第三章 言志録(イ、王陽明に学ぶ)

こ私に施すはよく当るものなり、外より見て我にも、給うべき事と思ふ者なし。故に、善人を富め給ふは、漏る々ところなく、仁政を遍く及ば参が為也。

唯心は空を躰とす、故に天地万物に於ひて、感応せずと云ふ事なし。只、心のみならず、目耳鼻口も同じ。

目に色なきは空なり、故によく五色を明らかにす。耳に声なきは空なり、故によく五音を聞く。鼻に臭なきは空なり、故によく好悪を知る。口に味なきは空なり、故によく五味を分かつ。

これみな心の空寂を、目耳鼻口に開くものなり。心は其々の理を以て神とす。日として生せずというなし、是を性といふ、性は心の本然也。

君子は、富士山の如くならんと思へるが、富士山と云へども平地にしかず、萬山を戴て重しとせず、河海を修めて漏らさず。

広厚の徳ありと雖も、平地何の見べき事あらん。世中少し学知有る者、大に衆に異なるが如くなるは、庭前築山の如し。その少しきなる事を知るべし。

人心は、此形の有間形につきて、知覚運動するものを指して云うなり。寒暑を知り飲食男女を知所也。これを人欲と見は異学に似たり、人欲には非ず。

義理の上より知覚して、寒を防ぐべき理に叶て防ぎ。暑を避くべき理に随て涼しくし。飲食すべき理あるものを飲食し。男女も、礼あり理ありて相親しむ、是みな道なり。何ぞ人心を人欲とせん。

古人、静を主とする功夫は、平生義に移り、理に従って、私なきを無欲とす。無欲なれば心自然に静にして、未発の中存す。

此の未発の中は、動静を以て損益なし。静を好むは動を厭ふ心あり、理に従ふこと専ならず。物にさへらる々は、真の静にあらず。

俗楽は、仏家にいへる水の泡の如く、電の影の如く幻の如くにして、其有無を定め難し。真楽は、悦楽憂患を以て二にせず。

憂べくして憂といへども、憂心中人欲の交はりなければ、其楽を改めず。悦ぶべくして、悦ぶと云へども、其喜心中人欲の交はりなければ、楽て淫せず。

怒るべくしていかると云へ共大気の動なければ、身体廓念太公にして、本躰の正を失はず。例へば、外人の相争相闘者を見るが如し。

病苦と雖も、病の為に身躰を苦しめず、常に快活の本体を失わず、此心の動かざる所即ち楽也。

中根 東里:共資用之しければ、糸針を市に鬻ぎ、竹友履を造りて之を售り、僅に数日の費銭を得れば、沈黙して自重し、従遊の士の外は人に接見せず、時人呼んで友履先生といふ。

人心生ものなれば、動かぬと云ふ事なし。善に動かざれば、悪に動くものなり。

世人の惑ひは、異端の渡世より起こり、民の困窮は世の奢りより、生ずるにて候。

三・四十年以前までの武士は、書は文筆弓馬の諸芸に暇なく、夜は眠ぶたきより外の願ひなし。何にでも人のする事を知らずを恥じとせり。

三十才余までは、大方妻を持たず親伯父など、知音を頼み、妻を迎へよと申せば、喧嘩眼に成って嫌がり、今の若き内に妻子を持ち、家持ちと成ては、何の稽古も成まじきとて、真実に辞退仕候き。

常人の心は、此れ一間の空中の如く、聖人の心は、大挙の空中の如し。其空中に変はりなけれども、此一間は灯火をまちち用を達す。

天地の空中には、日月星辰掛かり風雪雲雨を起こし、寒暑晝夜をなし、神物の起こる事言語に述べ難し。

法然・親鸞・日蓮等は本賢くて、愚かかなる僧にはあらざれども、賢き故に、よく人の気を見て、世にあひぬべき愚か成る、教を広めたり。

釋迦は、王の子に生まれただに、学問修業の為には、人間第一の卑しき者の人に、侮らる々乞食となり、天下の谿となりて、上たらんと欲するの、勝心満心の火を滅し、身は人の下に居て、心は万物の上にのびむとす。

水は、潤ふほふ所に流れ、火は乾く所に付く如く。善人の間には吉事集り、悪人の家には凶事集まるものなり。

しかのみならず、善人の子孫は、必ず福よく栄え楽しび、悪人の子孫は、必ず仕合せあしく、衰へ苦しび、終には亡ぶるもの也。

欲と云えば、一向に貪るなり。共に義を知らず、義なければ恥の心薄し。故に義なきの無欲をば、畜生無欲といひ、義なきの律儀をば、畜生律儀と云。

真理の功は、年よるほど錬れてよきものなり。年よるほど衰ふるは気なり。

道を見るものは、生死を以て心を二にせず。人の身の心の中に、生まれ出たるは、魚の水中に生じたるが如し。

魚の出来たる為に水増さず、魚の死するが故に水減せず、死生共に水は常の水なり。

仏氏の慈悲と云ふは、乞食に物を取らせなどする事、人を憐れむ事をこしらへて、慈悲とす。之を以て菩薩の修業となす。

夫れ仁は、天地の物を生育し給うふ、根本の生理なり。人に有りては心の徳たり、無欲無我にして、万物を以て一身体とす。

仏氏はその日暮らしに、物を蓄ず惜しまざるを無欲として、無欲を事に拵へたるもの也。又これ理をしらで、気のみを採れり。

馬の大豆かゆを食らひて、腹に満つれば口にくわへて、こぼすが如くなる事を以て、人の無欲とせんや。

人道の無欲は大いに異なり、只、、義ある事を知って利を知らず、其の義に従って、私心無きを無欲とす。

取るべき義あれば取り、与ふべき義あれば与ふ、蓄べき義あれば蓄へ、施すべき義あれば施す。只心の義に従ふを無欲とし、利に従ふを欲とす。

取ると取らざるの上に、無欲と欲を立てず事の上に立てる時は、無欲を作て身に利する時は、無欲者となる事は、無欲に似たれども心は利によるなり。

それより良きは、名によって無欲を嗜み、武はかくのごとく、修行して後世に成佛すと思ふもあり。武は無欲を作て、一生のすぎはひとする者あり、真の無欲は必ず謙遜なり、必ず仁愛なり。

我慢がたきの者は禅に入り、情こはき者は日蓮宗に入り、愚痴なる者は一向宗となり、禍福の心あり、みこみこしき者は天台・真言となる。

剛毅木訥の質、如何がして仁に近きや。
剛毅の人、道を学ぶ時は、其勇力を用て物欲に惹かれず、利害に屈せず。朴訥の人、素朴遅鈍の生れ付きに基ずく時は、外にはせずして己が為にす、故に仁に近し。

問:王子は聖人か?

