はじめに

 世人は、口を開けば政治への風当りは舌鋒鋭く、特に時の政権への批判、誹謗、中傷は止どまるところを知らない、よって我が国の政権はここ数年、一年に一人の割合で交代劇がみられた。世界に類のない不安定内閣が助長されている。将に、日本の足を引っ張っていると云っても過言ではない。これらの人々は、真に日本民族の血が流れているのであろうか、疑わざるを得ない。人を批判・非難する者は、その根底に甘えの構造が潜んで居る場合が多い。所謂リンゴでも食べてみないと、甘いか酸っぱいかの批評は、出来ないのだ。それを猜疑心や邪気や憶測で、どうのこうのと云う痴人・愚者は駄々っ子と同類である。特に、このネット上での書き込みの罵詈雑言は、所謂西洋流のエゴの剥き出しを転化したものに他ならない。我が国はいにしえより「和を以て貴しと為す」の国柄であり、そもそも言挙げすることを取らない。所謂悪言、暴言、非難の類のものは穢れ、と忌み嫌われるのが大和心であった、誠に見苦しい限りである。それは己が正しいという裏返しに過ぎないが、そもそも争いは、力と力の争いであったものが、正義と正義の闘いになったものだから、尚質が悪い。
 最早、謙譲の美徳は大人から子供に至るまで見る影もなく、西洋物質文明の生存競争、優勝劣敗、弱肉強食に毒された獣文化に食い尽くされ、強者と弱者、富めるものと貧しいものは、日を増すにつれ懸隔が甚だしい。このまま推移すれば米国の如く、1%の富裕層のために、99%の貧困層が犠牲になる日は、遠くないであろう。此処へきてまた経済から教育・スポーツ如きものに至るまで国際競争だ、教育水準だ、金メダルだとマスコミを通じて狂乱している節がみられるが、とどのつまりはこの競争原理から闘争、戦争へとつながるのが見えない。つまり、対立から対決へとあらゆる争いが生れる、と謂う事が判らないのだ。和平を唱えながら競争を煽る、そして人々は数値やノルマに追われ、いつも、何かに煽り立てられて、安住の地は死ぬまで見出せない。
 物より心が大事だとは言わないが、苦しいのは社会・世界ではなくて自分の心なのだ。自分から世界を見、感じるのは全て心なのだ。西田幾多郎は著書で「我々の心は本来、神と悪魔との戦場である」と言ったが、王陽明は「善なく悪なきは之心の体」と言った。この心学に於いて、歴史上、陽明学ほど抜きん出た思想・哲学はないと思う。よってこの度、陽明学を中心として、その一端を共に学んでいきたいと思う。
 王陽明の言葉で有名なものに「山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し」と言うのがあるが、ほぼ人の世の問題は、この世の終わりまでこれに尽きる、と言っても過言ではない。又、幕末は攻める方も陽明学徒で、守る方も陽明学徒だったと聞けば、この思想を危険思想と恐れることなく、真摯に学ぶべきである。尚、幕末の三傑、藤田東湖・横井小楠・佐久間象山の三人が共に揃って日本陽明学の祖、中江藤樹の高弟、熊沢蕃山の心酔者だった、と聞けば猶更である。
 今、我が国に必要な指導者・為政者は大衆に迎合する口説の徒ではなく、衆に範を示す、日本陽明学徒の西郷や松陰のような、至誠一貫の志士養成であり育成である、と思考するものである。


  • 最終更新:2020-07-16 09:51:18

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