第七章 言志録(イ、王陽明に学ぶ)

嘆じて曰く、世間に学問を知る人あるも、只この些の病痛が打ち破られぬ。そは何となれば即ち、善をば人と同うせざることこれなり(己に善あれば親切に人にも及ぼすようにし、人に善あるときは己れまた親切に喜びてその善をとると云ふこと)

崇一日、斯かる病痛のあるのは、只この勝心ありて高きを好みて、己と云ふ我慢を忘るゝことのできぬ故である。

蓋し学者、常に高止なる思想をいただけるものは、往々高きを好みて、卑きにつくこと能わず、為に世と疎濶となりて、郤りて人間、その学問を無用視せらるゝことあり。

此れ、いたずらに気に動かされて、人を責むるものを誡めたり。つまり己に反省して、人をは寛かに取り扱りひもて、これを感化せしむること肝要なり。

さりながら、巳れに反省するとて、人のあしきをば打ち詠ぬ沈黙せよとのことにあらず。、諫むべき時には諫ること、これ朋友の道なり。たゞ反省を忘れざるにあるのみ。

蓋し、人とし生けるからには、怒と云ふものなくばあらず。たゞその怒るべき事物が、来るとき廓然太公の心もてこれに順應せば、その怒が義に當りて心初めて正しきを得るなり。

もしも腹立ちのまゝ一分の意地もて先方に當るときは、その怒は血気に属して心正しきを得じ。

火と、日間に發する言語のロレツを失ひて次序なきが如きは、これ人の心が内に存ぜざる知るに足れりと。蓋し心は一身の主宰なり。その主宰が外物に蔽ひくらまさるときは、言語のロレツを失ふも亦自然のことなり。

こは、病中の工夫を述べたり。そも人意念なきの時なし。しかるに身體に恙あるときは、その苦痛のために心の常度を失うこと多し。斯かる際に處して楽易快活なるは、これこそ平生の涵養のいかんによるのみ。

大塩中斎氏、甞てこの條を表して曰く、陽明先生の説の如くにして後に、時として處として、これ学問ならざるをなきを信ず。

この功夫を充つるときは、かの身を殺して仁を成すの禍患も、亦たゞこれ快活なり。然らざれば縦ひ忠死すと雖も、それを仁とは謂ふべからず。

いかゞの邪鬼なりとて、正しき人を迷はすことあらんや。たゞ一たびにても怕るゝのは、その人が心身に飽き足らぬところがあるから怕れるのじゃ。

即ち、これその心の邪なるものがこれを迷はすのじゃ。鬼が迷はすのではなく心が自ら迷ふのじゃ。譬えへば人が色を好むのは色鬼が迷はすのじゃ。

貨を好むのは貨鬼が迷はし、怒るべからざることを怒るのは怒鬼が迷はし。懼るべからざることを懼るゝのは、即ちこれ懼鬼が迷はすのである。

この條、論語 博文約禮てふことの解し方を述べたり。蓋し晦菴は博文を知識を窮むることゝ見て知に属し、約禮を行へつゝめる仕方と見て行に属して、知行を二つとなしき。

而も、陽明子はこれを知行合一に見たり。即ち君父に事ふるを始めとし、高貴貧賤・夷狄患難、時として處として、これ博文約禮の地にあらざるなしと知るべし。

それ人々、具はる所の心は一つにして二つあるに非ず。これを辨別して云うはゞ、渾然たる天理の未だ人に雑はらざるものが道心にして、雑ゆるに人為を以てするのが人心じゃ。

されば、人心のその正しきを得るのが即ち道心にしてし、道心のその正しき気を失へるものが即ち人心じゃ。初めより二つの心のあるのではない。程子も人心は人欲にして道心は即ち天理なり。

そも、下学上達の區別はたとへ高上の論にても、目で見 耳で聞き 口で言ひ 心で思ふことのできるのは、下学じゃ。その目で見えず 耳で聞こえず 口で言へず 心で思ふこともできぬのが、上達じゃ。

譬へば、木を栽培灌漑するはこれ下学にして、その木の日夜の間に生長して、條達暢茂するが上達じゃ。人間の力で枝葉を引き延ばすことが出来ようか。

此れと同じ道理にて、凡そその功を用うべく告げ語るべきものは皆下学じゃ。されば上達は下学の裏にあるのじゃ。

すべて聖人の説き玉ふこと、精微高上をを極むと雖もこれ下学にして、学者只その下学の裏より功を用ふるときは、自然に上達し去るのじゃ。別に上達的の工夫を尋ねるに及ばない。

こは、世の儒者下学と上達を分けて、目下卑近の事を下学と云ひ、高上精微の論を上達と云ひて、学問に上下の順序の隔てありと思ひ、学問を、六づかしきものと心得る徒少なからず。

而るに、王子の説は知行合一・内外一致なれば、この下学上達自然と上達するなり。陳龍正曰く、学問上すべての工夫はこれ下学にして、自然に會心の處が即ち上達なり。

かくのごとくに看来たれば、人々皆上達あり。又時々刻々にも上達ありと。

扨て、仁とは造化の萬物を生成して、息まざることの理なれば天地の間に爾漫周遍して、その界限もなきものなれど、その造化の流行發生せることには、亦この漸(次第順序をもて、漸々にすゝむこと)云ふがある故に生々してやまぬのじゃ。

これを木に譬ふれば、その初めに芽を出すがこれ木の生長する發端の處じゃ。かく芽を出して後に幹を生じ、又枝を生じ葉を生じ、然る後生々してやまぬのじゃ。

若し、右の芽がなくば何として幹あらん。又枝葉あらんや。而もかくの如くに芽を出せるのは、その芽の下に猶ほ根があるからである。

されば、根があれば生くるを得るも、根がなければ死るゝなり。又、これ根なきものが何とて芽を出すことがあろうや。

扨て、我が儒の所謂仁とは、その中におのづと親疎遠邇によりて、差等が生ずるのじゃ。そは如何となれば、我々が至親なる父子兄弟の間柄の愛は、即ち此れ人心の生意発端の處にて、即ち前に云へる木の芽を出した處じゃ。

扨て、父子兄弟の愛より推し及ぼして、一般の民を慈しみ憐れみ、併せて萬物を愛するが、即ち此れかの幹を生じ、又枝を生じ葉を生ずる處じゃ。

然るに、墨子の学は兼愛を主義としければ、愛に差がなくして、自家の父子や兄弟をば、途人と一般に看るなり。されば木の芽のでないのと同様じゃ。

芽のなき物が、何とて根のあるあらんや。そこが我が儒の所謂生々して、やむことなきものと違うのじゃ。かかるものは決して仁とは謂はれない。

そも、孝悌は人性の至善より出で、人々仁を成す根本なれば、この孝悌をなさば、仁の理はおのづとこの孝悌の裏面より、發生し出で来るものである。

こは、学者終生の目的本領となすべき、天地萬物を一體とする仁と、墨子が兼愛との區別を論じたるにて、我が儒の仁は、親しきものと疎きものと、遠きものと邇きものとにつく。