曰:文武ある士と云者ならむ。名大将也、又賢なり。孟子の良知良能の奥旨をひらき教へ、自反慎独の功におきて、後生の学者をして心を内に向はしむ。

吾人徳をかうぶる事浅からず、内に向ひたる心にて、経伝を見れば、語も理も本のものなれ共、格別なる所あり。

今の、禮儀を先ずる者は、心に仁義の守りなし。是を人面獣心と云へり。

今の、終を慎といふ者は、多才名聲を本とす。心には利益あれども察せず、名聞は誠なく、利害は義なし。

朱子は、時の弊によって、自反慎独の功に重し、窮理の学なきにあらず。愚拙慎独の功の内に向て、受用となる事は、陽明の良知の発起して、取惑た辨るの事は、朱子窮理の学に傳り。

佛学多と雖も、天台と禅に優れたり、天台は高妙なり。佛学の詳しきは禅に勝れり、然れども心に惑ひあり。禅は学あらけれども、ちかく心法に本付て要を得たり。惑なきが如くなれども、実は惑へり。

儒道は良き故に、尊信する人稀に、仏法は悪しき故に従うもの多し。

小躰に従う者を、小人とするなれば、学問を名利の為にする者を、小人の儒と云ふ。大躰に従ふ者を君子と云うなれば、学問して性命に至り、産業は別に在って、学に拘わらぬ者を、君子の儒と云ふ也。

致良知:此三字は学問の肝要にて、聖人の人を教たまふ第一義なり。良は本然の善なりとて、根本より善なるを云ふ。

知は、明覚の自然を云ふ、花を見て花と知り、月を見て月と知り、善は善、悪は悪と其々に知り弁ふる心の神明にして、人たるもの同じく天より稟賦て、根本より善なる智慧を、吾心の良知と云ふ也。

孟子の説に、浩然の気を養と見えたるは、浩然は、洪水の出て礙ところなく、悠々と流行の貌なり。

人の、元来天より稟得たるきは、至大至高にて、おほきに強き勇気にて、物に奪れ懼る事も、屈撓事もなく、天下の一大事に當ても、露ほども動転する事なき故に、浩然の気と名付く也。

然るに凡庸の人は、此大剛の勇気を養とを知らずして、物に奪れ事に懼て柔輭と懦弱なるなり。

吾心の良知を到て事を行ば、大凡天下の事に於て皆心其宣を得て、自省に少も愧怍ことなく快然ときは、浩然大剛の勇気生じ来て、萬事に流行て少も恐懼ことなく若は大國、若は天下の政事に関といえども、少も心動転することなし。

吾心の良知の慈悲の発見、先父母を孝養して、夫婦兄弟一家一類を睦し、一切の人民を親愛て、禽獣蟲魚艸木の類に至て、隣愍て遠も近も外も至らぬ所なく、天地萬物一體となりたる徳を、仁と名付くるなり。

善に習て、吾心の良知を致すれば、聖賢君子となり、悪に習て、吾心の良知を昧ませば、小人・悪人となる。

気象清明なる時は、本心自ずから発し易く、大に力を省く処あり。昏迷なる時は、力を用ひて心励ますと雖も、必失ふ事又多し。

良知至れば、善を善とし悪を悪とし、日欺く事なくして自ら心良し、是誠意也。意に尽きて言へば、誠にすと言ひ。知に尽きて言へば、致と言ひ。物に尽きて言へば、格と言。、実は一なり。

善人の至極は、堯舜にも進むべし。悪人の至極は桀紂にも陥るべし。その界は一念の間に在り。善人にならむと願いは、善を為すべし。

悪人を免れなんとならば、悪を去るべし。悪を去るを不正を正すと云う、善を為すを正しきにかけると云う。不正を去って正に返る、これを物を正すと云う。

真の聖学と云ふは、悪人の善人と成るの道を云ふ。悪人の善人と成ると云ふは、耳目のよくなるにもあらず、手足のよくなるにも非ず、只此の心のよくなる事也。

心よくなる時は、手足の働きも義に違わず、耳目の用も道に背く事なし。是を人皆堯舜に至るの道とす。

教へは元来、悪人・愚人・異端・邪類の為に、設けたるもの也。如何となれば、賢人君子には、教えなくても可也。人毎に無病ならば、医も薬も要らぬもの也。あがら

かく人と生まれ乍ら、其形を踏む事をも得ず、其性を知る事をもあたはず、人倫は如何様のもの、と云ふ事も辨へずして、朝夕只財を争ひ利を貪り、情欲を楽しみとす。

飲食・衣服・玩好をのみ事として、道ある事を知らざるは鳥獣に近し。

さてよく自反して、我心を見るに及ては、心元来一也と云えへども、分かれて二つとなる。一つは道心也、是天より受たる性のまゝ良心也。

その明をさして良知と云ふ。今一つは人心也、是は、この肉体より出たる所の気也。その気のまゝに動くを人欲と云ふ。

其知慮千萬と雖も、此の二つより外はなし。平生自反して己の二つのものをよく辡へ、其の人心の欲を去て、かの道心の性に一つにするを、惟精惟一と云ふ。

是、堯・舜・禹相傳の妙訣にして、湯・文・周・孔嫡々相傳し給へる、道統の正脈也。

怒り腹心あらん時は、暫く待ち合わせて、我心のどやかになりたる時、静かに責むべし。我腹立て勢ひより人を咎むれば、心気のぼり言葉荒げく、自らの心を損なうもの也。

此処を先向せめて、人を責むべし。先にも腹悪しく見ゆる事あれば、是猶我心の底に怒あるならむと、求めて彼が不感を以て、砥として我心を磨くべし。

毎日朝起き出て、手洗ひ掃除して、祠に向ひ奉る時、心ざわざわしきは、原且未起の時の心の名残り也。

蓐中にて心を鎮めて静に起出し、妄に動ぜしめずして、祠に向かひ奉れば、其さわぎ少なし。夫にてもさわぐ事あるは、神に向ひ奉るの実孝敬の心なき故なり。省みて自ら責むべし。

嗚呼、先生江西に生れ、予州に長じ、又江西に帰りて、母を養ふて終れ利り。其はじめ朱子を尊信して、心を集註にひそめ、大全を合て是を暗誦す。

然れども、未必に得る處なきを以て、疑ひ止む事能はず、広く書肄を探りて、陽明全書の始めて本邦に渡りぬるを得たり。

詳覧熟読して、数年の疑念盡く解釋す。此処に於いて、聖門階梯の適路を、陽明夫子致良知の学に得て、其教に従ふ事数年。超然として黙会し、其心徳を本邦百年の後に接せり。

今日、子孫相続する處にてみれば、庸人も能君長として、維持する事有と云へども、開闢の時にみれば、有徳の人ならでは、人が帰伏せず。

小兒の交遊にも少にても、器量あるもの其中の大将をする也。禽獣も其中に勝れたるものが、首をすると見ゆ。

盗賊の類乞食の類まで、少も勝れたる者に人が従ふ、是にて想見るべし。とかく出類の才ならでは、君長の役目はならぬ也。其人君の役目は、争奪をやめ生養を逐しめ、倫理を明らかにせしむる事なり。廉人にて可能乎。

