような時代の思想も、すべて時代的色彩を帯びている。

政治も制度も風俗も習慣も道徳も世論もみな、先ず時代に於ける歴史的背景を持ち、その中で懐に入り育まれ、それから、所産を持つようになるのである。

日用の間、随処に天理を体認すれば、何をか患へえん。聖賢の佳処に到らざるを。

朱子謂へらく、学者半日静坐し、半日読書し、此の如きこと三年にして、進まざる者無し、と。嘗て之を験みに一両日にして、便ち同じからざる也。

学者、此の工夫を作さずして、空しく一生を過ごすは、殊に惜むべきなり。

聖門の、喫緊入手する処は、只慎独にあり。

万物には、すべて成ったり壊れたりする事があるけれども、理だけは永遠に存在する。

性は、心の理なり、心を離れて性なく、気を離れて理なし。

性を論じて気を論ぜざるは不備、気を論じて性を論ぜざるは、不明也。

大学の道、一言以て之を弊害蔽へば、慎独を曰ふのみ。

慎独は、即ち是れ致良知。即ち知・即ち行。即ち動・即ち静也。

人心は、惟だ静を以て主と為す。

無事には此れ慎独、即ち是れ存養の要なり。有事には此れ慎独、即ち是れ省察の功なり。独の外に理なく、此を窮むるを之れ窮理と謂ふ。

而て、読書して以て、之を窮むるを之れ窮理と謂ひ、而て読書して以て之を体験す。独の外に身無く、此れを修るを之れ修身と謂ひ、而て言行して之を践履する。其の実は一事なるのみ。

朱子の学問は、君子を教へるに適し、陽明の学問は、小人を教へるに適している。前者は之を太平無事で、萬事ゆとりのある時代に適用すれば、優れた宰相や学者を養成しうるに対し、後者は、正常でない慌しい時代に処して、大功を成す人物を造り出す方である。

抑々、人間の世界は何よりも先づ、世道人心が正しく美しいといふ事が肝腎で、物事の道理をば、読書思索によって究めてゆくといった事は、二の次である。

而もこの二の次の仕事たるや、極く少数の人のみが関与しうる事で、愚民には強ひられない。愚民でも、関知して感動しうるものは、実に良心だけであり、即ち良知である。

陽明が、配所の龍場驛で蛮民を感化したのも、各地の討匪に成功したのも、治安状況の険悪な地方に於て、頑民を宣撫し遂げたのも、一に自己の良心を以て、人の良心を感動せしめたからに外ならない。

かくいえばとて、朱子の学問を悪く言ふ訳ではない。両者各々特徴をもって、すぐれた働きをなすものである以上、相互に誹議するには當らぬのである。

この意見は、頗る大雑把な比較論ではあるが、中々鋭い示唆を含んでいる。即ち、朱子の方が静的、合理的、思索的であるに対し、陽明の方は、寧ろ動的、直感的、行為的であるといふ風に見ている点である。

冶金の際の金は、烈火と錐錘とをうけ、甚だしく虐げられているようだが、その実、金は益々精錬され愈々光輝を発する……と説き。

彼自身も敢然として、憂患苦難の中に飛び込んで自らを鍛錬し、利害毀誉に惑わされる事無く、只管に、道を求めて行ったのである。

事上磨錬は、静坐等の静的修養法に比較すると、遥かに難しい。何故ならば、この境地は流動変転して、止む所を知らないからである。

然し、それにも拘らず、陽明は、この境地に於て鍛錬を経なければ、道は体得できぬし、人間は完成されぬと確信する。

二、三 52 42 41 62' 52 44' 71 33 11 32 21 91 33'

如何に、多くの書物を読破して知識を集積し、且つそれに依って、事物の道理を理解し得たところで、それで人間が完成される訳ではない。

経書と自己との関係は、云わば、自己が本分で経書はその注解のようなものである。その経書を語る数々の道理が、極めて正しいと判定する者は、自己以外にはない。

聖賢が説いた事だから正しいのだ等と、容易に肯定して掛かる様な人々は、必ずや聖賢に成る事が出来ずに、終ってしまうであろう。

陽明の思想は、自力本願・独立独行の毅然たる態度・精神が、躍如としている事であり、そして又、之を突き詰めて行くと、遂には傳統・格式等一切の既成権に束縛されない、のびゝゝとした解放自在の精神が、汪溢している事にも気がつく。