自ずからその差等あるも、墨子の兼愛はその差別なく、例へば己が親も 人の親も 兄弟親戚も 人の親戚も、同等に見做せり。

これその、後来君をも我するが如き、不詳極まれる毒を流せる所以なり。西土耶蘇の教之に近し。

夫れ、佛は父子の関係の累はしきを怕れて、その関係ををば逃れ了り。君臣の関係の累はしきを怕れて、その
関係をば逃れ了り。夫婦の関係の累はしきを怕れて、その関係をば逃れ了りぬ。

こは、佛氏が徒に高上の論のみ多くして、人倫を忽にせるをもて、已むを得ずこの説ありしなり。佛氏は相着不してその實相着し、吾儒相着が如くにして、其の實相着不云々即ち得て眞なり。

仙家が虚を説けるのは、つまり養生の上より思ひを起こし来たり。佛氏の無を説けるのは、つまり生死の苦海をば出離する上より、見を起しを来たれるなり。

聖人の虚無はこれと異にして、只我々が天よりうけ得たる良知的の本色に還すのみにて、更に些子の意思をば著くることはない。

されば良知の虚とは、取りも直さず天の太虚にして、その無とは取りも直さず太虚の無形の事じゃ。かの日月、風雷、山川、民物などのすべての貌色形色あるもの、皆この太虚無形の中にありて發用流行す。

未だ、甞て天的ノ障礙をなさぬひとして、聖人は只、この良知の發用に順ふなり。必意するに天地萬物いづれも只、我が良知的發用流行の中にあることなれば、かの仙佛二氏所説の如くに、何ぞ甞て一物良知の外に超えて、障礙を成し得るものあらんや。

或る人問ふ;釋氏悟儒と同じく亦つとめて心を養ひき、されど要するに天下を治むべからざるは何ぞや。

王子曰く:吾が儒が心を養ふのは、日間 時事物々の上をば離れずして、只その天則の自然の儘につき順ひて功夫するのじゃ。

然るに、釋氏は郤りて悉く事物を絶たんと要し、この心をばとりて幻想と見做して、漸くに虚寂に入り去りて、世間とは些子の交渉する事無きが如くなりき。そこが天下をば治むべからざる所以である。

「王陽明」;亘理 章三郎より――――――――――――――――
王陽明の生涯には、人生諸般の問題が溙合している。陽明は少壮の時から剣に依って、寂々たる武勲を建てようとした。筆を揮って磧々たる文名を馳せようとした。

一路青雲の高を攀ぢて、功名の富貴を取らうとも努めた。聖賢を学んで世間一等の人とならんとも志した。彼の高い理想と低い現実との懸隔が甚だしいのに失望して、懊悩悲観したことは再三であった。

病苦死苦の壓迫を感じて、生死の巷にも煩悶した。塵嚢の汚濁を厭うて、世を遁れ山に入ろうともした。社会的権威を有する教義にも疑を挟んだ。

異端邪説と目せらるゝものにも、耽り溺れた忠君の誠を盡して、却て獄に投ぜられ、流に処せられた事もある。亦國難を裁定して、却って咎めを受け禍に罹った、事もある。

糾紛に錯綜した種々の難問題は、彼の生涯に集積している。而も此等は陽明に依って解決せられた。單に空な学説としてゞはなく、彼自身の実生活に依って解決せられた。

故に他の学説は、英霊なる活気を帯びている。彼の行動は深遠なる意義を有している。彼の学説と実際とは二にして一、彼の学者として武人として政治家として教育家としての実生活は一つとして彼の教義を離れない。

さうして、此に切実なる多くの教訓が吾人にの与へらるゝのである。陽明の教訓は深奥なる哲学的基礎の上に、極めて直截簡易なる実錢的工夫を立てゝ居る所に、無限の価値が存する。

故に、彼の教訓を学ぼうとするには、彼の学説のみから解することも出来ない。彼の傳記のみから解することも出来ない。

畢竟、彼の内的 外的生活を統合する所の彼の人格其の物に就いて、学を最も適當とするのである。それで吾人は陽明の人格を主題とした。

彼の学説と傳記とを併せ、特に此の両方面の相交渉する所に聊か研究を試みた。さうして今や其の研究の結果を世に公にし、人生の問題に志ある者に問ふ所あらんとするのである。

⒈本書は、王陽明の人格を主題として、其の実生活と学説とを併せ記し、以て吾人の修養に資せんとするのである。故に本書に於ては、特に陽明の性格と閲歴と学説との相交渉する所を、開明せんことを力めた。

⒈陽明の、学説を記述するにも實歴を記述するにも、成るべく其の精髄を發揮して、今日学ぶ者の活材料とせんことを期した。故に煩瑣なる考證的記述をなすが如きは、成るべく之を避けた。

学究的考證に腐心するが如きは、又陽明の精神でないと信ずるのである。陽明の史的地位を記述するにも亦同様の注意を用ひた。

⒈本書は、陽明の、内的及び外的生活の変化発展する経路と、其の因果の関係を明らかにし、此に實際に適切なる教訓を得んことを期した。

⒈本書の組織は上編に於て主として、陽明の幼時より悟道に至るまでの歴程を明らかにし、中編に於て主として、彼の学説を多少系統的に記述した。

下編に於ては、主として彼の發悟以来の実歴を記述し、知行合一を主張したる陽明自身の知と行との実際を記することにした。

⒈陽明の学説を、研究するに方って最も注意すべき所は、其の哲学的根底に透徹することゝ、其の實線的工夫を提示する事にあるを、本書は随處に此の両方面を發揮せんことを期した。

⒈世に、陽明の学説を唯心説・直覚説・主観説などと稱し、西洋の哲学上の分類又は用語を以て説明するものがある。此れ等は固より一理の存する所であるけれども、稍々もすると彼の学説の眞髄を誤解せしむる恐れがある。

概して、東洋の学説は西洋の哲学上の分類に入れ難いものであって、其處に又其の特色特長もあるのである。故に本書は此の點にも意を用いた。

⒈陽明の学説上の用語には、特別の意義の存するものもあるから、此等に此その場合~に解釈を加へた。又陽明の原文・門生の記録等を引用するに、多くは之を意釋して解釋し易きやうにした。