陽明の気、天地の間に薫陶して、其の凝り固まれる萬物となれば、人の身元より天の身なり。人の心も天の心なり。

人の道も天の道なり、天と道と隔なし。天又人なり、故に、天の聡明は我民の聡明なり。天の明威は我民の明威なり。

是を以て、天に等しき人を聖人と云ひ、天の如くならざれども、天を忘れざるものを有志の人とす。天に違ひて知らざる者を愚と云ひ、天に違ふて恐れざるものを悪人と云。

夫れ人の心もと天の心なれば、萬事萬物の理もこの内より出でざるなし。されば、此心の天より受来れる全体を性と云ひ、其一点の雲なきより明徳と云ふ。

少しき偏奇なきより中と云ひ、少しき偽なきより誠と云ふ。是に従ひて、自ずから條路あるより道と云ひ、人我の隔て無して向う生意惻怛あるより仁と云。

性・明徳・中・誠・道・仁、その名替ると雖も、等しく人の心を云ふに非ざる事なし。

此心、獨聖賢のみ然るに非ず、愚夫愚婦と雖も皆之有り。唯、その存すると失ふとに有るのみ。故に、孟子も君子はこれを存し、庶民はこれを去るとの玉へり。

堯・舜・兎・湯の聖も、これを失はむ事を恐れて、執中の戒め有り。孔子の操則存舎則亡に玉ひしも、其間断あらむ事を戒め給へる也。是のみならず、世々の聖賢の学、皆是に出る事なし。

人の此心有る事、書を読で得る所にも非ず、師に伝はりて然るにも非ず、人と生まれるもの々同じく伝はれる處なり。此れを名付けて良知云。

孟子曰、人の学びざる所にして、知るものは良知也。他なし、これを天下に達するのみと。孔子のわが欲せざる所は、人に施す事勿れと教へ玉へる。

恕は、即この良知を達する法にし、仁を求めるの要道なり、此れを名付けて学問と云ふ。此の趣を知らざる人は、生質良き事、諸葛孔明・司馬温公の類の如し云へども、天下の書を読しること東坡・永叔の類の如しと雖も、皆これを無学の人と云ふなり。

大敵となれる巨魁三あり、色欲・利欲・名利なり。

聖賢・千言・万語、只是、己放たる心を収めて、身に入り来たらしむと云へり。

夫れ、本心収りて方寸の内にある事、或は日々に一度収り、或は月々に一度収る子路、子貢、諸士の学なり。

三月の久しき修り居ると云へども、或いは一念少しく離れ出すとするは顔子なり、常にその内にのみ居て、少しく動く事なきは聖人也。

此処に至りては、この心性のまに々々して、徳あきらかに片寄る事なく隔たりなく、道筋を過たずして、天と均しく違ふ處なし。

孔子曰く、吾道一以之貫と、是則聖楽の正脈、中庸の第一義なり。これに悖れる者を異端といひ、外面のみ似せて実心同じからざるものを覇者と云。

今、聖賢の心術を学ばずして、其の成せる事業のみを見て、事々物々にて是を尋ね究め、知を盡せりと思ひ、其の知る處を真似行ひて、よく是を行ふと思ふ。

是、自は聖学也と思ふらめど、即覇者の仕業なり。能く知りよく行ふと云へども、天道にあらず。

又、義襲にてこれを取のみ、夫己に此心法無して、知を究めむにて、事々物々似て道理を尋るは、暗夜に燈くして物を探るの如し。

知れる處似たりと雖も、終に自得の学に非ずして、却て人我の隔出来り。人欲の私勢ほひ得、按措置して意必固我をなす。

故に、もの学ぶ諸生は大用常人よりは劣り、是を教る師は処生より又、ひがめる方多し。如何となれば、三欲の大敵去らずして、知る處多ければ其知る處己が欲を助く。

自ら高ぶり人を軽しむ行ふ所、人に勝れるものあれば、其行ふ所又、己が欲を助けて、自ら高ぶり人を軽しむ。

譬へば、食は民の命を救ひて、一日も是なければ死すと雖も、食に傷れし人は食毒をさり、傷れを補はずして、是に食を進むれば、却りて病ひを助けて民の命将に盡むとするが如し。

是を以て、朋友の交全からず、親戚の愛うとくなりぬ、世に不幸なる儒者有るも、是によれるならむ。書曰、志自満れば九族も離る々とはこれなり。

斯の如く、親背き衆離る々者を獨夫と云ふ、故に学問の入口一度違へば、其道に入事あたはざるのみに非ず。

却て、悪を長ずるの階となる、慎まざるべけむや、其間偶々性質よき人、此学をなして道に進める如くなりと雖も、彼覇者の趣を免れずして、本心の徳生ずること難く、終に聖賢の域に入る事なし。

故に、聖賢天道の学に志有む人は、事無時は、或は静坐して心を養ひ、或は書を読て古昔を考へ、事有時は、其事の理否其處置の善悪をば、あながちに擇ふべからず。お

唯、其ことに当たる時、義の邪正を尋ね、かの三欲有やと顧み、天理自然の本心に立復りて、事に向ふべし。

凡静坐より書を読むに至る迄、皆この工夫なり。其心既に邪あらば、成す所の事道にかなひぬとも、是即邪事と知るべし。

其事に臨ては、生を捨て義をとり、其道を聞く事を得れば、夕に死するをも可也とす。故に利の為に勇まず、害の為に怖れず。

万死に出入すれども、一塵も動かず、わが徳を明らかにして、寂然の欲少なく偏倚なし。これを天下の大本と云う。

順とは、天道に違わず素直なるをいふ。信とは心の誠を行ふて偽なきを云ふ、かく天に違わず心の誠を行ふて、尚自ら善しと思はず克賢なる人を尊ぶ。

学は心学也、致良知其の功也。良知の学政と通ず。夫の良知の妙内外二事なく、彼我別人なし。此故に、明徳を萬民応接の事業に明すれば、天下則平かにして、天地も己が表裏に位す。

人民を一念精微の誠に親めば、明徳天下に明にして、萬物もとより格其所を得る也。明徳以て其の本體を立て、親民以て其の大用を達す。これを致良知と云う。

生民の道、上一人より下万民に至るまで、衣食住の三ツ、一ツ缺ても生を保つと能ずして、天下に君たる人、これを制せざれば民欲に耽りて相争う故に、君まづ之を豊かにして、天下養ふを備とす。

忠臣は國ある事をを知って、言えある事を知らず。孝子は親ある事を知って、己ある事を知らず。

聖人の学を勤る人は、私に克ち過を改め、徳を養ひ、天地萬物一體の道理を信じ得るに及んでは、夜の明けたるが如く、重荷を降ろしたるが如く、盲人の目の開きたるが如し。

さぞ、心よく嬉しく、舊悪も、前非も、後悔も、残念も、昨夜の夢也。昨日の風雨也。何の憂ひ悲しむ事あらんや。
若き人兼て、此の意味を知り候はば、末頼しく学問に退屈なく、精出て申可候所、教る人も学ぶ人も、只、文字の沙汰ばかりにして、心の安堵を求むる事を知らず、空しく光陰を送り、此の世を夢の如くにて、過ぎ去り候。

名を好む心は、学問の大魔也。早く名を棄て実を勤べし。

聖人の学者は、義を惜み候間、名には頓着致さず候。名を惜む心之有候へば、事々に外聞を飾りて、真実の心なく、世上の噂を恐れて気遣ひ多し。

果には只、名の為に義を捨つるかたに成り行き申候、例へ大高名ありとも、義を失ひては恥しく悔しく、日夜に、心の晴らしようもあるまじく候へば、羨ましからぬ事に御座候。

只、義に於いて欠ける所なければ、心は広く気は延びて、少も不足も之候へば、此の上にて如何ほど誹り笑うとも、毛頭心に掛かる事無く、格別の楽み思ひ遣られ候。義と名とは玉と石也。

聖人の学問は、善をなして悪を去るのみ也。善にてもしかた悪しければ、善穢れて悪となれるなり。第一言語の上にて見るべく候。

譬え如何ほどの善事を云ふとも、云ひかた悪しければ、善言穢れて悪言となり、人も信ぜず自分にも心悪し。然る故に、物言ふ事を大切に慎むべし。

至極尤なるとを云ふとも、軽はずみに云ひ払ふべからず、忙しなく云ひとるにべからず。気儘に云ひはるべからず、此の三ツ言葉の病なり。

如何なる人と、も之有かと存被候。軽はずみと、忙しなきと、気儘なるは、悪心なり。悪心口に顕れて、言葉の穢れとなり候間。

言葉に罪は之無き候へども、言うひ振り悪しき故に、疎ましき悪言と聞申候。例へば、精白の飯に砂を交ぜるが如し。飯に罪は之無候へども交り物悪しく候間。煩き悪色となり申候。

何事に於いても草臥たる時は、随分休息して精力をを養ひ、精力整えて後、又其の事を勉べし。退屈は是と格別なり、力を用る事もなく、身を労する事もなく、精神の乏しき事もなし。

なれど、兎角其の事を厭に思ひ、欠伸多く出て、吾が私意の好む事のみを成して、気を仲度思ふなり。是則良心の蠧賊学問の大魔也。

此大魔を降伏すると能はずんば、小善ありと云ふとも、車薪杯水労して功無きや。其由て来る所を尋ね求れば、只吾志の誠一真切ならざる所より出たり。

此故に学者の務めは、只吾志誠一真切なるか、誠一真切ならざるか、と吟味省察して、一息の間断なかるべし。此患を免る々の道、只此一方のみなり。

知謀を用ゆべき折もなし、才略を用ゆべき折もなし、只是無二無三に、此退屈念を攻撃裁断して吾が良心の本然に復するのみ。

譬ば四方援なき地に於いて、大敵に取り囲まれたるが如し。知謀も才智も用ひ様おうえにもなければ、前後左右を顧みず、無二無三に其大敵を撃破りて、自ら全せんと思ふより外の方便はなきなり。

今日も此の通りに工夫をなし、明日も此の通りに工夫をなし、聲色の上にもかくの如く、名利もかくの如く、貧賤にも退屈せず疾痛・死亡にも退屈せず。

時となく所なく、只此大魔を降伏する以て、務めとせざるとなし。力用る久して彼衰へて、我盛なるに至ては、吾本心周流和暢して、人欲・私意・客気・俗習・隠伏する所なし。或は微キ萌動するものありと云うとも、紅嚧一點の雲ならん。

憂深く情切にして、志気奮発人をして、興起せしむるものあり「天将に大任を是人に降んとするや、必先其心志を苦しめ其筋骨を労して、其體膚を餓し心動し性を忍て其能はざる所を増益せしむ」。

所謂、汝を成る玉にする也。伏て望らくは、此所に於て目を明し謄を張り、精神を奮起して、天意を奉承すべし、徒に放過すべからず。

吾志の、誠一真切ならざるを、御見得成被成候は良知也。此良知を致して、吾志をして必誠一必真切ならしむべし。

譬へば、羈溶の郷里に帰るが如し。父母に見え妻子に逢て、歓楽せんと思ふ心、誠一真切なるが故に、千里を遠とせず。

寒暑を畏れず、風雨を厭わず、道路の景にも貧着する心なく、只一日も早く、郷里へ帰着せんと思ふ心盛んにして、少も退屈するとはなき也。

又、一種の人あり幼年より郷里を離れて、父母親族の歓楽を忘れて、一向に他郷の地に安心するものあり、これを弱喪といふ。

荘子に見えたり、此弱喪の人は他人の物語、故郷は楽ある所聞て、帰りたき心はあれども、元来故郷の歓楽を知ると、誠一真切ならざる。

故に、寒暑を畏れ、風雨を厭ひて、発足しても馬鹿々々しく歩行もせず、大方は酒肆淫房に流連沈弱して、多くの日数を費し、其の迷乱の果には、傍蹊曲徑に困窮屍亡して、父母親族をして、悲傷號泣せしむ。

人品すでに高ければ、気韻高からざるを得ず、気韻すでに高かれば、生動至らざるを得ず。所謂、神の又神にして能く精なるものなり。

人高ければ、則ち詩もまた高く、人欲なれば、詩もまた俗なり。詩の辞気は人品に由る。

大学の始めの教は、必ず学ぶものをして、天下の物に即きて、その己に知るの理に因りて、益々これを窮めてもってその極に至るを求めしむ。

力を用ふるの久しくして、一旦豁然として貫通するに至っては、則ち、衆物の表裏精粗到らざるなくして、我心の全体大用明かならざるなし。これを物格るといい、知至るといふなり。

一物に格って即ち、衆理に通ずるが如きは、願子と雖も又、敢えて、かくのごとく云わざらん。須らく今日一件に格り、明日又一件に格り、積習する事既に多くして、然る後脱然とし、自ら貫通するところあらん。

心をもって物を観す、物をもって物を観る。「客観的格物論、唯物的格物論」。

陽明は、先天的・道徳的感知である良知が、即ち天理でこれを事々物々致せば、事々物々は始めて理を得るに至る。これが良知格物である。

石とは、天地の骨なり、骨は堅深にして、浅露ならざるを貴ぶ。水は、天地の血なり、血は用流して凝滞せざるを貴ぶ。

明末の書画で、我が国でも影響があった張端図は、詩を作るにも「情が動いて作り、情が達して止める」という風であったという。

惟情の自然を貴んだ、明末の芸術家は、伝統的格法に執らわれず、自由奔放に個性を発揮し、我が心の主体的活動を絶対とし、創意を重んじ新奇を求めた。

故に、袁宏道は文章論において、定まった格式はなく、只人の発揮し得ないもの発揮し句法・字法・調法が一々胸中より、流出する事が必要である。

これが、真の新奇であると述べ、当時の有名な詩人であり、又画を善くして、破天荒な型破りの花卉画を画いた、徐渭も筆は死物であり、手の支節も死物である、と。

運らすものは全く気にある、気の精にして熟するものが神である。故に、気が精でなければ雑となる、雑となれば弛む、雑でなく弛まぬ時に精である。

常に、精にして熟すれば神である。精神で死物を運らせば、死物が始めて活きる。

思想界に於いても、人間の性情の自然が謳歌せられ、個我が強調せられ、禅について云えば、煩悩を掃除して、後に悟境に入る事を要とした。

如来禅が衰微して、人心の現在あるがままに従ひ、機に応じて悟境に入る事を求める、祖禅師が流行し、経典にも特に人間尊重の立場を取る、楞厳経が重視せられた。

儒学に於いても、陽明の良知現成論が流行して、我が性情の、自然や個我を絶対とする風潮が、支配的であった。

明末の文人の中には、才気を以て自ら髙しとし、先人の故轍に従わずして、別に我が意見を立て々、これに勝つ事を求め、故意に新奇を求めて奇僻に陥り、却って自然の気象・大雅の調を傷るものが少なくなかった。

聖賢の語は平明で、その中に無窮の味わいがある。そこを従容として玩味し、黙識して心通するようになれば、学問の根本が立って、用に及ぶ事が出来るのである。

故に、立説に新奇を貴び、類推して広博ならん事を欲し、その為に返って聖人の語の、平淡の真味を失われる事知って、徒に、口耳の未習古事とする事があってはならぬ。

宋代の文人芸術家は、表現描写の完全を期するよりも、極力これを抑制しようとした。それは、彼らの理想とする広大深渕な精神は、これを形の上に全てを表わそうとすればするほど、真意が失われる事を、知っていたからである。

経書を看るには、よく注疏や先儒の解釋を看なければならぬ。さもなければ、我見に執して議論し、自説を是とするようになるであろう。

その志正しくその見遠も、その意悉に基くも、旧聞に泥まず、是を以ってその説をなすや卓にして専、その書を成すや勇にして敢。

古の詩人われと相去ること、数千載の上にして、諸家の注するところ、無慮数十百ばかりといへども、未だ以って必ずしも、それ彼の尽く非にして、われの尽く是なるを知らず。

我が心の、通ずるを取りてもって、用に適するを論じ、深く孔子の遺を得るものに、あるに至っては、先生一人のみ。

論語は、人間の日常生活の実事に即して道を説いたので、伊藤仁斎は、その学は徳行にあるとした。孟子になると、人道を心性に帰するようになった。

仁と義は定石であり、道と徳は虚位である。凡そ我が儒がいう道徳は、仁と義を合していうのであり、これは天下の公言である。

老子が云う道徳は、仁と義を去って云うのであり、これは一人の私言である。

道仏二家の道は、超越的存在であるから、両家は虚を本にする。只、同じく虚道を説くと言っても、道家は仏家程それに徹したものでない。

何故なら、道家は仏家よりも、現実生活に対する関心が強いから。

魏晋時代に、何故道家の思想が流行したのか、この時代は動乱期であった事、漢末に於ける儒家の精議が、道家の高踏的な哲学思想に転化した事等が、その主な原因であろう。

仏法は、出世間と云われるが、世間に入る事が出来れば、それで出世間は十分である。世間法は即ち仏法であり、仏法は即ち世間法である。

天性は、父でも子でも同じであるから、子が死んで、父が苦悩もせず、子に思いを寄せなかったり、父が死んで、子が苦悩もせず、父に思いを寄せなかったり、するような事はあり得ない。

もし、この情を抑えて死者を哭せず、思いを寄せるべき時にも、思いを寄せなければ、それは天性に逆らい、天理を滅するものだ。

実とは虚に対する実、空に対する真を意味するが、宋明でいう実学の意味は、多岐で虚実虚妄に対する、誠実真実の意味である。

観念空想に対する、現実事実、世の無益無用に対する有益無用、空言虚説に対する実事実得,又は、思弁理論に対する対する体認実践などを意味する。

彼らは何故実を説き、実学を唱えなければならなかったのか、其れは長い間思想界で支配して来た、異学異端、即ち訓鈷辞章の学、佛老に伴う虚弊を痛感したからである。

近頃、学問をするものは、聖門の実学の根本次第を知らず、全く佛老の説に溺れて、致知の功もなく、力行の実もなく、妄りに天地万物、人倫日用の他に、別に知る事の出来ない空虚玄妙ものがある、と思っている。

実用の学とは、具体的に言えば、家國・社会に於ける、人間の共同社会に役立つ、学の事である。

朱子によれば、それは人倫日用の当然の事は勿論、礼楽・制度・天文・地理・兵謀・刑法・律呂・象数などの所謂、時務の大なるもの、及び國の治乱興亡の迹に及ぶ所の、当然知らねばならぬ、諸事についての学である。

従って、社会、自然、歴史に渡る広範囲のものであった。故に、朱子は聞見だけでなく、経術に通じ、史実を習い、諸子の書を読んだ。

そして、先儒の説を研究して、人間の共同生活に必要な人倫道徳や、政治、経済、社会上の原理及びその具体的な、政策施設についての知識を得て、これを実践に移すよう求めたのである。

朱子の場合は、ここに止らず、人間生活と不可分の関係にある、自然界の緒の現象についての法則を研究する事も、実学であったのである。

要するに朱子の実学は、人倫当然の法則だけでなく、社会・自然の法則まで、及ぶものであったが、朱子は儒者であったので、究極を人道に求めた。

荘老は、義理を絶滅する事未だ尽さず、即ち仏に至っては人倫滅尽、禅に至っては義理を滅尽。

儒道は、虚体に及ぶ事があっても経世を主とし、仏氏は、実を擁するも宗とする所が、経世にあるか、出世にあるかによって、両者の別が生ずる。

従って、実と虚とをもって、その別を論ずるよりも、公理と私利をもって、これを論ずるに若かず、と。

千虚一実を博らず、わが平生の学問は他なし、只一実のみ。

法則性を重視すれば、形式に堕して生命力を欠く憂えがあり、生命性を重視すれば流蕩して、条理を失う憂えがある。

陽明のいう良知は、即ち天理、致良知は即ち窮理であったので、致良知説においては、象山の心即理説より、一層理の実体が明瞭になり、且つ、工夫が本体の工夫であることが、明示されたので、象山の場合よりも、実の工夫が一層真切となった。

到知格物とは、我心の良知を事々物々に致す事である。我が心の良知は、即ち所謂天理である。我が心の良知の天理を、事々物々に致せば、事々物々は皆その理を得る。

致知とは、我が心の良知を致す事である。格物とは、事々物々が皆理を得る事である。これは心と理を一つにするものである。

――――これによれば、朱子の格物窮理の学は、文義外求の学であって、「競って物の理を捜って人情を外にし」根本を忘れて「枝々葉々外頭に尋ね」万化の根源、自然の命根、所謂「天真」を忘る。

その影や響を逐うて、支離に陥るものであろう。象山の実学は、陽明に至って一層真切精微なるものとなった。中國思想史における、虚から実への展開は、此処に至ってその極致に達したかの感がないでもない。

君子は「その事を高尚にして」只管、清純を求める隠者の超俗物的心境を慕い乍も、その高踏独善を厭い、現実の社会に通達し乍も、その世俗の功利を厳しく退け、超俗性と社会性を統合して、一に帰したものが、君子であると云えよう。

性のまゝに安んじて君子になれる者が聖人であり、努めて君子たらんとする者が賢人である、と。

明道は、現実の人生社会を視るに、その矛盾葛藤の面よりも、親愛温和の面に注目し、高い立場から全てを包み生かす道を求めた。依って、その学風は全体的・経験的であり、物事に対しては寛容であった。

然るに伊川は、それとは反対に矛盾葛藤の面に敏感で、至純至高な理想を立て々厳しく、これに対処しようとしたので、その学は分析的・主知的であり、物事に対しては厳格であった。

明道は、生すれば泥人形のようであり、人に接すれば一団の和気があったという。

康節は、程子よりもや々先輩である。気象が快活にして広大、身分の上下・賢不肖の別なく、万人とよく交わり、万人に慕われた。洛中の我が居を安窩と名付けたように、貧に安じて道を楽しんだ。

自然と人事の別なく、宇宙の諸現象は、気の必然的変化その法則によって、生ずるものだと云う横渠の世界観は、誠に合理的・客観的・理知的であったが、横渠はそこに温かい偉大な自然の生意があるとした。

それに対して、宗教的な敬虔な念と家族的な親近の情を抱き、崇高で、しかも温情に溢れた心で万物一体とし、四海を同胞とする仁愛道徳を説くに至った。

或は古人を尚友し、或は志天下にあり、或は慮後せに及び、或は人の知るを求めずして、天の知るを求む。皆いはゆる心遠きなり。

人倫を本として仁を説いても、もし、体を立てるのみで用に及ばねば、墨子の兼愛に陥る惧れがないでもない。

到堂の思想は、義に徹する事を根本とする。そしてこの義は、人間の共同生活の宜に基づくものと考えられ、義に徹すれば天命に安ずる事が出来る。

五峰は、天下を治めるには、必ず理義を本にしなければならぬ。何故なら理は天下の大本、義は天下の大用で、理が明白であり、義が断乎たるものであれば、綱紀が正され権衡が正される。

陰陽五行が、交通して無窮に万物を生ずるのが、天地の道である。人が生まれるのも、この天地の道に合する。故に、君臣・父子・夫婦と交通して万事が生ずる。

太和保合、生育窮りないのは、天命の然らしめる所であり、酬酢万変みなこの妙道精義に基く。聖人は、この交通生育に従って、人倫庶物、経綸裁制の道を立てる。

釈氏は人倫を棄捨し、世界を厭苦して超脱の道を求め、苦心して玄見を窮めて空説に駕し、自ら心法を得たとする。

その説は、周羅包括・高妙玄微、通ぜぬ処は無きしも、行ないに至っては、天地背き、三綱を淪滅し、体用を分離して本末が一貫せず。その為に開物成務を遂げ得ない。

釈氏も常人と同様に、共に天を戴き、共に地を履み、共に食い、共に飲み、語黙坐起は常人と異らぬのに、独り君臣の義、父子の仁、夫婦の礼を掃除殄滅する矛盾を犯している。故に釈氏は、楊異戎狄より下ること一等。

大なるかな性や、万理具わり天地立つ所以にして、鬼神の奥なり。…と云うように性をもって全体該備のものとした。

その為に、荀子の性悪はもちろん、孟子の性善も十全のものではないとして、孟子の善は歎美の辞で、悪と対するものではないとと云う、文定の語を掲げ、性をもって善を超えたもの、故に、性に善悪なしと述べた。

天命は、善に限定されないと云えば、天の天たる所以を知らぬ事になる。悪を性と云ってはならぬというのはよいが、善をもって性を云うに足りぬ云えば。善の由来が不明となる。

知言には、好い説があるけれども、矛盾するところが極めて多く、告子・楊子・釈子・蘇氏の論と殆んど異ならない。

五峰は、性・善・情・欲の関係を水に譬えて、性は水で、善はその流れ、情はその潤い、欲はその波浪と云った。

五峰が要とした工夫は、仁体の察識であるが、それは利欲の間に現れる、良心の苗裔を察識して、これを操存養しなければならぬとした。五峰によれば、そうすれば心は天と同じになると。

朱子は、五峰の同行異情の論は、これを是としたが、同体異情のこれを非とした。その要旨は

(一)人に欲望があるのは、人情の当然で、聖人と衆人の間に区別はないが、衆人は人欲を縦にして、天理を滅する。両者の間の是非特質は相去る事遠い、故に、天理と人欲は同行にして、異情である。

(二)性は至善で、それは万善の総名である。もし不善がありとすれば、それは形気習情(気質)に本づく、故に性には天理があるのみで、人欲は無いから、天理と人欲は同体にして、異用という事は出来ない。

(三)性の体は実理で、その中には些かも人欲がない。故に聖人は去欲存理を説き、人欲中に天理を知るよう、教えたのではない。

(四)性の本体は、仁義礼知である……然るに五峰の説に依れば、仁と不仁、義と不義、礼と無礼、智と不智は共に性となる。そうなると性は人欲の巣窟となる。

屏山の言う云うところによれば、始め仏老の徒に接して、清浄寂滅を喜び、その後聖人の書に依って、その道が高大であり、体用完備のものである事を知った。

「易」によって入徳の門を得、復卦初九の「遠からずして復す」を学問の符として、これを服膺実践し、「復斉銘」「聖伝論」を著わして、我が見解を述べた、と。

豫章は性を立てる事、淵のように静深に、天下の化育を司る事、天のように広大でなければならぬ。前者は学の始め、後者は学の終わりで、その間に別を立て々はならぬ。

これは「大学」の所謂「止る所を知る」事である。故に、喜怒哀楽の情の動かぬ以前に、工夫を凝らして、未発の前の気象を養う事が、性を知り性を尽す道である、と述べた。

深く人性に沈潜して、人倫か天に本づく事を知るように求めた。故に此の工夫は静寂に沈む事は、なかったのである。

延平は朱子に教えて、講学は、深潜緻密でなければならぬ。それでこそ気味深長となり、路径が差わぬようになると述べた。

故に、例えば「易」に於いても、只「伊川易伝」「序」の「体用一源・顕微無間」だけを切要として六十四卦・三百八十四爻を、子細に理会するようにしなければ、人生を誤る。

只、一源の体のみを求めて、諸用の発動を排したり、渾然たる理に万物の本源を求めたり、理一に走って、分殊を軽んじたりするを排し、事について体用を兼て、工夫を下せねばならぬ、と云ったのである。

黙座澄心して天理を体認せよ、さすれば天理が明らかに、日用の処も力を得て、路径を差わぬようになる。

この靜功が極まって深造自得の処に至れば、心は大公無私、偏固もなく、事理も融釈して、胸中酒然となり、技巧も作為も全て酒落となる。

朱子は、静かで深い知思的な、宋代の精神文化を背景にして、出て来た所の宋学の大成者である。朱子の学は、博識洽聞・精切深宏で、この点では後世朱子に及ぶものはない。

朱子の学が、凄絶になったのは、要するに、異端異学に対する弁難によって、我が学が練磨されたからでもあろう。

禅は、陰に陽に朱学に影響があったが、唐の中葉以来栄え、北宋時代には一世を風靡するまでに至った禅も朱子が出て、これを鋭く弁難したので、逆に衰退に向かった。

その功は「その害、洪水猛獣よりも甚だしい」と云われた。楊墨を弁闢した孟子にも、比せられるべきであろう。

朱子は、数多くの門弟を育成したので、その学派は大いに栄え、宋末・元・明・清を通じて流行したばかりでなく、朝鮮・日本東南アジアにも伝わって、国々の教学の中心となった。

それ故、泰山北斗として、天下の上に君臨したが、誠に孔子にも擬せられるべき大儒であった。

朱子の講友で、彼と覇を争った陸象山の学、これを継承開発した明の王陽明の学も、見方に依れば朱学の一面を発揚したものであり、清朝の考証学も又、他の一面を啓発したものと云う事も出来よう。

朱子は、当世の二大学派の弁護に力を尽くした。一つは仏老及び陸子の心学であり、他の一つは、永嘉永康の事功学であった。

明末の東林学派は、これを朱子の二大弁として高く評価した。朱子は、他の門人が得て聞く事が出来なかった、天道や性のような深遠な学説についても、西山とは互にこれを論じ合ったという事である。

西山は要するに、人の道が自然の理法に如何に深く関わるか、造化の本源を探る事が如何に人間を立てる為に、述べようとしたものと云えよう。

勉斉によれば、体洋の記は孔子から発したもので、子思がこれを受けて孟子に伝えたが、その後、伝を失い宋の周子に及んで、不伝の緒を継ぎ、それが程子に伝えられた。

程子の「體用一源、顯微無間」の奥義は、朱子の手によって、始めて発揚された、と。

居敬においては、朱子の畏、即ち敬虔心法を要とし、謝上蔡の「常惶惺」尹和靖の「心収斂して一物も容れず」程子の「整斉厳粛」も、これによって得られるとした。

北渓がいう異端とは、道を過高に求め、仏学を宗旨として、明心見性を事とし、読書せずに学者を空無の境に陥れるものと。

立論が早きに過ぎ、漢唐功利を学んで、三代に比付して以て、経世済物とし、必ずしも徳を修めず、学者を功利の域に陥れるものであった。

北渓は特に、前者の攻撃に力を用いた。これを空にする結果、天理と人欲とを混じて、私利に堕ちたり。専ら形気の虚霊知覚を求めて、作用即性を成したり、と。

北渓は、又心は性情を統べ虚霊知覚によって、一身を主宰するものであるが、それが理上から発するのか人心である。

その人心を、直ちに道心としてはならぬと説き、その立場から「知覚即性」とする射上蔡の説を評して、性を曖昧にして仏の「作用即性」に陥る。

西山は、概ね朱子学を崇高して、その成説を墨守したが、これを開発して、朱門に功を成す所が無いでもなかった。

西山は、朱子に従って有体無用の学を説き、仏老を有体無用、功利派を有用無体の学として、これを非としたが、特に前者の虚無を排して、実学の用を説いた。

整菴によれば、良知は心の明覚であっても、結局知覚に属するから天理ではない。良知をもって天理とするものは、知覚を天理とするものである。

それは、用を体とする仏説と同じであり、工夫を無視して、猖狂妄行に陥るものである。良知を天理とすれば、万物上の理を度外視するに至る。これは禅である……と。

抑々、この身と万物は共に乾坤から来る。故にその理は乾坤の理である。只、我から見れば物は固より物である。

物我の別はあるが、理から見れば我も又物で、そこには内外の別なく、渾然として一つである。格物で重要なのは、分殊上に理一を見るにある。

このようにして始めて知至り、大本達道は行われ、誠正より治平に至るまで、一を以ってこれを貫く。

然るに、俗学は外に溺れて内を遺し、禅学は、内に局して外に遺す。陽明は俗学の溺を救わんとして、禅学の蔽を杜かず、自ら禅に陥った。

甘泉は、白砂沙の門人であったけれども、程明道の天理体認の学を継承して、これを発揚した。甘泉のいう天理は、内外心事を貫いていた。

又、格式の固硬にも堕ちず、生命の私意にも渉らず、中立であって偏倚過不及がなく、しかも、万物を一体とする処の流行発用拡充分殊、支節粲然を内に備えた渾一体であった。

敬菴の克己は、厳苦な工夫であったが、それによって瑞本澄源、人我両忘の域に達した心が、神明と通じて、天下を一脈とし。

事理相通達して、徳行の大事が人為を超えて、自然の用となる事を、希うものであった。

東林学の特色は、朱子の学に基づき、静かで深い体認自得の学を要とし、気節清議を重んじたところにある。

心通ずれば、六経みな我が心の物なり。学問の道これに過ぎず。

震沢は、己の心は即ち聖人の心、故に聖人の心を伝えるには只、この心を拡充すればよい。

日用はこれ根株、文字はこれ柱脚、須らく日用の処を見得べし。柱脚自ら暁るべし。

象山の学が、明道から流れ、朱子が伊川から来た。この二人は南宋思想界の双璧であった。

朱陸と共に、格物窮理の学、即ち、理学を宗としたが、その差異を極論すれば、朱子の方は二元的・唯理的で、かつ分析的・帰納的・主知的である。

象山の方は、一元的・唯心的でかつ総合的・演鐸的・直覚的であった。これは両者の世界観、人生観、社会間の相違に基くものである。

その為に朱子は、理と気、性と心、理と心のを相即を説きながらも、両者を分離せざるを得ず、象山は、専らそれらの相即を説いた。

鵡湖での会見の際の議論は、両学の相違を如実に示すと言ってよい。その時朱子は泛観博覧して、然る後約に帰する学を述べ、象山は、先ず人の本心を明らかにして、然る後博覧に問わねばならぬとした。

故に朱子は、象山の教学を「太簡」といい、象山は、朱子の教学を「支離」と評したのである。

象山は、「善も心を害す」と云ったが、これは善に対する執定の害を述べたものである。故に、門人が静坐悟入を求めて、却って我が心を束縛しているのを見て……。

「翼乎として、鴻毛順風に過ふごとく、沛乎として、巨魚の大壑に縦にするが如し。と吟じて常に心の自在快哉を得る事を、要としなければならぬと教えた。

ともかく象山は、即座に人を感化する妙手であった。一般に唯心的思想家には、この器量の持主が多い。

学をなして、未だ能く肩背を識らざれば、読書万巻亡る乎。

書を読むも、甚だしく解するを求めず、意を解すれば、欣然として食を忘る。

朱陸と共に格物窮理の学、即ち理学を宗としたが、その差異を極論すれば、朱子の方は二元的唯理的で、且、分析的・帰納的・主知的である。

一方、象山の方は一元的・唯心論的で、且、総合的・演鐸的・直覚的であった。これは両者の世界観・人生観・社会間の相違に基くものであった。

慈湖によれば、心の精神は人々の固有であり、霊明で、外求外侍を仮らぬものであるが、意が起こり、我が立ち、必となり、固となって、それが礙寒せられて、その霊明が失われるために、孔子はこの四を止絶するよう、弟子に諭した。

朱子のいう全体大用とは、心は本来虚であって万理を備え、本来霊活であって万事に応ずるから、その全はその用は、大というにあった。

しかし、朱子にあっては、それは格物致知、即ち道学問によって始めて得られる、と考えられた。

陸学が、再び脚光を浴びるようになったのは、王陽明が出てからである。陽明によれば、朱子学の亜流が支離の弊に陥ったのは、学が本来心学である事を知らぬためである、と。

白沙によれば、宇宙の事象、例えば、日月の晦明・山川の流峙・四時の運行・万物化成など、全てはみな道の妙用である。

道は、天地も到底及ばぬほど至大で、言詮を超えた虚無故に、言葉では名状し難い。このような虚無の妙道は、思慮は及ばないもの。

故に勿論、時々事物々上の窮理、即ち外求や積累によって達せられるものではない、と拍沙が静坐退蔵して全ての安排思索を排し、心を洗って天機を見る事を求めた所以はここにあった。

王陽明が、白沙を論じなかったのは、両学の間に或種の断絶があり、主静を宗とする白沙の唯心論は、直截易簡、生命の躍動を尊ぶ陽明には、余り魅力がなかったのではなかろうか。

王陽明が、「聖人の道は、我が性に自足する」ことを悟ったのは、正徳三年、即ち三十七歳、王陽明が龍場に至った時の事である。

佐藤一斎は、陽明は、此処で始めて、聖人の道を悟ったと云っている。

陽明が、知行合一としたのは、その分説が知を妄想、行いを妄行に陥れる弊を生ずる、と考えたからであるが、要するにそれは、知を行いまで拡充し、行いを知にまで拡充して、行いを知、知を行いとしたものである。

陽明によれば、仏家は無を説き道家は虚を説くが、それは苦海の出離、或いは養生を目的とするから、結局は、本体上に意思を加えるものである。

王陽明によれば、朱子の格物窮理が支離決裂になったのは、学に「煩悩をかく」為である。学に煩悩を得るには、枝葉の功夫よりも根本を培養して、生意の暢達を求めるようにしなければならぬ。

陽明が良知の事を述べたのは、若い頃からであるが、これを学の頭脳としたのは、五十歳の頃である。

陽明によれば、良知は実に千古聖々相伝の滴骨血である。これを船の舵に譬え、これを繰れば、驚風巨浪中といえども傾覆を免れる。

王陽明は、「大学」の所謂三綱領・八条目をもって渾一の功夫とし、極力工夫の支離を排した。

それによれば、この渾一のところを知らない為に、或いは、仏老二氏のように、虚罔空寂に流れて終世の道を失う。

陽明は、至善を以って天命の性とし、その、霊昭不昧のものが至善の発現で、これが明徳の本、即ち良知である、と。

時に随ひ事に就いて、その良知を致せば、即ちこれ格物。着実に良知を致し去れば、即ちこれ誠意。着実にその良知を致して、一毫の意必固我なければ、即ちこれ正心。

有事無事、動静の問題も、致良知を学の頭脳とすれば、自ずから解決される。

即ち、良知の虚は天の太虚と同体で、形象のあるものは皆この太虚中に備わり、何物として太虚の流行発用でないものはなく、一物も太虚の障礙となるものはない、と考えられた。

晩年の、陽明の致良知説に於いて、後世の朱子学者をも感動させたものは、良知に基く抜本塞源論・万物一体論であった。

陽明によれば、「大学」では大人の学を教えるが、大人は天地万物もって一体とし、天下の人々に対しては、内外遠近の別なく、同気同体の同胞とした。

昆弟赤子の骨肉の親愛、即ち家族的な愛情を以って、これを保全し教養する。このような心は聖愚の別なく、万人の本来具有するものである。

もし、世の人々の困苦を見れば、人はみな切に心に痛みを感ずる、これが良知である。故にこの良知を致せば、自然に是非を公にし、好悪を同じうする。

「天下を以って一家となし、中国を以って一人となす」即ち、天地万物を以って一体となす事が出来る。この情が遂げられるならば、天下は治まる。

では、何故骨肉を仇視したり、天下に禍乱が絶えないもであろうか、それは心が私利私欲に蔽われ、私見私智に妨げられて、その流通を失うからである。

故に、聖人はこの私に克ち蔽を去って、心体の同然、即ち万物一体の仁心に復するよう教える。これが古の聖人の教育である。

教育の目的は、この仁の心を養成するにあるが、人々が身分の上下や職業の貴賤に執することなく、我が才徳に応じて、職分を全うし、知足安分・同徳一心を以って万物一体の仁心を全うするようにすれば、有無交易して、相互扶助の道徳的理想社会の実現が着せられる。

吾々は、どの一つの時代の思想を、問題とするにしても、常に政治の関係、社会の環境から、その時代の生活及び、一般民衆の精神に至るまで、全てに注意すべきである。

学問とは、自我の開悟、自我の思考、自我の方寸の心にあり。

千古聖賢の教人の法は、只人の其の性に復するを欲せるのみ。聖人の千言万語は、精粗本末不同有りと雖も、皆性上より説き来る。

学者、当に黙識して之に旁く通ずべし。天人の理、性命のみ。学ぶには只だ、天理人倫を学べ。性を尽す者は聖人、性に復する者は賢人より聖人に至る。聖人相伝の道此に過ぎず。

無事の時は、心をして空ならしめず、有事の時は、心をして乱れしめず。

心学の害を為すもの、禅より甚だしきは莫し。今の心学を為すもの之に入多し。其の虚勢を善とし、高妙をを好む。

吾が儒、下学の卑近なるを忽かにして、庶事察理の煩を厭ひ、而して、径ちに高大無滞礙の境に趣かんと、欲するを以ての故なり。

陳献章:二十七歳で吾与弼について学んだ。大いに発奮して成果も多大であったが、半年ほどで帰郷した。城府には足を踏み入れなかった。

朱英がその頃参議に推薦し、彼の仮住まいにやって来て会見を求めたが、遂に避けて会わなかった。引き籠って読書し、天下古今の典籍を読破した。

釈・老・捭史小説などにも及び、夜も寝ず。少しでも辛くなると、水を足に注いだりした。やがて、感嘆して言うには、「夫れ学は自得を貴ぶなり。自らこれを得て、然る後にこれを博くするに、典籍を以てすれば、則ち典籍の言、我の言なり。」

「否れば則ち、典籍は自ずと典籍にして、我は自ずと我なり」。遂いで一台を築いて、陽春と名付け、日々その中に静坐し、数年は戸外に出なかった。

陳献章の思想で、重要な貢献と思われるものは、各人の思想を書物の束縛であるとか、古人の奴隷になっている事から、解放しようとした事である。

善く学ぶ者は、施為の成敗利鈍の際に、汲々とせずして、吾が心の権衝尺度の間に汲々とす。

「随処に天理を体認す」:湛若水・「自然を以って宗と為す」。

諸生読書するのとき、須らく此の心を調練し、其の心を正し、其の気を平らかにし、鏡以って物を照らすも鏡動かず、常に炯々たる如くすべし。

書冊を舎き、人事を棄て々静を習うふは、即ち是れ禅学。窮年卒歳するも、決して熟するの理有る無し、如し鉄の精なるを欲すれば、炉錘に就かずして安んず、精なるを望むべけん。

性なる者は、天地万物に一体なる者也。渾然たる宇宙に其の気を同じうする也。心なるものは、天地万物を体して、遺さざる者也。

性なる者は、心の生野なり、心と性は二に非ざるなり……心なるものは、天地万物の外を包みて、天地万物の中を貫く者也なり。

中外に二に非ざるなり、天地に内外なく、心にも亦内外無しとは、之を極言せるのみ、故に内を謂ひて本心と為し、而も天地万物を外にして、以て心を為す者は、小の心為るや甚だしき。

夫れ聖人の学は心の学なり、故に経義は、其の心を明らかにする所以なり。治事は、其の心の用を明らかにして、以て諸事を達する所以の者なり。体用は一源にして、向るを以って弐とすべけんや。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2015-03-01 12:00:31

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