学者の実践の工夫は、至難至危の処より試練すべきで、それ以外の実践は云ふに足りない。貧困に処してこそ修養も益あれ、そうでなければ終に、脆弱なものとなろう。

陳白沙:「自分は27歳の時発憤して、呉先生に従学しつゝ、古の垂訓書をば、残りなく講じたけれども、未だ道に悟入する方法が分らず、帰郷してからも専心修養法を探究し、日々幾年も苦心したが、遂に得られなかった。」

「そこで、煩瑣な読書を捨てゝ静坐を試みたところが、久しくして終に、我が心の本体を発見する事が出来た。」

「更に進んで、之を以って日常の行為に及ぼし、事物に道理を体認し、聖賢の垂訓に照らし橲へた末、聖人になる方法は、静坐にこそ存すると、確信するに至った」。

学者は、道理を書物にのみ求めないで、之を我が心に求め、見聞によって乱ることなく、耳目のもつ支離な作用を去る事が、肝要である。

胸中の虚霊な精神を全うすれば、書物を開いただけで、その中の道理は盡く得られる。そしてこの場合、道理は書物から得るのではなくて、実に我自身によって得るのである。

何事もすべて心の上に於て、修養するといふのが、儒学の入門の大路である。

朱子学にせよ何にせよ、儒学修得の真の目的とする所は、我自らを完成して聖賢に成る事であり、決して科挙に登第して、出世仕官する事であってはならない。

こういった意識が先ず、、思想家によって昂揚された。而もこの意識は又、主として宦官の専権による、政治の紊乱官界の腐敗等によって、一層現実的に発展し深化したものと見える。

右のような意識を持つ思想家の多くは、官界・科挙に意を絶ち、屡々野に在って自己の完成・儒学の研鑽を行はんとするに至った。

例えば、前に上げた呉興弼の如きも、若き頃、伊洛淵源録を詠み、慨然として道に志し、遂に挙子の業(受験勉強)を捨て、二年間も小楼閉じ籠って、四書五経や諸儒の記録を玩味体得したと謂う。

胡居仁も、弱冠の時発憤して聖賢の志し、呉氏の門に遊んで遂に科挙に意を絶ったし、婁諒も挙子の学は、身心の学に非ずとした。

陳白沙も、初め國子監に入学して読書していたが、呉氏に学を受けてからは、科挙を断念して帰郷し、毫を築いて、数年もその中に静坐したと傳えられている。

中外の官に任じ乍ら、念頭を君父百姓の上にに置かず、道理を講究し、徳義を切磨しつつも、念頭を、世道の上に置かないような者は、譬へ如何なる美点があろうとも、君子は歯ひしない。

自己の完成(修己)のみを、唯一の目的とするものではない。随って、科挙・官界に意を断つといふ事は、それらによって自己を累はし、自己を見失ふのを回避しようとする、一方便に過ぎないのである。

若し、自己が累はされねば、たとへ官界に身を置くとも、挙子の業に従事しようとも、更に防げのみないのみか、寧ろ儒学に於ては、あらゆる世俗的糾纏煩悩を超克しつゝ、その中から自己を錬磨完成し、國家百姓を指導する事をこそ、尊ぶのである。

王陽明は、実にこの苦難なる本道を、まろび起きつ邁進直往した者であった。彼とても幼少の頃から、應試登第を以て第一等の事とせず、専ら聖賢の道を学ぼうと志していた。

且つ、中年の頃譎詐虚偽に満ちた、険悪な官界に困頓しつゝ「仕官の途は泥坑の如きもので、一旦脚を踏み入れたら、二度と抜けることは容易でない」と嗟嘆したにも拘らず、遂にそれを回避することなく、一切の困難を克服して道に直往した。

知行合一説といひ、事上磨錬といひ、決して清澄なる環境や、空漠たる思索から生まれたものでなく、又晩年に樹立した致良知説如きも、百死千難より得たものである事は、陽明自身の破言したところである。

後年の陽明が、父のどちらかといふと、実直で典型的な官吏型に似ず、寧ろ物事に拘束されないで直截な判断を下し、何物をも恐れず、思ひ切って事を断行する、といった性向は、実に闊達豪放な野人・祖父に享けるところ、大であったと想像される。

文章は小事、何ぞ名を成すに足らん!「この、雄大なる気迫を見ヨ」

儒者は、兵を知らざるを患ふ、文事あらば必ず武備ありといふ、區々たる章句の儒は、平時富貴を叨竊し詞章を以て太平を粉飾すれども、事に臨み変に遇わば、手を束ねて策なし、通儒の羞じる所也。