⒈陽明を研究するに方りて、恩師元良博士の紹介に依り、正堂東氏に就いて疑義を質し、益を得る所が多かった。此に謹んで謝意を表する。

王陽明は、人文史上の一大英豪である。彼の教訓は今猶凛として生気をを有し、後人を鼓舞して至徳の聖域に奪進せしむるものがあるのである。

彼の教訓は、決して空なる言語の連続ではない。冷なる理屈の細工ではない。彼の英霊なる人格を以て、直に人の胸裏に潜める至徳の源泉を鑿開する。

殊に陽明の教が、近江聖人中江藤樹に依って我が國に宣傳せられてからは、幾多の英霊漢を要請する所の英雄教となった。

さうして、断えず官学から排斥せらるゝ傾きがあったにも拘らず、隠然として思想界の奥深き處に一大勢力を有し、國民に不滅の感化を及ぼしたのである。


さあれ、彼の人格の高大なる事は、古来の史上に有数なるものである。彼の思想は徹上徹下、天人の際を極めて、宇宙萬物を一體に観するまで進んでいる。

さうして、彼自身の人格は高い程度に於て、彼の理想を実現している。彼は確かに人類の一大先生である。

若し、陽明が斯かる傾向を以てのみ生長し、彼の元気、彼の林智を正大に高上に指導するものがなかったらば、それこそ、彼は行末恐るべき無頼の少年であったのである。

然るに、彼が後年哲人陽明先生となるに至ったのは、一に彼の豪邁の元気を、高大なる方面に指導するものがあったからである。

彼自ら少年當時の事を「粗心浮気狂誕自ら居る」と云っているが、彼の少年時代の士気は確かに粗大なもので、只、人生の高止なるものを望んで狂熱して居るのみであった。

併し、此の士気が彼の現実なる、人生の行路を経歴する間に、次第に精研せられ鍛練せられて、終に彼の如き英霊なる生活を作るに至ったのである。

彼の志は、己の傾くまに~幾度か転變した。世に陽明の五溺といふことがある。五溺とは、「初め任侠に溺れ、再び騎射に溺れ、三たび詞章に溺れ、四たび神仙に溺れ、五たび佛氏に溺れ、正徳丙寅始めて聖賢の学に帰正す」といふのである。

正徳丙寅(明の武宗正徳元年)といへば彼の三十五歳の時で、此れまで彼の志は実に幾度も転変し、其の苦心其の煩悶は実に尋常一様ではなかったのである。

而も、三十四、五歳の時は彼の志が儒教に定まったと云ふ迄の事で、彼が悟道の域に達して安心立命するを得たのは、猶此の後の事である。

彼の英邁なる士気、彼の頴悟なる材知を以てして、悟道の域に達するには、猶苦惨憺たる二十餘年の年月を要したのである。

吾人は、人生最高の問題を哲学的に解釋して安立を得るに至るまでは、決して容易の業でないことを知るのである。然るに経験も識見もまだ浅薄な青年が、一朝にして人生の問題を解決せんと焦るなどは、以ての外の事であった。

焦った結果、直に人生の不可解を嘆じて自暴自棄するなどは、自ら招いた禍で甚だ憐れむべきことゝ云わねばならぬ、自業自得の事であった。

陽明が五溺経て、彼の正道と信ずる所に帰着するに至るまでの経路、正道に帰着してからの悟道に至るまでの経路は稱して惑溺といひ。

煩悶といふものゝその実、多くは人生に志ある者に、必然起こる所の問題で、人生の眞義を極めんとするものに甚だ、有益なる教訓を與ふるのである。

孔子は、文事あるものは必ず武備あるといはれて居る。然るに儒者の多くは兵を知らない。區々たる訓詁詞章を以て富貴を盗んでいる。

然し乍ら、一旦変乱の起こるに遭へば、手を束ねて何等策を施すことも出来まい。之れ眞儒たるものゝ恥づべき所である。

彼は実に雄心勃々、己の目的とする所に向って突飛しようとする、狂志気の青年であった。當時彼の意志は父の制止する所となったけれども、彼の終生の一本領は武人たるにあった。

彼が、後年顕栄の地に上ったのも、主として其の武勲によるけれども、猶時に触れては武事に意を用ひたのであった。

王陽明は、聖賢の学に志して、余程修養を積んで見たが、終に聖賢となるには自ずから天分がある者でないと成り得ず、彼のよく及ぶところではないと考えへた。

自信を失った結果、多少の煩悶と多少の失望を以て、世習に随い科挙に及第して功名富貴を取らうと志すやうになった。之は二十一歳の時の事であった。

元来陽明は、文藻に富める方であった。創造は豊富であるし、感興は慎重8であるし、財気は英發して居る。文豪としての資性を十分に備へて居った。

それで、才思の煥發する事は人目を驚かすばかりであった。幾分かまだ詞章の習に執着しながら、主として武事の方に転じた陽明の志は、その翌年彼の二十七歳の時になって、猶又他の方面にも強く向かふやうにもなった。

それは、彼の思想が人生の内部的問題に、以前よりは更に深く触れて来たからである。、彼は自ら詞章芸能は人生の至道に通ずるに足らないと考へた。

さらばとて、師友を天下に求めて見ても、之も容易に遭はれない。どうすれば良いかと頻りに煩悶惺惑して居るときに、朱子の文を読んだ處がその中に次のようなものがあった。

「敬に居って、志を持するを読書の本と為し、序に循って精を致すを読書の法と為す」といふ語があった。陽明は且つ感じ且つ省みて

「余は、従前随分博く読書を勉めてみたけれども、得る所がなかったのは、徒に連なるを欲したので秩序ある精究をしなかったのである」と。

仙術と仏教の間には差異があるけれども、概していへば、両者共に普通の人間界を出離する教義、即ち、出世間的の傾向を有する黙に於て一様である。

陽明が、著手した時の順序からいへば、神仙の術が始であるけれども、熱中したのは両者殆ど同時で、且一時は聖人の至道が此の両者に在ると信じたほどである。

又、彼が當初此の両教に向ふようになった動機も同一であるから、吾人は此に彼と佛釋との関係を記述する事とした。

此の、第四及び第五溺の時代は、陽明が人生の根本問題に触れて懊悩し、煩悩に悶し、彼の思想界が最も暗澹惨激を極めた時であった。

之が軈て、人生社会の眞義を会得し、彼の将来の光明世界を開く基礎となったのであるから、彼の生涯、彼の学説を研究するものに取りて、最も重大な注意を要するのである。

王陽明の煩悶は、何の為に加わったかといふと、彼の思想が眞の意義に於て、次第に深く人生最高の問題に触れて来たからである。

従前、彼の聖賢とならうとしたのは寧ろ通俗の意義に於てであった。聖賢の本體が何たるかを會得したという譯でもない。

唯、聖賢といふ名が人間第一等にして、世から尊崇せられて折るので、士気の高い彼は之を望んで見た儘である。その動機の根底には主として名誉心が横たわって居る。

彼が、学業詞章に溺るゝに至った動機は、猶更功名富貴にあった。任侠騎射の習の如き韜略邊務の講究の如きも、固より、彼の意気と功名心と結び付いたものである。

然るに、彼は学業の途上に於て、斉排妬忌などの社会の暗黒面を実現して、濁世を厭ふ心を起こして来た。聖賢の言語を引用して巧に辞章を作って見た所で、之れ文字の末に精神を疲労せしむるのみであって、心の中の昏迷が照破せらるゝといふ譯でもない。

官位や文章で、世俗の名声を馳せ富貴を得たにしても、少しく省察力のあるものなれば、誰しも之を以て満足することは出来ない。

陽明の如き鋭敏な心には、人生は眞に風前の燈、水上の泡のやうで、富貴は実に舞花一朝の栄のやうなものである。世間で善と云ひ悪と云ふも、果して人生の至道が何處にあるのか。

流俗は、たゞ喧々諤々たるものであって、塵綱は甚だしく、人の自由を覊絆するといふやうな感想が、起こらざるを得なかった。

此に於て、有意に無意に功名心を基礎として居った。陽明の志望は、根底から転覆せらるゝやうな心地がしてくる。さりとて草木と共に同じく朽つるのは、彼の自重心の許さない所である。

然らば、彼は何をか最高の目的とすべきで至上の道とすべきか、此に大疑惑大煩悶は生ぜざるを得なかった。彼の年譜二十七歳の條に彼「自ら念ふに辞章芸能は以て至道に通ずるに足らず。師友を天下に求むるも又数過けず。心に惺惑を持す」とあるが、抑々彼の此の期の煩悶である。

猶、陽明の煩悶の起こったのは、単に思想の上で人生を悲観したと云ふ事の外に、一の重大なる原因があったと思われる。

それは、彼の疾病である。彼は幼児の頃から、至って活發な方であったけれども、それは寧ろ精神的な気力で、身體的に強健といふ方でなかった。

神経の鋭敏で、さうして甚だ強く長く、興奮する體質であったやうである。或る時などは夢と醒めている時と殆ど差別がない程、精神が働いて夢の中で詩を作ったり、悟りを開いた事もある。

彼の夢想と現実との間に、神秘的な契合があったやうに傳へられて居ることもある。彼が二十一歳の時、七日七夜の間、竹子の道理を考へ続け思ひ詰めて、疾を起こした事などがあった。

之は、精神の苦悶が身體に影響したのであるけれども、一方から云ふと、強い神経質で興奮し始めると容易に鎮静しないで、之が為に身體の調和を破るに至ったとも解せられる。

肺患の人には、神経の過敏な者が多い。陽明は実に後の二十餘年は肺を患へ、之が為に死んだのである。彼の肺病は何時から兆し始めたか明に知れないが、彼の三十六の時には、自ら肺を病んだと云って居る。

二十八歳の時に、落馬して喀血したことが誘因となったものか、或は他に原因のあったものか、三十の時には自ら「忽ち虚弱 咳嗽の疾に罹る」と云って居る。

又或る書には、此の年に嘔血疾を為すと書いてある。此の疾は春から秋まで続いて漸く癒えたが、江北の審録に赴いて、風雨寒暑を冒した為に、又この疾を発したのである。

其の上、熱を煩うて大に衰弱し、翌年まで長引いて終に病を郷里に養ふ事となった。此の三十歳と三十一歳との両年は、彼の煩悶の最も劇しく、佛釋に最も熱中した時であった。

彼は、死の観念に伴ふ所の圧迫を感じ、此に病軀に自然に伴ふ所の不安不測の情に動かされて、心淋しくも人生の無常を観じ、此に病苦死苦を離脱しようとして、頻りに煩悶するやうになった事が知らるゝなったのである。

陽明は、煩悶が起こり始めると、先づ其の解釈を儒教 殊に當時世間に権威を有せる朱子学に求めようとした。併し、如何に萬言の聖経賢傳を記誦したと云っても、それで信仰が生じたと云ふ事は出来なかった。

空な、言語と言語とを結んだり、離したりするする理屈細工で、悟が開けたといふことも出来ない。信仰も己の中に自發するものでなければならぬ。

悟道も、己の中に自得するものでなければならぬ。陽明のやうに豪宕不羈なるものが、固より無意義に機械的に社会の権威を以て、信や悟を強ひらるゝものでない。

彼は、必ず其の最奥の理義を己の心に自得しようとした。彼は精を凝らして思索して見たけれども、朱子の学説は徒に理屈が煩悶となるのみで、支離滅裂するやうに考えられた。

そして、沈思の上に鬱塞を重ねて疾を生ずるようになった。彼は煩悶を朱子学に解決しようとして、却って煩悶を強くした。此に於て彼は転じて道を仙釋に求むるやうになった。

彼はの煩悶は、病苦死苦が其の一大根底を為して居るのであるから、長生を教ふる所の仙術、死苦の離脱を説く所の佛教に志を向くるに至ったのは、又然るべき経過と云はねばならぬ。

猶、陽明が仙佛の如き出世見的の教義に向やうなったのは、彼の祖先伝来の隠逸の傾きを帯びた家風が、影響したと思われる。

又、彼の欽仰せる李太白の文学に、感化せられたことが多かったとも思はれる。太白はもと仙風道骨の人で、其の詩には世を憤ること烈しいものがあった。

然るに、時を慨し、山水に放浪し、岩穴に冥樓し、薬を練り、丹砂を営み、永く人世と絶って神仙の生活に入らうとするやうな思想が、絶妙な調を以て繰返し歌はれて居る。

猶又、眼界を大にして見ると、南方支那特有の厭世的思想が、直接間接に陽明に影響したことゝ思はれる。由来支那は南北に依って、截然に文化性質を異にして居る。

南方は、気候が温暖で天産が裕である。其の人は想像が豊富で感情の方面に発展して居る。目前の衣食の生計に逐はれないで、思いを人生の秘奥に潜め、宇宙の幽玄に馳する者も少なくない。

従って、道教佛教も多く南方に行はれて其の文化を醸し、一種憺蕩放延の風を為し、世故に拘わらず倫常を重んぜず、流れては厭世的隠遁の風を作って居るのである。

陽明の頃にも、此の風は随分士夫の間に行はれて居ったもので、彼も「世ので高明の士で儒学厭うて佛釋二氏に赴くものゝ多いのも、當時儒学がもので支離決裂で意義を為さぬからである」と云って居る。

さうして、実に彼の交際した人にも此の種の人があった。之を観ると彼が此の気風から、多くの影響を受けて居ることも察せらるのである。

蓋し、一切の妄念雑慮を去って心裏が清浄になると、神明の作用が生じて来ると謂うのである。此の事が四人の者から次第に朋輩へも傳はり、皆不思議に感じて時々陽明の許に来たり、未来の吉凶を問う者があった。

奇妙にも、彼の豫言が多く的中した。然るに彼は一朝忽然として悟り「此は精神を簸弄するのみで、正覚でない」と云って、以後絶えて此の事を語らなくなった。

此に於て吾人は、陽明の性格の顕著なる二大方面に就いて記述する必要がある。陽明は一面には卓抜なる思索的能力、他の一面には優越なる實践的能力を具有して居った。

即ち、所謂静的方面と動的方面とを、甚だ高い程度に於て兼備して居った。此の性格は彼の少年時代から著しく表れて居る。

彼は、少年時代餓鬼大将であった。任侠に溺れた、騎射に耽った。習字を始めると、洪都に在る間に数藁の紙が空しくなるほどに勉励した。

和易諧謔の過を悔うると、人は信じないでも自ら断乎として端坐寡言を実行した。科挙に落第しても、落第を恥とするよりも之が為に心を動かす事を恥とした。

落馬して血を吐いても、轎に乗ることを肯じないで馬に乗り通した。王越の墳墓を築造するにも、軍隊的部署を用ひて容易に其の功を奏した。

司法官となっては敏腕を揮って、公明を以て稱せられた。此等は皆彼の動的方面であって、優越なる実力を持って居ったことが分かる。

陽明は、早歳鉄柱宮に夜を徹して正坐し、家に還るを忘れたこともあった。又、亭前の竹子の理を窮むる為に、七晝夜も思索し続けて、終に病した事もあった。

兵法を研究し始めると、総ての兵家の秘書は精究し盡さゞるものゝないまでに、其の薀奥を探求した。詞章の至道に通ずるに足らざるを知って、再び朱子学に凝り始めると、沈思鬱想又もや疾を生じた。

九華に遊んでは、到る處の諸寺に留宿して道を求めた。疾を故山に養ふては洞中に隠居して、静坐修業すること多日豫言の能力を得るまでになった。

之は、皆彼の静的方面であって、卓抜の思索力をもって居ったことが分かる。実行力の優越、思索力の卓抜、此の両面を貫通して彼の特長見るべきは、精神の専注力の絶倫なことである。

元来、彼は神経の鋭く長く興奪する性質で、其の上に發強剛毅な彼の意志の力の加わった結果でもあらう。彼の精神の戦中注力は、それは~非凡なものであった。

竹の道理を、一週間考へ通す事なども常人の容易に出来ない事である。彼が洞中で導引の術を修し、神秘に見ゆる能力を得たのも精神専注の結果であったと思はれる。

彼の、五溺と稱すせらるゝのも、畢竟此の専注力が静的方面にも、動的方面にも強いのを意味するのである。さうして陽明は常に此の優秀な施策と実錢との両面を別々にして置かないで、文を結合しようとする傾向をもって居った。

彼の書法の發名は、其の簡単な一例である。彼は唯、機械的に古人の字形を模倣することをしない。心に考へては之を表はすのであった。

彼は、書上のみの兵学者ではなかった。宴会の時にも果核を以て其の実習を試みた。王越しの兵法を聞いては直に之を目前の実務に応用し、其の餘暇には八陣の兵法をもて実習した。

斯く彼は、実際と思想とを結び付けるから、彼の思想は常に迂空虚妄なることを許さない。殊に兵学研究になると最も直截簡明で、実践に適切なるものでなければならぬ。

一切の、迂論空議を許さない。彼は兵機から心学を練ったと稱されて居るが、確かにそうであったと思はれる。此等の習慣からして、彼の思想は現実を離れなかった。

さうして又、陽明の実行することは、単に形式に拘泥したり習俗に附随して、盲動軽挙することを許さなかった。思想の方からは実際を離れない。実際の方からは思想を離れない。

所謂、絶倫の思索力と実行力とが常に合一する傾向をもって居った。此の陽明の性格が軈て後来かの有名な知行合一説を立つる基礎になったのである。

彼が他年、深奥なる哲学的根拠の上に、極めて実踐的な教義を立てたのも、畢竟、此の性格の益つ発展して、さうして自覚せられたものに他ならぬのである。吾人は彼の少壮時代にの性格によって、最もよく後年の学説を解釈する事が出来た。

今や、陽明は四明山の洞中に隠れて、彼の絶倫の思索力を仙釋の二教に、最高度に働かせて居るのであるが、彼の向上の士気は人生の第一義を悟り得なければ已まない。

精思探求の末、人生の至道此処に在りと、欣然として心に會得する所が出来て、世間を脱離しようとする志が切になって来た。

然るに、彼の心中に老佛の教理と大に矛盾する所の性情の自覚があって、此の志を断行するに躊躇した。それといふのは、仙釋の出世間的教理と彼の社会性との矛盾である。

彼が、昨年九華山に遊んだ頃にも、一方には人生の無常塵網覉絆を厭うて、煙霞深き處に神仙寰裏の人とならうとする心が切であった。

それと共に、他の一方には此の世を顧ると、蒼々たる生民は皆彼の同胞であって、殊に當時は乱賊の為に塗炭に苦しんで居る。其の救済に一身を捧げないで、獨り自ら潔うしようとするのは忍びない心地がする。

親の訓育の劬労を思ふと、猶更容易に世縁を截断する事が出来ない。爾来彼はこの一大矛盾に甚だしく懊悩したのであった。

彼が、故山の洞中で佛釋の教理に至道を求め得た思って、愈々超然として遁世しようとする間際になっても、彼を愛育した祖母と父とが現在此の世に居って、どうしても念頭を離れない輾転反側して懊悩する中に、忽ち又悟る所があった。

「此の孝悌の一念は孩提に生じ、人性固有のものである。此の念が若し去ることが出来るならば、之れ種性を断滅するものである」

「吾が儒教が、老佛の二氏を斥くる所以も亦実に在る。さうして見ると三教の中で儒教が最も正しい」と考えた。

斯く考へるにと同時に、再び此の世に用ひられようとするする志も起こって来た。之から後にても彼の志は猶、世間教と出世教との間を彷徨して、思想上の煩悶を続けて居る。

彼が自ら儒教と老佛との間に「依違往返して且つ信じ且つ疑ふ」といって居るのは、蓋し此の間の消息を傳へて居るのである。併し其の間に彼は次第~に儒教に復帰するやうになった。

父母を念ふのは天性である。どうして其の情を裁断出来ようか。汝が念はずに居られないのは、便ち是れ眞性の發現である。終日目坐して居っても、徒に心曲を乱るのみである。

元来、出離隠遁は我儘なことである。利己の極みである。世務を苦悩して之を避け、獨り自ら快くせんとするものである。

社会の中に始終すべき天性を有し、本務を有し乍ら或る禽獣の如く孤獨の営まんとするものである。

故に孔子は隠者を難じて、「鳥獣に興に群を同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と興にするにあらずして、誰と與にせん」と云ひ、「その身を潔くせんとして大倫を乱れる」と
云った。

且つ、斯かる隠遁の生活には重大なる自己撞着がある。本来人は社会的天性をもって居る。然るに世間を離絶して満足を求めようとするのは、人生の個人的方面のみを以て自我の全部と見做す迷から起こるのである。

故に、斯かる我儘なことをしようとしても、社会性が根本から矛盾を生じて、決して自ら安ずることが出来ない。

陽明が、出離しようとしても、祖母と父とを念はずに居られなかったのも、彼の禅僧が出家十餘年にして猶老母を念はずに居られなかったのも、皆人の眞性の發現である。


謹みて新年の御祝詞を申し上げます


此の、人生の社会的方面を無視する教義は異端と云はねばならぬ。人は世務を尽くしてこそ始めて、自我の本性を完くすることが出来るのである。

陽明は、深く此の點に悟る所があった。さうして益々儒教に復帰するやうになった。又も程朱等の宋儒の著述を手にし、彼の絶倫の思索力を専注して格物致知の教えを修め、一事を興ぐる毎に其の理を究極して、盡る處に至らねば已まなかった。

翌年(三十七歳)になると、陽明は退隠的生活から出でて再び社会的活動を始むる事となった。此の歳の秋、彼は山東の郷試の主任嘱托せられ、人材抜擢の重大なる責務を自覚しつゝその任務を果たした。

彼の選んだ試験の問題は、

⒈明朝禮楽の制

⒈老佛の正道を害する聖学の明ならざるによる。

⒈綱紀の振るはざるは名器の甚だ濫るゝに由る。

⒈人を用ふること甚だ急ならば効を求むること甚だ速なり。

⒈封土を分かち。

⒈戎兵を清め。

⒈夷狄を防ぎ。

⒈訴訟を息む。

等である。

此を以ても、當時の彼の経世上の意見を窺ひ知ることが出来る。九月彼は改めて兵部主事に任せられ京師に赴いた。

斯くして、彼の思想は益々世間的に傾いて来たけれども、猶思ひを全く老佛に絶ったと云ふのではない。翌年些十四歳になっても、風塵を厭ひ衣を拂って去りたいといふような事事を云って居る。然るに、此の年の秋の頃になって、彼の志は全く定まって儒教に復帰した。

陽明は又、此の頃から門生を入れ、彼等が詞章記誦の俗に溺れて居るのを警覚し、身心の学に心を寄せしめた。

時に、師友の道が久しく廢って居ったので、世間では彼を目して意を立て名を好むものと誹るものもあったけれども、彼は少しも顧みないで志を講学と教育とに専らにした。

彼が、始めて湛甘泉と交りを結んだのも亦此の時である。甘泉、名は若水、字は元明、陳白砂の高弟で、資性沈毅、其の学は務めて」自得を求め凛然として明代の大家である。

陽明は、甘泉を一見して意気相投合し、益々志を堅くして共に聖学を倡明するを以て任とするやうになった。

陽明自ら、「某、幼にして学を聞かず。邪僻陥溺するも二十年。始め心を釋老に究む。天の霊に頼って、因って覚る所あり。

始め廼ち周・程の説に沿って、之を求むるに得る有るが若し。顧るに一二同志の外予を翼くるなきなり。

乎として仆れて復興く。晩に友を甘泉湛の子に得たり。而して後吾の志益々堅く毅然として、渇む可からざるが若し。則ち予の甘泉に資すること多し」

と云って居るのは、以て両者の交態を見ることが出来る。又當時陽明の儒学に於ける立場を知ることが出来る。

さうして、甘泉との交は終生渝らなくて、互いに切磋琢磨する所の道友となった。此処に至って陽明の煩悶の生涯は一段落を告げた。

併し、之は彼が老佛に就くか、或は、儒教に就くかといふ疑惑が解決せられたと云ふまでゞ、人生の本義に関する煩悶が、全く解釋せられた云ふのではない。

固より彼は、「大道即ち人心」といひ「長生は仁を求むるに在り」といひ幾分の悟る所があったればこそ、儒教に服したのであるけれども、猶心に全く安んじないところがあって、其の煩悶は猶後々にも続いたのである。

月明ならんとしては雲に蔽はれ、日照らんとしては霧に鎖さるといふような有様で、陽明は仙術に安心を得たかと思ふと又もや煩悶に陥った。

そして、佛教に悟道を得たかと思ふと又懊悩を重ね、煩悶懊悩中に、第四、第五溺を経て全く儒教に復帰した。

復帰してからも、猶幾多の辛酸を経て、其の間に修養錬磨を積み以て、漸く大悟の域に達したものである。

吾人は、其の悟道の歴程を記述に方りて、先づ注意せねばならぬことがある。それは彼の実際の経歴である。

彼の実生活と学説とは、二にして一、吾人は彼の生活を離れて、彼の学説を解することは出来ない。

陽明が、隠者的生活を出てからは、山東の郷試の主任となり、又兵部の主事となり、聖学を唱明するを以て自家の天職となし、塵世の中に勇進しつゝあったのである。

猛虎の危、難といひ、道士との再会と云いひ、これ等の傳説は信じ難い事で、猛虎の話は劉瑾等が八虎と稱せられたのに、附會した架空の小説であるといふ者もある。

ただ、陽明が此の間に危難に遭逢した事と、此の危難に處して泰然たるを得た事とは、事実であったと察せられる。

又、一時窮厄の極遁世の志を起こして又、直に之を改めたこともあったかとも察せられる。

併し、又陽明が此の前後に作った幾多の詩を見ると、栄枯窮達を天命に附し、従容として迫らざる趣もあるから、以前の如き厭世に陥った事はなかったとも考えられるのである。

吾人は、陽明の龍場に於ける生活を記する先達、彼の下獄以来此に至るまで二年間の内的生活に就いて、少し記述する所がなければならぬ。

彼は、少時から多少世路の難険を味はいではないが、外的生活から云ふと寧ろ順境で、其の懊悩憂愁は多くは思想上の事であった。

然るに上書下獄以来は、彼の世路は残酷の極みであった。斯く彼の外的生活が九死の地に出入して、曲折の劇しかっただけに、彼の情緒が内に昂奪排乱したことも、恐らくは彼の生涯中で最も甚だしかったやうに思われる。

彼は、忠志の達せられないで辱を受け、或は累の父に及ばんことを恐れ、或は親族に離れ知友に別るゝを傷み、彼の胸中は、哀々又戚々・深憂長嘆・萬古に盡きざるの概がある。

従って、此の間に出来た彼の諸詩は、又多くは彼の集中の絶調を為しているのである。彼は獄中に於て屡々感情が昂ぶり、夜半夢醒めて我知らず起坐し、悠々たる物思ひに涕落の衣を汙したこともあった。

彼は、「我が心は石ではないのに、どうして車憂の為に動かさるゝのか」といひ、又「甞て児女の悲しみに笑って居ったが、憂にかゝると自分も之を免れない」と云って、自ら煩悩の制し得ざるを嘆じた事もあった。

陽明は如何にして、此の煩悶懊悩を解脱せうとしたかと云ふと、今や彼の信ずる所は全く定まって居るので、一に儒学によって解脱を求めようとした。

殊に易を好んで、天地万物の盈虚消長の理を観じ、形気の為に役せられないで、天理に随ひ以て安心立命を得ようとした。彼は、囚中にも易を研究した。

「瞑坐玩ニ義易一洗心見ニ微奥一」と、云って居る事もある。、謫居へ赴く道中でも易理を玩見することには、断えず思いを傾けた。さうして又之に依って、自ら悟り自ら慰むる所のあった事は頗る明かである。

且つこの度の禍難は、彼が正道の上に立って奮闘した結果であって、彼の良心には少しも疚しい所がない。少しも疚しくないのみならず、道を以て自ら任じ範を後昆に垂れようとする意気も旺であるから、難苦窮厄は彼の心を動かすに足らない。

それで彼は一方からいふと、人情の沸乱から幾分の懊悩もあるし、他の方から云ふと心に自ら恃む所があるといふ情態で龍場の謫居へ到着したのである。

「君子は修身の憂いあり。一朝の患なきなり」と云ふのが彼の実況であった。此等を見るに當時陽明が既に哲人として、頗る高い地位に進んで居った事を知ることが出来る。

扨て、龍場地方の夷人には、中土から流浪して来るものがあると、往々之を殺して神に供へ福祉を祀る風俗があって、一時は陽明を殺さうとした。

然るに、其の中に陽明の徳に服して、日々の食物を貢ぐやうになり、次第~に親近を加へて終に骨肉のやうになった。陽明が彼等に屋宇築造法を教へてやったりした。

すると、彼等の方からも、陽明の穴居は陰温で健康に宜しくないから、彼の為に家を建てたいと謂ふことを申し出で、老少年来り集まって欣然として労に服した。

そして、一月も経たないうちに小庵をを築き揚げた。陽明は之を名づくるに、論語の「孔子九夷に居らんとす、或る人曰く陋なるを如何せんと。孔子曰く君子之に居らば何の陋なることか之れ有あらむ」の語に取って
何陋軒と稱した。

陽明の作った君子亭記の中にかう云っている。
「竹に君子の四あり、中虚にして静通、而して間あるは君子の徳あり。外堅に直貫四時にて改するなきは君子の操あり。蟄に應じて出で伏に遇って隠る。雨雪晦明宜からざる所なきは君子の時あり。

清風時に至れば、玉聲珊然として喝采斉に当り揖遜俯仰するは、珠三四群賢交集るが如く、凬止み静なる時は嫣然特立して撓まず屈せず」

此の他、寅賽堂 玩易窟などいふものも出来たので、彼は此等を総稱して龍岡書院と云った。此の間彼の安心立命の工夫は、易理の研鑽と共に益々進んだようである。

玩易窟と云ふのは山麓の一洞穴で、彼は此処で易を読んだ。彼が自ら記して「始め其は未だ得ざるや、仰いで思ひ俯して思ふ」と云ひ。

「其の或は之を得るや、沛として其れ潦を決するが如し」と云ひ。「其の得て之を玩ぶや優として其れ休し、充然として其れ喜ぶ。油然として其れ春を生ず。

精粗一に、外内翁ひ険を視ること夷の如くして、而してその夷の阨たるを知らざるなり。これに於て陽明子、几を撫て嘆じて曰く。

「嗚呼、此れ古の君子因奴を甘んじ、拘幽を忘れ、其の老の将に至らんとするを知らざる所以なり。吾れ吾が身を終る所以を知る」と云って居るを見ると、彼が益々易に得る所があった事が知らるゝのである。

かれこれする中に、諸生の味り学ぶ者も次第に集るし、夷人も益々彼の徳に懐て、喜んで彼の孝悌禮義の教訓を受け、他處の夷人も亦特に来って彼の講義を聞くようになった。

「君子、之に居る何の抦か之あらんや」、今や蜜地一の光明ある場所となった。之は彼が龍場に著てから十ヶ月ほどの事である。

「余は、特質栄辱は皆頗るよく超脱した積りであるけれども、独り生死の一念だけは忘るゝことが出来ない」と考へた。そこで陽明は屋後の石を鑿って槨と為し、自ら誓って云ふには「吾は惟ゝ命を俟つのみ」と。

日夜、其の中に端座澄然として以て静一を求めた。さうして居ると、胸次灑然として身の夷狄に居ることも、患難に居ることも倶に忘るゝやうになった。

此に於て、彼は人の最も憂惧する「死」を解脱したのである。消極的方面に於て、人生最高の問題を解決したのである。死の惧れが全く胸中から去ると人生普通の憂患位は、容易に除き去ることが出来る。

彼の従者は蠻地の患苦に堪へないで、皆病に罹ったが、彼はもう心を乱さるゝことはない。自ら薪を採り 水を汲み 糜を作って従者を看護してやった。

さうして、彼等の欝憂解く為に、詩を歌ひ越曲を調べ雑ゆる笑語以てして、疾病をも 夷狄をも 艱難をも惧に忘れせしめた。斯くて彼は、若し聖人が處にるとも、此より以上に更にどのやうな道があらうかと、思ふやうになった。

王陽明は、如何にして死生のの煩悶を解脱し得たか。之れ吾人の最も知らんと欲する所であって、又陽明自身が、修養の一大工夫と為せる所である。

彼は、後年弟子に向って「名誉利益など、人間一切の欲望に就いて解脱して居るやうであっても、生死の観が胸中に滞って居るやうでは、心の全體に於ては融釋しない所がある。

然るに、修養の工夫が徹底したものと云ふ事は出来ない。人間生死の観念は生命の根源から起こり来る所のものであって、之を除き去ることは容易でない。若し此の黙に於て看破し盡す所があったならば、聖域に至ることも得るのである。

陽明は、道に死するよりは死も以て福とすべく、不義に生くるは以て禍とすべく、若し人の道を盡したならば死は最高の満足を以て、之に處すを得べしとしたのである。さうして又、人生の不巧なるものも此に在りとしたのである。

「孔門七十子の中で、顔子が最も学を好んだ。然るにその年は獨り亦短くて三十二で死んだ。或る者は説を立てゝ、顔子は学を好んで精力を瘁らせ盡したのであると、と云っている。

顔子は、既に己の才を竭したと云っても、終は愚なるが如く、其の楽を求めなかったのである。、此に世の聲利を謀って苦心焦労し、得を患へ 失を患へ、遂々としてその身を終り、神気を耗労するものとは百倍どころではない大差がある」といふ意のことを述べて居る。

即ち、彼は百年の生命も迷うて、営々労苦するするならば何等の価値もない。若し至道に身を立てたならば、短命であっても十分に生の満足がある。さうして、肉の身は死んでも猶其処に不巧の生命があるとしたのである。

晝夜を知れば、生死を知ることができる。晝を知れば夜を知ることが出来る。多くの人は晝間醒めて居るといっても、惜々として興き、蠢々として食ひ、終日冥々昏々として夢同様の晝を過して居る。

若し、瞬息の間も此の心を存養して、惺々明々真の意義のある生活をしたならば、昼を知るのである。従って夜を知るのである。

自然が、晝夜を通じて一貫成るが如く、天理も生死を通じて一貫である。其の実在からいふと晝と夜との別はなく、生も死も一つである。天人は一體、生死は一道である。

人事を修めて天命を俟つなどと、天と人とを二にして対説ことにも生の道。死の道などと生と死とを二にして対照することなども、皆思想の徹底しないものである。

人は、唯人としての性を盡さば、それに人生の一切の問題は、解決盡さゞるゝのである。吾人は陽明が龍場に於て、此の極處を悟り盡したとは考へ得ないのであるが、當時彼は確かに此の道に向って悟入したのであった。

さうして、それだけにて、既に死の一切の恐怖を除き去るには、充分であったのである。猶又、吾人の此に注意せねばならぬことがある。

、明の、生死の悟を一場の議論として説くことは、さして難い事ではないけれども、彼の如く真の意義に於て、之を體認することは容易でない。

陽明が、之を體認するに至ったのは、彼の死生の境に出入した幾多の実歴と、思索に思索を重ねた多年の研究の結果である。一言にして云へば、死地に陥りて然して後生きたものである。

後進の青年が、単に之を言語文字の末に空々に考へ去っても、決して真の意義を領會し得るものでない。此の人生の一大事を會得せんとする者は、必ずや陽明の如き切実なる修養に俟たねばならぬ。

王陽明が龍場に於て、生死の道に悟入し得たことは、彼の生涯の一大事であった。然し之は主として消極的に死の懼を解脱することを得たと云ふ迄で、之を以て積極的に人の為すべき道を会得し盡したと云ふことは出来ない。

陽明の学説から云ふと、生死の道は一體である。眞に死の道を悟り盡したものは、全く生の道をも悟ったものである。生の道を悟り盡さないものは、まだ死の道に徹底しない所があると云わねばならぬ。

併し、陽明の悟道の歴程としては、両者が多少相前後して進歩し、終に融合徹底するに至ったやうである。彼が先づ悟りの域に入ったと信じたのは、死の問題であった。

陽明は、道を行ふことが生死を解脱する所以であると悟った。然らば其の道とは如何なるものか、此の積極的問題を解釈することは、人生の最重至要のことである。

當時陽明は、此の道は聖賢の教にありと深く信じて居ったものであり、且つ既に幾分の悟を有して居ったことも明である。さればこそ、自ら生死を解脱し得たと信ずるに至ったのである。

只、其の道の會得は悟の域に入ったと、自覚するまでには進んで居なかった。然るに死の悟と殆んど同時に、此の積極的問題にも悟入する所があった。

之を、有名な龍場の一悟と云って、彼の思想界は此に一新紀元を作ったのである。其の悟とは何であったかといふと、即ち知行合一の事である。

此に於て、吾人は陽明の知行合一の悟に就いて、少しく語る所がなければならぬ。陽明は以前に五回の惑溺を経て、人生一切の解決を儒教に求めようと定めた。

然れども、單に聖経賢傳の文字を記誦しただけで、道を會得したといふことは出来ない。彼は道を會得する工夫として、先づ宋儒の格物致知の教を取った。

彼は、例の絶倫の精力を揮ってその修養を務めた。然るに事々物々の道理を格窮することは、容易のことでない。かれを思ひ、これを考えると支離滅裂茫洋として、道理の帰着する所がない。

自ら、果を見て世間の学者を見ると、矢張り同様であって空々の裏に穿鑿し、暗々の中に摸捉し、唯理窟を求むることに労して、実行は少しも擧らない。

然るに、猶此くの如くにして智識を研き、知って而して後、行ふものとすれば殆んど実行に着手し得る時はない。

修養の目的は、吾人の現実なる生活を善美ならしめようとするのである。思索にのみに労して、容易に実際に現し得ないやうな工夫は、修養の道を得たものとは考へられない。

彼は此の點に於て、久しく疑惑する所があった。陽明が龍場で死生の問題に悟入してから、間もない時の事であった。一夜夢に忽然として格物致知の義を悟った。

彼は寤床の中、或る人が之を語るを聞くやうな心地して、浩然として悟る所があった。彼は愉快に堪へないで覚えず大呼して躍り起こった。

餘程の欣躍であったと見えて、同寝の従者も驚いて目を覚ました程であった。正に是れ一朝の暁鐘に長夜の眼が覚めて、光明世界が眼前に開けたやうなものである。

此に陽明の思想は、新生命を開いて活潑々地の勢いを以て益々向上する事となった。扨て、陽明の悟った格物致知の義はどういうのであったかと云ふと、朱子は之を解して事々物々の上に就いて、其の理を窮め知らざる所のないやうにするのである。と云ったが、陽明は格を正すと解し、物を事と解し、格物を事を正すと解した。

陽明の説では、事とは畢竟心の外に現はれたものを云ふのであるはから、事を格すとは事にあるに際して、己の心の不正を去って、心の本體正を全うするを云ふのである。

心の本體は即ち知、即ち良知であって、自然に道を自覚するものである。吾人が格物の工夫を凝らす時は、良知がさらに人欲の障礙を受けないで、完全に働くようになる。

之を知を致すといふのである。即ち実事を離れて實知は得られない。実際の事に當って、己の心に工夫を加へて、心を正しうするので、始めて眞實なる知が得られるといふのである。

即ち知って後、行ふといふのは誤りである。行を離れて知は得られない。行ったときが知ったときである。知ったといへば既に行ったことを意味するのである。

知行は同時で、離して考ふることは出来ない。故に行はないで、空々の裏に如何に施策を積んでも、眞知の得らるゝものではない。實行と同時に眞知が明になるのである。

陽明が、格物の義をかくと悟ったのも、彼の實生活の上に得来ったので彼自ら「龍場に謫宮して、夷に居り困に住處し、心を動かし、生を忍ぶの餘、恍として悟ることあるが如し」といって居るのは即ちそれである。

従来、陽明は優越なる實際狄方面と思索的方面とを有し、而も之を割って二としないで、合一せしむる傾向を有して居った。

此の二の方面が、齟齬矛盾する間は彼の煩悶時代であった。此の二の合一融解したときが、彼が悟った時なのである。彼が生死の問題を解決したのもさうであった。

今、格物致知の義を悟るやうになったのも、結局彼の前来多年の傾従来向だ。概括的に自責したものと云ってよいのである。

従来、陽明は優越なる実際的方面と思索的方面とを有し、而も之を割って二としないで合一せしむる傾向を有して居った。此の二の方面が齟齬矛盾する間は、彼の煩悶時代であった。

此の、二の方面が合一融合したときが、彼の悟った時なのである。彼が生死の問題を解決したのもさうであった。今、格物致知の義を悟やうになったのも、結局彼の前来多年の傾向を概括的に自覚したものと云ってよいのである。

吾人は、陽明が生死を悟り「格物」を悟ったといふ事蹟からして、「悟」と云ふことに就いて一の重大なる教訓を得るのである。

凡て悟といふものはふ、一朝忽然として開けるやうであるけれども、其の實その由来する所は久しいのである。陽明が此等の問題に就いて、疑惑を懐けることも亦久しいものであった。

彼は、實生活と相俟って思索に思索を重ねた。此の行なふ陽明と考へる陽明とが、容易に合體しないので懊悩又、煩悩夢に其の問題を考へ続けるまで、疾病を引き起こすまで熱中した。

其の間の刻苦精勵は、實に容易の事でなかった。さうして其の結果、一旦の機會に依って悟入するに至ったのである。是までの多年の歴程を除き去ったならば、決してこの悟は得られない。

丁度、一朝の春風に忽然美しい花が開いたやうであっても、その實長明の培養の功を積んだ結果である。さすれば吾人は悟を焦るに及ばない。

又、焦っても出来ない事である。唯、吾人の憂ふべきは、其の工夫の積み方の足りない事である。工夫を重ねて撓まず待って居ったならば、何時しか古人の所謂「水到って舟浮び華謝して子遊ぶ」の妙境が到来して、悟は自ずから開けてくるのである。

扨て王陽明が、格物の義に新解釈を加へた時は、即ち知行合一の理に悟入した時と云ってよいのである。併し彼は此の悟の徹底するまで、猶も慎重なる思考を施した。

彼は,自ら「恍として悟る所あるが如し」と云ってからの歴程を又自ら記して、「體念探求、寒暑を更へ、これを五経四子に證するに、沛然として江海を決ってこれを海に放つがごときなり。然して後嘆ず 聖人の道、坦として大路の如きを」と云って居る。

此に於て彼の悟は、徹底して一豪の疑ひなしと信ずるに至った、彼は知行合一の説を掲げて人に説き始めた。是れ實に彼の三十八歳のことである。

(43 43' 23)

  • 最終更新:2020-02-24 02:59:56

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード