第六章 言志録(ハ、陽明学を共に学ぶ)

事実、リッチを先発するイエスズ会士はその中国伝導の推進に当たって、中国社会における儒仏道三教思想の存在を認識した。

而も、仏道二教の多神論的汎神論的教説は、カトリック的立場から見て疑似異端の宗教思想として、厳重に否定しざるを得なかった。

儒教の敬虔な天命思想や、仁愛孝悌に注重する道徳的思想の中には、、カトリック的唯一神の信仰や愛徳の倫理に近いものが含まれている点に於て、提携の可能性と必要性の存することを見出した。

天地万物の創造、主宰者たる天主の唯一の絶対性が強調されると共に、カトリック思想の立場から仏道二教を〈空・無〉の異端として排斥した。

更に、近世儒教の太極理気説や、それに基づく唯物無神論的見解をも、異端に泥む後儒の曲説として斥けたのち、詩・書・易・礼記を引拠として、儒教経典の古義を検討した。

底で語られる〈上帝〉ということばが、決して単に蒼々たる虚空を指すものではなく、その中に存する最高至善なる神格者への畏敬に外ならぬこと。

未だ、霊魂不滅及び鬼神の存在に対する信仰が、、古代儒教においても是認されている事実などを指摘し、してみれば上帝鬼神を尊崇する儒教と天主の信仰を説くカトリック教説とは、帰を一にすると結論づける。

それら、〈奉教士人〉うちでもことに典型的な位置人物、夙に受洗してポール(保禄)の洗礼名を持ち、晩年には礼部尚書兼東閣大学士として入閣した。

そして、廟政に参与し乍ら、カトリック伝道の擁護と西洋科学の摂取にすぐれた貢献を果たした、〈奉教閣老〉徐光晵。

一日ふと教堂を訪れて、祭壇上の天主の画像を望見し、その森巌な宗教的雰囲気に思わずも襟を正し、又初めて見る紅毛碧眼の教士カッタネオが、中国君子さながらの典雅な態度であることに感嘆した。この時から〈天主の教え〉に対する好奇的な関心が、かれの胸中にわだかまるようになる。

リッチ教説を称揚して「その学の大なる者は真宰に帰滅し、乾々昭事するを宗となし………百千万言中一言として忠孝の大指に合せざるものを求め、一語にして世道人心し益なきものを求むとも得べからず。

「顧う惟れ先生(リッチ)の学は、ほぼ三種あり。大なる者は修身事天、小なる者は格物窮理、物理の、一端は象数となる………。、

余の乃ち速やかにその小なる者を伝うるは、唯その信じ易きを先にし、人をしてその文をを訪ねその意理を想見し、先生の学の信じて疑わざるべきことを、知らしめんと欲するのみ」

奉教閣老・徐光晵は、明末思想文化界の一異彩である。その奉教者としての信仰の純粋さと熱意は、他の奉教者士人に比して抜群に評すべく、明末カトリック伝導の成功も又、彼を中心とする奉教士人の協力庇護に俟つこと軽妙でない。

又、天文歴算を始めとする西洋学術の摂取紹介、更に西洋火砲の輸入製造に於ける彼の先駆者的業績も高く評価さるべきである。

唯、徐光晵ががその信仰に身を委ねた〈天主〉の教えは固より、救国の手段として熱心に摂取利用を計った西洋の化学も火器も、既に弱体化した。

明朝社稷の衰連を挽回するには足らず、徐光晵の歿後十余年にして明朝はは遂に滅びる。徐光啓にとってせめてもの幸運は、彼がその滅亡の悲劇を目賭する事無くして、世を去った事であったと云えるかも知れない。

而も、皮肉な事に彼がその摂取に先鞭をつけた西洋科学と兵器とは、彼の霊的指導者であり協力者であった、アダム・シャールらイエスズ会士の手によって、次の異民族王朝清朝に引き継がれ、より豊かな結実を示す事になるのである。

徐光啓は、血気盛りの青年時代の十余年を、徒に科挙応試の為に浪費したかの感がある。、仮令彼自らは有為の才能と浩々たる覇気を胸に秘めて秘かに期する処があった。

度重なる科挙応試の失敗を重ねては、さすがに焦燥不安の念を禁じ得なかったに違いない。そこからして彼の深刻な思想的煩悶と、精神的煩悶と精神遍歴が生まれる。

彼は、儒教聖賢の教訓は固より、諸氏百家さては道佛二教の経典までも渉猟して、焦燥不安の念を癒す心の糧を求めたが、其れには遂に得られずに終った。

そして、彼が最後に辿り着いて一縷の光明を見出すのは、外ならぬ西東新奇の〈天主教〉カトリックの信仰においてである。

徐光啓は、ロカ師から授けられた教籍を旅宿に携え帰り、夜を徹して耽読した結果、心ために豁然積年の懐疑煩悶忽ち氷釈する思いで「道此処に在り、我問とする無し」と嘆じて入信の決意をした。

彼の場合はカトリックへの接近が、純然たる思想信仰の問題として始められていた。この事は伝道に好意的同情的関心を寄せた。

そして、他の多くの官僚士人・特には所謂〈奉教士人〉の場合に於てさえ、多くはカトリックの信仰というよりも、神父たちの齎した西洋学術への知的関心が先行し、軈て振興へと進む、言わば西学→西教のプロセスを辿っているのとはその様相を異にする。

徐光啓は、わが国の歴史上に於おける傑出した豊業家であり、近代科学の先駆者であり、又、愛国的政治家である。

佛は中国に入りて千八百年也。人心世道 日に古の如くならず。如何なる人を成就し得たるか、若し天主を崇信しせば、必ず数年の間にして人は悉くは賢人君子たり。

世道は、唐虞三代に較べて且つ遠くこれに勝り。国家は千万年をふるも永く安くして危なく治まりて、乱無からしめん。

抑々顧憲成、高攀龍を中心とする東林学人は、東林書院を本拠とする学問的グループとして結集した。そして、彼らは王学的自由思想への反省批判から出発した。

本体の、空談を避けて着実な為学の工夫に注重し、名教礼節の護持を提唱し、経世済民の政治的実践に烈しい意欲を示した。

このようにして、当初は学問的グループとして成立した東林は、その現実的政治社会への関心を深める事によって、寧ろ政治的グループ――――東林党として発展し、清流土人を結集して明末政界の中心勢力を形成すると同時に、東林対非東林の党争を激化して行く。

瑪騎および東林学人の正学運動は、王学的自由思想に対する朱子学的立場のであった。従って彼らにあっては、その反攻護教運動に寄与を齎し得る、新思想新理論に対する関心が、極めて旺盛であった。

その意味で新来の天主教に対しても、彼らが積極的な関心を向けたという事は寧ろ当然であろう。一方リッチ氏を先登とする耶蘇会士は、その伝道の推進に当たって、中国社会に於ける儒佛道三教思想の存在を認識した。

而も、佛道二教の多神論的汎神論的教説は、その宗教的立場から疑似異端の思想として、厳重に否定し去らざるを得なかった。

儒教の敬虔な天命思想や、仁愛孝悌に注重する道徳思想の中には、、天主教的唯一神の信仰や愛徳の倫理が含まれている点に於て、提携の可能性と必要性を見出したのである。

リッチ師の伝道活動は、その表面的な成果だけから見れば、寧ろ労う多くして功少なかったと評し得るかも知れない。現に彼が1610年に北京で逝世した当時に於ける信徒数は、全国で漸く2500人を数えるに過ぎなかった。

「王学指掌」:宮内默蔵著より―――――――――――――

陽明学は、各自の心悟実徳要するに在り。徒に之を絛章字句の間に求むべからず。

吾が東洋に発達せる道徳は、古昔聖人天に則り教えを立て、その徳天に配し、其の政天と一なり。

致良知とは、我が本来の良知を時事物々に致して、拡充到底することなり。

即ち良知とは、学習や人為の思慮を假らずして、天然の儘すら~と出づる善き知恵なり。抑々人の生まるゝや、天に在りては命と謂ひ、人に在りては性と謂ひ、一身に主宰せるを心と謂ふ。その心の霊覚なるものを良知と謂ふ。

吾が唱導せるが良知の学は、龍場以後巳に此の意に外ならず、只此の二字を點出せざるが為に、学者とこの道を諭ぜるに許多の辞説を費やしたりき。

然るに、今幸いに此の二字を見出し、一言の下にて此の道の全體を洞見す。真に是れ痛快極まりて、手ひ足踏むを覚えず。

学者、これを聴くにも亦多に尋討の工夫を省却しぬ、学問の頭脳こゝに至りて説き得て十分に着落ありき。只学者が直下承當せざるを恐るゝのみ。

良知は、造化的精霊(天地の一元気のたましいなり)にして、このすこしの精霊が天を生み地を生み又(鬼鬼神の鬼にて造化の働きなり)を成し、帝(造化の主宰者なり)を成すなり。

この良知は、真に無上独尊・ものと対することなきものにして、人もしこの良知を巳が天よりうけ得たる本体に復し得て、完々全々(完全と同じ)少しの欠くるなくば、己が心中に無を上の楽生じ、手舞ひ足蹈して躍るとを覚えざらん。それかくの如くば、天地の間に更に何の楽かこれに代ふべきものあらんや。

上記の條は、陽明子が発明に斯かる良知と云ふことの、定義を天地開闢の始めなる造化の化の枢紐に根柢して、説をを立てたるなり。

即ち良知とは太極を意味す。換言せば造化の神なり天神なり。老佛のこれを谷神と云ひ、基督これをゴットと云ふ。その説く所各々異なりと雖も皆是れ、天地自然の眞理を云へるものか。

特に我が儒に在りては、これを誠と云ひ 至善と云ひ 仁と云ひ 中と云ひ、又は天理と云ふ。陽明子故に曰へらく、良知はこれ天理の昭明霊覚なる處をさすと。

されば、良知は吾々が心性を貫き、天理と合して霊覚なる働きをするものなり。故に曰く良知造化的精霊なり。大なる哉言や。

人的の良知と、草木瓦石的の良知とかはりはない。もし草木瓦石に人的の良知なくんば草木瓦石とは云えぬ。これ只草木瓦石のみ然るに非ず。

天地も、人的のなくば天地とは天地とは云へぬ。いかむとなれば、天地萬物と人と原と一體のものなるが、その内に発窮(窮は穴なり、天地の元の發する窮と云ふこと)の最も精きものは即ち人身一點の霊明(良知の事なり)となす。

彼の風雨露雷・日月・星辰(星なり)禽獣・草木・山川・土石、皆是人と一體たり。それ中へに五穀(種々の穀物)禽獣の類はみな人の病を養ふ事が出来る。

又、薬石の類は、みな人の疾を療することが出来る。これ他なし、みなこの天地間に生じて、此の元気同じくするが故に、共に相通じて用を成す。

佐藤一斎曰く:乾元(天なり)の精の人身に萃るものを心となす。その霊なる處よりして之を良知と云ふ。故に良知は天地を罩籠し、萬物を聯絡す。

仁者が天地萬物を一體なせること、これが為の故なりと。学者多くは形體に拘はり、人と天地萬物とを以て異観となす。

されどその実は、一気貫通して異なるあらじ、故に人の死は即ち天地万物の死と謂って可なるべきも、而も天地萬物は現在す。されば我れ亦いまだ死せざるものあり。

天地間すべて活發々地(生きいきして滞り無き事)にして、亦この此の理でなき者はない。これは取りも直さず吾が良知的流行にして息まぬのじゃ。

その、致良知と云ふのが有事的工夫じゃ。この活發々の理、離るべからざるのみならず、実に離れ得ぬものじゃ。さればいづれに往くとして道にあらずと云ふことなく、いづれに往くとして工夫にあらずと云ふことなけんと。

知は心の本體にして、心と云うふものは自然に知る事を會す。喩へばこゝに人あり、父を見ては自然に孝行することを知り、兄を見ては自然に弟順の行をすることを知る。

又、需子の今まさに井の中に入らんとするを見るときは、自然に惻隠の心を生ず。此れ即ち吾々の心に常住せる良知にして、敢て他に假り求むること要せずして毫も不足なきなり。

されば、この良知の發する如きは固より私意の障礙なく、所謂その惻隠の心を充てゝ仁勝げて用うべからじ。然るに、常人は私意の障礙なきこと能はず。

故に、常に、致知格物の功を用ゐて、その私に勝ちて理に復らねばならぬ。、さあらむには、心の良知更に障礙せらるゝ所なくして、事物の間に充塞流行すること得ん。

即ち、これその知を致すなり。その知が至れば意は自然に誠になるべくとなり。彼の知の本体體と云ふものは至完至全にして、天地とその徳を合わせたるものなり。

聖人より以下の者は、私慾に蔽ひくらまさるゝ弊なき能わず。故に我々は、須らく物を格してその知を致さねばならぬと也。

凡そ人の本心と謂うものは、至虚にして鏡の空しきが如く、至霊にして鏡の照らすが如く、一點の曇りなくして昧らず衆物の理自らその裡に具わりて、天下の萬事萬物は皆この裡より出ず。

されば、心と理は素より一つのものにして、心の外に理はない。又心と事物とも同一のものにして、心の外に事物とてはないものである。

この心定まりて、動静一致なるべきことは、たとへば名手の鞠を蹴るが如く、その人動き乍らも自ずと静なるが常なり。元とこの良知は常に静かなるを守りて、善しとするものにあらず。

動くべき時は、いかよう紛櫌の中へといへど動かねば安ぜるなり。これ即ち動静一貫、内外一致の学問たり。

問ふ:先儒(程朱)には、この心が静かなるを體となし、心の動くをようとなせり。いかゞやと。王子曰く、心は動静をもて體用を區別することはできぬ。

動静とは、その遭ふ所の時を指すのじゃ。元来この心は霊昭不眛なるが體にて、萬事に應ずるが用なれば體につきて言へば、用は自ずから體の中にあり用につきて言へばみるべく、體は自ずから用の中にありて決して二つのものではない。

これを體用一源(一つの源)云うのじゃ。さればこの心の静かなるのはその體をみるべく、この心の動くのは、その用を見るべしと説かば、却りて妨げなかりきなり。

問ふ;道は一つにして、多岐なるものにてはなきやうに心得るに、古人がこの道を論ぜしこと往々同じざからる處あり。

堯舜は惟精惟一と云ひ、孔子は仁と云ひ、孟子は仁義と云ひ、程朱は居敬窮理と云ひ、陸子は実理と云ふの類なり。したがひて後人の説も區々なるが、我々が道を求むるには、こゝと取り留めたる要處のあるものにやと。

王子曰く:道とは左様にこゝが方所(をり處)じゃから云うふ形體(なり・かたち)じゃなど(をりまもる)すべきものではない。

それ故、古人の誰がかくかく云ひたとて、文義(文字の解釋)の上に拘滯(かゝはりなづむ)するときは、道を求むることはできぬ。

試みに思へ、如今の人道を説くにたゞ天と云へど、その実は天を知らぬのじゃ。既に云へる如く、道には方體のなきものなれば、日月・風雷をさして天と云ふも不可、かく云ふものゝ又人間。畜類、草木はこれ天にあらずと云ふも不可じゃ。

要するに道と云へば、取りも直さず是れ天なればれ、もし道即ちこれ天なりとの眞を知り得るときは適くとして、見るとして道でなきものはなく。(古人道を説くに種々品をかへて説けるも、帰着する處は一なるを云ふ)

然るに、人には銘々一隅の見(ひとすみにかたよる見解なり、揚子の学問爲我とか兼愛とか立つることや、又慈悲深き性質のものは、慈悲のみを道と心得、義に堅き性質のものは倖直をのみ道と心得る如き、みなその一隅にかたよりて、あとの三隅を知らざる故、道に背きて一概になるのみ)

その見解もて、道はかくの如くであると設定する故に、古人の説ける處が往々異洞あるやうにももうのじゃ。もし上記等の偏見を去りて、これを自己の心體にたづね求めて実徳するときは、時となく處なく道でなきものはない。

この道は古に亘り今に亘り、又誰が始めたのいつの世に終るのと云ふこともなく、実に古今萬世に達して、かはらぬものである。

抑々、この心は取りも直さず道にして、道は取りも直さず天じゃ。上の次第なるが故に自己に実體し、この心を明め得る時は、即ち是れ道を知り又天を知りたるのである。

又曰く、諸君が実にこの道を見むと要められなば、須らく自己の心上に體認して、一切外に假り求むることをせずば、始めて道が得らるゝとなす。

然るに、道と云ふ中にも異端あり。これ又差別せざるべからず。楊・墨の為兼愛や老・佛・邪の虚無博愛や、我が儒眼より宥るときは、みなこれ道の一辺にかたよる物とす。

何となれば、かの楊・佛・邪を問わずその時に臨んで、為我兼愛すべくばよろしくこれ正道なり。然るを、彼らは人倫日用のことを後にして、只管一辺に執着す。

これ異端たり、而も我が儒は人事に稽へ天道に微し以て、大中至正を期す。これ萬世弊なき所以なり。

大塩中斎曰く:薫子曰ふ道の大原天より出ずと。それ道は性命なり、性命は則ち分寸の心に存して、その原は天の太虚にあり。故に学びて天の太虚に帰するは、これ聖学の極功なりと。

又曰く、人心の太虚に帰するは、只これ慎独克己よりして入る、若し慎独克己より入らざる者は、禅学の虚妄たるに同じ。

所謂、毫釐を差ふときは、千里の謬を生ぜん。心学者動もすればこれを誤ることあり。戒めざるべからずと。

そも道の全體は、聖人も亦人に語りがたかりしことなれば、こは学者がよく考えねばならぬ。さらに自ら脩め自ら悟るより外はない。

天下の中にすぐるゝ聖人は、よく耳とく 目あきらかに 知ありてさとしきゝと云ふこと、即ち聖人の大徳を
稱したる也。

しかし、この聡明叡智はもとこれ人々におのづとあるべきものにして、耳はもとこれ水聴・目はおとこれ明・心思はもと是れ叡智なるものじゃ。

然るに聖人は、只専一にこれを能くし玉ふのにて、その能くし玉ふのが、取りも直さず良知の働きじゃ。然るに衆人のそを能くせぬのは、只この知(良知なり)をば致さぬ故にて、この良知を致すと致さぬとによりて、聖凡の差別のつくのである。

こは、何等の明白簡易なる学問ぞやと。この條は、陽明子がさきに中庸の惟天下至聖云々の章を読みける時は、聖学は実に玄妙にして容易に手の届かぬやう思惟せるのみ。

後日、この良知の学を手に入るゝに及びて、さきの玄妙と思ひしこともたやすくして、意外なリことを證せし也。聖凡の差別は、たゞこの学に手をつくると否との如何にあるのみ。

この良知は、取りも直さず天より植付けられし、霊根(ふしぎな、よき根かぶ)にして、おのづと生々してやまじ。しかるに人は良知に私累(わたくし、わづらい)を著けえる。

あたら、この霊根を伐賊蔽塞(ころしたり、そこなふたり、又おほひふさぐ)して発生する事を得ざらしむるのであると。こは良知は天賦の自然にして、外より假り来れるものに非ざる事を證言せしなり。

貴所等学問するに、只この良知を培養し去る事が肝要じゃ。その良知が同じくば、たとひその説く所に異處があるも一切防ばはない。要するに、百家各々その説を異にするとも、良知出づればそれが即ち、聖人の学成りと知るべし。

この道は、知らぬ前は本と知り難きものなれど、知り来たらば目の当たりありふれたることにして、別にこれぞ知るということはなし。

又、道を覚らぬ内は、何か深遠にして覚るべきことあるやうなれど、覚り来たらば別にこれぞ覚ると云ふことはなし。されど知覚せずしてよきやと云ふに左にあらず。

知らずに道理が沈み埋れてあらはれずとなり、こは良知の働きは初め奇特なるものゝやうに思ふなれど、これに着手せばありふれたるものにして、別にこれぞ奇特と云ふことのなきを證せるなり。良知の眞相実に此処にありと知るべし。

それ人、巳に此の世に生れ出でゝ追々生長すると共に、喜 怒 哀 楽 懼 愛 悪 欲 七情と云ふがまとは張り付きて来る。

この七情を、いかにして拾當ならしむべきやと云ふに他なし。良知の指図に従ひて、一遍に著わせざる工夫を肝要となす。そも日はたとへば良知の実體にしてその光は即ち用なり。

陽明子の学術は、巳に道體に於て諭ぜし如く、致良知の三字を以て目的とす。而してそのこれを着手するには、実に古本大学に掲げある、格物致知の工夫を以てするに在り。

而るに宋儒は、格物致知の知識を押し極めて、博く時々物々の理を研究することゝなし、而して陽明子は良知を致し極めて、その意念にうつる所の事物を正すことに見たり。

学者物致知を誠意の工夫となしき、これ学術上動もすれば豪釐千里差ある所なれば、学者須らく審檡せざるべからず。

さて陽明子の格致の説は、譬へば我が身を修めんと欲するには、まづ一身主宰なる歪みあるや否を審にし、歪みあればこれを正さゞるべからず。

これを正さんとするには、刻下己が意年の着く所のものによりて、その正しきを得るや否を詮索吟味し、つとめて善をなして悪を去ることを要す。

かくするには、己が霊覚なる良知をいたし、極めてその物を格さるべからず。その物己に正しければ、意も随ひて誠に心亦歪みなくして、身直ちに修まる也。

畢竟、格物の物と指せるは、己が意念に感應する所の千差万物の事物なり。譬へば親に孝をし君に忠をするを始とし、国家及び個人の公私務に従事するなど、すべて己が地位境遇より起れる意念の着く所は皆物なり。

されば、格物は吾人が端的力を用ふべき地にして、この格物かすまば誠意もすみ、正心もすみ修身も随ひてすむなり。身 心 意 知 物 修 正 誠 致 格、其の目は異なれど工夫は皆同時の事とす。

孝は、人道の根本なるを以ての故なり。されば君に忠に友に信じ、民に仁なるより、その他百般事物みなこれによりて推窮せらるべし。

総じて、天下百般の事物はこの所謂仁欲を去りて、天理に純なるてふ良知の本原より割り出せるに非ずして、漫に外物にほだされての仕事は、如何程形式が整ふも注文が立派でも、その跡から尻が抜けてふしだらのことなるは敢て怪しむに足らず。中庸に所謂不誠無物とはこれなり。

この心は身の主宰なれば、目が視るといへど、その視る所以は心じゃ。耳は聴くとはいへど、聴く所以は心じゃ。口と四肢とは言ひ且つ動くといへど、その言ひ且つ動く所以は心じゃ。

それ故に身を脩めんと欲したならば、まづ自家の身體を體當して、常に廓然大公(からりと、ほがらかにこの上もなきおはやけ)些子の正からざる處なからしむるようにせねばならぬ。

上述の主宰が一たび正しくば、竅を目に發しておのづと非禮のもの視るなく、竅を耳に發しておのづと非禮のも聴くなく、竅を口にし四肢とに發しておのづと非禮の言動なからん。されば、身を脩むることは、その心を正しくするに基づくのじゃ。

。が人を教ふるに、致良知をば常に上にありて功を用ひしむ。己は根本的有の学問にて日一日と長進し、愈々久しくして愈々その学の精明なるをお覚ゆべし。

然るに世の儒者人を教ふるに、事々物々の上に尋討し去りて、つまり根本的無の学問たり。然るが故にその壮なる時に方りては、暫らく能く外面をば脩飾して過ちを見ず。

老いたるときは、精神が衰邁して終りには放倒すべし。譬へば根なき樹をば水辺にうつし栽うるが如し。暫時は鮮好なりと雖、終に久しき間には憔悴せんのみと。

聖人の心は明鏡の如きも、常人の心は曇り昏き鏡の如きものである。近世に於ける格物説は、たゞに鏡を以て物を照らさんとて、照らす上ににみ功を用ふるも、鏡の中尚ほ曇りて昏きものあるを知らない。

斯かる、曇りて昏き處ある鏡が、何として能く物を照らすことが出来やうや。而るに王子の格物を教へ玉ふは鏡を磨きて明かならしむるが如く、磨く上に功を用ふるのじゃ。

而も明了になればとて、それにて已むのではない。明了になればなる程、物を照らすことを廢しないのである。―――――

こは、世儒が格物の弊を挙げたるなり。つまり世儒の仕方はその心外に馳せて、これを内に求むることにおろそかなり。

王子の仕方は、先ず己が心地に着手して後物に当たるが故に、事々親切着実になるなり。明鏡昏鏡の論説きえて明快なり。

問ふ:学問をするに、此の心の涵養をのみ専らにして、広く事物の講求を務めざるときは、或は私欲をも認めて理となすやも計られず、如何せば可べきやと。

王子曰く;人は須らく学問と云ふ真義を知るが肝要じゃ。書籍などにつき義理を講求するも、つまり涵養のことをするのじゃ。さればその講求を忽せにするのは、涵養の志の切実ならぬのである。

この涵養講求の差別は、朱王二子格致説の異同と同じく、常に聚訟の種となる所なり。されど真切篤実にこの良知を致さば、何ぞ涵養たのみ専らとして講求を忽せにする理ならんや。

然るに、世間往々王学をば専ら涵養を事とせるよう思へるは大いなる謬あり。何となればこの涵養と云ふこと雑作なく出来べきことにあらず。

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  • 最終更新:2019-07-17 03:57:19

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