自分が始めて書を学んだ頃、初めは古帖を臨書して、字の形がつけばそれでよいと考へいたが、段々やって行くうちに、筆を執っても軽々しくは紙に降ろさず、先づ思を凝らし、胸を静かにし、字形を心に描き浮かべてから後、始めて筆を動かすといふようにして、久しく習っている中、漸く処方に通ずる事が出来た。

一般の人は、落第を恥辱と考へるが、寧ろ落第の為に心をさす方が、人間として恥辱である。

立身出世と厭世入山、それは慥かに相反した方向であり、矛盾である。而も彼の場合その何れか一つの方向へ、傾倒することによって、現実なる煩悩が解消される等、いふ筈はない。

元々彼の煩悶は、根本的には既述の如く、如何にして聖賢に近づくべきか、言ひ換へると、己と云ふ人間を完成する、といふ所から来ている。

辞章の学といひ、神仏の説といひ、それらは全て、聖賢への行程中の一迷路であり、言葉を換へて云えば、聖賢及び難しと失望嗟嘆する、一時の空虚な心の間隙に巣食ふた、世俗的思想に過ぎない。

以上、それらによって彼の根本的煩悶の、解決される筈は到底ないのである。実に彼の煩悶は、寧ろそういった世俗的思想を胡服して、聖賢の大道に立ち帰る事によってのみ、始めて解決されるのであった。

然るに、そういった時機は容易には訪れて来ずに、彼は、煩悶の中に数年間、世俗的な道程を歩み続けねば、ならなかったのである。

平素、崇敬する周濂渓、程明道は儒家の好秀才に過ぎず、朱子も単なる講師で、未だ最上の一乗に達していないと聞かされ、頗る心を動かされた。

更にその頃、彼は又、漸く従前の辞章の学、詩文の才に対して反省を加へ、「吾いづくんぞよく限りある精神を以て、無用の虚文をなさんや」とて之を廃棄したといふ。

惑わざるもの悟らず、惑ふて始めて悟りうる。

最初は、泥淖中に顛仆沈迷し、東に起きたかと思ふと西に陥り、非常な苦しみを経験するが、而も遂に休まず、歩みつけている中に、漸く小蹊徑を発見して、泥濘から免れる云々。

佛老二学に対する批判:この二学が世道人心を害するのは、根本的には聖人の学が、明らかでないからである。徒に二学を攻撃せんよりは、聖賢の学を体得すべく、先づ厳しく自己を責めねばならぬ。

古人の志を求めんとすれば、必ず先づ、自らその志を求むべきであり。古人の学を論ぜんとすれば、必ず先づ、自らその学を論ずべきである。

自らその志を求め、自らその学を論じてこそ、始めて古人の志と学とを知りうる。

思へば、彼の聖賢に至らうとする高い志望は、年齢と共に彼を圍繞し、糾纏する世俗的な事象と欲求の前に浮沈し、断続して、そこに失望を発し、煩悶を生じつゝ、次第に内的煩悶の解脱を以て、最大の関心事となすに至った。

そして、聖賢に至らんとする志望がはっきりと「内的煩悶の解脱」に置き換へられたその時から、始めて聖賢に至るべき方法を独自に考案し始めた。

且つは、その端緒も発見する事が出来たもの如く、頻りに内攻的、行為的な修為法を強調し始めたのである。

別の言葉を以てすれば、聖賢に至らんとする方法を、主として内向的、行為的、修為敵に求めようとするものであった。

彼の近来の思想傾向は、実に彼自身に於ける、内的煩悶の増大加重を契機として、必然的に生じたものと、言ふべくものであった。

随って、若し彼がこの煩悶を煩悶として、之を必死に取り組む事をせずに、却って之が解決を回避したとすれば、例へ彼に、如何なる良師と高才があっても、恐らく右の如き思想傾向の発展は、実現されなかったに違ひなかったのである。

その小蹊徑は、以前の険道に視べると、慥かに異なるものであった。それで他の人ならば、此処まで辿り着くと、当然もうこれで良いと考へて、止まってしまふのだが、先生は遂に休もうとせず、尚ほも歩み続けて行く中に、今度は愈々大康荘に出られる。

當世の務に、明かなる者は性だ、豪傑のみ然りと成す。今土を科挙に取るは、未だ記誦文章の間に免れずと雖も、有司の意は固より、惟だ豪傑を求むるのみ。

生来、不屈な精神を持つ彼が、この場合そのまゝ悲歎に沈み切って、自己の意気や志望までも、沮喪挫折せしめてしまふ筈はない。

公一切の得失栄辱に於いて、皆よく超脱したけれども、只、生死一年のみ尚、心に遣る能はず、乃ち石廊を作り、自ら誓って曰く、吾今は、只死を俟たんのみ。他に復た何をか計らんと。日夜端居黙坐し、心を澄まし慮を精にして、以て静一の中に求む。

「格物致知」とは、決して外的な事象の理を探究して、知識を推極する事ではなく、寧ろそれとは反対に、自己の心性中に存する、至善なる生命体を求めて行く事でなければならぬ。

龍場の一悟を中心として、それ以前及び以後を展望すると、以前は専らこの一悟に至らんとする「修為の歴桯」であったのに対し、以後は、この一悟の指し示した方向に従って、只管思想体系の樹立に直往しつゝ、兼ねて育英に従事する「講学の歴桯」といふ事が出来るのである。

心を外にして、仁を求むべからず。心を外にして、義を求むべからず。独り心を外にして、理を求むべけんや。

心を外にして、理を求むれば、これ知行の二つになる所以なり。理を我が心に求むるは、これ聖門知行合一の教へ、吾子又何ぞ疑はん。

凡そ、学ぶといふ事には「專」即ち、専念没頭する事が必要であるが、「專」だけでは未だ不十分で、必ず更に」精」であらねばならぬ。

然し、例へ「專」「精」であっても最根本的には「正」であることが、必要とされねばならぬ。例へば博奕に専念する事も「專」であり、文辞に精通する事も」精」であるが、真正のの学問とは、道を学ぶ事でなければならぬ。

一筋の大道以外、一切のものは綾で荊棘の蹊にすぎない。文辞技能は、如何に精専だろうとも、道を去ること遠い。我々の修為は、真正の道に專であり、精であること以外にない。

「すでに、志だに立たば、学は半ばなり。」

聖人の心は、明鏡の如きものだが、常人の心はまだらに垢つもり、触める鏡の如きものである。故に思ひきり刮磨せねばならぬ。

かくてこそ、始めて繊塵も目にとまり、之を払拭するにも、力を費やす必要はなきを得るのである。然し又、よしんば汚点が除去しきれずとも、その間に一点の明處さへあれば、塵埃が落ちて来ても目に止る。

依って、之を払拭する事も出来る。之が若し、一面の腐蝕の上に塵が堆積することになれば、終ひに、その塵も見られぬ譯である。

凡そ、易きを好み難きを悪むのは、人情とは云へその間又、自ら私意や気習の纏弊があるもので、これさへ看破してしまへば、自然煩難を感ぜずに、心境を磨く事が出来るのである。

子夏は、只管孔子を篤信したのに対し、曾子は孔子の説いた事を、自己に反求したさうである。篤信も固より良いが、然し、反求の切実なるに如かぬ。

古人が、故らに知行を二つ竝べ説いたにも又、それ相当の理由がある。即ち世には「冥行妄作者」とて全く、何を為すべきからざるかの思惟省察を欠いて、恣意な行為に出る者がある。

掛かる者に対しては、特に知の方面を強調して、説かねばならぬ。又、これとは反対に「懸空思索者」とて全然着実な実踐を省みず、唯だあてどない思索に耽る者がある。

佛は、生死の出離と云ふ事によって、人を誘って道に入らしめ、仙は、長生久視(視は生活の意)によって人を誘って道に入らしめようとする。

その意は、やはり又、人に好からぬ事を成さしめようとするのではなく、且つ、極処に到れば儒者とほゞ同じく、聖人の上一截(得意の心境)を得ており、只、下一截(日常淺近な事辺)を遺しているだけである。

これに反して、後世の儒者は、只、聖人の下一截だけを得、分裂して真を失ひ、流れて記誦・詞章・功利・訓詁の四派となり、遂に異端たるを免れない。

而もこの四派は、終身労苦しても身心に分毫の利もなく、随って仙佛の徒の清心寡欲で、世界の外に超然たる者に較べると、返って及ばぬ所があるようである。

故に、今の学者は必ずしも先づ仙佛を排せず、志を篤くして、聖人の学を治めねばならぬ。既に、聖人の学が明らかになれば、人道の正路でない仙佛は、自ら泯びることであろう。

僕、近時朋友と学を論ずるに、惟だ立誠の二字を説くのみ、人を殺さんには須らく、咽喉上に就いて著刀すべし。

吾人の学を為むるも、當に髓微に入る処より、力を用ふべく(かくして後はじめて)自然篤実光輝、私欲の萌しと雖も、真に洪爈に雪を點するが如く、天下の大本立たん。

吾、往時に論ぜし所、自ら向裏(自己内心に求める内向的)此れ蓋し聖学の的傳、惜しいかな淪落堙埋已に多く、往時見ること猶ほ自ら恍惚たりき。

僕、近来進む所なきも、只この処に於いて、看ること較分暁、直是(全く)痛快後を疑ふべきなし。但、吾兄と別るゝ久しくして、告語する処なきのみ。

人を殺すには、急所を衝くべく、学を修めるにも先づ、根本を把握樹立すべし。

持前の、剛毅な気魄と旺盛な求道心とが、尚ほも之を克服して、公務に講学に弛みなき精進を、行ひ始めるのであった。

諸生が、多く知的理解を努め、徒に口耳同異の辯をなして、得る所がないので、姑くえに静坐をを敎へたところが、一時頗る効果を収めた。

けれども、久しくして漸く静を喜び、動を厭ひ流れて、枯槁に入る蔽が発生し、或る者に至っては、殊更に高遠至妙な論をなして、人の耳目を驚かさうとするような弊を生じた。

「陽明のこの行は、必ず事功を立てるであろう。自分は陽明に触れてみたけれども、微動だにしなかった」。

 ―――改めて言ふまでもなく、彼は夙に栄辱得失を超脱し、生死を一如と感ずるだけの、徹底せる錬磨をつんでいた。

前半生に於ける修為といひ、其後の講学といひ、或る意味に於て、すべてが、不動の精神の寛容育成に、集中されたと云って過言でない。

即ち、「静も亦定まり、動も亦定まる」境地こそ、彼の、懸命に求めて已まなかった所であり、王思輿の所謂「触れて動かぬ」印象も亦、實にかゝる心境から受けたものに、外ならないであろう。

「君等は、どうして学を講じないのか、余はさきに南昌に居った時、権堅の禍が事前に在っても、帖然として動かなかった。」

「譬へ、如何なる大変が起っても、避ける事は出来ないに決まっているが、余の軽々しく動かないのは、又深慮があるからである」。と、答えたといふ。

謂う所の深慮とは、果たしてなんであったか、、詮議の限りではないが、兎も角もこの際に於ける、彼の何者をも恐れぬ堂々たる態度、及び「人生、命に達すれば自ら灑落」。

又、其の他の極めて印象的な、詩句に示されたところの、光風霄月の如き、脱然として生死栄辱の外に超越した心境。

自由無礙に、躍動して止まぬ精神は、或る意味から云ふと、いにしへ桓魁の難に當って「天、徳を義に生ず。桓魁それ我を如何せんや」と喝破し、危難の身に迫るのも知らざる如き、態を示した孔子のそれに、髣髴たるものかくありはしないか。

実に、学問道徳こそは、生命にも替え難く、講学求道こそは、彼の最大の仕事なのであった。

諸君が近頃自分に会ふ時、疑問の少ないのは如何したことか、人が巧を用ひぬのは、自ら自分は巳に学を治める事を知ったから、今は只、それに循って行へば良いのだ、と思ひ込んでしまふからではなからうか。

然し何ぞ知らん、恰も地上の塵が一日掃かねば、それだけ積ってゆくように、私欲は日に生ずるのである。随って著実に功を用ひたならば、却って道が無窮で、愈々深れば愈々深い事を知るであろう。

従前は、自分も肝腎な点に対して、本腰に力を用ひる事無く、虚しく過し、虚しく語って来たが、今後は諸君と努力鞭策、死を誓て進歩をせねばならぬと思ってゐる。

若し、専ら反観内省を以て、能事畢れりとするならば、正心誠意の四字で、盡される筈であるから、格物の工夫は不必要となるべし。

又、若し格物の意義をば、意念の発動する処について、その不正を正し、正に帰せしめる事と、規定するならば、この工夫だけで心も正され、意も誠になる筈であるから、今度は誠意・正心の項目が、之と重複して無用になるであろう。

彼の一切の権威に、盲従圧伏せざる毅然たる精神の躍動を感得し、又第二の所説に於いては、明らかに彼の切実徹底せる、事上磨錬の反映を看取し得るのである。

此の二つこそ、実は當時の彼が、既説の様々な憂患變難を、処理克服しつゝ、弛みなき修為を続けた結果の、必然的な現れではなかったか。

顧みれば、滁州南京時代の教学には、或る意味に於ては、まだ~上滑りの気味があり、徹底を缺く憾があったし、時とすると、都会人的な技巧によって、持前の鋭鋒をば、掩蔽せんとするような、傾向すらも見せ掛けた。

然し今や、其等すべてを拂拭して、陽明本然の姿を露呈しつゝ、龍場の一悟以来の大道を、驀直に進むべき時期に到達した。

自由無碍な生命の躍動を、一段と透徹せる人生観、益、切実さを加へつゝ、集約され簡易化された修為の方法、今や、それが渾然一体となって、人格の円熟境へ教学の最高峰へと、発展して行くのである。

彼を缺る諸般の状況は、依然として好転を示さず、彼に侍する諸弟子の雙眉には、戚々として憂愁の色が深かったけれども、而も彼は胸を張って高らかに、啾々吟を賦し、事もなげに学を講じ、道を説くのであった。

早年、厭世の念を擺脱した時といひ、龍場で発悟した時といひ、その背後には、常に祖母及び父を懐ふ切々たる、一念があったこと等を思ひ合はせる時、この答へに含蓄された意味は、一層明らかになる。

即ち、陽明は実に終始人間学に徹しようと、するものだったのである。而して今や罹る立場は、百死千難を経て益々堅きを加へ、確乎不抜の信念の下に、如何なる既成理念にも、拘坐せられぬ彼独自の人間学が、漸く完成せられんとしてゐた。

彼は夙に、「理」を超越的存在と見る学説をば否定して、「心即理」説を発展せしめ、意念の発動する処に就いて、その人欲を克服しつゝ、心の本然の天理を存する。

畢竟、彼の人間学が、理論的構成を目指すものではなくて、現実の人間の完成を目的にするものだった。

君のも持つ良知こそ、君自身の準則である。良知は、君の意念の著する処について、是は是と知り非は非と知り、少しも之を欺く事は出来ない。

されば君も、只この良知を欺くことなく、真実にこれに依って、その指示する通りにして行けば、善は之を存し、悪は之を去ることが出来る。

その時心中は、如何に穏當快楽であろう。而してこれこそ格物の真訣であり、致知の実功なのである。

実は、余自身も近年漸く此の如く、分明に體認したのであって、當初は、猶ほ良知に依るのみでは恐らく、足らぬ所がありはしないかと疑った。然し精細に考へた末、少しの欠闕もないと信ずるに至った。

扨、王心斉の従学は、彼が、庶民階級の出身であるだけに、頗る人の注目を惹いたが、何人も等しく学んで、聖人たりうるとの信念の下に、講学する陽明は、凡そ志ある者に対しては、貴賤等一切の条件を没却して講授した。

殊に、致良知の説を提示してからは、「良知こそ人々の同じく持つ所なり」と、喝破しつつ異常な熱意を加へて、講学に献身した。

聖賢の道は、坦々として大路のごとく、愚夫愚婦でも与興り知る事が出来る。然るに、後儒は故らに之を、深淵難解なものとしてしまった為、凡常の者は、到底修められぬと諦め、非凡な者は、虚談贅説の対象とするに至った。

斯様な際であるから、若し、志を立てゝ斯道を学ぼうとする者が、余の許に至れば、真に所謂空谷の跫者で、余も亦折々として之に接せざるを得ない。

且つ、真なる人物を求めるのは、正に沙から金を取るやうなもので、その場合たとへ沙の十中の九までが、淘汰されようとも沙を捨てゝは、金は求められないのである。

體得と聴講とは同じでない。初め自分が講じた時、君は只早吞込みsただけで、未だそこに滋味が感じられなかった。この説の要妙な点は、一層深く体得すれば、日に同じからざるを見、窮り盡きる事がないのを知るであろう。

道の明かならざるは、皆、吾等之を口に明らかにして、之を身に明らかにせざるに由る、云々。

すべて人は只この心が大切、この心若しよく天理を存すれば、聖賢の心であり、たとへ語れず聴けずとも、又聾唖の聖賢である。

若し、天理を存しなければ禽獣の心であり、たとへ口がきけ耳が聴けても、又口のきけ耳の聴ける禽獣である。

汝は省みて、只汝の是なる心を行ひ、汝の非なる心を行ふな。例へ他の人が、汝を是なりと云ふも聴くな、汝を非なりと云うふも聴くな。

汝の口は、是非を言ふ事が出来ぬ為、却って、どれ程無駄な是非を省いてゐる事か、汝の耳は是非を聞く事が出来ぬ為、却って、どれ程無駄な是非を省いてゐる事か。

総て是非を言へばこそ、餘計な是非を生じ、煩悩を生ずる。是非を聞けばこそ、餘計な是非を添へ、煩悩を添へる。

今、汝はどれ程無駄な是非を省き、どれ程無駄な煩悩を免れてゐることか、汝は却って他の人より、快活自在である。

余は汝に教へよう、汝はたゞ終日汝の心を行なひ、口中に物言はうとするな、たゞ終日汝の心に聴き、耳裏に聴こうとするな。

ところで、我々の克治すべき私心は、念慮の間に於て無限に生起し、又一種空想ともいふべきものが、時に快感を伴って、念慮に広がる場合も少なしとしない。

而も多くの場合、此れ等は克治しようと焦る程、却って意地悪く生じて来る。

斯様な折に心機一転の意味で、全然別な事をしたり考へたりすると、往々雑念も之を克治しようとする理性も、両つながら忘れ、両者の扞格が解けて、心中の廓清される事があり、別に又、静坐等に依って、心気の澄静をはかる事もある。

我々の修為は、本体を離れる事なく、只管、良知の上に於て工夫すべきであり、かゝる一時的な姑息な方法は不必要である。

工夫が中断するからこそ、良知が蔽われるのであるから、中断したと思ったら、直ちに継続するやうにすればよい。

九川が尚ほも「雑念を、皆殺しにする事は難しい、気付いても除去し切れない」と告白するや、陽明は、厳然として云った。

「須らく、勇なるべきである。巧を用ひること久しければ、自ら勇を生ずる故に、孟子も『浩然のきは、集義によって生む』と云った。雑念に打ち勝つ事が容易になれば、その人は大賢である」、と。

陽明が、寧王を擒獲した直後、門人の鄒東廓が入って賀し「老師が百世の功を成し、名を千載に揚げられたのは、誠に喜ばしい事です」といふと、陽明は「功名など敢えて言ふに足らない、唯昨夜熟睡出来たのが、何よりも嬉しい事だった」云ったそうである。

今の陽明の心境も、之と同じであらう。普通ならば、自己の戦功に酔ひしれるところを「青山これより聞人となる」と賦して欲も得もなく、一切の名利を超越して、心ゆくまで青山に閑明を楽しもうといふのである。

大抵、養徳と養身とは只一事なり。果して能く睹ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼して、志を是に専らにせば、神住り、気住り、精住る。

而して、仏家の所謂、長生久視説も亦その中に在り……元静気弱多病、たゞ聲名を遺棄し清心寡慾、意を聖賢に一にせよ。

「三代以下、正学は朱子に如くはない。然るに近頃、聡明な才智ある者が、異学を唱導した結果、高きを好み名を務める者は、靡然として之を宗とした。」

「彼等は、陸象山の簡易な学を採用し、朱子学を支離だと詆ってゐる。厳しく禁草せしめられたい」と云って、亦間接に陽明の弾劾を行ったのである。

聖学は、これから大いに明らかになろう。何故ならば、自分の学説は普通ならば、到底天下の士人に、遍く語る事は出来ない。

会し試録は、いかなる窮郷深谷へも普及して読まれる。而も此の際、例へ自分の学説が正しくないにしても、天下必ず起って、真是を求める者があろうから。

陽明学派の形成は、直接的には外的な諸契機に、促進せしめられたもので、初めから陽明の意志は、殆ど働いてゐなかったと、見られるのであるが、然し、陽明の教学精神は、そのまゝ姿日於いて、脈々と、学派形成の紐帯となり、指導精神と成り得た。

勿論、陽明の生活体験は、百死千難そのものであり、彼の教学も慥かに百死千難の中から、得来ったものであるが、云ふ所の百死千難とは決して、超現実的な環境下における、特殊体験の連続を意味するものでない。

実は、誰もが直面させられてゐる、現実世界の様々な苦難に外ならぬのであり、その意味に於て、彼の教学も亦、決して限定された特殊な場合のみ、妥当されるものではない。

寧ろ、十二分の普遍性を主張しうるものであったし、更に又、彼の生活体験は、新たなる時代の現実に眼を蔽ふたり、自己を失ったりする事はなかった。

真率且つ、力強く現実を活き抜きつゝ、其処から新時代に相応しい、生活理念を導き出さうと、するものであった。

故に、その教学も亦自ら既成のそれに求められぬ、革新的能動的な性格が汪益してをり、且つその点に於て、時代の息吹に敏感な人々に、一種逞くも清新な魅力を感ぜしめずには、置かなかったのである。

南元善が、陽明学の有力な後援者になった頃、或る日、瓢笠詩巻杖に括り付けて肩にした、風変わりな老人が、飄然として陽明の門を訪れた。

訊けば、詩を以て江湖の間に鳴る、浙江海寧の董蘿石68才だと言ふので、陽明も鄭重に引接して、学談を試みて行く中に、老人の方が却って陽明に心傾してしまひ。門人何善を通じて、是非とも弟子にして呉れと、請うに至った。

老人が、何生に語った所によると、彼は世の儒者の虚偽腐敗を見て、真の聖賢の学等は此世に無いものと諦めた末、遂に志に篤くし山水の間に及んだのであるが、今、良知の説を聞き、始めて長い眠りから醒めたような、思ひをするとの事であった。

「自分は始めて、幸ひにも苦海を逃れる事が出来、却って諸君は自分を、今更何を苦しむのかと云ふ、、然し自分は今大海の中に泳ぐ魚の如く、雲霄の上に羽ばたく鳥の如く、大きな愉悦を感じてゐるのに、もう二度と網や籠の中に入れるものか、やめて呉れ自分は自分の好む所に従ひたい」。

今彼に、一切の俗事を屏絶しつゝ、只管、求道講学に全精神を打ち込むのである。勿論さればとて、彼自身決して現実に怖れ眼を蔽ひ、頑なに小さな自己の殻を守ろう等しているのでもない。

又、門人達にも嘗てしかく、逃避的な学問生活を勧めた事はない。殊にこれから世に出ようとする青年達に向かっては「静を喜び動を厭ふ」やうな、気分の生長をば油断なく注意した。

寧ろ、現実の地盤に立つ、動的な修為を勧めるのであった。本筋を外さぬ限り、又世故に流されて自己を知らぬ限り、現実なる活社会は、時として処として、吾人最大の道場たらざるはない。

陽明は矢張り、単なる狂者を以て、自ら甘んじてしまう者ではなかった。成程かの世俗的な知識人が、生気なき形殻にも等しい、形式的道徳に束縛されたり、富貴声利の奴隷に随したりしてゐるのに較べると、流石に狂人は、人間としての規模を大きくて、活々した生命が躍動してる。

然し、又規模の大には之に伴ふ、内面的充実がなければならぬし、生命の躍動には、常に正しい方向が、與へられてゐなければならぬ。さうでなければ、空虚に陥り、放免に流れ、到底道に入る事は出来ないであろう。

陽明は、結局狂者を以て、究極の境地と考へたのでなくて、究極の境地は、実は狂者の一歩上層に在ると信じつゝ、常に、深い反省と厳しい修為とをば、自己及び門下の学徒達に、課する事を忘れなかった。

心の本体が、その正を失わぬ為には、必ず「睹ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼する」修為が、間断なく続けられねばならぬ。

我々が、知を致すに當っては、只各々その分限の及ぶ所に随ふべきである。即ち今日の良知が、これだけ見在してゐるとすれば、只今日の知る所に随って之を拡充徹底し、明日良知が又開悟すれば、明日の知る所からそれを拡充徹底してゆく。

心の良知が、拡充徹底し得ない限り、善は之を好む事を知ってゐても、著実に悪めない……然しながら拡充徹底とは、懸空に知を致すのではなくて、実事の上について、格すのでなければならない。

即ち、例へば我々の意念が、善を為すといふ點に在るならば、その事上について為してゆき、意念が悪を去るといふ点にあるならば、その事上について(悪)を為さぬようにしてゆく……かくすれば、心の良知は私欲に蔽われることなく、その極を致すことが出来る。

即ち、拡充徹底するには、具体的な「格物」工夫が、要請されねばならぬ。然るに又、拡充徹底するという事は、拡充して徹底する究極のところまで、拡充し続けてゆくといふ事である以上、我々の工夫は、あくまで持続的であらねばならぬ。

聖賢に至る道には一筋の捷径もなく、飛躍も許されない。譬へば、奔流する濁水を缸裏へ貯へたばかりの時に、直ちに、その水の澄む事を望んだとて仕方ない。長時間動かさずに澄まさねばならぬ。

出たての萌芽を、直ちに拱把合抱の樹にしようとして引張ったり、一時に多量の水を灌漑したりしても、萌芽が樹になる道理はない。同じやうに、我々の修為もまろびつ起きつ、歩みを続ける以外に、特別な方法はない。

(43 43' 23)



  • 最終更新:2015-07-31 22:11:52

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード